「現実性の問題」を円環モデルにこだわって読んでみた 3 距離1 反論・発展

3 距離1 反論・発展

第3章は、入不二の議論に正面から反論している部分となる。

なお、反論と言っても、入不二の議論を否定しているのではなく、あえて言えば、肯定主義的に、入不二の議論を、入不二が述べたよりも肯定することを目指しているつもりだ。

3-1 右回り・遡行と埋没と転回

入不二は、遡行という言葉を用いているとおり、円環モデルを右回りにも左回りにも自由に行き来できるものとして捉えている。(12時にはギャップはあるにしても。)一方で、僕は、円環モデルには右回りしかなく、左回りはないと主張したい。これは入不二を正面から否定する主張だろう。

その理由は、まず、左回りは不要だからだ。円環モデルの利点は、いつか戻ってくるというところにある。3時の地点から2時の地点を指し示したい場合、時計の針を戻さなくても、ぐるりと右回りをすれば、2時を指し示すことはできる。円環モデル上の議論に遡行は必要ない。

二つ目の理由は肯定主義的な見地からのものである。左回りの議論とは、既に行った議論のキャンセルという意味を含む。入不二自身が、大円環ではなく小円環についてではあるが「遡るためには、どうしても「否定」を経由せざるを得ない。」(p.20)としている。肯定主義の徹底の見地からは、このような否定を入り込ませない必要があるはずだ。肯定主義においては、遡行は避けるべきものである。

第三の理由として、左回りの議論の不可能性がある。右回りに行った円環モデルの議論を逆回転するということは、いわば、それまでの議論をなかったことにすることだ。左回りの議論とは議論を忘却することでしかない。忘却してしまったら議論を進めることはできない。(存在論的忘却の議論のある一面は、この忘却の不可能性を言っているのだと思う。)忘却でしかない遡行は不可能である。

では、入不二は遡行という表現を用いているが、そのような議論は不可能なのだろうか。

いや、そのような議論を可能にするためにこそ、入不二は円環モデルを導入したはずなのだ。円環モデルを使うことで、実際には左回りに遡行せずとも、右回りにぐるりと巡ることで、無理なく3時の地点から2時の地点に到達することができる。そのような遡行的な議論を可能としているという点に円環モデルのメリットがある。いわば、円環モデルとは、肯定主義と遡行的な議論を両立させるために必要な道具立てであるとも言える。

入不二が行っている遡行的な議論は、すべて、円環モデルを用いて遡行的に見える議論を行っているに過ぎないと考えればよい。そのように考えても、入不二の議論から失われるものは何もないはずだ。

入不二が遡行的に見いだしたもののなかでも特に重要であろう「大過去」について、入不二は「先行-遅れ」と表現している。(p.53)この表現こそが、円環モデルを用いた遡行の擬似性をより正確に表したものだと考えられる。

始発点※から始まる円環モデルの議論の順序では、潜在性の夜の領域に属する大過去は、昼の領域よりも後になって登場する。しかし、円環モデルを描ききったあとでは、大過去は始発点よりも「先行」し、始発点は大過去よりも「遅れ」ているものと見做される。入不二が「先行-遅れ」という表現に込めているのは、そのような意味であるように思われる。

(※入不二は円環モデルの始発点をとりあえずのものとするが、12時のギャップを踏まえるならば、始発点をここに置くのは必然であるとも言える。)

では具体的に、遡行的な議論はどのようにして成し遂げられるのか。

この本においては(充実した索引を活用すると)遡行という表現が何箇所かで登場する。「「現に」ソクラテスは哲学者である。」から「「∅」ソクラテスは哲学者である。」、さらに「ソクラテスは哲学者である。」への遡行(p.65)、第0次内包的なクオリアからマイナス内包的なクオリアへの遡行(p.274)というように。

これらは、遡行とは言っても、見かけ上の遡行であり、実際は否定を伴う遡行ではない。

ソクラテスの例を否定と解釈するならば、「現に」を否定することで「ソクラテスは哲学者である。」に至ることとなる。だが入不二の議論はそのようなものではない。いわば、「現に」という言葉などなくても地の文である「ソクラテスは哲学者である。」のなかに現実性が満ちているから「現に」という言葉が不要となるのだ。これは、「現に」ではない地の文が現実性をもって立ち上がり、現にという言葉が地の文に埋没してしまったと言ったほうがいいだろう。遡行においては否定ではなく埋没が生じているのだ。

