内在・外在・特異点

1 はじめに

最近、2冊の本を読んだ。『生き方について哲学は何が言えるか』と『星の王子さま』だ。

これらの本について、昨年読んで、ずっと心にひっかかっている入不二の『現実性の問題』と、その流れで読んだ『現代思想』の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』とのつながりで思いついたことがあるので書き残しておく。

2 内在・外在

哲学的な議論には、大きく分けて、内側からの視点に基づき行う議論と、外側からの視点に基づき行う議論がある。その視点を内在的視点・外在的視点と名付け、また、その視点に基づき行われる議論を内在的議論・外在的議論と名付けてもいいだろう。イメージとしては、主観・客観という、多分そこから派生するだろう区分を思い浮かべてもいいだろう。

例えば、今、この僕を捉えている問題、つまり「僕は風呂を洗うか、それとも家事をさぼって文章の続きを書くか。」という問題は、僕の内側から湧き出るような問題であり、内在的視点に基づく問題設定である。

一方で、どこか神のような俯瞰した視点から、人は、家事と文章を書くのとどちらを優先すべきか、などと問うのは、外在的視点に基づく問題設定となるだろう。

(当然、家事をするのが正しいので、ここで中断します。)

なお、問題設定としては内在的なものであっても、その後、外在的に議論を行うということはありうる。僕が今、家事と趣味のどちらを選択するかを検討するにあたり、そもそも人間一般は家事と趣味のどちらを優先すべきなのだろうか、と視点を切り替えて考察するような場合だ。逆に、外在的な視点から設定されたものである一般的な家事・趣味優先順位問題を検討する際に、家事をしないことで奥さんに怒られるという現在の僕の内在的視点に切り替えるような場合もある。

このような単純化しすぎた例のようなかたちではないにせよ、たいていの哲学的検討は、気づかぬうちに外在的な視点と内在的な視点とを行き来するように行われているだろう。なぜなら、たいていの哲学においては言語という外在的な側面と、感覚や感情といった内在的な側面とが重要な役割を果たすからだ。言語と感覚・感情を架橋した哲学体系を構築するためには、外在的な視点と内在的な視点とを行き来するように論じるのが自然だろう。(または、そうならないため、言語も主観的なものだとしたり、感覚・感情も客観的としたりして、片側に寄せるような論じ方をすることもある。)

一応、議論に深入りしない範囲で補足しておくと、言語が外在的なのは、言葉とは人間が共有する客観的なものだからだ。一方で感覚・感情が内在的なのは、感覚や感情といった心の動きは、その唯一の実例が自分自身のなかにしかないような主観的なものだからだ。更に議論は深められるべきとはいえ、そのような特徴から、言葉の客観性は外在性と結びつき、主観的な感覚や感情といったものは内在性と結びつくことになるとは言えるだろう。また、言葉や感覚や感情といったものを全く用いない哲学などありえないから、たいていの哲学は外在と内在の両方にまたがって論じざるを得ないということになる。

さて、僕が内在・外在について気になったのは、最近読んだ『生き方について哲学は何が言えるか』と『星の王子さま』が、いずれも、内在的な視点が強いものであったからだ。ここからは、内在・外在という視点を重視しつつ、2つの本についての考察を進めていきたい。

3 『星の王子さま』

大学生の娘から面白かったと言われたので、はじめて星の王子さまを読んだ。確かに名作だと思ったけれど、特に心に残ったのがキツネの「なつく」という言葉だ。「なつく」という言葉は、キツネが星の王子さまに友達になる方法を説明するなかで出てくるものだ。

娘に本を返してしまったしネタバレするのもなんなので、本を離れて僕なりの理解としての「なつく」について僕自身の例で説明しよう。

僕は昔から男友達をなぜつくるのがよくわからなかった。女友達ならわかる。女の子って、とてもかわいいし、美しいし、優しいし、不思議だし、いい匂いがするし、もしかしたら付き合えるかもしれないという下心もあるし、是非、友達になりたいと思っていた。一方で、男は、仕事や車や野球といったつまらない話が多いし、(自分も含めて)なんだか汚いし、臭いし、一緒にいてもなにもいいことがないと思っていた。(過去形だし誇張しています!)

