月別アーカイブ: 2021年3月

『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を読んで

0 はじめに

青山拓央さんの『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を読んだ。

この本は、ネタバレ的に青山さん自身がこの本の裏の意図を解説する第7章があるのだけど、この文章に書かれていることは、そこまで読み進む前に思いついたことだ。実際には、最後まで読んだあとで書いているので、第7章の影響も受けてはいる。けれど、第7章とは別に僕が考えたことだということはご承知いただきたい。

なぜそんな断りを入れるのかというと、この文章で書くことは、第7章で青山さんが言っていることとかなり似ていて、少し似ていないからだ。第7章を読まずにこの文章を読むならいいけれど、第7章をすでに読んだ方は、どこが僕のオリジナルの部分なのかがわからなくなるかもしれない。

僕は、この本を最初から順に読み進めたのだけど、終盤まで、正直、まあまあな本だな、という感じだった。ネタとしては興味深いものもあるけれど、ものすごく惹かれる訳でもなく、ただ軽く読めるエッセイという感じだった。どこか散漫な感じがしたのだ。

だけど6章も後半になってからは俄然盛り上がってきた。僕は高校生の頃「いかに生きるべきか。」という問題を考えていた時期があったのだけど、そのときの僕に読ませてあげたいと思った。

この文章を書いたのは、その盛り上がりを書き留めておきたかったからだ。この本に触発されて考えたことを残しておきたくなったからだ。

1 軽い選択

(1)日々の軽い選択

僕の高校生の頃の悩みは、一言で表すと「僕は、いかに生きるべきか。」という問題だった。だが、より正確には、「僕は、ある行動をとること(例えば、友達に話しかけること)は正しいことなのか。」と表現したほうがよかったのかもしれない。

僕が人生で進む道は二つに分かれている。ステーキをレアで焼くか、ウェルダンで焼くか、という青山さんの例のように。だがより典型的には、平叙文と否定文で対比したほうがいいだろう。高校生の頃の僕が友達に話しかけるか、それとも話しかけないか、肉食をすべきか、肉食をすべきでないか、というように。人は言語を用い否定形を使用できるからこそ、人生の至るところに分岐を見出すことができるのかもしれない。

では、そのようにして見出した二つの道をどのように選択するのか。青山さんはそこで、「軽い選択」というやり方を提案する。ステーキだと重い選択になるかもしれないので、納豆を例とするなら、僕は毎日、納豆にカラシを入れるかどうかを選択している。基本、僕は入れないほうが好きなのだけど、時々、なんとなくカラシを入れることもある。僕にとって納豆・カラシ問題は軽い選択だ。青山さんによれば人生はそんな軽い選択に満ちている。だから、幸福についてはあまり大上段に捉えず、軽く捉えたほうがいい、ということになる。

僕はこのことを、高校生の僕に伝えたいと思った。彼(つまり高校生の僕)が中年の僕からこの話を聞いてどう思うかはわからないけれど、(たぶんきちんと聞くはずがないけれど、)彼がこの話を聞いて肩の力が抜けるといいなあ、と夢想してしまった。

(2)重くて軽い選択

なお、青山さんは結婚や就職といった大きな選択は重い選択であり、納豆・カラシ問題とは別次元だとしている。それは常識的な捉え方だけど、多分正確ではないし、きっと青山さんの本当の考えとも違うだろう。

選択というものは、それがどんなものであっても、一回限りのもので、今ここで行われるという点で違いはない。それならば、軽重をつけることなどできないのではないだろうか。

納豆であっても結婚であっても、今、目の前にある唯一の選択肢であるという点では極めて重い。昨日食べた納豆と今日食べる納豆とは別のものであり、今日食べる納豆は唯一だという点では納豆についての選択であっても重い。一方で、どんな選択も、今ここで選択するしかないという点では極めて軽いとも言える。結婚のプロポーズは、長い恋愛の果てのゴールであって今後の長い結婚生活のスタートだとしても、プロポーズをするのは今ここでの一瞬の出来事であり、一瞬ごとに繰り返される選択のひとつとして埋没してしまう。それならば、そこにあるのは一瞬の軽い選択に過ぎないとも言えるに違いない。

哲学的には、人生における全ての選択は、唯一の極めて重い選択を今ここで軽く行うようなものなのだと言っていいのだろう。そこに別の意味付けをして、軽重をもたせているのは哲学とは関係がないものごとに過ぎない。

ここまで説明すれば、高校生の僕も少しは話に興味を持ってくれるかもしれない。

(3)非哲学的な含蓄

だけど中年の僕は、高校生の僕が興味を失いそうなこと、つまり非哲学的な説教話を付け加えたくなってしまう。

長年生きた実感として、結婚や就職といった重い選択こそ、軽く選んだほうがうまくいく。情報収集などの必要な準備は一通り行うことは当然だ。だが、そのうえで、何かを実行し、実際に選択するときには、肩の力を抜き、自然体でインスピレーションに任せたほうが、たいていうまくいく。人事を尽くして天命を待つとはそういうことなのだろう。最後の仕上げは軽く選び取ったほうがいい。

そんなことも含めて、青山さんの「軽い選択」という言葉には含蓄がある。

2 物語の対比

(1)ウッダートの立体構造的議論

青山さんは、クリストファー・ウッダートの「枚挙的質問」と「説明的質問」の区別と、それらを組み合わせた立体構造的な議論を紹介する。これは、「何」を問題とする「枚挙的質問」と「なぜ」を問題とする「説明的質問」とを組み合わせ、「○○は△△だから幸福の構成要素である。」というかたちで幸福についての諸説を対比するというアイディアだと言っていいだろう。例えば「快楽の体験は主観的に肯定的なものだから幸福の構成要素である。」「金持ちであることは客観的に肯定的なものだから幸福の構成要素である。」というように。つまり、ウッダードの議論においては、何の問題となぜの問題の二つの対立軸があることになり、重層的だから立体構造的な議論と呼ばれることになる。

