うまく生きる 思考と行為・ひらめき・身体・こつ

1 うまさという問題

僕自身の哲学の源流のひとつは、高校生の頃から抱いている「いかに生きるべきか。」という問題にある。

僕にとってのこの問題は、具体的な状況設定を用いるならば、海で溺れている人を見つけたとして、その溺れている人を助けるべきだろうか、という問題だと言ってもよいだろう。溺れている人は実は殺人鬼で、その人を助けたら何件も殺人が起きるかもしれない。実は病気による苦痛から逃れるために入水自殺しようとしていて、助けることで、更に苦痛を味わわせることになってしまうかもしれない。そんなことを僕は考えてきた。

(更には、生きることが望ましいことかどうかはわからない。望ましいからといって、生きるという選択をすることが正しいかわからない。正しいからといって、それを具体的な行為の選択につなげるべきかどうかはわからない。そもそも、このようなことを首尾一貫したかたちで論理的に思考できるかどうかさえわからない。それならば、溺れている人を助けるという一見当たり前の判断についても、その根拠は怪しいものではないか、そんなことを僕は考えてきた。)

それはそれで重要な問題だし、今後も考え続けていきたい。だけど、最近ふと思った。当時の僕が求めていたのは、そのような方向での答え「だけ」だったのだろうか。

溺れる人を助けるべきかどうかを解決したとしても、次には、助けるとして、「うまく」助けるにはどうしたらいいのだろうか、という問題を解決しなければならない。助けることを決心したとしても、更に、海に飛び込むか、ロープを探すか、それとも警察に電話するかを判断しなければならない。そこには、どうしたら「うまい」判断ができるのか、という独立した問題があるのではないか。

溺れる人の例だと現実味がないかもしれないけれど、日々、僕たちは「うまい」判断が求められている。洗濯と掃除のどちらを先にするか、晩ごはんの献立を何にするか、などなど。円滑に洗濯と掃除の両方を済ますべきというゴールや、晩ごはんまでの時間のなかで美味しくて栄養のあるご飯を作るべきというゴールは揺るぎないものであったとしても、そのゴールにどのようにして「うまく」向かうかが難しいのだ。

最も「うまさ」が求められるのは対人関係においてであり、特に言葉によるやりとりの場面においてだろう。人間の心は複雑だから扱いが難しくて、言葉で誤解をさせてしまうことが多い。振り返ってみると、実は高校生の僕の哲学的な悩みもそんなところから始まっていたように思う。こんなに複雑な心を持つ人間というものと、どうしたらうまく付き合っていくことができるのだろうか、そんな困惑があったような気がする。

若い頃の僕は、そこから、デカルトの方法的懐疑の方向に進み、懐疑論に至った。懐疑論に基づき「世の中は不確かなものだから、そんなことを考えても仕方ない」という大所高所からの一刀両断の答え、いわば「大きな答え」を与えることで満足してしまった。論理的に考えるならば、どうしたら溺れる人をうまく助けられるのかを悩むよりも前に、溺れる人を助けるべきかどうかを考えなければならないが、懐疑論に基づけば、その前段の問いに答えを出すことはできないのだから、その先を悩む必要はない。大学生の僕はそのように考え、高校生の頃から抱えていた疑問を封印したのだ。

だが30代半ばになり、哲学的に色々と考えを巡らせることを再開し、10数年そんなことを続けている。そのなかで、「うまさ」について、書くに値することを思いついたので、この文章を書いてみることとした。

2 「うまさ」が評価するもの ひらめき

「うまさ」または、その反対である「まずさ」とはどういうものだろうか。

まず言えるだろうことは、うまい答えとは唯一絶対ではないだろうということだ。溺れた人を見つけたとき、海に飛び込んでも、警察に電話しても、結局助かればどちらでもいい。

