月別アーカイブ: 2020年9月

息を吸うことと吐くこと

1 哲学と呼吸

僕は僕の哲学をするにあたり、呼吸に着目している。

呼吸は息を吸うことと吐くことの2つの動作で成り立っている。加えて、吸い終わって吐く動作と切り替わる瞬間、吐き終わって吸う動作に切り替わる瞬間に着目して4つに分けることもできるけれど、大まかには吸うと吐くの2つのフェイズに分けることができるだろう。

なぜ哲学と呼吸が結びつくのかというと、「哲学とは、ひとつの着眼点やシステムですべてを説明しようとする営みである。」という言い方もできるからだ。すべてを一つに統合することを目指す、または、一つをすべてに拡張して覆い尽くすことを目指すという側面が哲学にはある。それならば、吸うと吐くという2つのフェイズを呼吸というひとつの動作で捉えられることには重要な含意があるように思えるのだ。

そんな理由から呼吸について考えているのだけど、呼吸は考えれば考えるほど面白い。捉えきれず、わからないのが面白い。その面白さを伝えるために、僕が何を考え、どのようにわからなくなっているのかを紹介することとしたい。

2 吸う感覚と吐く感覚

息を吸うと交感神経が高まり、吐くと副交感神経が高まるとされる。僕はそういうことに詳しくないけれど、深呼吸をしていると、確かに、吸うときには気持ちが高揚し、吐く時には気持ちが落ち着くような気がする。

また僕は、息を吸う時、僕は周囲の世界を自分のなかに取り込んでいるような感覚がある。または世界を自分のなかに取り込むようなイメージを持つと、吸う動作がうまくいくような気がする。逆に、息を吐く時、僕は自分の中の余計なものを排出し、本当の自分に戻っていくような感覚があり、また、そのようなイメージを持つと、吐く動作がうまくいくように思う。

その延長として、吸う動作は、世界を取り込むことにより自己を拡大し自分と世界と重ね合わせていくこととつながり、吐く動作は、自己を純化し、自分のもっとも重要なものを見つめていくことにつながっているように感じる。

以上をつなぎあわせると、僕が呼吸に対して感じていることは以下のようにまとめられるだろう。

息を吸うとき、自分が拡大して世界とつながっていき、気分が高揚する。
息を吐くとき、自分が純化されて自己に回帰していき、心が落ち着く。

このような感じについては、なんとなく同意いただけるのではないだろうか。

3 呼吸における自己のあり方は逆ではないか

ここまでは同意いただけたとして、僕がなんとなく腑に落ちないのは、呼吸における自己のあり方は逆ではないか、というものだ。

息を吸うときに意識しているのは取り込んでいる世界だ。そのとき、世界を取り込んだ結果、拡大していく自己のことはあまり意識していない。また、息を吐くときに意識しているのは集中していく自己だ。しかし、そのときの自己とは吐き出すことにより収縮していく自己だと言ってもいい。

どうも意識を向けるタイミングがずれている気がする。本来、息を吸うときには拡大する自己の重要度が高まり、息を吐くときには収縮する自己の重要度は下がっていくのではないか。それなのに、息を吸うときに拡大していく自己には目を向けずに外の世界にばかり目を向けていて、息を吐き、自己が収縮するときになってようやく自己に目を向けている。どうもずれている。

特に問題と思うのが、息を吐く場面だ。多分、仏教やマインドフルネス的には、息を吐くことは自己への執着を手放すことと重なっているはずだ。しかし、息を吐くとき、僕は、外の世界からそっと身を引き、自分の中に潜り込んでいくような感覚がある。世間の雑事から逃れ、自分の心の中の重要な場所に立ち返っていくような感覚がある。これは自己への執着の強化にあたるのではないだろうか。

当然、そんなことはない、呼吸のときの心のあり方は間違えていない、という予感のようなものがある。だが、その予感が正しいとするならば、僕は息を吐くときにしていることを、どのように表現すればいいのだろう。

