NO PHILOSOPHY, NO LIFE

1 音楽と哲学

僕はNO MUSIC, NO LIFE という言葉が好きだ。タワレコのポスターに色んなアーティストが登場して格好よかった。僕が好きなCOCCOや怒髪天も、そういう名前の曲を作っていたし。(タイアップなのかな?)

確かに彼らはNO MUSIC, NO LIFEだし、僕もその仲間でありたいと思っている。だから僕も、それにならってNO PHILOSOPHY, NO LIFEだと思って生きてきた。

だけど、最近、その言葉に込められた意味には違いがあるのではないかと気がついた。

僕は英語が得意じゃないけど、NO MUSIC, NO LIFE の場合、音楽は既に手に入れている。手元にある音楽を手放したら生きていけない、そんな意味だと言っていいだろう。一方で、NO PHILOSOPHY, NO LIFE は、僕の解釈では、手元にまだ哲学はない。生きるために哲学を探している、そんな意味が込められている。すでに手元にあるものとしての音楽と、いまだ手元にないものとしての哲学という違いがそこにはある。

ミュージシャンは音楽とともに生きている。音楽に愛されて、音楽と添い遂げるような人こそが理想的なミュージシャンのような気がする。手術をして舌を失って生きている「つんく」よりも手術を拒否して歌いながら死んでいった忌野清志郎のほうが、よりミュージシャンという感じがある。(念のためだけど、僕は「つんく」と同じ選択を、忌野清志郎にもしてほしかったと思っている。)

では、同様に哲学者も哲学とともに生きているのかというと、そうは言えない気がする。ウィトゲンシュタインだってニーチェだって、きっと哲学を手元に置くことは叶わなかった。哲学とは、いくら手を伸ばしても届かない理想のようなものなのだと思う。

このような解釈は僕の個人的な感覚に過ぎないのかもしれない。この世界のどこにもない理想の音楽を追い求めるようなミュージシャンもいれば、日々の探求の実践それ自体が哲学であるような哲学者もいるのかもしれない。ただ、僕にとっての音楽とは手元にあるものであり、僕にとっての哲学とは手元にはないものである。

僕にとっての哲学とは、このよくわからない世界で第一歩を踏み出すために不可欠となる確かな足場だ。そのような基礎がなければ生き始めることなどできる訳がない。そんなふうに高校生の頃の僕は思っていた。だから僕は本来的には哲学の基礎付け主義者と言っていい。

当然、哲学においては、そんな僕が期待しているような確かな足場や基礎など未だ発見されていないから、僕の手元には哲学はない。きっと今後も手に入ることはない。だから僕のNO PHILOSOPHY, NO LIFE は、決して手に入れることができないものについてのキャッチコピーだとも言える。

2 高校生の僕と今の僕 空虚を埋める

実は、僕が最近気づいたのは、このことではない。

僕が気づいたのは、更に、NO PHILOSOPHY, NO LIFE には二つの異なる意味がありうる、ということだ。

ひとつめの意味は、まさしく、ここまで書いてきたような意味だ。高校生の頃の僕がそうだったように、「哲学がなければ生きることはできない。そして僕の手元には哲学がないから、僕はそもそも生き始めることすらできていない。」というような意味だ。その頃の僕には周囲の人に比べた劣等感のような、気後れのような感覚がつきまとっていた。僕は「皆は生き始めることができているのに、僕だけがスタートラインに立つことすらできていない。皆は世界が確かにあり、そこで何かができるということに疑問を抱かずに暮らしているけれど、僕はどうでもいいところにひっかかってしまい、個別具体的で内容のある人生を生き始めることがそもそもできていない。」と思っていた。(※)そんな空虚さを示す言葉としてNO PHILOSOPHY, NO LIFEを解釈することができる。

もうひとつの意味は、高校生時代から数十年経ち、今の僕が NO PHILOSOPHY, NO LIFE と呟くときの意味だ。今の僕にはとにかく生きてきたという実感がある。何十年もの間、働いたり子育てをしたり、悩んだり楽しんだりという月日が僕のなかを流れていったという感覚がある。高校時代に感じた空虚さは現に生きてきたという実績によって埋められてしまっている。それでも僕はまだ、哲学を手に入れることはできていない。そこにあるのは、空虚さとは違う、もうひとつの  NO PHILOSOPHY, NO LIFE だ。

いや、このような表現だと誤解を与えるかもしれない。僕は、ここで個別具体的な思い出のことを取り上げているのではない。哲学的な思考実験によれば、僕のなかのそのような思い出はすべて夢かもしれないし、悪霊に改ざんされた記憶かもしれない。僕は懐疑論者的な傾向が強いから、そのような思考実験を単なる思考実験と捉えることができず、それを額面通りに受け取ってしまうところがある。僕の半生は夢だったのかもしれないと心から思っている。正確には夢や悪霊も比喩に過ぎないから、そのような言葉では捉えることができないとも思っている。それでもなお、僕には空虚ではないという実感がある。高校生の頃の僕にとって、とても身近なものだったあの空虚さは、いつかどこかで埋め立てられ、すでに失われてしまったのだ。

この空虚さを埋めたものが何なのかはここでは論じない。なぜなら、そのことを論じること自体がきっと僕の哲学にとっての最大の問題につながっているから、そう簡単に論じることはできない。(※※)そもそも、空虚を埋めるという比喩が適切なのかどうかも怪しい。