このような分析の仕方が完全に正しいかどうかはともかく、少なくとも、幸福について、単に「快楽」や「欲求充足」と単語で答えるやり方よりは正解に近づいているのは確かだと思う。幸福の問題とは、きっと、幸福の正体は欲求充足か否かといった二者択一のかたちで論ずることでは捉えきれない。それよりはウッダードのように立体構造的に捉えるほうが実情には近いに違いない。つまり、「幸福において欲求充足が重要ではあるが、それは主観的な理由による。」という主張Aに対して、「いやいや、欲求充足が重要なのは同意するが、それは客観的な理由による。」という主張Bがあり、更には、「客観的な理由が重要なのは確かだが、そもそも、欲求充足ではなく、幸福の客観的リストに合致するかどうかが重要である。」という主張Cが登場する、というような重層的な議論である。

(2)噛み合わない比較

僕の言葉で表現するならば、ウッダードの議論の要点は、幸福についての諸説間の論争は「議論が噛み合っていない」というところにあるのだと思う。幸福の正体は何かという議論はどこか、「僕は、奥さんと納豆のどちらをより好きか。」という問題設定と似たズレがある。僕が奥さんのことを人間として好きだというときの「好き」と、僕が納豆のことを食品として好きだというときの「好き」とは、全く別の「好き」であり、それを比較すること自体がおかしい。同様に、幸福とは快楽である、いやいや客観的な良さである、といったような幸福についての議論には同じようなすれ違いがあるように感じる。セックスのときの性的快楽と健康という全く別なものを無理やり比較するように。

一方で、奥さん・納豆問題と幸福の問題とは、完全にずれている訳ではないという点でも似ている。たしかに僕は、奥さんと納豆のどちらを一般論として好きか、などといった馬鹿げた問題に答える必要はないけれど、納豆パックを持った奥さんが崖から落ちそうになったらどちらかを選択しなければならない。(きっと愛情に基づき奥さんを助けるはずだ。)また、何日も食事にありつけず空腹で死にそうなときに納豆と奥さんが現れたらどちらに駆け寄るかを選択しなければならない。(きっと食欲に基づき納豆に駆け寄るはずだ。)場面によっては、都度、奥さんと納豆を対等に並べ、食欲や愛情といった理由をつけて一度限りの選択をしなければならない。幸福の問題においても同様に、人生の個別の場面においては、健康と快楽のような全く異なるものを並べて、主観的な理由から快楽を選んだり、客観的な理由から客観的な良さとしての健康を選んだり、といったように、噛み合わない比較をして何かを選び取らなければならない。

(3)物語の対比

このような対比の仕方を、僕は「物語の対比」と命名したい。

これに対応するのは「単語の対比」とでも言うべき視点である。僕が奥さんを好きかどうか考えるとき、通常、そこにあるのは「人間(愛情)」というひとつの視点である。僕が納豆を好きかどうか考えるとき、通常、そこにあるのは「食品(食欲)」というひとつの視点である。快楽を感じるかどうかで幸せかどうかを考えるとき、そこにあるのは「快楽」というひとつの視点であり、健康のような客観的な良さがあるかどうかで幸せかどうかを考えるとき、そこにあるのは「客観的リスト」というひとつの視点である。これらの視点は、「人間(愛情)」「食品(食欲)」「快楽」「客観的リスト」というひとつの単語で表現することができ、そこにあるのはその単語のなかでの肯定と否定との対立である。忙しくて話す機会がなくて喧嘩が増えて奥さんへの愛情が薄れて好きでなくなったり、一緒に旅行して愛情を再確認して好きになったり、というように「愛情」という単語のなかで僕の好きは揺れ動くことになる。または食べすぎて納豆に飽きたり、キムチの素を納豆にかけると美味しいことを知って納豆を好きになったり、というように「食欲」という単語のなかで僕の好きは揺れ動く。

だが、異種格闘技戦のように、奥さんと納豆を無理やり比較するならば、そこでの比較は「愛情」や「食欲」といったひとつの単語では収まらない。少なくとも「奥さんへの愛情」対「納豆への食欲」といったように複数の単語を用いる必要があり、更に正確を期すならば「忙しくて話す機会がなくて喧嘩が増えていたけれど、一緒に旅行して再確認した奥さんへの愛情」と「食べすぎて納豆には飽き気味だったけどキムチの素をかけることで再確認した納豆への食欲」とを対比するのでなければならない。これが、僕が「物語の対比」と命名したことの意味である。

幸福についての快楽説も、欲求充足説も、客観的リスト説も、それぞれのドメインのなかでの対比、つまり単語の内部での対比である限り全く問題は生じない。快楽が生じないよりや快楽が生じたほうが幸福だし、欲求が充足しないよりは充足したほうがが幸福だ。だが、それがそれぞれの説の内部での比較から離れ、快楽説vs欲求充足説というように比較されるようになった途端、そこでの対比は「単語の対比」から「物語の対比」に移行する。つまり「脳内物質が生み出す快楽」という物語と、「欲求が充足されることによる社会の平穏」の物語といったような、噛み合わない複数の物語の間での無理やりの対比である。

3 共振

僕は「物語の対比」が無理やりの噛み合わない比較であり問題だ、と言っているのではない。そのような対比こそが重要だとさえ言いたい。

本来一緒に論ずるべきでないものが、なぜか一緒に論じられるという不思議は、青山さんが「共振」としているものに近い。

青山さんは、快楽、欲求の充足、客観的な人生のよさ、といったものは、しばしば、人生のなかで共振するように同時に満たされるものであり、それが幸福に何らかのかたちで関わっているとする。海で溺れる人を見つけて無我夢中で海に飛び込み首尾よく助けたとき、その人は客観的に善いことになるし、人を助けたいという欲求は充足できるし、ある種の快楽も感じているに違いない。これが共振である。そんなドラマチックな場面には遭遇しない僕であっても、仕事をしたり、家事をしたりといった日常の場面を思い起こすだけで、この共振説には正しさが含まれていると感じる。