4 呼吸に託したいもの

この疑問に今のところ、確たる答えはないけれど、ヒントになりそうなアイディアはいくつかある。

まず、息を吸うことは、息を吸うことそのものであるとともに、息を吐くことの準備作業でもある、という二面性があり、同様に息を吐くことも、そのこと自体であるとともに、息を吸う準備作業であるという二面性があるというものだ。つまり呼吸には、息を吐く準備のために吸い、息を吸う準備のために吐くという準備作業という側面がある。この二面性が自己の捉え方のずれと関係しているのではないか。

もうひとつのアイディアとして、息を吐いている過程と、その結果とは別であるという点に着目することもできる。息を吐く過程においては、手放す自己に着目し、その結果、自己が手放されるが、そのとき着目できる自己はない。過程と結末とは別である、という着眼点だ。だが、より重要なことは、過程と結末とは別のであるにも関わらず、それをひとつながりのものとして捉えることができる、という点にあるだろう。

いずれのアイディアも、呼吸が時間経過のなかに位置づけられていることに由来すると言えそうだ。吸い、吐くという動作がひとつながりの呼吸という動作と呼ぶことができ、そして吐きつつあるところから、吐き終わるところにいたる過程が、ひとつの吐くという動作を構成していると言うことができるのは、その背後に時間経過というものが控えているからなのだ。

しかし、僕は、より強く、呼吸こそが時間経過を生み出しているのではないか、とも予感する。根拠のない予感ではあるが。息を吸うことと吐くことを接続し、呼吸として捉えること、そして息を吸い、吐くという行為を構成する個々の瞬間を接続し、ひとつながりの行為として捉えること、これこそが時間の起源なのではないだろうか。呼吸こそが生きることの根源にあるとするならば、呼吸こそが生をつくりあげ、生こそが時間をつくりあげているのではないか。

世界と自己、そして時間経過、更には興奮と落ち着きといった感情、それらをすべて、呼吸こそが生み出しているのだとしたら、とてもわくわくする。

マインドフルネスについての備忘録 居場所・愛・解脱・可能性・善

1 川野先生の話
今年はオンラインでの開催だったヨガフェスタ2020で、川野泰周先生のマインドフルネス基礎講座を受けた。僕はマインドフルネスに興味があって、何冊か本を読んだりもしているけれど、とても得るものがあったので書き記しておく。
(川野先生は禅僧&精神科医という説得力のある肩書を持ち、説得力のある説明をする方なのでスピリチュアルな話に拒否感がある方も含めた万人におすすめです。色々と活動しているので、アクセスもしやすいと思います。)
感銘を受けたのはこのような話だった。記録はとっていなかったので僕の言葉で再現してみよう。
「瞑想をしていて雑念が浮かんだら、その雑念を認めてあげればいい。雑念の居場所をみつけてあげればいい。また、日常生活を送っているとネガティブな感情が起こることがある。そのネガティブな感情をないものとせず、一度、きちんと認めてあげればいい。瞑想で雑念を認めてあげる練習をすることで、日常生活でもネガティブな感情を否定せず、その居場所をみつけてあげることができるようになる。」

2 雑念を認めてあげる
僕はあまり瞑想が得意ではない。首が痒くなってそのことばかり考えたり、終わったら何をするか、なんてことがいつの間にか頭を支配していたりする。そんな状況に気づくと、あ、雑念が生じちゃってた、流さなきゃ、なんて思っていた。一般的にマインドフルネスでは、雑念は評価せずに、ただ流していくものとされているから、なるべく穏やかな気持ちで、雑念を消し去るように心がけてはいた。だけど、雑念は生じないほうがよく、生じたならば流し去るほうがよいものならば、どうしても雑念に対してはネガティブに評価せざるを得ない。だから、雑念が生じていることに気づいた時には、雑念が生じていること自体に微かに動揺していたように思う。雑念をネガティブに評価して動揺したうえで、心を落ち着けて動揺を消し去ろうと努力していたのだ。この不自然さこそが、多分、僕が瞑想をうまくできない理由なのだろう。
そんな僕にとって、雑念を認めて、居場所を与えてあげるという川野先生のアイディアは魅力的なものだった。雑念とはポジティブなものならば、雑念が生じたことで心を乱されることはない。雑念くんこんにちは、ちょっとお茶でも飲んでいってよ、という感じで優しく対応してあげることができる。
多分、瞑想においては、自分と雑念の間に距離をとることが重要なのだろう。雑念を認め、しっかりと観てあげて、自分とは別のところに雑念を置く。このようにして自分と雑念を切り離せば、あえて流し去ろうとしなくても、そのうち雑念はどこかに行ってしまう。きまぐれなネコや子どもがどこかに遊びに行ってしまうように。