なお、男女を問わず、趣味友達が大事だというのはわかる。一緒にスポーツをするにも、飲みに行くのも、ある程度の人数がいたほうが楽しいし、できることも増える。哲学だって誰かと話せたらうれしい。(しつこいけど女友達なら更に別の目的を心に秘めている。)そのような目的のための手段としての友達ならよくわかる。だけど、そのような目的なく、ただ友達と一緒に過ごすことの利点がよくわからなかったのだ。

だけど、キツネは、友達になるには「なつく」(と「なつかせる」)が大事だと言う。僕はこれを、「友達っていうのは、何も理由付けがなくても、ただ相手を特別なものとして扱い、相手に時間と手間暇をかけることが大事なんだよ。」と言っているのだと解釈した。「友達というのは、なにか別の目的の手段ではなく、それ自体として大切なものとして扱い、そのように生き抜くことを通じて、ようやく手に入れられるものなんだよ。」と言い換えてもいいだろう。

つまりここには、目的と手段の転倒、または理由と決断の転倒がある。

これまでの僕は、友達になるということは、一緒に何か楽しいことをするというような目的のための手段であり、友達になるという決断をするためには、その人に何らか長所があるというような理由が必要だと思っていた。

だが、キツネが「なつく」という言葉で伝えようとしていたのは、友達になるとは、それ自体が目的であり、友達になるためには、ただ友達になるという決断だけがあればよい、という考え方だと言ってもいいだろう。そのうえで、すでに友達になった後に、振り返ってみてはじめて、そこに、面白そうな奴だと思ったから、というような友達になるに値する理由を見出すことができる。また、友達なった後だからこそ、その友達関係を手段として、別の何かを手に入れることができる。例えば一緒に過ごす楽しい時間といったものを。

キツネの議論には、目的と手段の転倒、または理由と決断の転倒と表現できるような、視点の転回があるように思う。(なお、ここでは、以前の僕のような考えとキツネの考えとのどちらが本来の姿なのか、といったことを議論したい訳ではない。以前の僕のような考えは、キツネの考えを転倒し、転回させたものだと言っても同じことだ。)

この視点の転回こそが、内在的と外在的という用語を用いて、外在的視点から内在的視点への転回と表現できるものだと思う。

友達に関する僕の以前の考えは、いわば外在的視点からのものだったといえるだろう。友達候補となる人を俯瞰的な視点で眺め、その人達を評価し、誰が友達に相応しいか選択し、やっと友達になるというプロセスを経る。僕の視点はどこか評論家のようで、部外者のものだ。

一方、キツネの考えは内在的な視点としての色彩が強い。キツネによれば、人は人生のなかで、偶然にでも運命的にでもいいけど、とにかくまず出会いがある。そこでただ「なつく」ことで相手との関係が深まり、そして、いつか友達になる。このようなキツネの視点とは、すでに人生に巻き込まれた当事者のものであり、いわば人生の内側からのものだと言えるだろう。

『星の王子さま』から僕が読み取ったのは、この外在的な視点から内在的な視点への転回であり、そこに感銘を受けたのだと思う。

繰り返しになるが、少なくとも現時点では、どちらの視点が優位かは決められない。なぜなら、そう簡単には内在的な視点だけから友達になるという選択の仕方を描写できないからだ。キツネの内在的な視点によれば、全ては既に決断されてしまっている。今後いかに選択するかがわからない。選択の場面を描写するためには何らかの外在的な視点からの比較や評価というものが混入せざるを得ない。内在的視点というのは、外在的視点と並べて比較できるようなものではないのだ。

だが、『星の王子さま』は考察ではなくて、物語であり詩だ。『星の王子さま』とは、詩が持つ力を通じて、理屈っぽくて外在的な視点が強い僕に、内在的な視点の重要さを再確認させてくれた本だと言ってもいいだろう。

4 『生き方について哲学は何が言えるか』

次に、もう一つの本『生き方について哲学は何が言えるか』(以下、『生き方』)について論ずることにする。

これは、永井均がTwitterで言及していたので興味を持ち、読んだものだ。この本は、僕の理解では、哲学をするうえでの限界を明らかにし、その限界のなかで如何に哲学するべきかを実践的に示すことを目指したものだと思う。この本が取り上げるテーマは倫理学の分野に属するけれど、倫理学のみには留まらない哲学全般に及ぶ示唆に富んだ本だと思う。

『生き方』が設定する哲学をするうえでの限界とは、つまりは、内在的な視点の限界だと言えると僕は考えている。先ほど述べたとおり、たいていの哲学は、外在的な視点と内在的な視点にまたがる議論を行うものなので、両者の視点を行き来するように論じられ、その視点は混在しがちだ。この本も例外ではなく、外在的な視点と内在的な視点を行き来するようにして議論は進められていく。