同様に、僕が、奥さんと納豆を比較するとき、奥さんと納豆は共振しているとも言えるのではないか。納豆パックを持った奥さんが崖から落ちそうなとき、空腹な僕の前に奥さんと納豆が同時に現れたとき、奥さんと納豆は共振している。更に僕自身を付け加えるなら、僕と奥さんと納豆はひとつの場で出会い、そこで共振しているのだ。

なぜそれを共振と呼ぶのかと言えば、そこには、同じ時に同じ場所で出会っているという偶然があり、あえて言い換えるならば奇跡が介在しているからだ。今ここで世界と出会うという人生のあり方は奇跡である。

この奇跡と同じ種類のことが起きているからこそ、青山さんの共振が生じるのではないか。なぜか人は、人助けのような客観的に善いことをしたいという欲求を持ち、それが充足されると快楽を感じるというようなあり方をしている。人助けという一場面において、快楽と欲求の充足と客観的な善さが同じ時に同じ場所で重なり合っているということは奇跡的なことである。

幸福の共振の奇跡と、人生の出会いの奇跡は同時性、同場所性という奇跡を伴っているという点でつながっている。青山さんが人生の場面ごとの絵と表現したように人生のなかには無数の全く独立した今がある。ここでの奇跡とは、それらを束ね、ひとつながりの人生として捉えるという奇跡である。そして(永井的な意味で)全く自分とは異なるものである他者を自分と同じ人間として捉えて、自分と他者とを世界という同じ場所のなかに位置づけるという奇跡でもある。そのような奇跡が共振を生み、共振こそが幸福を生んでいるのかもしれない。

青山さんは絵に例えたけれど、僕ならばそれを物語と呼ぶのだろう。奥さんの物語と納豆の物語が出会うという奇跡は、言い換えるならば、それらが僕の人生というひとつの物語のなかに描かれるという奇跡であり、僕が生きているという奇跡である。それは時間や世界といった説明のつかないものがなぜか構成されているという奇跡だと言ってもいい。

このように時間・世界のあり方と幸福とを関係付けると、僕が述べていることと、青山さんが第7章で書いていることとはかなり接近していくように思う。

4 恋愛のようなもの

だけど、このような論じ方は、青山さんの師匠である永井均さんならば、つまらないと一刀両断するのではないだろうか。このようにして見いだされた幸福は劣化版の幸福であり、いわば堕落への道である。今ここの私、実は私とすら呼べないような私こそが全ての一丁目一番地であり、これを手放すということは、一見何も手放していないように見えて、実は全てを手放してしまったということである。

青山さんもそのことは気づいている。だから、実質的な最終章である第6章の最後において、それまで描いてきた幸福とは全く異質な「恋愛のようなもの」という幸福が描かれている。これはつまり刹那的な恋のような幸せの姿である。過去や未来の自分など顧みず、他者や世界のことなど意に介さない、ひたすら今ここの私の情熱だけに支配された状況である。それは幸せというより、それしかない必然といったほうがぴったりくるのかもしれない。ただ僕は恋に堕ちるしかない。そのような幸福が確かにある。

だから「恋愛のようなもの」とは刹那的で、その言葉のなかには、若気の至りのような破壊的な薫りがある。だけど刹那とは、実は、仏教用語でもあり、「恋愛のようなもの」はマインドフルネスにもつながる。今ここの刹那だけを捉えようとすることではマインドフルネスも一夜の恋と似ている。このように描写される幸福とは、一夜の燃えるような恋愛のようでもあり、マインドフルネスや瞑想のようでもある。

第7章を読むまで気づかなかったが、青山さんは、幸福を共振というかたちで捉える方向で論ずる一方で、この別種の幸福を通奏低音のように本全体に潜り込ませていたようだ。つまりこれは、快楽・欲求の充足・客観的な良さの共振とは別のかたちではあるが、メインルートで描かれた幸福と、恋愛のようなものであるもうひとつの幸福という二つの幸福の間の共振のようなものがあるということを描こうとしていたのではないかとも思う。つまり、全く異なる二つの幸福がなぜか不思議と絡み合うという奇跡を通じて、幸福が創造されているということを言いたかったのかもしれない。青山さんがそのように考えているかはわからないけれど、僕はそれに同意したい気もする。

5 さいごに

ここまでの僕の読解と、そこから進めた独自の考察の詳細が正しいかどうかはわからない。だけど今の僕には、どうも、幸福というものは、すでにあるものを見出すような類のものではなく、全く異なるものが出会うという奇跡を通じて創造されるものではないか、という予感がある。これは、この本を読んだ収穫だと思う。

そう考えると、この本全体の散漫さは、意図的なものだったのかもしれない。いくつかの話が一見関係なく撒かれたうえで、最後に一気にひとつにまとまり、伏線を回収していくようなつくりをしていたということだ。そのようにすることで、異種なるものの出会いという奇跡を体現していたのかもしれない。

僕はあえて一度しか読まずにこの文章を書いているけれど、この本はきっと二度読むべき本なのだろう。

株と数

1 はじめに

多分、哲学において「数」をどのように扱うかは大問題だ。たしか、ウィトゲンシュタインは数を操作の回数とみなしていたと思う。多分哲学史的には他にも色々なアイディアがあるのだろう。だけど僕はあまり興味がなかったので、なんとなく数とは言葉の一種だという程度に考えていた。

だけど、数日前、ふと、数と言葉の違いについて思いついたことがあるので、ここにメモとして残しておく。

2 株式投資

これは株式投資をきっかけに気づいたことなので、まずは僕にとって投資とはどのようなものなのかについて、少し触れておこう。

僕は哲学のほかにも色々と好きなものがあるのだけど、そのひとつが投資だ。他の趣味に比べれば必要だからやっているという側面が強いけれど、投資はゲーム性があって結構楽しい。

投資には大きく3つのスタイルがある。デイトレードと言われるような一日で完結する売買を行う短期タイプ。数日から数ヶ月、2、3年といった期間を見据えて売買を行う中期タイプ。そして数年から数十年間、同じ株を持ち続けるような長期タイプだ。期間が短くなるにつれて負担が大きくなるので、仕事や哲学で忙しい僕はもっぱら長期タイプだった。

