1 川野先生の話
今年はオンラインでの開催だったヨガフェスタ2020で、川野泰周先生のマインドフルネス基礎講座を受けた。僕はマインドフルネスに興味があって、何冊か本を読んだりもしているけれど、とても得るものがあったので書き記しておく。
(川野先生は禅僧&精神科医という説得力のある肩書を持ち、説得力のある説明をする方なのでスピリチュアルな話に拒否感がある方も含めた万人におすすめです。色々と活動しているので、アクセスもしやすいと思います。)
感銘を受けたのはこのような話だった。記録はとっていなかったので僕の言葉で再現してみよう。
「瞑想をしていて雑念が浮かんだら、その雑念を認めてあげればいい。雑念の居場所をみつけてあげればいい。また、日常生活を送っているとネガティブな感情が起こることがある。そのネガティブな感情をないものとせず、一度、きちんと認めてあげればいい。瞑想で雑念を認めてあげる練習をすることで、日常生活でもネガティブな感情を否定せず、その居場所をみつけてあげることができるようになる。」

2 雑念を認めてあげる
僕はあまり瞑想が得意ではない。首が痒くなってそのことばかり考えたり、終わったら何をするか、なんてことがいつの間にか頭を支配していたりする。そんな状況に気づくと、あ、雑念が生じちゃってた、流さなきゃ、なんて思っていた。一般的にマインドフルネスでは、雑念は評価せずに、ただ流していくものとされているから、なるべく穏やかな気持ちで、雑念を消し去るように心がけてはいた。だけど、雑念は生じないほうがよく、生じたならば流し去るほうがよいものならば、どうしても雑念に対してはネガティブに評価せざるを得ない。だから、雑念が生じていることに気づいた時には、雑念が生じていること自体に微かに動揺していたように思う。雑念をネガティブに評価して動揺したうえで、心を落ち着けて動揺を消し去ろうと努力していたのだ。この不自然さこそが、多分、僕が瞑想をうまくできない理由なのだろう。
そんな僕にとって、雑念を認めて、居場所を与えてあげるという川野先生のアイディアは魅力的なものだった。雑念とはポジティブなものならば、雑念が生じたことで心を乱されることはない。雑念くんこんにちは、ちょっとお茶でも飲んでいってよ、という感じで優しく対応してあげることができる。
多分、瞑想においては、自分と雑念の間に距離をとることが重要なのだろう。雑念を認め、しっかりと観てあげて、自分とは別のところに雑念を置く。このようにして自分と雑念を切り離せば、あえて流し去ろうとしなくても、そのうち雑念はどこかに行ってしまう。きまぐれなネコや子どもがどこかに遊びに行ってしまうように。

3 日常生活での内観
川野先生は、さらに、瞑想での雑念への対処が、日常生活でのネガティブな感情への対処につながると言っていた。瞑想で雑念を相手に練習をしておくと、それがそのまま、日常生活でのネガティブな感情への対処に役立つというのだ。そういわれればそうなのだけど、これは少々驚きだった。
何となく僕は、瞑想をやっておくと心が鍛えられて、それが日常生活でも役立つ、くらいに思っていた。だけど確かに、もっと直接的に、瞑想と日常生活はつながっており、雑念と感情はつながっている。瞑想での雑念への向き合い方とは、日常生活での自分の感情への向き合い方のことなのだ。雑念とは感情のことだ、と言ってもいいだろう。
日常生活においても、ネガティブな感情を認めてあげて、その居場所をみつけてあげる。自分の感情をなかったことにしない。そうしないと精神疾患につながる。精神科医でもある川野先生はそんな話もしていた。

4 仏教における愛の扱い
ここからは川野先生が話していたことではなく、僕が勝手に思いついたことだ。
唐突だけど、僕は仏教に不満があった。仏教では、愛も執着であり手放すべきだと言うけれど、それはちょっとやりすぎじゃないか、という反発があった。論理的に考えたらそうかもしれないけど、どこかそれは違う、という予感だ。
だけど、ここまでの話、つまり雑念=感情であり、それらを積極的に手放すのではなく、自分と距離を置いたところに居場所をみつけてあげればいい、という話を踏まえると、この仏教の主張に対しても別の理解ができるように思う。
愛も執着も雑念であり感情のことなのだ。それらを積極的に手放す必要はない。ただそっと側に置いて観てあげればいい。その存在を認めて居場所を確保してあげればいい。
執着や雑念や怒りのようなネガティブな感情を認め、それをいわばポジティブなものとして扱うことこそがマインドフルネスならば、愛や喜びのようないわゆるポジティブとされるものも、同様にポジティブなものとして扱ってあげればいいのだ。
仏教が言わんとすることは、愛を捨て去れ、ではなく、愛をそっと脇に置き、愛を認めて愛の居場所を見つけてあげなさい、というものだったということになる。