3 日常生活での内観
川野先生は、さらに、瞑想での雑念への対処が、日常生活でのネガティブな感情への対処につながると言っていた。瞑想で雑念を相手に練習をしておくと、それがそのまま、日常生活でのネガティブな感情への対処に役立つというのだ。そういわれればそうなのだけど、これは少々驚きだった。
何となく僕は、瞑想をやっておくと心が鍛えられて、それが日常生活でも役立つ、くらいに思っていた。だけど確かに、もっと直接的に、瞑想と日常生活はつながっており、雑念と感情はつながっている。瞑想での雑念への向き合い方とは、日常生活での自分の感情への向き合い方のことなのだ。雑念とは感情のことだ、と言ってもいいだろう。
日常生活においても、ネガティブな感情を認めてあげて、その居場所をみつけてあげる。自分の感情をなかったことにしない。そうしないと精神疾患につながる。精神科医でもある川野先生はそんな話もしていた。

4 仏教における愛の扱い
ここからは川野先生が話していたことではなく、僕が勝手に思いついたことだ。
唐突だけど、僕は仏教に不満があった。仏教では、愛も執着であり手放すべきだと言うけれど、それはちょっとやりすぎじゃないか、という反発があった。論理的に考えたらそうかもしれないけど、どこかそれは違う、という予感だ。
だけど、ここまでの話、つまり雑念=感情であり、それらを積極的に手放すのではなく、自分と距離を置いたところに居場所をみつけてあげればいい、という話を踏まえると、この仏教の主張に対しても別の理解ができるように思う。
愛も執着も雑念であり感情のことなのだ。それらを積極的に手放す必要はない。ただそっと側に置いて観てあげればいい。その存在を認めて居場所を確保してあげればいい。
執着や雑念や怒りのようなネガティブな感情を認め、それをいわばポジティブなものとして扱うことこそがマインドフルネスならば、愛や喜びのようないわゆるポジティブとされるものも、同様にポジティブなものとして扱ってあげればいいのだ。
仏教が言わんとすることは、愛を捨て去れ、ではなく、愛をそっと脇に置き、愛を認めて愛の居場所を見つけてあげなさい、というものだったということになる。

5 二つのポジティブの次元
ただし、ネガティブなものをポジティブに扱うというのは(実践は難しくても)理解はしやすいが、愛のようなポジティブなものをポジティブに扱うのは、理解が難しい。それは二つの次元が異なるポジティブについて、同じポジティブという言葉が与えられていることによるからだ。
ここで次元という言葉を持ち出したが、次元とは距離と言い換えてもいいだろう。確認だが、マインドフルネスでは雑念や感情と距離をとることが重要であった。だから執着や愛を認めつつも距離をとらなければならない。というか距離をとることこそが認めることだとも言える。自分自身に全く癒着したものを評価することはできないだろう。自分の子供を自分の分身のように思っていたら冷静な評価などできないように。
愛には二つの次元がある。ひとつは愛と自分が全く癒着し、距離ゼロとなっている次元であり、いわば愛に支配されている次元だ。もうひとつは自分自身と愛と距離を置いている次元であり、愛を客観的に観ることができている次元だ。客観的に観るとは、誤解を招くかもしれないが、少し離れたところから愛を俯瞰的に見下ろしているところをイメージするといいかもしれない。
愛と癒着している次元における愛のポジティブさとは、そのポジティブさに支配され、巻き込まれている状況のことだ。愛のポジティブさ以外のことは考えられず、ただ愛のポジティブさに満たされている人のことだと言ってもいい。
もうひとつの愛を客観的に捉えている次元における愛のポジティブさとは、愛を眺め、ネコを撫でるように愛を愛でている人のことだ。
つまり、仏教が愛を捨て去るべきだと言っているのは、愛のポジティブさに巻き込まれるのではなく、それを眺めて愛でるべきだと言っていることになる。愛のポジティブさは、距離ゼロの次元で捉えるのではなく、距離をとった次元で取り扱うべきなのだ。これが、ポジティブなものをポジティブに扱うということである。
(なお、脱線するけれど、マインドフルネスの不思議さは、ポジティブさに巻き込まれず、距離をとり眺めていると、第3のポジティブさが生まれてくる、というところにあるように思う。愛や喜びの感情といったポジティブなものから距離をとり、空になったはずの自分自身のなかから、全く別のポジティブな何かが生じてくるように思えるのだ。これは、僕のような初心者でも比較的簡単に味わえる、瞑想の面白さだと思う。このポジティブさについては、この文章では取り扱っていないという点に留意し、混同しないようにするべきだ。)