だけどふと、もう少し短期で投資をしてみようと思い立った。僕はいわゆるアラフィフなのだけど、僕がいつまで働かなければならないかは投資の成果次第だということに気づいた。僕は仕事が嫌いではないけれど、人生の残り時間を考えると、仕事よりも哲学をする時間を確保したい。それならばもう少し頑張って投資してみてもいいのではないか。そんな焦りにも似た気持ちがあったのだ。

焦りから始める投資はたいていうまくいかない。だけど、失敗してもいいからとにかく一回やってみないと焦りを消すことはできない。成功すれば儲けものだし、失敗しても心の平穏を回復できる。そんな気持ちで僕はアメリカの株を少し買ってみることにした。

あえて値動きが激しそうな銘柄を買ったから、1日で1割ぐらいは平気で上限する。となると当然株価が気になる。なんとなく一日中ソワソワした気持ちになる。だって1日の値動き幅は、今日一日の労働分くらいあるのだから気になるのは仕方ないだろう。僕はパチンコとかはやらないけれど、こんな感じなのかな、と思う。

僕が「数」というものについて考えをめぐらした背景には投資にまつわるこんな事情がある。

3 数による幸せの表現

つまり僕が考えた「数」とは刻一刻と動く株価のことだ。

僕がその数字が気になり一喜一憂するのは、その数が幸せとでも呼ぶべきものを象徴しているように感じているからなのではないか、と気づいた。

株価以外の数でもいいだろう。時事ネタ的には、コロナの感染者数でもいいだろう。毎日変動する新規感染者数の数は、この国がどのくらい幸福で、どのくらい不幸かを指し示している。

当然、僕の幸せは株価だけでは測れないし、日本の幸せはコロナだけでは測れない。だけど、その数が幸せのある側面を捉えていることは確かだと思う。

4 言葉による幸せの表現

なお、幸せの表し方は他にもある。それは言葉を使ったやり方だ。例えば、「大坂なおみが全豪オープンで優勝した。」という言葉はある幸せを描写しているだろう。僕ならば「スリランカを旅行した。」という例文がいいかもしれない。

数を使って表された幸せと言葉を使って表された幸せはどこか違う。

例えば僕がアップル株を持っていたとしたら、(2021.3.9現在)116ドルであった数字が、120、130・・・と変動していくことで(金銭的な)幸せを表現することができる。逆に116という数字を110、100、90・・・と変動していくことで不幸を表現することができる。つまり数で表現された幸せは、不幸も幸せも程度問題である。

一方で、「スリランカを旅行した。」という言葉で表現された幸せは、旅行に行くか行かないかの二択であり、程度問題は生じない。その中間に熱海旅行がある、というようなことはない。

念のためだけど、これは幸せの種類の問題ではない。株価上昇の幸せは金銭という低俗な幸せであり、旅行は精神的で高尚な幸せだ、というようなことではない。例えば僕の幸せには「がんになってから5年間再発しなかった。」というものがある。この幸せは明らかに数で表されるもので、1、2、3、4と年数が増えていくごとに、幸せも徐々に増加していくような類のものだ。この幸せは数で表すことはできるけれど、それほど低俗ではないと言えるだろう。一方で、もうひとつの僕の幸せである「(結婚している)僕が、きれいな女性にホテルに行こうと誘われる。」という願望の描写は、言葉で表現されるものではあるが、かなり低俗であるに違いない。

つまり、どちらが高尚でどちらが低俗か、といった問題とは別に、幸せの描写の仕方には、程度問題として数による表現と、幸・不幸の二者択一的な言葉による表現との二通りがあるのだ。

5 両者の比較

僕自身の数による幸せの表現の二つの例、つまり株価とがんの手術後の経過期間を思い起こすと、どうも、そのような数による表現に囚われているときはどこか余裕がなくて幸せではなかったような気がする。

毎日、株価の変動を見て一喜一憂していると、ほかのことを考え、感じる余裕がなくなる。がんの術後5年経過したことに気づいたときは、嬉しさとともに、再発の可能性も僕の心を大きな場所を占め、がんのこと以外を考えられなくなった。

一方で、「スリランカを旅行した。」という幸せな言葉は、僕に、幸せな思い出以外の何も呼び起こさない。幸せな言葉は、ただ幸せな気分を運んでくるだけで、それ以外の何者も連れてこない。(もし「友人をひどい言葉で傷つけてしまった。」というような不幸な言葉であれば、僕の心は後悔でいっぱいになり、他のことを考える余裕が奪われるかもしれない。だけど、幸せな言葉であれば、そのような問題は生じない。)

また、数字を抜きにして、「株価が上昇して儲かっている」や「がんが長期間再発していない」という言葉による表現に留まるのであれば、その裏にある数字に思い至らない限り、僕の心の余裕が奪われることはない。

そのように考えると、言葉による表現に比べ、幸せを数値で表現することは、あまり得策ではないようだ。

6 数の精緻さ

数による表現にこのような特徴があるのは、言葉による表現に比べて数による表現には精緻さがあるからなのだろう。

ただし言葉でもこのような精緻さを求めることはできる。例えば、同じスリランカ旅行であっても、ヘリタンス・カンダラマ(という立派なホテル)に泊まる旅行と、その近くの中級ホテルに泊まる旅行とではどっちがいいか、などと精緻に比較することはできる。そのように精緻に比較し、スリランカ旅行の幸せの主要素はヘリタンス・カンダラマに泊まったことにあったのだ、だけどヘリタンス・カンダラマのなかでも普通の部屋に泊まるよりもスイートルームに泊まったほうが幸せだったはずだ、などと精緻に分析することは可能である。

だが、そのような作業をすることは端的に言ってつまらない。幸せが台無しになった気分さえするだろう。もしこのような作業に没頭する人がいるとしたら、その人の心は、幸せではない何かで占められ、余裕がない状況になっているに違いない。

これは数字による幸せの表現と同じことである。アップルの株価が150円になることは、149円よりもよいが151円になるよりも悪い、などと比較して考えているのと同じことである。

