0 はじめに

青山拓央さんの『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を読んだ。

この本は、ネタバレ的に青山さん自身がこの本の裏の意図を解説する第7章があるのだけど、この文章に書かれていることは、そこまで読み進む前に思いついたことだ。実際には、最後まで読んだあとで書いているので、第7章の影響も受けてはいる。けれど、第7章とは別に僕が考えたことだということはご承知いただきたい。

なぜそんな断りを入れるのかというと、この文章で書くことは、第7章で青山さんが言っていることとかなり似ていて、少し似ていないからだ。第7章を読まずにこの文章を読むならいいけれど、第7章をすでに読んだ方は、どこが僕のオリジナルの部分なのかがわからなくなるかもしれない。

僕は、この本を最初から順に読み進めたのだけど、終盤まで、正直、まあまあな本だな、という感じだった。ネタとしては興味深いものもあるけれど、ものすごく惹かれる訳でもなく、ただ軽く読めるエッセイという感じだった。どこか散漫な感じがしたのだ。

だけど6章も後半になってからは俄然盛り上がってきた。僕は高校生の頃「いかに生きるべきか。」という問題を考えていた時期があったのだけど、そのときの僕に読ませてあげたいと思った。

この文章を書いたのは、その盛り上がりを書き留めておきたかったからだ。この本に触発されて考えたことを残しておきたくなったからだ。

1 軽い選択

(1)日々の軽い選択

僕の高校生の頃の悩みは、一言で表すと「僕は、いかに生きるべきか。」という問題だった。だが、より正確には、「僕は、ある行動をとること(例えば、友達に話しかけること)は正しいことなのか。」と表現したほうがよかったのかもしれない。

僕が人生で進む道は二つに分かれている。ステーキをレアで焼くか、ウェルダンで焼くか、という青山さんの例のように。だがより典型的には、平叙文と否定文で対比したほうがいいだろう。高校生の頃の僕が友達に話しかけるか、それとも話しかけないか、肉食をすべきか、肉食をすべきでないか、というように。人は言語を用い否定形を使用できるからこそ、人生の至るところに分岐を見出すことができるのかもしれない。

では、そのようにして見出した二つの道をどのように選択するのか。青山さんはそこで、「軽い選択」というやり方を提案する。ステーキだと重い選択になるかもしれないので、納豆を例とするなら、僕は毎日、納豆にカラシを入れるかどうかを選択している。基本、僕は入れないほうが好きなのだけど、時々、なんとなくカラシを入れることもある。僕にとって納豆・カラシ問題は軽い選択だ。青山さんによれば人生はそんな軽い選択に満ちている。だから、幸福についてはあまり大上段に捉えず、軽く捉えたほうがいい、ということになる。

僕はこのことを、高校生の僕に伝えたいと思った。彼(つまり高校生の僕)が中年の僕からこの話を聞いてどう思うかはわからないけれど、(たぶんきちんと聞くはずがないけれど、)彼がこの話を聞いて肩の力が抜けるといいなあ、と夢想してしまった。

(2)重くて軽い選択

なお、青山さんは結婚や就職といった大きな選択は重い選択であり、納豆・カラシ問題とは別次元だとしている。それは常識的な捉え方だけど、多分正確ではないし、きっと青山さんの本当の考えとも違うだろう。

選択というものは、それがどんなものであっても、一回限りのもので、今ここで行われるという点で違いはない。それならば、軽重をつけることなどできないのではないだろうか。

納豆であっても結婚であっても、今、目の前にある唯一の選択肢であるという点では極めて重い。昨日食べた納豆と今日食べる納豆とは別のものであり、今日食べる納豆は唯一だという点では納豆についての選択であっても重い。一方で、どんな選択も、今ここで選択するしかないという点では極めて軽いとも言える。結婚のプロポーズは、長い恋愛の果てのゴールであって今後の長い結婚生活のスタートだとしても、プロポーズをするのは今ここでの一瞬の出来事であり、一瞬ごとに繰り返される選択のひとつとして埋没してしまう。それならば、そこにあるのは一瞬の軽い選択に過ぎないとも言えるに違いない。

哲学的には、人生における全ての選択は、唯一の極めて重い選択を今ここで軽く行うようなものなのだと言っていいのだろう。そこに別の意味付けをして、軽重をもたせているのは哲学とは関係がないものごとに過ぎない。

