2020年のシルバーウィークの4連休で、オンラインでのヨガフェスタがあった。オンラインのヨガなんて、と思いつつ、チケットも安いので視聴してみたけれど、なかなかよかった。座学中心に受講したのがよかったのかもしれない。

そこでは解剖学的な身体の使い方のワンポイントアドバイスのような個別具体的に興味深い話がたくさんあった。それは今後のヨガの実践のために自分だけのメモにとどめておこう。ここに公開してまでして残しておきたいのは、講師たちが意図的に伝えようとしたことではなく、彼らを見ていて、僕が勝手に思いついたことだ。

ほとんどのプログラムが、有名なヨガの先生がヨガを教えるというものだったが、(僕が視聴したなかで)ひとつだけゆるいプログラムがあった。何十年もヨガを教えているヨガ業界の大御所の先生2人が、だらだらおしゃべりをする、というものだった。

話の内容も、日本でのヨガの歴史を知ることができるという点で興味深いものだったが、僕にとって重要だったのは、ヨガの先生がヨガをしていないときにどのように振る舞うのかを多少なりとも知ることができた、という点にある。これこそ僕がこの文章で書き残しておきたいことだ。

ヨガの達人のような先生がヨガ的ではないときにどんな感じなのかというと、はっきり言って、くだらないのだ。ダジャレを言ったり、話の腰を折ったり、話は飛んでどこかに行っちゃったり。時々いる、いわゆるしょうもないおじさんという感じ。正直、期待はずれ、とちょっと思った。

だけど、ふと考えた。この、くだらなさ、しょうもなさ、はヨガと本当に無縁なのだろうか、と。

彼らの態度は、見方を変えれば、柔軟であるとも言える。決まった話の方向に進まず、脱線するというのは柔軟さの表れであると言えなくもない。

脱線は脱臼とも言いかえられる。既存の価値観を破壊しなければ、そこに新しいものを構築することはできない。堅固な既存の世界を破壊することは困難なことだから、うまく世界を脱臼させるような達人芸が必要となる。

適切なかたちで柔軟であるというのはなかなか難しいことなのだ。この柔軟さを身体の柔軟さとするならば、この難しさはヨガの難しさと重なるだろう。

そして、世界を脱線させ、脱臼させることで手に入れられるものは新しさであり、この新しさとは、自由と言い換えることもできる。

ヨガというものが、インドに古くから伝わる知恵を用いて、未来を変え、自由を手に入れようとするものだとするならば、日本におけるヨガの大御所が、このような態度であることは、とても好ましいものなのかもしれない。

僕も、世界を、そして自分の人生を脱臼させる達人を目指そう。それが新しさや自由を手に入れるということであり、そして成長するということだろうから。この点で、ヨガと哲学は重なるような気がする。