この本の魅力は、この視点の切り替えにかなり意識的であるという点にある。特に、内在的な視点から外在的な視点に切り替えるときに、何を得て、何を失うのかという点に非常に注意を払っているのだ。きっと、その取引の収支を明確にしておくことは倫理学にとって、かなり重要であると考えるからこそなのだ。

『生き方』で行われている議論は、一言でいえば、この本の冒頭で示されるソクラテスの問い「人はどう生きるべきか。」を巡るものだと言えるだろう。

僕が読解した限りでは、「人はどう生きるべきか。」という問いに答えるにあたり、内在的な視点から外在的な視点に切り替わるとき、何かを得る代わりに何かを失うという大きな取引がされていることを、この本は明らかにした。「人はどう生きるべきか。」という問いに答えるためには、本来、すでに巻き込まれているこの人生を離れることはできないはずだ。だが、そこから離れ、あたかも部外者のように人生を語るとき、僕たちは何かを得て、何かを失う。

この視点の転回により得られるものの代表例は客観性だろう。俯瞰的に外部から捉えることにより、安定した視座から複数の人生を見比べて優劣をつけることができるようになる。そこから生まれるものが道徳であるとも言える。

(なお『生き方』において倫理と道徳は異なるものを指す用語として用いられる。道徳は倫理の一部であり部分集合である。倫理とは伝統や慣習に基づくものも含めた判断全般を指し、道徳とはそのうちの西洋文明特有の一般化、抽象化された価値体系を指す。)

一方で、内在から外在への転回により失われるものは、当事者的なこの人生だろう。人生一般であれば、外在的な視点からいくらでも論じることはできる。だが、この人生については外在的に論ずることはできない。いや、そのような人生についても「この人生」として外在的に論ずることは確かにできる。ただし、それができるということは、既に内在から外在への転回を終えてしまっているということである。

実は、言語自体が外在的なものであることから、言語によりこの転回の問題を捉えることには特有の困難がある。外在的な装置としての言語を用いて内在的な視点を捉えるためには相応の注意深さが必要である。

『生き方』は注意深く内在的視点から外在的視点への転回が生じる地点を捉えることにある程度まで成功したと言えるだろう。この本がその点に注意深くあることが可能であったのは、この本のテーマが「人はどう生きるべきか。」というソクラテスの問いをめぐるものであることと大いに関係があるだろう。人生についての問いを検討するならば、人生一般と、当事者としてのこの人生との間にあるはずの違いに注意深くあることは極めて重要であるはずなのだから。

つまり、この本は、この人生という内在的な視点を見失わずに、一方で、人生一般も含めた外在的な視点も切り捨てずに、「人はどう生きるべきか。」について考え続けた思考の軌跡だと言えるだろう。当然それは非常に困難な事業であっただろう。僕にはその一大事業が完全に成功しているかどうかはわからないが、少なくとも僕にとっては、とても有意義なものであった。

以上のようなかたちで『生き方』においては、内在的な視点から外在的な視点への切り替えが大きな意味を持っていたと僕は考えている。

5 特異点

ここまでふたつの本について論じたのは、内在的な視点と外在的な視点との違いと、特に内在的な視点の重要性について理解をしていただくためのものであった。さきほど述べたとおり言語とは外在的な装置だから、文章で内在的な視点の重要性について説明することには特有の困難がある。しかし、二つの著作の力も借りて、なんとか伝えることができたのではないだろうか。

ここまでは、いわば導入部であり、ここからは、内在的な視点と外在的な視点との違いと、内在的な視点の重要性を踏まえ、入不二の議論について論じていきたい。

入不二の議論のうち、特に着目したいのは特異点という用語である。

入不二は、昨年出版された『現実性の問題』や、その出版後に『現代思想』で行った対談『哲学とは何か、そして現実性とは』において、特異点という用語を用いている。例えば入不二は対談において「近藤さんの「これ」や永井均さんの〈私〉はもう通常の視点ではなくて特異点です。」と述べている。

特異点というアイディアは入不二の現実論の体系において重要な位置を占めていると思うので、特異点について正確に伝えるためには入不二の著作を読んでいただくしかないのだけど、一応僕なりの理解を簡単にまとめておこう。