第0次内包的なクオリアからマイナス内包的なクオリアへの遡行についても同様である。第0次内包的なクオリアは、因果的結合や文脈からは「自立」しているが、例えば「痛み」という「概念」からは自立していない。(p.257)この次元でのクオリアがソラリスの海に喩えられるような、何らかの感じはあったはずという仕方でのみ想定される(p.261)マイナス内包的なクオリアに移行することを、入不二は遡行とする。この移行は「痛み」という「概念」を否定し、除去することで達成されるものではなく、概念がソラリスの海に埋没する過程として捉えるべきであろう。

比喩的な述べ方になってしまうが、僕が虫歯になり、痛みとして表現するしかないような第0次内包を抱えているとする。だが当然、僕の心は、その痛みという第0次内包だけに覆われ尽くしている訳ではない。歯医者のホームページを見たり、お腹がすいたりしている。実際にそのような状況にはなくても、潜在的にはそのような可能性に満ちている。(安易に心や可能性という言葉を用いているという点で)非常に誤解を生みやすい比喩だとは思うけれど、このような話の方向の先にマイナス内包は想定されるように思う。マイナス内包を想定するときに行っていることは、第0次内包としての痛みの感覚を除去するのではなく、ホームページを見たり、お腹が空いたり、という潜在的な他のものごとで埋没させることなのではないだろうか。

もし、以上のように遡行を埋没と表現することが許されるなら、遡行と(円環モデルの)6時の転回とは重ね合わせることができるように思う。

さきほど「抜け道」について論じる際に、入不二の転回とは、諸可能性が無数に立ち上がり、完結「しない」という否定性を転回するものであり、無数の肯定項や肯定枠のひとつひとつを可能とする分割のなかに潜む「他では『ない』」という否定性を転回するものであるとした。

ここでの無数の諸可能性、肯定項や肯定枠の立ち上げとは、埋没に相当するものなのではないだろうか。無数のものごとが立ち上がり、飽和することにより、もともとあったものが埋没していくという構図である。

(これは、時制の塗りつぶし(p.138の図)とも重なる。)

つまり、遡行と表現されたものは、実は埋没であり、転回であり、円環モデルの昼の領域にあった時計の針を右に進め、議論が6時の地点に至ったことを示すものなのではないだろうか。

そのように捉えるならば、もうひとつ付け加えることがある。6時の転回において、僕はある種の視点移動が生じていると考えた。分割自体から分割を生じさせる土俵への視点移動であり、さきほどの危うい比喩を踏まえるならば、歯の痛みから心全体への視点移動でもある。

視点移動というと、どうしても能動的で作為的なものを感じる。視点移動しないこともできるけれど、あえて視点移動することを選択するというような。だが、ここでの視点移動はそうするしかないものだろう。なぜなら、すでにもともと視点が置かれていた場所は、議論が飽和していくにつれ、無数の分割やマイナス内包や「ソクラテスは哲学者である」という地の文で埋め尽くされてしまい、そこに視点を置く余地がなくなっているからだ。転回における視点移動とは、視点をあえて移動するものではなく、充満し、埋没させる何かにより追い出されてしまうだけなのではないか。ピンポン玉が入ったコップに水を注ぐ場面を想像するといいかもしれない。ピンポン玉という視点は、コップの中から外へと移動する。

このようにして、6時の転回は作為などなくとも円滑に成し遂げられる。

このようなものとして描写できる6時の転回こそが、埋没であり、充満であり、(みせかけの)遡行であると、僕は考える。

3-2 意味論・認識論/6時・12時 

次に僕が問題としたいのは、入不二の第2章の円環モデルの6時の転回において、入不二は何を成し遂げたのか、である。既に僕は、円環モデルはいくつも描くことができるという指摘をした。そうだとするならば、いくつもの転回があるということになる。この本においても、複数の円環モデルと複数の転回を見出すことができる。入不二が第1章で示した円環モデルはそのなかでも特に重要なものであることは疑いないけれど、では、これは何であり、何ではないのかということを、転換点に着目することで捉え直してみたい。