6 仏教の解脱とは
再び唐突だけど、僕は、仏教の解脱についてもよくわからなかった。僕は仏教にあまり興味はないし、仏教について勉強したこともないから、わからないのは当然だろう。それに、解脱について本当に理解してしまったら悟りを開いたことになってしまう。
僕の疑問はもう少し具体的で、解脱という言葉にある、何かを捨て去るという語感がどうも気に入らなかった。何かを捨て去り、そこから目を背けてしまったら、その分、真実から遠のくことになってしまうのではないだろうか。真実とは、全てを包みこみ、全てを的確に捉えたものであるべきなのではないだろうか。そのような疑問が仏教に対してはあった。
だが、今までの話を踏まえるならば、解脱とは捨て去ることではない。愛も執着も喜びも悲しみも憎しみも、すべてをただ観てあげることが解脱なのだ。すべてを認め、居場所をみつけてあげることこそが解脱なのである。
いや、これこそが解脱というのはおこがましいだろう。この文章で僕が想定している「観る」とは、ほぼ客観化することに等しい。だが、客観化することこそが解脱だというのは少々違う気がする。客観化するとは、自分の中の客観化できない何かを失うことを含んでいる感じがある。客観化では何かが足りない。だが、僕はそれをまだ表現できていない。
しかしながら、この文章で僕が表現しようとしたマインドフルネスの道筋が、解脱へ進む適切な第一歩であることは確かなような気がする。

7 僕の哲学への接続
以上で話は終わるけれど、ここまでの話を僕が好きな哲学の話につなげることもできるように思う。
僕は時間論が好きなのだけど、時間の不思議と、マインドフルネスにおける、認めて、居場所を確保してあげるというプロセスとはつながっているのではないだろうか。
未来には無限の可能性があるとされる。振り返ると、過去には決定された出来事しかなく、そこに可能性はない。時間とは、可能性が絞られて決定していくプロセスのことである、と感じることがある。
僕はずっと、可能性が失われていくことが悲しかった。生きるとは、可能性を捨てていくことであり、神様が与えてくれた無限の可能性を、ちっぽけなひとつながりのストーリーとして確定していくことのように感じていた。
だけど、マインドフルネスは、そうではないと言ってくれているように思う。
雑念や感情に居場所を見つけてあげるのと同じように、選ばれなかった可能性にも居場所をみつけてあげればいいんだよ、と言ってくれているのではないだろうか。
僕は三叉路の前に立ち、右を歩くことを決断する。だけど左に歩く未来は捨て去られた訳ではない。どこかに選択されなかった可能性の居場所はある。それに気づくことがマインドフルネスなのだ。
マインドフルネスは、未来の可能性が捨てられない時間の流れというものを提案してくれている。マインドフルネスな世界とは、すべてに居場所があり、何も捨てられることはないような世界のことを言うのではないだろうか。それがマインドフルネスの気づきである。
もし、そうだとするならば、そして、もし、気づき、つまり思考というものに善いものが含まれているとするならば、その善とは、居場所があることに気づいてあげる、というところにこそあるのではないだろうか。僕には、もし世界に善というものがあるならば、注意深く観て、そして気づくことこそが、善の本質であるように思えてならない。