特異点とは、「現にこれはある」「現に私はいる」といったかたちで表現できるような圧倒的な現実性の力の強さが、可能性や偶然性といった様相システムを圧倒し、様相システムが機能不全を起こし、潰れてひとつに圧縮されてしまった地点を指す。ある一面からの描写にすぎないが、このように述べることで、断片的にでも特異点に込められたものごとの大きさを伝えることができただろうか。

試しに永井の〈私〉について様相システムを用いて描写してみよう。現に〈私〉はいる、というときの私は、実は存在しなかったという可能性などない。では私が存在することは必然なのかといえば、そんなことはなくて、私は存在しないこともありえるはずでなければならない。こんな不可思議なものとしての私が存在するということは究極の偶然であると言いたくなるが、その偶然性は確率の分母をいくら増やしても表現できるものではない、などなど。このように描写してみれば、〈私〉に対しては様相システムが機能不全を起こしていることは明らかであり、これが、〈私〉は特異点であるということの意味である。

では、特異点とは何の特異点なのかといえば、僕の考えでは、さきほど2つの本を用いて説明してきた内在的な視点と外在的な視点とをつなぐ特異点なのではないだろうか。(入不二はそのような述べ方はしておらず、入不二は、特異点について、現実性という直接的には指し示すことができないものを、あえて指し示そうとするときに生じるもの、と考えているように思われる。)

再び、私という例を用いて描写してみよう。私とは、外在的な視点で捉えるならば、この世界に何人もいる人間のうちの一人である。一方で、内在的な視点で捉えるならば、私とは、この人生を当事者として生きている唯一無二の存在である。(永井の議論は更に、人間は各自に自らを唯一無二の存在として捉え、当事者として人生を生きている、という方向に進むが、ここではその手前で止めておく。)この2つの視点が私という地点で重なるからこそ、そこで様相は潰れ、特異点が生じる。このような意味で、入不二の特異点には、外在的な視点と内在的な視点をつなぐものとしての側面があるということである。

6 特異点の列挙

なお、特異点は私だけではない。入不二の議論を踏まえるならば、今、(可能世界と対比しての)この現実世界、指差しで示された「これ」といったものを特異点として挙げることができる。

今が特異点であるということは、私とほぼ同型の描写により示せるだろう。現に今である、というときの今は、実は今ではない可能性などない。では今であることは必然なのかといえば、そんなことはなくて、現在はかつて未来であり、やがて過去になるのでなければならない。こんな不可思議なものとしての今が存在するということは究極の偶然であると言いたくなるが、その偶然性は確率の分母をいくら増やしても表現できるものではない、などなど。

現実世界についても同様だが、注意を要するのは「これ」である。僕が目の前のコップを指差し、「これ」と言ったときの「これ」、つまり、このコップも特異点なのである。その理由を端的に述べるならば、このコップが特異点であるのは、「これ」と指さされたこのコップは、私、今、この現実世界と同様の特別さを持つからなのだ。私が今、この現実世界において、このコップを指差すことで、このコップは私に今、この現実世界において指さされた「これ」としての特異点となるのだ。指差しという動作が現実性の力の流れを象徴的に示していると言ってもいい。入不二はこのことを、現実性の力が波及・還流すると表現する。現実性の力は、私や今やこの現実世界や「これ」(このコップ)といったものすべてを巻き込むように波及・還流しているのだ。

注意を要するのは、ここまでの僕の描写が不正確なものであったということだ。僕はあたかも、「これ」は指さされたことにより、はじめて現実性の力に巻き込まれるかのように描写してしまった。だがこの描写はいわば方便であり、私や今やこの現実世界といったものは現実性がない状態から現実性を持つように変化するのではないのと同様に、もともと現実性を持たなかったただのコップが「これ」と指さされることで現実性を獲得するのではない、という点に注意が必要である。このコップは指差しなどされなくても「これ」としての特異点を有する。特異点としてのこのコップが以前は特異点でなかったということはありえない。それは、私が実は私として生まれなかったということはありえないのと同じことである。

特異点として、僕の机の上のコップのようなもの含めるならば、あたりを見回すと、至るところに特異点を見出すことができる。パソコンもモニタもペンもイヤホンも掃除機もすべてが「これ」であり特異点なのだから。

また、特異点は「これ」という表現に馴染むようなモノに留まらないだろう。ネコや家族や友人や通行人Aも特異点であり、歴史上の出来事や概念といったものも、そこに現実性の力が流れ込んでいる限り特異点として描写することができる。

