自然科学と人間原理

同じようなことを以前にも書いているかもしれないけれど、備忘録として。

僕は自然科学がどうしてこれほどうまくいくのかを説明したいと考えている。

そんなの簡単じゃないか、と思うかもしれないけれど、僕は形而上学的な意味で、議論の出発地点をかなり手前に置いている。この私や今や世界といったものが存在する、というような常識をそう簡単には認めないところから話を始めたいと考えている。

と言っても僕の哲学的立場はわかりにくいので、ちょっと正確ではないのだけど、この世界は実は夢かもしれないと考えている懐疑論者を思い浮かべてもらえればいいかもしれない。夢かもしれないこの世界が、こんなに辻褄が合っているなんて不思議ではないか。いたるところで日々なされている新たな科学的発見がいずれも、この世界を秩序立てて説明するのになぜかうまく寄与している。一見、過去の科学的知見と整合せず不適当に見える発見であっても、科学的手順に則って慎重になされた研究結果であれば、いずれ、不適当であったのは過去の科学的知見のほうであり従来の科学的知見を修正して新たな研究結果を受け入れるべきであることが判明する。僕はこのことに、まるで何も見ずに適当にそれっぽく作ったジグソーパズルのピースが何故かうまく隙間にはまっていくような不思議さを感じる。

このような問題について哲学的に説明しきるためにはかなり遠大な道のりが待っていると思っていたけれど、そうでもないかもしれないと思いついたので記録しておくことにする。

多分、この道程のゴールは、客観的な世界があることを明確にするような地点に設定されているのだろう。そこでは、私の認識や思考といったものとは何の関係もなく、ただ存在する世界というものを思い浮かべることができるはずだ。仮に僕が世界を認識し世界について思考できたとしても、その認識され思考された世界とは世界のごく一部であると考えることができるはずだ。

そこまでいけば、あとは弱い人間原理の出番である。僕が認識し思考できているこの世界とは、全体の世界のうちのごく一部の、たまたま秩序立てられ、(僕にとって)うまくいっている部分だけなのだ。(強い人間原理により考えられるように)決して、世界のすべてが僕の考える通りに秩序立てられたものとして存在している訳ではないし、世界をお望みどおりにうまく秩序だてるための新たな材料を導入する必要もない。

つまり、自然科学が何故かうまくいっていることを説明するためには世界が存在するということだけが必要であり、あとは弱い人間原理がなんとかしてくれるということである。これはかなり明るい見通しではないだろうか。

一方で、このようなゴールを設定するということは、そこへの道程を限定することになるかもしれない。弱い人間原理を導入するためには、観察者である僕が、この世界の構成要素のひとつであることを認めなければならないかもしれないからだ。少なくとも、弱い人間原理を有効とするためには、観察者の視点が観察対象と癒着していることが必要となるはずだ。

だが、〈私〉を世界の構成要素のひとつと位置づけるというような議論は永井の独在論に基づくならば端的に誤りである。よって、このようなゴールに向かって議論を進めるということは、どこかで〈私〉を単なる私に変換しつつ、それでも世界というものを捉え損なうことがないようなかたちで考察を行うということでなければならない。

これはかなり難しい注文になりそうだと予感しつつも、議論の方向性が限定されたという意味では更に見通しが明るくなったと言えなくもないように思う。

なお、この困難についての現時点での考えを示しておくと、この困難は当然、永井の〈私〉と大いに関係がある。〈私〉を私に変換するということは同時に〈世界〉を世界に変換することでもあるはずだ。この変換により何を失うことになるのだろうか。何も失わないとも言えるけれど、この問題を解く必要性自体も含めた全てを失ってしまうようにも思えるのだ。

一方で、この問題を解くことは対話というものにより可能ではないだろうか、とも考えている。僕は、対話こそが自己と他者とを完全に均すことなく接続するという困難を成し遂げる鍵ではないかと目をつけている。対話により〈私〉と私を接続し〈世界〉と世界を接続することこそが、この困難を乗り越えるための抜け道になりうるのではないだろうか。

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