つまり、言葉による表現であっても、数による表現であっても、それが精緻なものとなったときに、幸せと相性が悪くなるということだ。

ただ、数による表現とは、そもそもこのような精緻な比較を行うもの出あらざるを得ないから、根源的に幸せの描写に向かないということなのだろう。

7 視点の固定

ここまで幸せを言葉や数で比較することができるという前提で議論を進めてきたが、そもそも幸せを比較するというアイディアには日常の実感に基づく有力な反論がある。

その反論とは、高級ホテルに泊まったか泊まらなかったかで、旅行全体のありようが変わってしまうのだから、高級ホテルに泊まった場合の幸せと泊まらなかった場合の幸せとをきれいに比較することなどできない、というものだ。シギリアという街で高級ホテルに泊まったことで、次にキャンディという街で泊まったホテルが褪せて見えてしまうかもしれない。そのような影響があるのだから、全体のある部分のみを取り出して比較することなどできない。

また、アップル株で100万円儲かった場合と、1億円儲かった場合とではお金の意味が変わることもありうる。100万円ならばただ嬉しいだけだが、1億円を得ることで労働を通じた達成感を得られなくなってしまうかもしれない。1億円には100万円の100倍という数字上の意味以上のものがありうる。だからそれらを単純に比較することなどできない。

これらはいずれも、比較を可能にする固定的な視点を持つことなどできない、という反論だと言えるだろう。スリランカ旅行を構成する他の要素を固定した視点に立ち、高級ホテルに泊まった場合と泊まらなかった場合を比較することはできないし、人生の他の要素を固定したうえで株での利益だけを操作して比較することはできない。

僕はこの批判はもっともだと思う。だが、数による表現は、このような批判を無化してしまうだろう。なぜなら数が行っているのは単なる比較ではなく、精緻な比較だからだ。数が表現しているのは株価が150ドルから151ドルになるという微妙な値動きであり、そのようなわずかな株価な違いが人生の他の部分に影響を与えることなどない。150ドルなら仕事への影響はないが、151ドルになったとたんに仕事のやる気を失うなんていうことはないだろう。さきほど100万円と1億円で大きな違いがあるように見えたのは、大きく数を変えすぎたからなのだ。数を丁寧に用いるならば、他の部分は変えず、ただ数だけを操作し、比較することが可能になる。これが数というものの力なのではないか。つまり、数が精緻な比較を行うことができるということは、つまり、数には数以外の要素を固定する力があるということなのだ。

8 砂山のパラドクス

僕が行ったような議論には砂山のパラドクスなどと呼ばれる伝統的な反論があるだろう。砂山から一粒ずつ砂を取り除いていっても、それが砂山であることは変わらない。だが、それをどこまでも続けていくと、最後には砂が一粒だけ残るだろう。それは砂山とは呼べない。いつ砂山は砂山でなくなったのだろう。というパラドクスだ。

アップルの株価が1ドルずつ値上がりした先には、いつか1億円の儲けがあるはずだ。そのとき、株価としての数字は、僕の人生を大きく変えるだろう。では、株価がいくらになったときに僕の人生は変わったのだろう。

多分、パラドクスと言われるだけあって、これには答えはないのだろう。

きっと、そもそも、幸せを数で比較するようにして把握しようとしたこと自体に問題があるのではないか。

アップル株が116ドルから200ドルになれば100万円儲かるぞ、と僕が期待しているとき、僕にとっての200ドルとは、単なる数字ではなく言葉なのだ。いわば、このときの200ドルとは、「200ドルに値上がりして100万円儲かればまた海外旅行に行けるぞ。」という言葉が紡いだ物語の一部としての200ドルに過ぎない。だから、そこには199ドルと比較した200ドルというような視点は介在のしようがない。

9 数字との幸せな付き合い方

以上の話は、幸せは比較できるものではない、という単純な話に行き着くだろう。

だから、精緻に比較するという特性を有している数字を幸せの表現においては用いるべきではない。お金は大切なもののはずなのに忌み嫌われがちだというのはこのあたりが原因なのだろう。きっと賢い人は、お金というのは、手元にあり、かつ、そこに目を向けないことでようやく幸せになるものだということを知っており、そのような態度を身につけているのだろう。

僕はそこまで至ってないから、せめて株式投資をするにあたっては、どのような運用方針とするかを決めたら、あまり株価はチェックしすぎないようにしようと思う。

10 言葉が持つ反実仮想の力

どうも幸せを数で表現することはまずいということがわかったが、言葉で表現することは問題ないのだろうか。

残念ながら、言葉には反実仮想を立ち上げる力がある。つまり、「スリランカを旅行する。」という言葉には、「スリランカを旅行しない。」を立ち上げる力がある。

その両者を比較できるからこそ、「スリランカを旅行しない。」よりも「スリランカを旅行する。」のほうが幸せだということがわかることになる。更には、言葉による描写を詳細にし、「スリランカを旅行して、シギリアでヘリタンス・カンダラマに泊まる。」と表現することで、「スリランカを旅行して、シギリアでヘリタンス・カンダラマに泊まらない。」を立ち上げることもできる。だから、両者を比較してヘリタンス・カンダラマに泊まったほうが幸せだと言えることとなる。

だがこれは、明らかに、これまで避けようとしてきた、比較による幸せの把握の道だろう。言葉により精緻に描写するという道筋も、明らかに幸福と反りが合わない。

11 マインドフルネス

だが、どうすればいいのだろう。スリランカ旅行という幸せな思い出にアクセスするためには、スリランカ旅行という言葉を用いる必要があるのは明らかだろう。また、タイ旅行という幸せになるだろう将来計画を立てる際にも、タイ旅行という言葉を用いる必要があるに違いない。幸せを見出すためには幸せにつながる言葉を用いざるを得ない。

多分、幸せにアクセスする言葉を使いつつも幸せになるためには、反実仮想を立ち上げずに、言葉をただ表現されたものとして扱うという特殊な技術が必要となるのだろう。僕の予想だと、その技能とは、マインドフルネスと呼ばれるものであるはずだ。表現された言葉をただ表現されたものとして扱う。そのような道筋にしか言葉を通じた幸せはないように思う。