例えば2011年3月11日に大震災が現に起こったということは、実はそうではなかったという可能性などない。ではそれは必然なのかといえば、そんなことはなくて、それより前の時点では、ちょうどその日に大震災が起こる確率はかなり低いものであったはずだ。更にはその震災により特定の誰かが亡くなり、誰かが助かるというところまで完全に一致するような事態が生じるというところまで考慮すると、天文学的に低い確率で生じた偶然であったはずだ。だがその天文学的に低い確率でしか生じないはずの事態が現に生じている。これは確率が100%であると言ってもいい。天文学的に低い確率と100%をイコールで結ぶことができるということが、歴史的な出来事が有する特異点性を示している。

概念についても同様である。例えば「優しさ」という概念について考えるならば、現に僕が人生を生きるにあたり「優しさ」を重視して生きているならば、それは特異点性を帯びることになる。僕が人生のなかで自らの行動を決めるとき、「勇ましさ」や「誠実さ」ではなくて現に「優しさ」を重視しているからだ。そのとき、「優しさ」という概念は並列された概念のひとつではなく、ただ僕の目の前にある唯一の概念として、いわば「これ」として僕の前に立ち現れているはずだ。

このように考えるならば、すべては特異点であると言ってもいいだろう。入不二はそれを現実性の遍在と言っている。入不二は現実性の力を「現に」という副詞により表現するが、現にコップはあり、現に東日本大震災は起き、現に僕は優しさを重視して生きているのだ。

7 特異点の階層

ここまで、私、今、現実世界、「これ」といったものを特異点として列挙し、また、特異点について、過去の出来事や概念といったものにまで拡張してきた。

しかし明らかに、私や今やこの現実世界といったときの特異点と、コップや過去の出来事といったものとでは特異点としてのレベルが異なるように思える。この机の上のコップの特異点性は、この僕が私であるという特異点性から派生しているに過ぎないように思えるし、東日本大震災の特異点性も、この僕が住むこの現実世界の特異点性から派生しているように思える。

特異点とは階層的に整理できるのではないだろうか。特異点ヒエラルキーの上層には人称的な特異点としての私、時制的な特異点としての今、様相的な特異点としての現実世界があり、そこから派生するものとして、この僕が指差したコップや、この現実世界の出来事としての東日本大震災がある。

なぜ、私や今や現実世界だけを特異点とせず、あえて派生するコップや大震災を議論に持ち出してまで特異点を階層構造としたのかといえば、実は私や今や現実世界よりも上の階層には、より上位の特異点を位置づけることができるという図式を示したかったからだ。

この特異点の階層構造は更に拡張できる。僕の考えでは、私や今や現実世界といった特異点よりも更に上位に、入不二の「現に」という副詞的な描写、つまり現実性を特異点として位置づけることができると考えている。

入不二はこの意見に同意しないだろう。入不二は多分「現に」とは特異点ではなく、現実性の力の現れそのものだと主張するだろうからだ。「現に」という現実性の力が人称システムと接触することにより特異点としての私が現れ、時制システムと接触することにより特異点としての今が現れるということになるのだろう。

だが、「現に」と表現し、「現実性の」力と名指しすることで、そこにはある種の不純物が混入してしまっているように僕には思えるのだ。入不二が述べたかった力とは「現実性の」力と限定的に記載されるべきものではなく、また、「現に」と描写されるべきものでもないはずだ。それは入不二自身が『現実性の問題』において、「現に、ソクラテスは哲学者である。」の「現に」を抹消することで示した道筋である。「現に」と明記されなくても現に「ソクラテスは哲学者である。」のである。

特異点ヒエラルキーの最上位には、「現に」という現実性が位置づけられ、第二階層に、私や今や現実世界があり、第三階層以下には、このコップといった「これ」や東日本大震災といった出来事や「優しさ」のような概念が位置づけられるということになる。

このような階層間の違いは、特異点階層の外にある力(としか言い表せないもの)に対して、どれだけの限定が加えられたかによって生じるのだろう。最上位で付加されたのは、現実性という限定のみだが、第二階層では、そこに、人称、時制、様相といったもののうちのいずれかが加わる。

同様に、第三階層以下についても、加えられた限定の数により階層は細分化するだろう。例えば、人称と時制という2つの側面からの限定が加えられると「今の私」が生じ、人称と時制と様相という3つの側面からの限定が加えられると「今の私の世界」といったものが生じていく。