ヨガフェスタで思いついたことのメモ 世界の脱臼としてのヨガと哲学

2020年のシルバーウィークの4連休で、オンラインでのヨガフェスタがあった。オンラインのヨガなんて、と思いつつ、チケットも安いので視聴してみたけれど、なかなかよかった。座学中心に受講したのがよかったのかもしれない。

そこでは解剖学的な身体の使い方のワンポイントアドバイスのような個別具体的に興味深い話がたくさんあった。それは今後のヨガの実践のために自分だけのメモにとどめておこう。ここに公開してまでして残しておきたいのは、講師たちが意図的に伝えようとしたことではなく、彼らを見ていて、僕が勝手に思いついたことだ。

ほとんどのプログラムが、有名なヨガの先生がヨガを教えるというものだったが、(僕が視聴したなかで)ひとつだけゆるいプログラムがあった。何十年もヨガを教えているヨガ業界の大御所の先生2人が、だらだらおしゃべりをする、というものだった。

話の内容も、日本でのヨガの歴史を知ることができるという点で興味深いものだったが、僕にとって重要だったのは、ヨガの先生がヨガをしていないときにどのように振る舞うのかを多少なりとも知ることができた、という点にある。これこそ僕がこの文章で書き残しておきたいことだ。

ヨガの達人のような先生がヨガ的ではないときにどんな感じなのかというと、はっきり言って、くだらないのだ。ダジャレを言ったり、話の腰を折ったり、話は飛んでどこかに行っちゃったり。時々いる、いわゆるしょうもないおじさんという感じ。正直、期待はずれ、とちょっと思った。

だけど、ふと考えた。この、くだらなさ、しょうもなさ、はヨガと本当に無縁なのだろうか、と。

彼らの態度は、見方を変えれば、柔軟であるとも言える。決まった話の方向に進まず、脱線するというのは柔軟さの表れであると言えなくもない。

脱線は脱臼とも言いかえられる。既存の価値観を破壊しなければ、そこに新しいものを構築することはできない。堅固な既存の世界を破壊することは困難なことだから、うまく世界を脱臼させるような達人芸が必要となる。

適切なかたちで柔軟であるというのはなかなか難しいことなのだ。この柔軟さを身体の柔軟さとするならば、この難しさはヨガの難しさと重なるだろう。

そして、世界を脱線させ、脱臼させることで手に入れられるものは新しさであり、この新しさとは、自由と言い換えることもできる。

ヨガというものが、インドに古くから伝わる知恵を用いて、未来を変え、自由を手に入れようとするものだとするならば、日本におけるヨガの大御所が、このような態度であることは、とても好ましいものなのかもしれない。

僕も、世界を、そして自分の人生を脱臼させる達人を目指そう。それが新しさや自由を手に入れるということであり、そして成長するということだろうから。この点で、ヨガと哲学は重なるような気がする。

すくらっぷ・ブックを読み直して

1 すくらっぷ・ブックと僕
すくらっぷ・ブックという昔の漫画を読み返している。もう50歳になる僕が、小学校高学年の頃にハマった漫画だから、かなり古い漫画だ。(作者の小山田いく先生も亡くなっちゃったみたいだし。)ジャンルとしてはいわゆるラブコメで、ある中学校のあるクラスメイトたちの恋や友情いっぱいの2年間の日常生活を描いている。
小学生の僕は、こんな中学校生活に憧れを持ちながら読んでいた。それまで銀河鉄道999とかが好きで、その後もバトル系ジャンプ漫画に進んでいった僕にとっては、少し異質な漫画だった。この漫画の登場人物のカナちゃんが僕の二次元の初恋だった気がするし。(メーテルとかセイラさんも好きだったけど、もうちょっとリアルな恋心・・・)
あらためて読み返してみて、この漫画のいくつかの特徴に気づいた。多分、小学生の僕は、そこに無意識に魅力を感じたのではないだろうか。そして、その特徴とは、今の僕の対話の哲学への関心とも関係するのではないか。そんなことを思いついたので、この文章を書くことにした。