ここまで説明すれば、高校生の僕も少しは話に興味を持ってくれるかもしれない。

(3)非哲学的な含蓄

だけど中年の僕は、高校生の僕が興味を失いそうなこと、つまり非哲学的な説教話を付け加えたくなってしまう。

長年生きた実感として、結婚や就職といった重い選択こそ、軽く選んだほうがうまくいく。情報収集などの必要な準備は一通り行うことは当然だ。だが、そのうえで、何かを実行し、実際に選択するときには、肩の力を抜き、自然体でインスピレーションに任せたほうが、たいていうまくいく。人事を尽くして天命を待つとはそういうことなのだろう。最後の仕上げは軽く選び取ったほうがいい。

そんなことも含めて、青山さんの「軽い選択」という言葉には含蓄がある。

2 物語の対比

(1)ウッダートの立体構造的議論

青山さんは、クリストファー・ウッダートの「枚挙的質問」と「説明的質問」の区別と、それらを組み合わせた立体構造的な議論を紹介する。これは、「何」を問題とする「枚挙的質問」と「なぜ」を問題とする「説明的質問」とを組み合わせ、「○○は△△だから幸福の構成要素である。」というかたちで幸福についての諸説を対比するというアイディアだと言っていいだろう。例えば「快楽の体験は主観的に肯定的なものだから幸福の構成要素である。」「金持ちであることは客観的に肯定的なものだから幸福の構成要素である。」というように。つまり、ウッダードの議論においては、何の問題となぜの問題の二つの対立軸があることになり、重層的だから立体構造的な議論と呼ばれることになる。

このような分析の仕方が完全に正しいかどうかはともかく、少なくとも、幸福について、単に「快楽」や「欲求充足」と単語で答えるやり方よりは正解に近づいているのは確かだと思う。幸福の問題とは、きっと、幸福の正体は欲求充足か否かといった二者択一のかたちで論ずることでは捉えきれない。それよりはウッダードのように立体構造的に捉えるほうが実情には近いに違いない。つまり、「幸福において欲求充足が重要ではあるが、それは主観的な理由による。」という主張Aに対して、「いやいや、欲求充足が重要なのは同意するが、それは客観的な理由による。」という主張Bがあり、更には、「客観的な理由が重要なのは確かだが、そもそも、欲求充足ではなく、幸福の客観的リストに合致するかどうかが重要である。」という主張Cが登場する、というような重層的な議論である。

(2)噛み合わない比較

僕の言葉で表現するならば、ウッダードの議論の要点は、幸福についての諸説間の論争は「議論が噛み合っていない」というところにあるのだと思う。幸福の正体は何かという議論はどこか、「僕は、奥さんと納豆のどちらをより好きか。」という問題設定と似たズレがある。僕が奥さんのことを人間として好きだというときの「好き」と、僕が納豆のことを食品として好きだというときの「好き」とは、全く別の「好き」であり、それを比較すること自体がおかしい。同様に、幸福とは快楽である、いやいや客観的な良さである、といったような幸福についての議論には同じようなすれ違いがあるように感じる。セックスのときの性的快楽と健康という全く別なものを無理やり比較するように。

一方で、奥さん・納豆問題と幸福の問題とは、完全にずれている訳ではないという点でも似ている。たしかに僕は、奥さんと納豆のどちらを一般論として好きか、などといった馬鹿げた問題に答える必要はないけれど、納豆パックを持った奥さんが崖から落ちそうになったらどちらかを選択しなければならない。(きっと愛情に基づき奥さんを助けるはずだ。)また、何日も食事にありつけず空腹で死にそうなときに納豆と奥さんが現れたらどちらに駆け寄るかを選択しなければならない。(きっと食欲に基づき納豆に駆け寄るはずだ。)場面によっては、都度、奥さんと納豆を対等に並べ、食欲や愛情といった理由をつけて一度限りの選択をしなければならない。幸福の問題においても同様に、人生の個別の場面においては、健康と快楽のような全く異なるものを並べて、主観的な理由から快楽を選んだり、客観的な理由から客観的な良さとしての健康を選んだり、といったように、噛み合わない比較をして何かを選び取らなければならない。