(可能世界に対比されるものとしての「現実世界」という用語のうち、「現実」とは、入不二の議論を用いるならば実は第一階層の現実性由来のものであるといえるため、「世界」としている。つまり、様相システムとは、実は、世界を構成するものごとの複数性を示すものであると言えるだろう。この観点からは、様相システムというよりも、事物の複数性を導入するという意味で、内包システムと呼称したほうが適切のように思える。)

この特異点ヒエラルキーに更に説明的な文言を加えるならば、これは「現実性の観点からの特異点ヒエラルキー」であると言えるだろう。なぜなら、最上位が現実性であり、そこからすべての階層構造が始まるからだ。

このようにしてしか特異点ヒエラルキーを描くことができないという点に入不二の現実性の議論の正しさがあるように思う。なんとも名付けることができない力というものに輪郭を与えるために最小限の限定を加えるならば、それは「現に」という現実性しかないと確かに思えるからだ。ほかの観点からではここまで美しい構造を描くことはできないように思う。

(ここまで用いてきた特異点の例は入不二の議論からは大きくずれていないと思うし、多分、哲学の伝統にも概ね沿ったものだと思う。だが実は僕はこの特異点ヒエラルキーのかなり上位に、「対話」「肯定主義」「規則」「真のクオリア」というものを導入したいと考えている。できれば現実性に並ぶくらいのところに位置づけたいとさえ考えている。これはかなり野心的な試みになるのではないかと思う。)

8 特異点の特徴

ここまで、特異点を列挙し、階層というかたちで構造化する作業を進めてきたが、ここで特異点というものの特徴を示しておきたい。

特異点には、そこに視点を設定することで、唯一の視点から多くのものごとを捉えることができる、という特徴があるように思える。

例えば、今、現在という特異点に視点を設定してみよう。すると、過去とは現在において想起しているものであり、未来とは現在において予想しているものであるという捉え方ができるようになる。ここから、過去も未来もすべて現在であり、現在は永遠である、という考え方が導かれるようになる。今という特異点に視点を設定することで、多くのものごとを捉えるとは、このような捉え方のことを指している。同様の議論は私やこの現実世界という特異点でも可能である。

机の上のコップのような「これ」については当てはまらないのではないか、という反論があるかもしれない。だが「これ」とは指差され、現実性の力が波及・還流している「これ」である。いわば焦点が定められ、注目されているものである「これ」とは、注目しているこの現在におけるこの私にとっては、いわば全てである。僕が目の前のコップをただ見つめているとき、そのコップはこの今のこの僕にとってはこの世界全てであると言ってもいい。これはコップを通じてこの世界全てを捉えているとしてもいいのではないか。確かに、「これ」の特異点性を説明するためには、今、私、この現実世界といった道具立てを必要とするという点で、「これ」は全てではない。だが、控えめに言っても、かなり豊穣なものが、「これ」としての机の上のコップという特異点には込められている。以上の議論は、「これ」がコップのようなモノではなく、概念や過去の出来事であっても同様にあてはまるはずだ。

なお、特異点が持つ捕捉力とでもいうべきものが遺憾なく発揮されるのが、入不二の現実性という視点であろう。例えば命題という観点に立つならば「現に」という副詞は、どのような命題にも付加することができる。当然「ソクラテスは哲学者である」に付加できる一方で、「ソクラテスは哲学者ではない」も「現に、ソクラテスは哲学者ではない」であり、「ソクラテスはユーチューバーである」も「現に、ソクラテスはユーチューバーである(という文章が書かれた)」というかたちで「現に」を付加できる。更には、まだ一度も書き記されたことのない命題であっても、それは「現に」まだ一度も書き記されたことのない命題であり、決して起こることのない出来事も、それは「現に」決して起こることのない出来事である、というかたちで「現に」を付加できる。(このあたりは入不二の最深潜在性の議論に入っていると思う。)

入不二の現実性という視点は、「現実性」や「現に」という描写自体を除いては、すべてを捉えきっていると考えていいように思う。これが入不二の現実論の力であり、僕が入不二の現実性を特異点ヒエラルキーの最上位に置くべきと考える理由である。(一方で、「現実性」や「現に」というなんらかの限定からは逃れられないということが、入不二の現実性が特異点の外を指し示すことができず、特異点に留まると考える理由である。)