結論から述べると、入不二の円環モデルとは、意味論と認識論の円環であり、6時の転回とは、意味論優位から認識論優位への転回である、と僕は考えている。

一方で入不二は、この転回を、意味論・認識論から存在論への転回として捉えているように思える。そのことは、第0次内包からマイナス内包への移行(逆転)のことを「意味論(認識論)と存在論(時間論)のあいだでの、両水準どうしの優位性の転換である。」(p.260)と描写していることにも現れている。(先ほど論じたとおり、僕は第0次内包からマイナス内包への移行と6時の転回とは同じものだと考えている。)

だが、入不二がp.260で行っている議論において、認識論を意味論と同列に扱う論拠は弱いように思える。そこに至る議論は、あくまで痛みや色の「概念」を巡るものであり、言語的で意味論的な側面が強い。唯一認識が表面化するのは、言語習得の場面(p.256)だが、言語習得時の子どもの認識と、言語習得後の大人の認識とを直接比較することはできない。「「逆転」は、「概念」の固定という蝶番があってこそ成り立つ」(p.259)とするとおり、ここで描いているような認識は「概念」つまり意味論に回収されてしまう。(※)

一方で、入不二が6時の転回で消去しようとしたのは意味論だという証拠はいくつもある。そもそも第1章での転回の説明自体が極めて意味論的だ。他にも、僕が気に入っている例としては、転回後の潜在性の領域において行われていることを「解像度(特定性の度合い)を下げる」(p.282)と表現している箇所がある。入不二は多分、この言葉にマーク・ロスコの絵を重ね合わせるだろう。僕ならば、ハイファイ・ローファイという音楽用語を当てはめたい。絵にせよ音楽にせよ、解像度が低いほうが認識として劣るなどということはない。むしろ込められた意味が削ぎ落とされた分、認識そのものが迫ってくる感じさえある。入不二の転回とは、このような状況を示しているのではないだろうか。

(ほかにも、痺れる表現として、次のようなものもある。「相関概念(対概念)の「外」こそが、むしろ現実の端的さの「内」であって、相関概念(対概念)の「内」こそが、むしろ現実の端的さの「外」なのである。そのように反転することによって、「言えない」ことはアポリアではなくて、むしろ「好ましい」ことへと反転する。」(p.212)これは意味論的な6時の転回についての詩的な描写だと思う。)

以上を踏まえると、入不二が6時の転回点で振り切ったのは意味論であり、認識論は潜在性の領域でも生きていると僕は考える。

また、このように考えることは、マイナス内包についての入不二の「不明瞭な「何らかの感じ」」(p.261)という描写にも合致するように思う。マイナス内包とは、意味論に頼らず、認識論のみにより捉えられた内包のことであり、また、意味論に対する認識論優位の描写こそが潜在性の正体なのではないだろうか。

以上はマイナス内包や潜在性の力を弱めすぎた描写のように思われるかもしれない。だが、僕は、6時の転回により意味論を振り切ったという入不二の偉業を強調したいのだ。入不二がここで行ったことは従来の言語の圏域からの離脱だ。転回以降を語る入不二の言葉は全く新しいものである。それを僕は非言語的言語と名付けた。(述べたとおり、この非言語的言語は肯定主義が駆動するものだ。)

非言語的言語も言語ではあるから、言語として扱い、議論を深めていくことが可能だ。議論を深めるうちに、潜在性の領域は深まり、ついには存在論的忘却(p.320)にまで至る。存在論的忘却について「自らの概念枠の縮退・縮小そして消失がありうることを示す。」(p.321)とするとおり、この議論は、言語つまり意味論の限界ぎりぎりのところにあるものだ。存在論的忘却の議論は、ついに入不二の非言語的言語さえも尽きるところまで進んだ地点に到達したことを示している。