(3)物語の対比

このような対比の仕方を、僕は「物語の対比」と命名したい。

これに対応するのは「単語の対比」とでも言うべき視点である。僕が奥さんを好きかどうか考えるとき、通常、そこにあるのは「人間(愛情)」というひとつの視点である。僕が納豆を好きかどうか考えるとき、通常、そこにあるのは「食品(食欲)」というひとつの視点である。快楽を感じるかどうかで幸せかどうかを考えるとき、そこにあるのは「快楽」というひとつの視点であり、健康のような客観的な良さがあるかどうかで幸せかどうかを考えるとき、そこにあるのは「客観的リスト」というひとつの視点である。これらの視点は、「人間(愛情)」「食品(食欲)」「快楽」「客観的リスト」というひとつの単語で表現することができ、そこにあるのはその単語のなかでの肯定と否定との対立である。忙しくて話す機会がなくて喧嘩が増えて奥さんへの愛情が薄れて好きでなくなったり、一緒に旅行して愛情を再確認して好きになったり、というように「愛情」という単語のなかで僕の好きは揺れ動くことになる。または食べすぎて納豆に飽きたり、キムチの素を納豆にかけると美味しいことを知って納豆を好きになったり、というように「食欲」という単語のなかで僕の好きは揺れ動く。

だが、異種格闘技戦のように、奥さんと納豆を無理やり比較するならば、そこでの比較は「愛情」や「食欲」といったひとつの単語では収まらない。少なくとも「奥さんへの愛情」対「納豆への食欲」といったように複数の単語を用いる必要があり、更に正確を期すならば「忙しくて話す機会がなくて喧嘩が増えていたけれど、一緒に旅行して再確認した奥さんへの愛情」と「食べすぎて納豆には飽き気味だったけどキムチの素をかけることで再確認した納豆への食欲」とを対比するのでなければならない。これが、僕が「物語の対比」と命名したことの意味である。

幸福についての快楽説も、欲求充足説も、客観的リスト説も、それぞれのドメインのなかでの対比、つまり単語の内部での対比である限り全く問題は生じない。快楽が生じないよりや快楽が生じたほうが幸福だし、欲求が充足しないよりは充足したほうがが幸福だ。だが、それがそれぞれの説の内部での比較から離れ、快楽説vs欲求充足説というように比較されるようになった途端、そこでの対比は「単語の対比」から「物語の対比」に移行する。つまり「脳内物質が生み出す快楽」という物語と、「欲求が充足されることによる社会の平穏」の物語といったような、噛み合わない複数の物語の間での無理やりの対比である。

3 共振

僕は「物語の対比」が無理やりの噛み合わない比較であり問題だ、と言っているのではない。そのような対比こそが重要だとさえ言いたい。

本来一緒に論ずるべきでないものが、なぜか一緒に論じられるという不思議は、青山さんが「共振」としているものに近い。

青山さんは、快楽、欲求の充足、客観的な人生のよさ、といったものは、しばしば、人生のなかで共振するように同時に満たされるものであり、それが幸福に何らかのかたちで関わっているとする。海で溺れる人を見つけて無我夢中で海に飛び込み首尾よく助けたとき、その人は客観的に善いことになるし、人を助けたいという欲求は充足できるし、ある種の快楽も感じているに違いない。これが共振である。そんなドラマチックな場面には遭遇しない僕であっても、仕事をしたり、家事をしたりといった日常の場面を思い起こすだけで、この共振説には正しさが含まれていると感じる。

同様に、僕が、奥さんと納豆を比較するとき、奥さんと納豆は共振しているとも言えるのではないか。納豆パックを持った奥さんが崖から落ちそうなとき、空腹な僕の前に奥さんと納豆が同時に現れたとき、奥さんと納豆は共振している。更に僕自身を付け加えるなら、僕と奥さんと納豆はひとつの場で出会い、そこで共振しているのだ。

なぜそれを共振と呼ぶのかと言えば、そこには、同じ時に同じ場所で出会っているという偶然があり、あえて言い換えるならば奇跡が介在しているからだ。今ここで世界と出会うという人生のあり方は奇跡である。