9 『現実性の問題』における内在的議論

さて、ここまで特異点について論じてきたのは、外在的な視点と内在的な視点とを接続するものが、この特異点だからであった。

僕は『現実性の問題』において入不二が立っていた視点は極めて内在的なものであったと思う。意図的なものなのか、それとも現実性というテーマ設定により必然的にそうなったのかはわからない。多分両方だったのではないかと思う。なぜなら、現実性には外部がないということを考察するためには、現実性を客観的に分析の対象とするような外在的視点に立つことはできないからだ。僕たちはどこまでも現実性の波及・還流として描写される力に巻き込まれている。僕たち自身がそのような事態を描写するためには内在的な視点に立つ必要がある。(一方で、その前の入不二の著作である『あるようにあり、なるようになる』においては、入不二は外在的な視点と内在的な視点を行き来するように語り、そこに様々な「中間」という特異点を見出したと考えている。入不二の運命論とは、いわば「中間」という特異点をつなぎ合わせたようなものだと言えるだろう。そこでの議論には変幻自在な視点移動という点ではある種の自由さがある一方で、『現実性の問題』に比べると、焦点が定まりきっておらず、考察が突き詰められていないという側面があるように思う。)

『現実性の問題』において、入不二は極めて内在的な視点に立ちつつ、外がないはずの現実性の全体を捉えきろうとした。そこには矛盾があるにも関わらず、少なくともある程度までは成功しているように、僕には思える。

なぜ、現実性の内側から、現実性という考察対象全体を捉えるような芸当が可能になるのかといえば、入不二が特異点をうまく使ったからなのだと考えられる。外在的な視点と内在的な視点とをつなぐ特異点を抜け道として用いることで、入不二は現実性の内側に立ちながら、現実性をいわば全体から捉えることに成功したのではないか。

いや、入不二が行ったことはそれほど特別なことではないだろう。多分、特異点という抜け道は哲学者に限らず多くの人が使っているはずだ。なぜなら、内在的であるはずの思考というものを使って外在的に世界を捉えるためには、なんらかの抜け道を使う必要があるからだ。例えば、現代人にとって常識的な自然科学的で客観的な世界観を獲得するためには、時空や因果といったものを特異点とし、そこを蝶番にして内在的な視点と外在的な視点をひっくり返し、世界を客観的なものとして捉えなければならない。それはほとんどすべての人がやっていることのはずだ。

なぜ、このようなことがいともたやすくできるのかといえば、それは、この世界が特異点という抜け道に満ちているからだ。(世界という概念も含めて。)

だから、入不二が行ったことの特別さは、特異点という抜け道を使ったということではなく、どちらかというと、できるだけ特異点を使わず、極限まで思考を突き詰めることだったと言ったほうがいいかもしれない。だからこそ現実性という最上位の特異点を見出し、そこを経由し、最も高い次元で外在的把握を成し遂げたとも言えるのではないだろうか。入不二は特異点の使いどころがうまかったということなのだ。

10 内在的に生きる

『星の王子さまのキツネ』も、『生き方』を書いたバーナド・ウィリアムズも、『現実性の問題』の入不二基義も、内在的視点というものに意識的であるという点が共通していると僕は思う。

人間である限り、人はいとも簡単に外在的視点に抜け出てしまう。なぜなら、世界は特異点に満ちているからだ。特異点は特異な点などではなく、非常にありふれた点なのだ。

だからこそ、どの特異点を使い、どの特異点を使わないかという選択が重要となる。キツネもウィリアムズも入不二も使いどころをわきまえていた。三者の共通点は、意図的に目先の特異点にとびついて、あえて外在的視点に抜け出る必要などないという大方針だ。

僕たちが外在的な存在とならなくても、そこにはすでに外在的存在者がいる。それは神や死やヘビと呼ばれる者なのだろう。彼のお世話になるまでは、僕は僕の内在的な生を生きていくのだろう。

(なお、内在的に生きるにあたっては、できるだけ内在的な視点をやわらかなものとして拡張し、我が家を住みやすくしておいたほうがいいだろう。そのために役立つのが呼吸ではないだろうか。呼吸とは内在的視点と外在的視点の行き来を象徴するものであり、内在的視点から意図的に外在的視点に突き抜けては戻ってくるという練習になっていて、いわば内在的視点のストレッチになっているように思うのだ。(あくまで練習であるという点が重要である。))

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