そこは、「忘却」という言葉が象徴するとおり、認識論さえも尽きる地点である。忘却の忘却としての存在論的忘却の地点では、何かを認識していたということは語ることができないだけでなく、そのような認識さえもない。つまり、6時の転回では生き残っていた認識も、潜在性の領域のどこかでは、議論の深まりの果てにとどめを刺される時がくる。

それが12時の地点だと考えている。

潜在性の領域における議論の最終盤において、認識論は、入不二が発明した非言語的言語とともに終焉を迎える。

僕は、入不二が潜在性の議論を通じて意味論と認識論に対する現実性の優位を描いたということには反対しない。ただし、その業績を円環モデルのどの地点に位置づけるかに異論があるのだ。入不二の潜在性の議論とは、まずは意味論を葬り、そして認識論を葬るというプロセスを指しているのだと僕は考えている。

なお、僕は、入不二の議論のなかで重要な役割を果たしている、マイナス内包や潜在性という道具立てについて、その役割を縮小すべきと主張していることになるが、それは、入不二の議論を否定するものではない。あえて言うならば、入不二の議論のうち、特に円環モデルの12時のあたりをより円滑に動かすための改善であると考えている。このことは後述したい。

(潜在性の領域を認識論優位の領域と捉えることで、入不二の「動物」という用語も別の意味をもってくるように思う。なぜなら、動物を、言葉を持たない認識だけの存在と捉えることもできるからだ。また人間の側からしても、動物(特に猛獣)とは、もし出会ったなら、本能的に、つまり言語以前の認識として恐怖を感じる存在であるからだ。動物という言葉は、そのような認識優位の状況をうまく捉えていると思う。それならば、潜在性の領域の議論とは、第二次動物から第一次動物に至り、ついには動物という認識の枠組みも失い、破壊的な黙らせる力そのものへと至るものだと解釈することもできるだろう。動物とは不徹底な神である。)

(※言語習得については、言語習得以前のクオリア逆転の「時間論的な(あるいは存在論的な)」(p.258)可能性についても言及しているが、この議論でも認識論を無力化するには不十分のように思える。なぜなら、言語習得前後の断絶とは、入不二の議論によるなら、未生の無・無でさえない未来・大過去とも表現できるような強度を高めた断絶でなければならないはずだからだ。この断絶は、時間論的には乗り越えられても、(現実論から切り離されたものとしての)存在論的に乗り越えることはできない。つまり、意味論・認識論・存在論はともに言語習得の断絶には無力である。または、存在論的な乗り越えが可能な程度に断絶を弱めてしまえば、意味論はともかく、認識論が乗り越えられないとする論拠は失われてしまう。)

3-3 潰れ・転回

入不二は「始発点が必然でも偶然でもあるという事態(様相の乱れ)」(p.164)とし、様相の潰れは始発点で起きるとする。次のような表現もある。

円環モデルの「始発点」は、・・・そこから様相が開けていくような原点であった。様相の開けの原点だからこそ、その後に分化する様相(可能・不可能・必然・偶然)の全てが、一点集約的に潰れている。(p.384)

つまり入不二によれば、様相の潰れとは、様相の開けと等しく12時の出来事なのである。(正確には様相の潰れは12時の出来事で、様相の開けとは0時の出来事であり、その間にあるギャップこそが重要ということになるのだろう。)

だが、正確には様相の潰れとは、円環モデルの左半分を占める潜在性の領域全体を通じて進行するプロセスだと考えるべきだろう。これを示しているのがp.44の図だ。

僕が指摘したいのは、入不二は様相の潰れのプロセスのうちの特に前半を強調しているにも関わらず、様相の潰れを円環モデルのなかの最終盤に位置づけているというずれが招く問題だ。このずれは誤解を招くのではないか。

入不二が自然数・実数や、通常の色・(潜在無限色としての)黒という例を用いて説明する様相の潰れとは、入不二自身がアナロジーと呼ぶように、様相の潰れの議論の入り口に過ぎない。様相の潰れが潜在性の領域を通じて進行するものと考えるなら、この本を通じて入不二が行っている潜在性やマイナス内包といった議論も含めて様相の潰れについての議論であると捉えるべきだろう。だがそれらは、通常の意味での、可能・不可能・必然・偶然といった様相とは程遠い議論だ。様相の潰れと呼ぶよりは、超・様相の潰れとでもしたほうがいいかもしれない。