2 すくらっぷ・ブックの特徴
まず、思ったのは、この本は、本当に、恋愛と友情といたずらばっかりだ、ということだ。まあ、ラブコメというのはそういうものではあるのだけど、異世界とつながるような大事件も起こらないし、超能力のようなSF的な設定もないから、それが余計に目立つ。(超能力的ないたずらをしたりもするけど、それは単なるギミックでストーリー上は大きな意味を持たない。)
また、この漫画にはつくづく、中学校の同級生しか登場しない。大人といえば、先生や喫茶店のマスターくらいしか出てこない。読み返しているところだけど、今のところ親も出てこない。物語のなかでの問題の発生もその問題の解決も、すべてがクラスメイトたちのなかで完結している。
もうひとつ気づいたのが、これはいわゆる群像劇にあたるということだ。主人公は多分、二頭身の春ボンということにはなるのだろうけど、市野、坂口、マッキー、カナちゃん、理美ちゃんも、その内面が丁寧に描かれており、主役級の扱いだと言っていいだろう。
そして、これらの特徴を通じて、今の僕が最も感じた感想は、「この漫画は、コップの中の優しい小宇宙のようだ。」というものだ。ここでは確かに色々な事件が起きる。だけど、問題がクラスの枠を超え、彼らの人間関係を破壊することはない。事件は予定調和のように彼らの成長につながっていく。作者の庇護のもと、作者の手の上の小宇宙で、彼らは精一杯、恋愛と友情といたずらに勤しみ、成長していく。中学2年から中学校卒業までの物語なのだけれど、高校生となり、進路が分かれ(当時はまだ中学校受験なんてほとんどなかった)、いわば社会に旅立つ直前の、子供時代の終わりの空気感と、この物語の閉じた小宇宙感がとても合っているように僕は思う。

3 これらの特徴が示すもの
小学生の僕は、こんな、コップの中の優しい小宇宙に憧れていたのだと思う。銀河鉄道999にもホワイトベースにも乗りたくなかったけど、小諸市立芦の原中学校にだけは行きたかった。そして、本当にこの漫画の住人になりたかった。だけど、当然、僕が進学したのは横浜市立○○中学校だったし、中学校ではこんな友人や彼女を得ることはできなかった。僕はとてもがっかりしたけれど、こんな世界は作者の手の上にしかないのだから仕方ない。
この漫画の世界はつくづくいいところだ。ここには恋愛と友情といたずらしかないと言ったけれど、ここでのいたずらは、当然、その相手への関心の発露であるような優しいものとして扱われているし(やっていることは、かなり執拗で危険なものだけど・・・)、恋愛といってもキスまでで、あくまで男女間の友情の延長として描かれている。突き詰めれば、この世界は友情で満ちている。だから孤独なんて存在しない。一人きりで問題を抱えて悩んでいても、すぐに誰かが手を差し出してくれる。
この漫画が群像劇であるということは、特定の登場人物を掘り下げないことにつながるけれど、すくらっぷ・ブックではそれぞれの登場人物の内面が深く掘り下げられ、その心情が丁寧に描かれている。それが可能となっているのは、一人で問題を抱え込んで内面化しなくても、それを外面化して理解してくれる友人がいるからなのだ。
これは意地悪く言えば、この世界には、クラスメイトの間で理解しあい、友情で解決できる問題しか起こらないということだ。だから大人は要らない。
小学生の僕は、中学生になったらカナちゃんみたいな彼女が欲しいなんて妄想していたけれど、最も望んでいたのは、僕が抱えている問題を理解してくれる友人であり、または、友人が理解してくれるような問題しか、僕の身に起こらないことだったのだろう。
当然、現実にはそんなことにはならない。だからこそ、このような世界を描くことに意義がある。これが、コップの中の優しい小宇宙の魅力であり、この漫画の魅力なのだと思う。