ただし、単なる結果オーライという帰結主義的なものでもないだろう。溺れる人を助けようとして凪いだ海に飛び込んだが、突然の高波に阻まれて助けることに失敗したとする。その後の検証で、警察に連絡をとっていれば、偶然近くにいた巡視船がすぐに現場に向かえたことが判明したとする。それでも、そのときの海に飛び込むという判断が「まずい」判断だったとは言わないだろう。その時点でできる限りの判断をしたと評価されるはずだ。

ということは、「うまい」か「まずい」かとは、その時点での何かが問われるものであり、その後の偶然には左右されないということになりそうだ。

では、その時点での何かとはなんだろうか。

まず、その人が泳げるかどうかというような身体的な能力は問題にならないだろう。泳げないから飛び込まなかったという対応は、まずい対応とは言わない。また、スマホを持っていなかったから警察に電話しなかったこともまずい判断とは言わないだろうし、来日したばかりの外国人が警察への電話の仕方を知らなかったということもうまさの問題にはならないに違いない。そうだとするならば、「うまさ」とは、泳げるかどうかという身体的能力や、スマホがあるかどうかという物理的な状況や、警察の電話番号を知っているかどうかという知識とは関係のないということになる。

では、「うまさ」とは、判断時点でのその人の何を評価したものなのだろうか。その人の能力や知識といった広義の物理的な状況ではないならば、何が判断の「うまさ」を左右するのだろうか。この問題を思考実験的に表現するならば、全く同じ能力や知識を持った二人が、全く同じ状況で別の判断を行った場合、そのひとつは「うまい」判断で、もうひとつは「まずい」判断となりうるが、その境目となるものは何だろうか。

それは「ひらめき」としか言いようがないものなのではないだろうか。能力や知識を含めて全く同じ状況にあっても、ひらめくかもしれないし、ひらめかないかもしれない。そのときのひらめきだけが判断を左右するように僕には思われる。

「ひらめき」は思考と行為を結ぶものとして非常に重要だと思う。とにかく何らかの行為をするためにはひらめきが必要だ。なぜなら現時点での状況をいくら精緻に分析しても、そこから行為を導き出すことはできないからだ。私は溺れる人を見つけて自己分析を始める。私は泳ぐことができる。私はスマホを持っている。私は警察の電話番号を知っている。私の泳力と波の高さを踏まえると10m先の人を無事に救出できるかどうかは五分五分である。わずかだが一緒に溺れる可能性もある。警察に電話した場合には救助の船かヘリが来るには多分10分以上はかかるだろう。そのような分析をいくら重ねても、そこから、海に飛び込むという行為を導き出すことはできない。そこには思考と行為との間のギャップが存在し、そのギャップを飛躍することが必要である。僕は、その飛躍を「ひらめき」と呼んでいる。

当然、ひらめいて飛躍する前の分析も重要である。精緻に分析しておくことで、より好ましいひらめきができるだろう。しかし、例えば溺れた人をみつけたのが幼児であった場合に、その幼児が現状をしっかり分析できなかったからといって、それがまずい対応と評価されることはない。分析する能力、分析力がある人が、その分析を怠れば問題になるが、そもそも分析力に乏しい人が分析をしなかったからと言って、それはまずい対応とは言わない。また、ただ分析を続ければいいということでもない。どこかで分析を打ち切り、救助に向かうことも、うまい対応のためには必要である。つまり、手持ちの分析力をどの程度時間をかけて活用するかどうかも、ひらめきに属する事柄なのだ。

そのようなことも含め、「うまさ」とは、行為への飛躍のあり方、言い換えればひらめきを評価する言葉だといえる。

3 ひらめきの事後評価

そして、その評価は事後的に行われる。溺れた人をうまく救出できたかどうか結果が明らかになってから、その時点での判断がうまいものだったかどうかが検証される。ただし、結果だけで検証されるのではなく、その人のその時点での知識や能力や状況を踏まえ、その制約のなかで、よりよい結果につながるような判断をひらめき、飛躍することができたかどうかが検証される。