なお、マインドフルネスまで持ち出すならば、数を通じた幸せも可能となるのではないだろうか。116ドルから117ドルへの値動きをただマインドフルに受け止める。そうすれば、一日中株価ばかり見ていても幸せになることはできるに違いない。きっとデイトレーダーに向いているのはそのような人であるのだろう。

当然僕はそこまで鍛えられていないから、僕の投資は、何十年の長期投資と数年の中期投資を組み合わせるくらいに留めておきたい。それとも、マインドフルネスのトレーングのためには、もう少しがっつりやったほうがいいのかな。

ヒュームとデカルトとライプニッツ 哲学的議論の限界と哲学的議論における時間

0 はじめに

哲学オンラインセミナーというところがやっている「澤田和範『ヒュームの自然主義と懐疑主義:総合的解釈の試み』合評会」(https://www.philosophyonline.net/archive2021)というオンラインイベントを視聴した。まだ本を読んでいないなか、なんとなく視聴したのだけど、色々と考えさせられたのでメモに残しておくことにする。

本来はきちんと本を読んでから書いたほうがいいのだろうけれど、今ここで思いついたことを残しておきたいので、不正確だとはおもうけれど、あえて今書いておくことにする。

この合評会は、ヒューム研究者である澤田和範さんの本を、デカルト研究者である筒井一穂さんとライプニッツ研究者である三浦隼暉さんが論じるというものだった。だからこの文章も、ヒュームとデカルトとライプニッツという近代の有名な哲学者3人についてのものとなる。さすがに僕もなんとなくは彼らのことは知っていたけれど、その程度なので、きっと哲学史的には誤りだらけの文章となるだろう。

1 哲学的議論の外側と内側

ヒュームは懐疑主義者として有名だが、自然主義者として読むこともできるというのが最近の有力な読み方だそうだ。そのうえで、澤田さんは懐疑主義と自然主義の双方の観点から従来のヒューム解釈を深化させることにより、両者を接続することができると提案する。

そこで重要となるのは、ベタ(一階)とメタ(二階)という議論の区分だ。非常にざっくりと言うと、ヒュームはメタ的な議論では懐疑主義を用いて、ベタ的な議論の場では自然主義を用いるという使い分けをしている。僕はそれを、僕自身の用語である外側と内側というキーワードを思い浮かべながら聞いていた。ヒュームは哲学の外側の視点に立ったときには懐疑主義により哲学的議論の意義を否定するけれど、内側の視点に立ったときには自然主義的な立場から議論を行うことの意義を認めている、というように。

2 哲学的議論の内側から外側に突き抜けるということ

(1)ヒュームの場合

では、どのようにしたら哲学的議論の内側から外側に突き抜けるなどといったことができるのだろうか。ヒュームによればそれは懐疑論による、ということになるのだろう。

なお、懐疑論となると、今回の主役のひとりである方法的懐疑で有名なデカルトが登場することになる。だが澤田さんによれば、ヒュームとデカルトではその懐疑の種類が異なる。その違いは色々とあるようだが僕が着目したのは、デカルトの懐疑は「悪霊が騙しているのかもしれない」というような根拠がないものであるのに対して、ヒュームの懐疑には根拠があるという点だ。

澤田さんから具体例は示されなかったけれど、僕は、ヒュームの懐疑について「渋谷のスクランブル交差点でライオンを見かける」という例を思い浮かべた。このとき、僕の知識は「渋谷にライオンなんているわけがない」と言う。一方で僕の視覚は「確かにライオンがいる」と僕に訴えている。この二つの主張は対立していて矛盾だ。ヒュームはこのような問題を踏まえ、人間本性(僕の解釈では知性)には限界があると考えた。人間本性(知性)ではこの対立関係を解消できないのだ。澤田さんのヒュームによれば、人間本性(知性)はその判断のプロセスを論理的に明らかにすることはできず、いわば自動化されているのだ。(それをモジュール論と言っていたけれど、ブラックボックスと言ってもいいのだろうか。)

ヒュームは、このような実例を踏まえた人間本性(知性)に対する懐疑をもってメタ的な視点に移行する。つまり、この知性に対する懐疑を哲学の営み自体に適用し、哲学という営みを外側から眺め、哲学の営み自体を懐疑するという視点に立つ。

以上が、僕が理解したヒュームの内側から外側への移行だ。つまりヒュームは哲学を遂行する知性に対する具体的な根拠のある疑義に基づき、懐疑論という外側の視点に移行する。

(2)デカルトの場合

次にデカルトの場合はどうだろうか。

筒井さんのデカルトは、「神の視点からの懐疑」という問題を提起する。ここでの「神」という言葉は、そのまま「外部の視点」と置き換えてもいいだろう。外部の視点からは、三角形の内角の和は180度であるというような常識さえ否定される可能性が開ける。なぜならば幾何学のような通常の議論によっては議論の外部の視点に到達することはできないのだから。

唯一、神の視点からの懐疑というような懐疑論だけが視点を議論の内側から外側に移行することを可能にする。懐疑論を用いるという点はデカルトもヒュームと同じである。

だが興味深いことに、筒井さんによれば、デカルトは「規範的な独断論」とでも呼ぶべきものにより懐疑論を無化することに成功するのだ。デカルトはメタ的な外側の視点に立った議論を行ったうえで、非Aが成立するような有効な主張ができないことをもってAを疑えないとする規範を導入し、その規範をもって懐疑論を否定する。僕はこの「規範的な独断論」は懐疑論にとってかなりの有効打だと思う。Aを疑うためには非Aを主張しなければならないという議論には、何かしらの正しさが含まれているように思う。

だが僕は「規範的な独断論」が使われる場所に修正を加えたい。デカルトは、議論の外側に立ったうえで何かを否定しているのではなく、議論の外側に立つこと自体を拒否しているのではないだろうか。いわば、デカルトが行っていることは神の視点に立ったうえでの「神の視点からの懐疑」の否定ではなく、神の視点に立つこと自体の拒否なのではないだろうか。デカルトは、懐疑論を使って議論の内側から外側に視点を移そうとする人の首根っこを捕まえ、「おい、その懐疑は成立していないのだから、お前には外側の視点に立つ権利なんてないぞ。」と言っているのではないだろうか。