超・様相の潰れも含めた広義の様相の潰れについてならば、様相の潰れを12時の出来事(でもある)とすることは誤りではない。だが、もともとの様相の潰れという用語の妙味は、様相が潰れ始める、その瞬間を捉えたことにあったはずだ。様相の潰れで強調すべきは、潜在性の領域の始まり、つまり、転回点にこそある。

これは、様相の潰れを説明するうえで導入した実数や黒の分割やドメインの無さの話が、入不二が第1章で行った転回の説明にきれいに重なることからも明らかだろう。

円環モデルの昼の領域では、通常の言語による様相システムの構築が進行していく。しかし可能性が豊穣化し、様相システムをどんなに精緻にしても、そこに欠落があること(つまり現実性を位置づけることができないこと)が明らかになる。この飽和し、立ち行かなくなる地点が転回点であり、様相の潰れの始まりだ。これは肯定項(肯定枠)をいくら列挙し、または分割しても欠落がある(つまり現実性を捉えきれない)という第1章の転回の描写と重なる。そこから、いわば作戦を変えて肯定主義を貫徹しようとするのが潜在性の議論であるとも言える。

なぜ、このように様相の潰れの位置づけについてこだわるのかと言えば、様相の潰れ(の始まり)と転回が重なることを強調することを通じて語るべきことがあると思うからだ。

以上のような議論を通じて重なるものとして位置づけられた転回と様相の潰れ(の始まり)は、波及と還流の構図(p.234)において重要な位置づけを占めている。転回・様相の潰れは、波及と還流の構図における「○」「この世界」を表している。

波及と還流の構図においては、原点(始発点)としての「●」がひとつしかないように、「○」もひとつしかない。転回・様相の潰れとは、(始発点とは異なる)もうひとつの特異点なのだ。

この特異点の重要さを表すために、これまでの議論を思い出していただきたい。僕は、さきほど、円環モデルは複数描くことができ、それらを重ね合わせるかたちで波及と還流の図を描くことができるとした。

もし、この主張が認められるなら、あらゆる円環モデルの転回点は潰れというかたちで「○」この世界として重ね合わせることができる。

入不二の議論においては、様相の潰れ以外にも、人称の潰れ、時制の潰れとでも言うべき事態が生じているが、それらは全て、円環モデルの転回点として描くことができるのではないか。そしてそれらは全て、波及と還流の図式の、「○」「この世界」として重ね合わせることができるのではないか。きちんと考えきれていないが、僕はそのような予想をしている。

(個人的なアイディアのメモに過ぎないが、入不二が緊張関係、中間とするものはすべて、「○」「この世界」として重ね合わせることができるのではないだろうか。)

3-4 脱内包・マイナス内包

ここまでは潜在性の領域を弱める方向の議論をしてきたが、逆に潜在性の領域を強める議論をしていきたい。

入不二によれば、次のとおり、脱内包は始発点に位置づけられている。

円環モデルの左半円上部から始発点への-ジャンプ(飛躍)の内には、・・・マイナス内包(潜在性の場)から脱内包の「このもの」「このこと」への移行が含まれている。(p.297)

僕はこれに反して、脱内包はマイナス内包と並ぶものとして潜在性の領域に位置づけるべきという主張をしたい。潜在性の領域とは、マイナス内包と脱内包が絡み合うような豊穣な場なのではないだろうか。

これまで僕は、円環モデルは複数描くことができ、それを重ね合わせることで波及と還流の構図につながるとしてきた。

そのうちの入不二が第1章で提示した円環モデルについては、主に意味論と認識論の絡み合いを描いたものだと考えることができるとした。顕在性の領域において増殖していった言語(意味論)がついに飽和し、転回点においてそれを乗り越えることにより、潜在性の領域において「不明瞭な「何らかの感じ」」という認識論的なマイナス内包に至る、というかたちで。