ここに、「うまさ」の根本の問題があるように思える。飛躍やひらめきと表現されるようなものについて、事後的な視点から、あれはうまい飛躍だった、これはまずいひらめきだったと評価していることになるからだ。そのようなコントロールを超えたものこそが飛躍でありひらめきであるはずであるにも関わらず、だ。

当然、うまさを評価する側も、その問題は認識していて、直接的には、その飛躍やひらめき自体を評価はしない。

その代わりに、こっそりと別のものを評価する。言ってしまえば誤魔化しであり、その誤魔化しは、二種類の「ずらし」として行われているように思える。

ひとつは、一般化による「ずらし」だ。例えば、その人が日本人の成人ならば、常識的に日本で生活する人が備えている知識や能力を備えていることを前提として、離岸流に気をつけるべきだった、などと評価する。だが、その人は、離岸流など知らなかったのかもしれない。

もうひとつは、それ以前の別の判断を問題とするというやり方であり、時点の「ずらし」だ。スマホが手元になくて警察に連絡できなかった人について、外出するならばスマホくらい持っておくべきだった、と批判するような場合だ。これは、溺れている人を発見した時点ではなく、外出した時点に遡って、時点をずらして、その時点での判断を問題とするということだ。なお、このような「ずらし」は他者からの評価で用いられることは少ないが、自己評価においてはよく用いられる。つまり、あのときこうしていればという後悔だ。

人は、このような誤魔化しをしてまで、本来不可能なはずの「ひらめき」への評価を求めてしまうのだ。

4 自由意志の問題

自分自身による「うまさ」の評価には特有の問題がある。ひとつは先程触れた複数の時点の自分をつなげて同一の自分として解釈することから生じる後悔と呼ばれる問題だが、もうひとつは自由意志に関わる問題だ。自分自身がいくつかの選択肢に気づいていて、そのなかから一つの選択肢を選んだ場合、そこに自由意志の問題が生じる。溺れる人を発見した時点で、海に飛び込むことも、警察に電話することも可能だと気づいており、そのうちの一つを選択した場合、あとで振り返り、その選択がうまいものだったかどうかを問題とすることができる。この選択可能性を認めるということが、自由意志が成立する根幹にあるからだ。

だが、判断の際に必須のものである飛躍、ひらめきを正当に取り扱うならば、自由意志を捨てる道を進むしかないのではないか。なぜなら、選択可能性などなく、それしかないものとして行為するということが「ひらめき」には含まれているはずだからだ。

こうして、「うまさ」の問題は入不二の運命論に近づいていく。なお通常の決定論と大きく異なるのは、そこに無根拠の飛躍、ひらめきが介在しているという点にある。人生が運命に翻弄されるのは、その運命が決定されているからではなく、そこに無根拠の飛躍があるからだということになる。つまり僕が描いてきたのは入不二のケセラセラの運命論であり、ひらめきと名付けた無根拠の飛躍とは、入不二の円環モデルにおける始発点に至る飛躍のことである。

5 身体・こつ

「ひらめき」と名付けた飛躍が無根拠であるのは、行為が思考を超えているからだ。人は状況を認識し、自らの知識を使って、どのように行為すればいいか思考する。しかしその思考の結果と、どのように行為するか決心することとの間には断絶がある。その断絶を架橋するものとしてひらめきがある。思考を超えたところにあるという点で、ひらめきは無根拠なのだ。

つまり、これは思考と行為(またはその手前の決心)の問題である。

それならば、この両者をうまく架橋できるかどうかが、「うまさ」の問題であるとも言える。

そこで僕は、いかにうまく生きるかということを考えるうえで、身体というものに着目したい。なぜなら思考と行為をつなぐのは身体だからだ。身体とは、思考から全く切り離されたものではないが、思考に含まれるものでもなく、いわば思考の境界にある。また、身体は世界のなかに位置づけられ、行為するものでもある。つまり、思考は身体を介在し、行為するとも言える。それならば、「うまさ」の問題は、身体の使い方の問題だと捉えることもできるだろう。つまり、うまく生きるとは、包丁の使い方や車の運転の仕方と同じような、身体の使い方の問題であり、いわば、こつや慣れに属する問題なのだとも言える。

