先日「哲学の存在意義は何?」という質問に対して、ふと「OSの更新作業なんじゃない。」という回答が浮かんだ。このことをきっかけに考えたことをこれから述べていきたい。(実際は「人文系の学問の存在意義は何?」「OSのデバッグ作業なんじゃない。」という会話だったけど、少しアレンジしている。)

このやりとり自体はありがちなものなので、これから述べることの概要も、哲学とはパソコンを動かすOSのようなもので、要は縁の下の力持ち的な意義がある、という、まあ、新味のないだろう話だ。だれど、その細部に多少はオリジナリティがあるようにも思うので、一応書き残しておくことにする。

パソコンやスマホが進化した現在、OSが持つ機能は幅広い。windowsにはソリティアやマインスイーパやペイントなど色々なソフトがプリインストールされているし、androidなら指紋認証して画面ロックを解除してくれたりもする。だけど僕がここで比喩として用いるOSとは、そんな派手な付加的な機能のことではなく、必要最低限の基礎的な固有機能といった意味合いのものだ。

OSと同様に哲学についても本来的で基礎的な固有の機能があるはずではないか。そのような常識的なアイディアを出発点として、この考察は始まる。

哲学の基礎的な機能について考える前に、哲学の派生的な機能が活用される場面としては、哲学書が名言集として読まれるような場合が典型例として思い浮かぶだろう。哲学書を名言集として読むことは、パソコンでソリティアをすることに似ている。いずれも、哲学やパソコンの導入としては悪くないけれど、その本来の力を十二分に発揮している状況ではない。あくまで派生的な利用形態にすぎず、哲学やOSそれ自体を十二分に捉えたものではない。ソリティアや名言集のように派生的ではない、本来の機能があるはずではないか。

ここまでは常識的に考えれば当然だろうけれど、本来的な機能の具体例を示すのは意外と難しい。

windowsには複数のウィンドウを立ち上げる機能がある。ウィンドウの大きさを変更したり、重ねて表示したりできる。これはandroidにはない機能なので、OSに必須の本来的な機能とまでは言えないだろう。ではデスクトップの文字の大きさを変更する機能は必須なのか。デフォルトの文字の大きさのまま使っている人も多いだろうから必須ではないだろう。では英語だけでなく日本語を表示する機能は必須なのか。英語仕様のパソコンを考えれば必須ではないだろう。では数字だけでなく英語を表示する機能は必須なのか。パソコンは2進数でうごいていることを考えれば必須ではないだろう。ではプリンタと接続できることは必須なのか。僕が子供の頃のパソコンは印刷なんてできなかったから必須ではないだろう。では画面に何かを表示できることは必須なのか。BEEP音だけしか出力がないパソコンだってありうるから必須ではないだろう。(楽しいので色々と例を挙げてしまったが)このように考えていくと明示的に取り出すことのできるすべての機能はOSに必須とまでは言えない。すべてがオプションであり付加的な機能に過ぎないということになってしまう。

同様に、哲学についても、OSと類比的なかたちで基礎的な機能を明示的に抽出しようとしても、その試みは失敗することになる。

哲学書には、名言集として使う以外にも色々な機能があるのは確かだろう。そのなかでも、最も基礎的な機能の有力候補はきっと、人類にとっての新たな真理を顕にする、というものだろう。だが、新たな真理なら、別に哲学に限らず、自然科学や歴史学などの別の分野であってもいいだろう。新たな真理は哲学の専売特許ではない。それでは、新たな「哲学的」真理と限定しようとしても、なにを哲学的とするかは恣意的にならざるを得ない。今のところ、哲学的真理とは、自然科学的でも歴史学的でもないというような消去法的な説明か、先人が哲学として扱っていたから、という程度の哲学史的な説明くらいしかできないだろう。このようにして、哲学に固有の基礎的な機能を明確化することは失敗すると僕は考えている。

多少の議論の漏れはあるかもしれないが、重要なのは、哲学を批評的に分析し、そこから何か固有の機能を取り出すことは不可能だということだ。仮にそこから何か特定の機能を明示的に取り出すことに成功したなら、それは哲学が本来持つ固有の機能とはかけ離れたものになってしまう。これは、パソコンのユーザーがOS上の個々の機能に着目しても、それはOS本来の機能そのものではないということと類比的だ。哲学書の読者が、哲学書を通じて新たな真理を知ったとしても、それは哲学書が本来有する固有の機能ではない。固有の機能という点にこだわるならば、パソコンのユーザーにとってOSは何の機能も有さないのと同様に、哲学は哲学書の読者にとって何の機能も有さないのだ。