注意すべきは、この円環には存在論がほとんど登場しないということだ。入不二によれば存在論は現実論的な色彩を持っているが、そのように解釈したとしても、現実論(存在論)は円環モデルに垂直に差し込む光(矢印)や円環を駆動する力として、いわば裏方的に登場するのみである。あえて言えば、始発点においては、意味論や認識論から離れた無内包の現実が存在論的に登場している、とも言えるが。

僕の解釈によれば、存在論は、現実論からきれいに切り分けて、自然科学に代表されるような二項関係として扱うべきと考えている。このように解釈された存在論についても、入不二の円環モデルには、やはり裏方的にしか登場しない。意味論の前提となる複数性を供給し、主体・客体という認識論を成立する枠組みを提供するものとして。

そのような意味で、入不二の円環は、意味論と認識論の円環モデルなのだ。そこではほとんど存在論が前面に出てこない。

では、存在論が前面化した円環モデルとはどのようなものだろうか。

それは、始発点から、概念の方向ではなく人称の方向に進むのではないだろうか。とにかくこれは〈私〉である、というように。その後は、永井の議論のとおり、《私》が登場し、いわゆる「私」に進んでいく。ついには、いくら「私」を増殖させても、欠落を埋められないことに気づく。これが人称の潰れだ。ここから転回が始まり、潜在性の領域における、すべてが私である、という独我論につながっていく。

この存在論優位の円環モデルの潜在性の領域に立ち現れるものとはどのようなものだろうか。それは「私の世界」と名付けられるようなものだろう。独我論的には、その世界がどのようなものであっても、それは私の世界であることに変わりはない。その限りで、その世界がどのような内包を有するかは関係がない。具体的な内包はなくてもよい。ただし、それを世界と呼ぶことができる程度には何らかの内包が潜在的にでもあるべきではあろう。このように描写されるものは、「私の世界」というラベルはついていても、ほとんど入不二のマイナス内包と変わりがない。

なお、入不二のマイナス内包も全くラベルから無縁ではいられない。なぜなら、それは「感じ」ではあるからだ。入不二のマイナス内包には「感じ」というラベルがついている。

潜在性の領域は、そこに至る転回をどのように成し遂げたかという痕跡からは無縁でいられないのだろう。僕の円環モデルであれば、それは「私・世界」という存在論(人称)の痕跡であり、入不二の円環モデルであれば、それは「感じ」という認識論の痕跡である。その痕跡をも消し去り、12時に至ろうとするのが、潜在性の領域でなされることである。

つまり、ここには少なくとも二つの円環モデルがあり、一方の円環では潜在性の領域に「私・世界」のマイナス内包が潜み、もう一方の円環では潜在性の領域に「感じ」のマイナス内包が蠢いている。このうちの前者を脱内包と呼び、後者をマイナス内包と呼ぶことができることは明らかだろう。(入不二が、脱内包とは「無内包の現実性が、私・もの・世界・今などの、最小限の(形式的な)内包と共に働いている水準」(p.284)としているのはこのことなのではないか。)

いや、円環モデルは模式図に過ぎないから、波及・還流の構図として重ね書きすべきだろう。そこでは二つの円環が相互に作用している。波及の際には顕在性の領域で人称と意味が絡み合い、還流の際には潜在性の領域で、「私・世界」のマイナス内包(脱内包)と「感じ」のマイナス内包が絡み合っている。そこでは新たな円環(小円環)を生み出してさえいるだろう。

潜在性の領域に着目するならば、その新たな(小)円環とは、例えば次のように描くことができるだろう。一方では、マイナス内包であるからには誰のものであっても何らかの感覚を伴わざるを得ない、と「感じ」マイナス内包(マイナス内包)の優位性を強調し、もう一方では、どのような感じであれ、それは私の世界の内包である、として「私・世界」のマイナス内包(脱内包)の優位性を強調する、というような相互関係的な図式として。

このようにして、脱内包はマイナス内包の一種として、円環モデルの潜在性の領域で他のマイナス内包と絡み合う。

3-5 マイナス内包・無内包

マイナス内包について、脱内包を取り込むことで、いわば強化したが、再び、マイナス内包を弱める必要がある。なお、僕はこの節こそが、この文章のいわばクライマックスだと考えている。