4 コップの中の優しい小宇宙の実現
コップの中の優しい小宇宙は現実には存在しない。それは、作者の心の中にだけある。この漫画の登場人物は、小山田いく先生が作り上げた、いわば先生の分身だからこそ、先生の世界観という共通の基盤があるからこそ、他の登場人物が抱える問題を理解することができる。それは、ラブコメ特有のご都合主義とは関係なく、そもそも物語というものの根本的な特徴なのだ。この特徴がいかんなく発揮されているという点に、すくらっぷ・ブックという漫画の魅力がある。
小学生の僕は、成長するにつれ、自分の内面という優しい小宇宙から否応なく外に引きずり出されていくことに、どこかで気づいていたのだろう。僕の周囲では僕の内面で処理しきれない問題が生じているのに、意地が悪く野蛮なクラスメイトたちは当然として、親や先生のような身近な大人も僕の問題を理解してくれない。すくらっぷ・ブックの世界は、そんな僕にとってのユートピアだったように思う。
僕の半生は、ある側面では、このユートピアを探し求める旅だったのかもしれない。僕の恋は、僕のことを理解してくれる人を求めるという要素が強かったし、多分、家庭を持つことも、家族とともに小宇宙を作り上げようとすることに似ている。僕がやっていることの多くは、この側面から捉え直すと、どこかでつながっているように思う。残念ながら、まだユートピアにはたどり着けないけれど・・・
哲学に話を戻そう。僕の恋愛はともかく、この文章を書こうと思ったのは、僕の哲学対話への関心が、コップの中の優しい小宇宙というユートピアの実現に直接的に結びついていると思ったからだ。他者と対話するということは、その他者と一緒に小宇宙を作り上げることなのではないだろうか。

5 対話による小宇宙の創造
さきほど、すくらっぷ・ブックという小宇宙は、小山田いく先生の内面に存在すると言った。小宇宙は個人の内面にあるからこそ、優しく調和したものとなる。
だが、その小宇宙を個人に留めず、言葉の力により、拡大することを目指すのが、対話というアイディアなのではないだろうか。
なぜ、言葉というもので、そのようなことが可能となりうるのかと言えば、内面の小宇宙は言葉により描写されるものだからだ。小山田いく先生の小宇宙はすくらっぷ・ブックというかたちで、言葉(と絵)で描写されているし、僕の思考という小宇宙は、このような文章として、言葉で表現することができる。
もし、内面の小宇宙が言葉で表現できるものならば、相手に言葉を丁寧に伝え、理解してもらうことで、その相手に小宇宙を伝えることができるはずだ。丁寧に言葉で伝達することにより、話し手と聞き手は優しい小宇宙を共有することができる。このような考えが対話というアイディアの根底にあるように思う。
その小宇宙は、話し手と聞き手だけが共有する閉じたものであり、誰か他者が新たな問題を持ち込めば壊れてしまう一時的なものだろう。だけど、対話はその他者をも取り込み、再び小宇宙を更新し、再設定することが可能だ。新たな問題により壊れても、壊れても、どこまでも更新し、その問題をも小宇宙に取り込み、拡大していく。対話による小宇宙の創造にはそのような力強さがあると感じる。
一方で、すくらっぷ・ブックの小宇宙は、春ボンたちが中学校を卒業し、連載が終われば、儚くそこで閉じられる。だけど、だからこそ優しさが際立つし、憧れが明確になる。それが、この漫画の魅力だ。ユートピアのように目標が示されるからこそ、そこを目指していきたいと思える。この漫画を今読み返すことは、僕にとって、このような意味があった。すくらっぷ・ブックという失われた中学校生活を手に入れるため、僕は生きていくのかもしれない。
こんな素晴らしい作品を遺していただき、小山田いく先生、ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。
(まだ4巻くらいまでしか読んでいないし、小学生の僕もお小遣いの都合から途中までの巻と最終巻しか買えなかった記憶があります。だから、後半では、この文章から外れた展開になるかもしれません。)