5 二つのポジティブの次元
ただし、ネガティブなものをポジティブに扱うというのは(実践は難しくても)理解はしやすいが、愛のようなポジティブなものをポジティブに扱うのは、理解が難しい。それは二つの次元が異なるポジティブについて、同じポジティブという言葉が与えられていることによるからだ。
ここで次元という言葉を持ち出したが、次元とは距離と言い換えてもいいだろう。確認だが、マインドフルネスでは雑念や感情と距離をとることが重要であった。だから執着や愛を認めつつも距離をとらなければならない。というか距離をとることこそが認めることだとも言える。自分自身に全く癒着したものを評価することはできないだろう。自分の子供を自分の分身のように思っていたら冷静な評価などできないように。
愛には二つの次元がある。ひとつは愛と自分が全く癒着し、距離ゼロとなっている次元であり、いわば愛に支配されている次元だ。もうひとつは自分自身と愛と距離を置いている次元であり、愛を客観的に観ることができている次元だ。客観的に観るとは、誤解を招くかもしれないが、少し離れたところから愛を俯瞰的に見下ろしているところをイメージするといいかもしれない。
愛と癒着している次元における愛のポジティブさとは、そのポジティブさに支配され、巻き込まれている状況のことだ。愛のポジティブさ以外のことは考えられず、ただ愛のポジティブさに満たされている人のことだと言ってもいい。
もうひとつの愛を客観的に捉えている次元における愛のポジティブさとは、愛を眺め、ネコを撫でるように愛を愛でている人のことだ。
つまり、仏教が愛を捨て去るべきだと言っているのは、愛のポジティブさに巻き込まれるのではなく、それを眺めて愛でるべきだと言っていることになる。愛のポジティブさは、距離ゼロの次元で捉えるのではなく、距離をとった次元で取り扱うべきなのだ。これが、ポジティブなものをポジティブに扱うということである。
(なお、脱線するけれど、マインドフルネスの不思議さは、ポジティブさに巻き込まれず、距離をとり眺めていると、第3のポジティブさが生まれてくる、というところにあるように思う。愛や喜びの感情といったポジティブなものから距離をとり、空になったはずの自分自身のなかから、全く別のポジティブな何かが生じてくるように思えるのだ。これは、僕のような初心者でも比較的簡単に味わえる、瞑想の面白さだと思う。このポジティブさについては、この文章では取り扱っていないという点に留意し、混同しないようにするべきだ。)

6 仏教の解脱とは
再び唐突だけど、僕は、仏教の解脱についてもよくわからなかった。僕は仏教にあまり興味はないし、仏教について勉強したこともないから、わからないのは当然だろう。それに、解脱について本当に理解してしまったら悟りを開いたことになってしまう。
僕の疑問はもう少し具体的で、解脱という言葉にある、何かを捨て去るという語感がどうも気に入らなかった。何かを捨て去り、そこから目を背けてしまったら、その分、真実から遠のくことになってしまうのではないだろうか。真実とは、全てを包みこみ、全てを的確に捉えたものであるべきなのではないだろうか。そのような疑問が仏教に対してはあった。
だが、今までの話を踏まえるならば、解脱とは捨て去ることではない。愛も執着も喜びも悲しみも憎しみも、すべてをただ観てあげることが解脱なのだ。すべてを認め、居場所をみつけてあげることこそが解脱なのである。
いや、これこそが解脱というのはおこがましいだろう。この文章で僕が想定している「観る」とは、ほぼ客観化することに等しい。だが、客観化することこそが解脱だというのは少々違う気がする。客観化するとは、自分の中の客観化できない何かを失うことを含んでいる感じがある。客観化では何かが足りない。だが、僕はそれをまだ表現できていない。
しかしながら、この文章で僕が表現しようとしたマインドフルネスの道筋が、解脱へ進む適切な第一歩であることは確かなような気がする。

7 僕の哲学への接続
以上で話は終わるけれど、ここまでの話を僕が好きな哲学の話につなげることもできるように思う。
僕は時間論が好きなのだけど、時間の不思議と、マインドフルネスにおける、認めて、居場所を確保してあげるというプロセスとはつながっているのではないだろうか。
未来には無限の可能性があるとされる。振り返ると、過去には決定された出来事しかなく、そこに可能性はない。時間とは、可能性が絞られて決定していくプロセスのことである、と感じることがある。
僕はずっと、可能性が失われていくことが悲しかった。生きるとは、可能性を捨てていくことであり、神様が与えてくれた無限の可能性を、ちっぽけなひとつながりのストーリーとして確定していくことのように感じていた。
だけど、マインドフルネスは、そうではないと言ってくれているように思う。
雑念や感情に居場所を見つけてあげるのと同じように、選ばれなかった可能性にも居場所をみつけてあげればいいんだよ、と言ってくれているのではないだろうか。
僕は三叉路の前に立ち、右を歩くことを決断する。だけど左に歩く未来は捨て去られた訳ではない。どこかに選択されなかった可能性の居場所はある。それに気づくことがマインドフルネスなのだ。
マインドフルネスは、未来の可能性が捨てられない時間の流れというものを提案してくれている。マインドフルネスな世界とは、すべてに居場所があり、何も捨てられることはないような世界のことを言うのではないだろうか。それがマインドフルネスの気づきである。
もし、そうだとするならば、そして、もし、気づき、つまり思考というものに善いものが含まれているとするならば、その善とは、居場所があることに気づいてあげる、というところにこそあるのではないだろうか。僕には、もし世界に善というものがあるならば、注意深く観て、そして気づくことこそが、善の本質であるように思えてならない。