もしそうだとするならば、デカルトはどこまでも議論の内側に立ち続けるような議論を行っていたということになる。

(3)ライプニッツの場合

最後にライプニッツならばどうだろうか。

正直、話を聞くまでは、懐疑論のヒュームと独断論の権化のようなライプニッツでは異種格闘技すぎて戦いが成り立たないように思っていた。だけど、三浦さんの話を聞いて、そうでもなさそうだと感じた。

三浦さんの話で面白かったのは、ライプニッツには二つの循環があるという話だ。循環のひとつめが、ヒュームに寄せるならば、仮説演繹法を一例とするような自然主義的循環である。仮説は実験により検証され、実験をもとに仮説が打ち出される、というように仮説と実験との間を行き来する動的な円環として描くことができるような循環である。もうひとつが、その自然主義的円環を拡張するようにして描くことができる形而上学的循環である。当然ライプニッツなのだから、ここでの形而上学としてはモナドなどが想定されている。

まず重要だと思ったのは、ライプニッツの形而上学は単なる無根拠な独断ではないということだ。あくまでライプニッツは自然主義的循環を拡張するようにして形而上学的循環を描こうとしている。その根底には自然主義的な正しさがあるのでなければいけない。

更に重要だと思った点は、この循環は動的なものである、という点である。自然主義的循環においては間違った仮説は実験により淘汰されるように、形而上学的循環も誤りがあれば見直されなければならないのだ。ライプニッツによればその主張は見直される可能性が将来に開かれているという点で単なる独断ではなく、あくまで仮説に過ぎない。だから、形而上学的な議論は循環を繰り返す中で真理に漸近していくものであるということになる。そこまで考えるならば、ライプニッツと、哲学を将来に向けた「人間の学」と捉えるヒュームとの間に大きな違いはないように思えてくる。

更にライプニッツについて述べるならば、三浦さんは全く言っていないことだが、ライプニッツの循環の拡大は、形而上学的循環を超え、その循環を支える斉一性のような原理にも向かいさえするのではないか。このようなメタ形而上学を可能とする道具立て自体も動的な循環に巻き込まれ、メタ形而上学的循環とも呼ぶべき更に大きな循環にさらされることになるのではないか。つまり例えばこれは、斉一性は本当に形而上学において必要か、というような議論を行うことが可能だということであり、そのような議論を通じて、新たなメタ形而上学的な仮説を得ることもありうるということである。

そのようにライプニッツを考えていくと、ライプニッツには議論の外側のメタ的な視点はありえないということになるだろう。なぜなら、ライプニッツの道筋をとる場合、いつまでも哲学的議論の限界には行き着かないからだ。もし哲学的議論自体の正当性に疑問を呈するような懐疑があったとしても、その議論は懐疑論として打ち止めになるのではなく、自然主義的循環から形而上学的循環へ、形而上学的循環からメタ形而上学的循環へと拡張される議論の枠組みのなかで議論が成立できてしまう。だからライプニッツはどこまでも内部に留まって議論でき、いつまでも外部に突き抜けることはない。これはデカルトやヒュームとは別の議論の内外の処理の仕方だと言えるだろう。

(4)ヒュームの場合2

以上、僕からみると、ヒュームもデカルトもライプニッツも、三者三様のかたちで哲学の議論の内側と外側の問題を処理しているように思える。つまり、「その哲学的議論の外側の視点に立つならば、その議論の正当性をどのようにして確保するのか。」という問題に、3人ともがうまく答えているように思うのだ。デカルトとライプニッツは「外側の視点に立つことはできない。」と答え、ヒュームは「確かに外側の視点から見るとおかしいけど、内側から見るとおかしくないから大丈夫。」と答える。

どれも魅力的な答え方だけど、ヒュームの答え方は少々特殊だし、澤田さんによれば、もう少し付け加えることがありそうだ。

本をまだ読んでいないけれど、澤田さんがやりとげたヒュームの自然主義と懐疑主義の接続とは、単に、自然主義を議論の内側に割り振り、懐疑主義を議論の外側に割り振るようなものではなかったようだ。想像だけどそこには、自然主義と懐疑主義の循環とでもいうべきものがあるのではないだろうか。

僕が、そこにいるはずのないライオンを渋谷のスクランブル交差点でみかけることにより、僕の命とともに僕の知性は懐疑に晒される。そこで行われていることは常識的な判断という意味での自然主義から、知的な混乱とでもいうべき懐疑主義への移行の第一歩である。さらに、その懐疑主義を徹底することにより、僕は、どうも知性は当てにならないから全ては疑わしいという懐疑主義に移行する。ここで僕は懐疑に晒された知性を見下ろし、その議論を疑わしいものと評価できるような外部の視点に立つこととなる。だがきっと僕はそのおかしさにすぐに気づくだろう。僕は外部の視点から、何に基づいて自らの知性をジャッジしているのだろうか、と。そして僕は疑わしい知性に基づき、疑わしい知性を見下ろし、何かを判断していることに気づく。だがもう一つ重要なこととして、そのようにやっていくしかないということに気づく。僕は不完全な知性を抱え、それだけを武器になんとかやっていかなければならないし、現になんとかやっているのだ。そこには現に僕はそのようにして生きているという常識的な捉え方があり、それをヒュームは自然主義と呼んでいるのではないか。(現にうまくやっているという観点を強調することでルイス・キャロルのパラドクスにも答えることができることになる。)