入不二は、マイナス内包について、「ソラリスの海的な実体」(p.37)としての産出力を見出している。

マイナス内包の産出力から、生まれるはずのない何かが生まれることが12時のギャップの不可能さであり、現に生まれた後の0時の始発点から(みせかけの)遡行をすると、それは、あたかもマイナス内包から無内包の現実が生まれたものとされる。そこには不可能を可能とする謎がある。

僕もこの主張の半分、つまり不可能性については同意する。マイナス内包から無内包は生まれない。それがあたかも可能であったように見えるのは、マイナス内包と始発点との間にあるべき重大な局面についての描写が抜けている(抜けざるを得ない)ために、そのように見えるだけなのではないか。

さきほど僕は、潜在性の領域の議論は、マイナス内包と脱内包が絡み合うように進行していくとした。潜在性の領域は通常の言語が通用しない領域だから、議論を深めるためには別の手がかりが必要だ。

入不二の円環モデルによるならば「何らかの感じ」とされたマイナス内包は、「何らかの感じ」ですらないマイナス内包へと深まっていかなければならないはずだ。その際に用いるのは、いずれにせよ「私の世界」のものではある、という手がかりだろう。その手がかりによりマイナス内包をマイナス内包として把握し続けることにより、「何らかの感じ」ですらないマイナス内包へと深めることができる。

一方で、僕が先ほど挙げた人称の円環モデルにおいても、「私の世界」のものとされたマイナス内包は、誰のものでもないマイナス内包へと深まっていかなければならない。その際に用いるのは、いずれにせよ「何らかの感じ」ではある、という手がかりだろう。その手がかりによりマイナス内包をマイナス内包として把握し続けることにより、誰のものでもないマイナス内包へと深めることができる。

この二つの道筋を合わせた先には、誰のものでもなく「何らかの感じ」ですらないマイナス内包というものが出現するはずだ。これこそが真のマイナス内包であり、潜在性の議論の終着地点だ。

しかし、これは、既にマイナス内包ではないだろう。もし、これがマイナス内包だと思う方がいるならば、それは「感じ」や「私の世界」とは別の何らかの手がかりを使っているだけに過ぎないはずだ。(他の手がかりとしては、例えば、「いずれにせよこの概念体系に属している」という意味論的マイナス内包が考えられる。)もし、そのような手がかりを全て捨て去ってしまったら、それは、少なくとも、ソラリスの海に喩えられるようなマイナス内包とは異なるものになっているに違いない。12時に至る頃にはマイナス内包はマイナス内包とは呼べないものになっているのだ。

もしかしたら、以上のような迂遠な説明より、イメージに訴えた説明のほうがよいのかもしれない。(また、これなら脱内包についての僕の議論を否定されても通用するかもしれない。)

マイナス内包とはソラリスの海のようなものだとしよう。その場合、産出力とは、海の波のようなものだろう。なぜなら、何かが生まれるためにはきっかけが必要だからだ。ソラリスの海のうち、ある特別の部分だけが産出を行うことができるとするならば、その部分は他の部分とは異なっていなければならない。そのような不均一さがソラリスの海には必要だ。

しかし、潜在性の領域の議論とは、分割をベタに塗りつぶしていくようなものであり、いわば、ソラリスの海をひたすら均一に均していくような作業である。それならば、ソラリスの海が最も不均一で産出力があるのは転回直後の7時の時点であり、そこから進むにつれ、産出の機会は失われていくはずだ。

このような理解と、潜在性が進行した果てにこそ、12時の飛躍(産出)があるという図式とは整合しないのではないか。

ソラリスの海から何かが産出するという描写は、何かを見落としている。

(この本の第3章の議論によるならば、産出力を見出すという点でマイナス内包の祈りは徹底していない。真に現実性という神にアクセスするためには、生まれうるという期待も手放した無力さが必要であるはずだ。なぜなら12時のギャップは決して潜在性の側から乗り越えることはできないのだから。それは純粋な祈りであり、受容である。)