この奇跡と同じ種類のことが起きているからこそ、青山さんの共振が生じるのではないか。なぜか人は、人助けのような客観的に善いことをしたいという欲求を持ち、それが充足されると快楽を感じるというようなあり方をしている。人助けという一場面において、快楽と欲求の充足と客観的な善さが同じ時に同じ場所で重なり合っているということは奇跡的なことである。

幸福の共振の奇跡と、人生の出会いの奇跡は同時性、同場所性という奇跡を伴っているという点でつながっている。青山さんが人生の場面ごとの絵と表現したように人生のなかには無数の全く独立した今がある。ここでの奇跡とは、それらを束ね、ひとつながりの人生として捉えるという奇跡である。そして(永井的な意味で)全く自分とは異なるものである他者を自分と同じ人間として捉えて、自分と他者とを世界という同じ場所のなかに位置づけるという奇跡でもある。そのような奇跡が共振を生み、共振こそが幸福を生んでいるのかもしれない。

青山さんは絵に例えたけれど、僕ならばそれを物語と呼ぶのだろう。奥さんの物語と納豆の物語が出会うという奇跡は、言い換えるならば、それらが僕の人生というひとつの物語のなかに描かれるという奇跡であり、僕が生きているという奇跡である。それは時間や世界といった説明のつかないものがなぜか構成されているという奇跡だと言ってもいい。

このように時間・世界のあり方と幸福とを関係付けると、僕が述べていることと、青山さんが第7章で書いていることとはかなり接近していくように思う。

4 恋愛のようなもの

だけど、このような論じ方は、青山さんの師匠である永井均さんならば、つまらないと一刀両断するのではないだろうか。このようにして見いだされた幸福は劣化版の幸福であり、いわば堕落への道である。今ここの私、実は私とすら呼べないような私こそが全ての一丁目一番地であり、これを手放すということは、一見何も手放していないように見えて、実は全てを手放してしまったということである。

青山さんもそのことは気づいている。だから、実質的な最終章である第6章の最後において、それまで描いてきた幸福とは全く異質な「恋愛のようなもの」という幸福が描かれている。これはつまり刹那的な恋のような幸せの姿である。過去や未来の自分など顧みず、他者や世界のことなど意に介さない、ひたすら今ここの私の情熱だけに支配された状況である。それは幸せというより、それしかない必然といったほうがぴったりくるのかもしれない。ただ僕は恋に堕ちるしかない。そのような幸福が確かにある。

だから「恋愛のようなもの」とは刹那的で、その言葉のなかには、若気の至りのような破壊的な薫りがある。だけど刹那とは、実は、仏教用語でもあり、「恋愛のようなもの」はマインドフルネスにもつながる。今ここの刹那だけを捉えようとすることではマインドフルネスも一夜の恋と似ている。このように描写される幸福とは、一夜の燃えるような恋愛のようでもあり、マインドフルネスや瞑想のようでもある。

第7章を読むまで気づかなかったが、青山さんは、幸福を共振というかたちで捉える方向で論ずる一方で、この別種の幸福を通奏低音のように本全体に潜り込ませていたようだ。つまりこれは、快楽・欲求の充足・客観的な良さの共振とは別のかたちではあるが、メインルートで描かれた幸福と、恋愛のようなものであるもうひとつの幸福という二つの幸福の間の共振のようなものがあるということを描こうとしていたのではないかとも思う。つまり、全く異なる二つの幸福がなぜか不思議と絡み合うという奇跡を通じて、幸福が創造されているということを言いたかったのかもしれない。青山さんがそのように考えているかはわからないけれど、僕はそれに同意したい気もする。

5 さいごに

ここまでの僕の読解と、そこから進めた独自の考察の詳細が正しいかどうかはわからない。だけど今の僕には、どうも、幸福というものは、すでにあるものを見出すような類のものではなく、全く異なるものが出会うという奇跡を通じて創造されるものではないか、という予感がある。これは、この本を読んだ収穫だと思う。

そう考えると、この本全体の散漫さは、意図的なものだったのかもしれない。いくつかの話が一見関係なく撒かれたうえで、最後に一気にひとつにまとまり、伏線を回収していくようなつくりをしていたということだ。そのようにすることで、異種なるものの出会いという奇跡を体現していたのかもしれない。

僕はあえて一度しか読まずにこの文章を書いているけれど、この本はきっと二度読むべき本なのだろう。