そのように考えるならば、包丁の使い方や車の運転の仕方について語るのと同じように「うまく生きる」うえでの実践的なコツを列挙することさえできるだろう。

僕が思いついたコツを二つ列挙しておきたい。

僕が考える第一のコツは、できる限り言葉の問題として扱うというものだ。

人生において「うまさ」「まずさ」が問題となる典型的な場面とは、溺れる人を助ける場面ではなく人間関係の場面だろう。だから「できる限り言葉の問題として扱う」というコツはかなり適用範囲が広いと思う。

実践的と言いつつ理屈っぽくなるが、僕は言語というものが「うまく生きる」うえでのコツにつながると考えている。正確には「まずく生きないで済む」うえでのコツになると考えている。そこで役立つのは、言語が持つ継続性という特徴である。簡単に述べると、この継続性とは、言葉は対話として継続し続けるものだ、ということである。対話が続いている限り「うまさ」「まずさ」の問題は生じない。対話の内容は、対話が続く限り更新され、確定しないからだ。確定しないものについて「うまさ」「まずさ」は生じない。一見、まずい発言をしてしまっても、対話を続けることさえできれば、その発言は訂正し、うまい発言にすることができる。

問題は、言葉には、継続するものとしての側面と、もう一つ、通常の行為としての側面もあるという点にある。対話が終わり、言葉が確定すれば、それは通常の発話という行為として確定する。そうすると、継続性という利点は失われる。言葉の継続性という利点を最大限に活かすならば、どこで語り終えるかはコントロールしなければならない。このコントロールのうまさは、「うまさ」の重要な要素になるだろう。継続性の最大の問題は相手の協力がどこまで得られるかどうかという点にある。そのために必要なのは話術だ。人を飽きさせずに興味を持って対話に参加してもらい、そして、できる限り最短距離で、その対話が至るべきところにまで進む。この話術という技能こそが、「うまさ」の重要な要素となるだろう。これは、対話の中にどの程度遂行性を含ませるかというさじ加減の技術だとも言える。

もうひとつのコツは、飛躍を細やかなものにするというものだ。溺れる人を助ける際に、いきなり助けるという最終目標まで飛躍する必要はない。まず、溺れる人の体力を見極めることを第一の目標として、まず冷静になるという決心をし、そこまで飛躍する。そのうえで、第二の目標として、役立ちそうな記憶を呼び起こし、これまで得た知識を整理するという決心をし、そこまで飛躍する。といった細分化があってもよいし、そのほうがより飛躍の難易度が下がる。

細やかさや細分化というと繊細さや力の弱さといったものとつながるイメージがあるので、解像度を上げると言ったほうがいいかもしれない。この比喩は当然、パソコンのモニタやテレビの画面のきめが細かくなるように、世界把握にあたって解像度を上げるということであり、これはどちらかというと鮮やかさや表現の力強さといったイメージにつなげることができる。

または、細かい把握を可能とするためには、冷静さや注意深さが必要であり、それを強調するならば、マインドフルネスやスポーツでのゾーン状態といったイメージと重ねることができるかもしれない。

これらのようなことも含めて、飛躍を細やかなものとすることがうまく生きるうえでのコツのひとつである、と考えている。つまり「うまさ」とはきめ細かさであるとも言える。

ここまで、実践的なうまく生きるうえでの実践的なコツについて、言語と細やかさという二つを挙げたが、実は、実践的と言いつつ、こっそりと僕の理念的な希望を込めている。

僕が目指すのは、うまく生きるということと哲学と瞑想への接続である。当然、言語は哲学と重なり、細やかさはマインドフルネスのイメージが登場したように瞑想と重なる。哲学と瞑想こそが、うまく生きるということに密接に関わる営みなのではないだろうか。今回の考察も、そのことを示すための一歩であったと考えている。

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