ではOSや哲学には存在意義がないのかというと、そうではないだろう。そのように見えてしまうのは、きっと機能という捉え方が間違えていたからなのだろう。そもそも機能というのは、基本的にパソコンのユーザーや哲学書の読者の視点からの用語だ。

つまりユーザーや読者という受け手の目線から考えていたところに問題があったのだろう。OSの存在意義について考えるならば開発者の視点に立たねばならず、哲学の存在意義について考えるならば哲学書を書く哲学者の視点に立たねばならない。そうすると、透明だったものに色がついて浮かび上がってくるように、見えなかったものが見えてくる。

OSの開発者にとっては、文字を出力する機能も、プリンタを接続する機能も、複数の画面を表示する機能も、指紋認証をする機能も、ソリティアをする機能も、すべてがOSの機能である。なぜなら、それらはすべて、OSの開発者が作った機能だからだ。OSの開発者が作ったものはすべてOSである。同様に、哲学者が書いたものはすべて哲学書である。そのなかに心を打つ文学的表現が含まれていたり、思わず笑みを浮かべるような冗句が含まれていたりしても、それらはすべて哲学的な文章である。なぜなら、それらはすべて、哲学者が書いたものだからだ。(当然、OS開発者が休日に作った目玉焼きはOSではないし、哲学者が書いたラブレターはたいてい哲学書ではない。あくまでOS開発者がOS開発者としてつくったものだけがOSであり、哲学者が哲学者として書いたものだけが哲学である。)

OSも哲学も、ユーザーや読者の視点からは存在意義を捉えることはできず、彼らの視点からの存在意義は無である。その存在意義を捉えるためには作者の視点に立たねばならない。そして視点を切り替え、作者の視点に立ったなら、そのとき、すべてがOSであり、すべてが哲学となる。OSと哲学には、一方から見れば無であり、一方からはすべてという、一方通行的な不思議なあり方をしているという共通点がある。

 OS開発者も哲学者も孤独だ。なぜなら、彼らだけが、OSと哲学を見ることができているからだ。彼らだけは、OSや哲学なんて要らないと考えている人ばかりで構成されているこの世界を、実はOSや哲学が支えているということを知っている。

だが、彼らはその孤独に気づいても、孤独な作業を続けるという選択肢を選ぶほかはないだろう。なぜなら、OSを開発するからこそOS開発者であり、哲学をするからこそ哲学者なのだから。その成果は誰からも気づかれることがないにも関わらず。

 いや、僕たちユーザーでもOSの存在に気づくことはある。それはOSをアップデートするときだ。パソコンを使っていると、突然、再起動を促すメッセージがポップアップで表示されたりする。つまりOSの自己主張があるから、僕たちはOSの存在に気づくことができる。僕たちユーザーにとって、OSとは忌み嫌われるポップアップ表示と、そこから始まる面倒な更新作業のことなのだ。

 きっと、この点でもOSと哲学は似ている。哲学は余計なことばかり考えていて、ちっとも役立たない。もし哲学が影響を実生活に与える場面があるとしたら、きっとそれは、不穏な問いを提起する時だけだ。この世界は実は夢ではないか。さっきお前は5億年ボタンを押したかもしれないではないか。堕胎と殺人の違いはどこにあるのか。暴走するトロッコの路線を切り替えるのか。そんな言葉が面倒な警告メッセージとして表示されるときだけ、たいていの人たちは哲学の存在を認識する。

 そして更に、OSや哲学の更新作業を終え、メッセージが消えれば、何も変わることなく、ただ日常に戻っていくという側面でも両者は似ている。唯一違うのは、OSに比べて哲学の更新作業は格段に難しいという点だ。きっと、哲学は、OS開発者と同様に、意図的か意図的でないかはともかく、当たり前が機能する世界に戻ることを目指している。

だが、OSではそれが比較的簡単に成し遂げられるけれど、哲学ではまだこの更新作業が成功した試しがほとんどない。哲学は、実生活のお荷物となりながら、時にはフリーズもしながら、はてのない更新作業を続けている。