僕の考えを述べよう。マイナス内包はたしかに産出力を有している。しかし、マイナス内包のある一部が何かを産出するのではない。マイナス内包は、「感じ」や「私の世界」と名付けられないほどに均一化した果てに、マイナス内包全体として何かを産出するのだ。だがこれは、産出ではなく変化と言うべき事態だ。円環モデルに沿うならば、それまでマイナス内包であったもの全体が、一挙に、始発点の「何かが起こった」となるのだと表現すべきだろう。

この、完全に均一化し、いわば内包を失い、産出力そのものとなったときのマイナス内包とは、マイナス内包と呼ぶことは不適切だ。これは、無内包の産出力とでも呼ぶべきだろう。当然これは、現実の力そのものの別名である。

つまり12時までのマイナス内包の潜在性の領域と、0時の始発点との間には、無内包の現実が、力そのものとして発露する瞬間がある。円環モデルに垂直に差し込む光(矢印)として描かれる現実の力が、力そのものとして発露するということこそが、円環モデルにおける日の出の奇跡なのではないか。僕はこの構図こそが真に入不二が描こうとしたものだと考えている。

(僕は、このことを描きたくて、これまで、様相の潰れの位置を転回点にずらしたり、潜在性の領域に認識論を残存させたり、といった微修正を入不二の議論に加えてきたのだ。)

3-6 円環・螺旋

ここまでの議論を通じて、僕は、入不二が見出した12時のギャップは、縦向きの現実性の力により埋められる、と主張するに至った。

では、平面で描かれる円環モデルのどこに、縦向きの力により埋められる余地があるのだろう。僕は、ここに円環モデルの限界があると考えている。

現実性の力を円環モデルの下から上に向かう力だとするならば、円環モデルは正確には平面的な円環ではなくて、始発点から、徐々に下に下っていくような下向きの円を描いているのではないか。

(円環モデルにおいて、入不二は上から下への矢印を描いている(p.40など)。しかし僕は、現実の力を円環モデルの下から上へ向かう力として描きたい。このほうが現実性を表出する力、という感じが表現できるように思うからだ。)

(ここからはイメージに依拠した説明しかできないことをご容赦いただきたい。)

なぜ下向きなのかというと、現実の力が足りないからだ。現実性の力は円環モデルに遍在しており、円環モデルは現実性の力に支えられてはいるが、直接的な現実性の力の発露ではない。縦向きであったはずの力は横向きの円環を経巡る力に変換されてしまう。そこにロスがあり、円環を経巡るにつれ、現実性の力は弱まってしまうのではないか。

その証拠は随所に見出すことができる。例えば、「P=P」の同一律について、「Pの反復の内に、「P」それ自体からのズレ・・・最小の否定性・・・を読み取ることができる。」(p.40)とする。このズレこそが、現実性の喪失を示しているものではないだろうか。

このようにして、円環モデル上での議論は、現実性の力をいわば燃料として消費することにより駆動されていくのだ。

こうして下降を続けつつ12時の地点に戻ってきたときには、もともとの0時の地点と縦のギャップが生じていることになる。

これが、円環モデルのギャップであり、このギャップを埋めて、元の高さを回復し、円環として回転を継続することを可能にするのが、12時の地点でようやく直接的に発露される現実性の力なのではないか。

円環モデルとは平面的に描かれるものではなく、下向きの円であり、ギャップとは平面上の切れ目ではなく、垂直方向のずれのことなのではないか。それを埋め、なにもなかったように円環とするのが縦向きの現実の力そのものであるということになる。

(もし、現実の力を取り入れないならば、円環は下向きに広がる螺旋として描かれることになるだろう。)

しかし、ここで僕は疑問に思う。現実性の力が、ちょうどギャップを埋めるように働く必要があるのだろうか、と。ちょうどを狙うというのは現実性の力が手加減をしているだけなのではないか。さらに現実性の力を解放するならば、現実性の力は上向きに突き抜けてもいいのではないか。

このようにして描くことができる図形は、先ほど描いた下向きの円環(螺旋)とは逆に、上向きの螺旋形に近いものとなるはずだ。

(ここでは、12時のギャップという一点で現実性の力を強める方向で考えたので歪な螺旋となってしまったが、後述するように、p.22の螺旋モデルを上下反転したような、スムーズに上に向かう螺旋を描くような議論も可能だと思う。)

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