ここには明らかに常識的な日常生活と不完全な知性との間の循環がある。そして、ヒュームは前者に対する眼差しを自然主義と呼び、後者に対する眼差しを懐疑主義と呼んでいるのではないか。自然主義に対して懐疑主義が優勢になったとき、僕は渋谷でライオンに驚き、議論の外側の視点に移行する。そして懐疑主義に対して自然主義が優勢になったとき、僕は外側の視点さえも不完全な知性によって確保されていたことに気づき、議論の内側の視点に移行する。そのような動的な循環によって、ヒュームの議論は成立しているのだ。いわばヒュームは一瞬、議論の外側に突き抜け、そこ立つことは認めるけれど、そこに立ち続けることは認めないことで、なんとか議論の外側という視点を確保しているとも言えるだろう。(この一瞬性を別の言葉で表現すると、否定するのではなく判断を保留するピュロン主義的姿勢ということになるのだろう。つまり一瞬だから更なる議論を行うことは認めないということになる。)

3 議論領域

ここまで哲学的議論の内と外という問題を論じてきたけれど、内と外を分かつ境界線のことを、議論領域と言ってもいいだろう。

それならば、デカルトもライプニッツも議論のなかで議論領域の外に立つことはできないという当たり前のことを言っているにすぎず、ヒュームは議論領域の外に立ち続けることはできない、という少々野心的なことを言っているということになる。

そこだけ捉えるならば、実はあまり複雑なところはないのに、一見、問題が複雑なように見えるのは、哲学者により、その議論領域として設定する範囲に違いがあるからなのだろう。例えば今回の登場人物のなかでは、ライプニッツとデカルト・ヒュームの間には議論領域の捉え方に大きな違いがある。具体的には、いわゆる自然主義的な検証に晒されないという意味で形而上学的な領域をどの程度認めるかという点で大きな違いがある。だから、デカルト・ヒュームから見ると、ライプニッツはあたかも議論領域の外についての議論を行っているように見えてしまう。だが正確には、ライプニッツはただ自らの議論領域の内側の議論を行っているにすぎないのだ。だからこそモナドロジーを取り入れて従来の議論を見直すこともある。そのようにして形而上学的な議論は深化していくものなのだ。

なんとなく、英米の哲学と大陸の哲学の違いはこのあたりに由来しているように思う。だから議論領域という観点からのすれ違いは哲学史的に根深いものがあるように思える。(僕がヒュームとライプニッツの関係がわからなくなり、変な質問をしてしまったのもこのあたりが理由なのだと思う。)

4 哲学的議論における時間

議論領域について考えるうえで着目したいのは、内側と外側という観点と、もうひとつ時間的な観点だ。

ヒュームは明らかに今現在を重視した時間的な視点に立っている。だからこそ澤田さんも指摘していたように、不完全な知性に基づくものであっても、哲学という営みはなんとか漸進していくことができる。

僕は確かに渋谷でいるはずのないライオンを見てしまった。だけど僕はその後で、それが精巧な作り物であることに気づいたり、動物園から逃げてきた本物のライオンであることに気づいたりするだろう。そうして僕は(命があるならば)自らの知性への信頼を回復することができる。今現在においては僕の知性は確かに不十分なものかもしれないけれど、将来に向かっては、知性には十分なものとなる可能性が開けているのだ。

一方でデカルトは無時間的な視点に立っていると言っていいだろう。デカルトは無時間的なかたちで未来の視点を先取りすることにより、知性はライオンが作り物であると知ることができると主張する。無時間的な土俵のうえで知性を理想的なかたちで展開しきったうえで、それでも具体的な疑いを差し挟むことができないならば、それは「真とみなす」べきであるとする。そのことにより、豊かな哲学領域を確保することを可能とするのだ。デカルトはいわば、ヒュームが目指す将来の理想的な哲学を先取りし、予言していると言ってもいいだろう。

最後にライプニッツならばどうだろか。ライプニッツの場合にはモナドのような無時間的な道具立てが多いから、一見、無時間的な視点に立っているようにも見える。だが僕は、この3人のなかで最も時間的な視点に立っているのがライプニッツのように思う。なぜなら、彼の議論構造は、三浦さんによるならば、どこまでも循環的で動的だからだ。彼の主張が単なる独断論に陥るのを救っているのは、その主張が未来において否定される可能性を確保しているからだ。ライプニッツの主張とは仮説であり、いつでも乗り越えられるべきものである。その意味で、懐疑主義と自然主義だけは手放すことができないヒュームよりも一層、時間的であると言えるだろう。(懐疑論者は懐疑論に反対するものを独断論として拒否し、ただ懐疑論だけを抱え込むことになる。その意味では懐疑論とは、ある面では新たな議論・主張を拒否するものである、と言えるかもしれない。つまり懐疑論こそが独断論ということになる。)

このように、無時間的なデカルト、かなり時間的なヒューム、更に時間的なライプニッツというように三者三様の特徴があるように思う。(そのように考えると、筒井さんはヒュームにとって哲学は必要なのか、という問いを立てていたけれど、デカルトのほうが、もう哲学は必要ないと言えるかもしれない。)

5 ヒュームの魅力

このように考えると、比較的単純な構図を描くことに成功しているデカルトとライプニッツに比べ、ヒュームはかなり苦労してなんとか帳尻を合わせているように思える。

きっとそれは、デカルト・ライプニッツに比べてヒュームには、哲学の限界という問題意識が強くあったからなのではないだろうか。だからこそ、そこに注目し、哲学の限界を行き来するような議論を行わざるをえなかったということなのではないだろうか。だからヒュームの議論の複雑さは欠点ではなく、真摯さという美点であるとさえ言えると思う。

実は僕も似たような問題意識を持っている。だから僕はヒュームについて知りたくなった。例えば、澤田さんが、ヒュームは仮説演繹法的で二重過程理論的なことを考えていたというのは興味深い。僕の理解では、これは、ある問題に答える際には、まず直感によりとりあえず答えにあたりをつけたうえで、更に解像度を高めて答えを捉えるため、その過程を吟味して考察するというものだ。僕は探求のパラドクスに興味があるのだけど、如何にして人は知らないものを知るのか、という問題に答えるためには、このようなアプローチしかないように思える。このようなアイディアをもっと吸収したい。

ということで、そのうち澤田さんの本も読んでみようと思う。そうしたら、この文章を書き換えることになるかもしれない。