ただここで指摘しておきたいのは、今の僕が空虚ではない何かを抱えているということだ。高校生の頃の空虚な僕と、今の空虚ではない何かを抱えた僕という対比があるということをイメージしてもらえたなら、それで十分だ。

3 哲学的堕落

その対比と重なるようにして NO PHILOSOPHY, NO LIFE は二つの意味を持つ。高校生の僕にとっては、それは「哲学がなくては生きていけない」だったけれど、今の僕には、その同じ言葉が「哲学がなかったら生きたことにならない」という意味を持つものとして迫ってくる。高校生の頃の僕は人生のスタートラインに立つことができないと感じていた。それなのに、いつのまにか、スタートしたつもりもないのに何かが始まり、僕は既に何かを抱えてしまっている。僕はなんだかわからない得体のしれないものに既に巻き込まれてしまっている。その得体のしれないものは人生を生きるということと深く関わっているはずだから、それを哲学的に捉えなければ生きたことにならない。そういう感じが僕のなかにはある。

つまり、NO PHILOSOPHY, NO LIFEとは、当初は、高校生の僕の空虚さを表現するものとしての「哲学がなくては生きていけない」であったが、いつのまにか、既に何かを抱えた僕にとっては「哲学がなかったら生きたことにならない」となり、その意味するものが変化したということだ。これはひとつの哲学的堕落だと思う。なぜなら、今の僕は、自らの哲学をするうえで、何かを既に抱えている ということを出発地点とせざるを得ないからだ。今の僕は、哲学は余計な夾雑物を取り込んでしまったという点で、高校生の頃の僕に比べて、哲学的に劣る存在となってしまったのだ。

4 空虚を回復する二つの方法

だけど、まだ僕は大丈夫かもしれない。なぜなら、多少意味は変わってしまっているにせよ、僕にはまだ通奏低音のようにNO PHILOSOPHY, NO LIFE の言葉が響いているのだから。それならば、何かを抱えてしまった今の僕でも、どこかに高校生の頃と同じような空虚さを見出すことはできるのではないだろうか。

その見出し方の候補としては、二通り思いつくことができる。

ひとつは、今の僕にも、未来というかたちで空虚は残っている、という描写をすることができうるのではないか。今の僕の手元にあるものは、その正体が何であるにせよ、きっと未来に対しては無力だろう。なぜなら、既に何かを抱えてしまっている僕でも、未来だけは素手で捉えるしかないからだ。それは、哲学的精度をあえて落として描写するならば、年齢を重ねて硬直化した僕であっても、未来に向けては、成長して変化する可能性がどこまでもあるということだとも表現できるだろう。

もうひとつのやり方としては、僕が既に抱えてしまった何かを手放すことで空虚を回復するという道筋がありうる。僕が子供の頃読んだ絵本の「ぼくを探しに」で、「ぼく」はやっと見つけた自分の片割れをそっと置いて去っていく。僕もようやく手に入れた何かをあえて手放し、空虚について歌うというやり方をとることはできる。高校生の頃の僕はスタートラインに立つことができず、スタートを切ることを切望していた。今の僕はいつのまにか既にスタートを切り、高校生の頃切望していたものを手に入れていることに気づいた。ここで、ようやく手に入れたものを手放し、そのうえであえてスタートラインに立てないという空虚さを再び歌うことは、欺瞞かもしれないけれど、そのような道筋はありうる。

5 おやすみなさい

これが欺瞞にならないために必要なのは丁寧さだろう。僕はいつのまにか抱え込んでしまった何かを乱暴に棄て去るのではない。愛情を込めて、それをあるべきところに置いていく。そのようにして適切なかたちで手放すことにより、僕は空虚さを適切なかたちで回復することができるのではないか。

そんな芸当をどのようにしたらいいのかと思うかもしれないけれど、僕たちはそれを日々、既に行っているのではないか。それを象徴的に示すのは「おやすみなさい」という言葉だ。一日を過ごしたあと、僕たちは「おやすみなさい」と言う。それは今日という日への別れの挨拶であり、今日のことは明日には持ち越さないという宣言でもあるのではないか。僕たちは、「おやすみなさい」という言葉とともに、今日のことを今日の場所にそっと置いていくのだ。

当然、これは比喩でしかない。実は僕たちは一日という単位ではなく、瞬間ごとにその瞬間を置き去って未来に向かっていると言ったほうが正確だろう。または、もっとも重大な「おやすみなさい」は一日の終わりではなく、人生の終わりに言うものだろう。その時、僕ならば「ありがとう、さようなら」と言うかもしれない。(そのように言えるといいなあ、と思う。)僕が「おやすみなさい」という言葉で示した一日という単位は、一瞬よりも長すぎるし、一生よりも短すぎるという点で中途半端な比喩でしかない。

それでも、なんとなく「おやすみなさい」は丁度いいようにも思う。僕は抱えてしまった何かに「おやすみなさい」と挨拶をして別れを告げ、空虚な未来に進んでいく。そんなふうにして溜め込まない人生を送れるといいなあ、と思わせる何かがそこにはある。

※ 蛇足だけど、その頃の僕は、実は、僕のような人は多数派ではないにせよ、それほど少数派ではないと思っていた。かなりの割合の人が、僕と同じようにスタートラインに立つことができずにいるのではないかと思っていた。だから後日、哲学カフェなどをして、僕のような人はほとんどいないということを知って驚いたという経緯がある。

※※ 僕が最も近いと思うのが、入不二の現実性の議論だ。その議論に基づくならば、僕の空虚を埋めたのは、現実性である、ということになるのかもしれない。

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