自然科学について

本当はもっときちんとまとめたいけれど、まだまとめられそうにないから、とりあえず書き残しておくことにする。

 僕の哲学における目下の最重要課題は自然科学だ。疑問文で表現すると「自然科学はどうしてこんなにうまくいっているのか。」という問題だ。

 形而上学や倫理学については僕の中でそれっぽいアイディアがなんとなくまとまりつつある。そのまとまったアイディアの先に何があるのか、という問題はあるけれど、それは手元にあるアイディアを形にしないと見えてこないだろう。それは将来のお楽しみだ。

 そのような将来の問題とは別に、とりあえずのアイディアを取りまとめるなかでジグゾーパズルの最後のピースがうまくはまらない。手元にある自然科学というピースが、僕の哲学体系というジグゾーパズルにうまくはまらないという目下の大問題があるのだ。

 僕は形而上学が好きだから、まず形而上学から考えている。形而上学において僕が考えているアイディアはかなり独我論的な色彩の強いものだ。もし僕が考えていることを知ったら、きっと多くの人は観念論的だと思うだろう。(当然、普通の独我論や観念論とは全く違うものだという自負はある。)

 そしてそこから、倫理的なものを紡ぎ出すことにも成功したと考えている。独我論から他者との関わりが前提となる倫理を紡ぎ出すなんて不可能だと思うかもしれないけれど、僕はそれに成功したと考えており、僕はそこに僕のアイディアの新しさがあると思っている。(とにかく成功したということにして話を進めさせてほしい。)

 だけど、どうしてもそこから自然科学を引き出すことができないのだ。独我論的で観念論的なアイディアから自然科学を引き出せないのは当然だと思うかもしれない。確かにそうなのだけど、もう一息だという気もしている。

 僕の(形而上学的な)哲学の出発点は、とてもざっくりと言うならば、「今ここの私」にあると言っていいだろう。この出発点を従来の哲学者よりも精緻に捉えられたことが僕の成果だと考えている。そして、僕はそれと同様の精緻さで自然科学を捉える必要があると考えている。なぜならば、僕にとっての自然科学とは、僕が取り組んできた独我論的な哲学体系の真逆にあるものだからだ。自然科学とは僕の独我論的な哲学から最も遠いところにある最終到達地点だとも言える。僕の哲学はそこに到達することでとりあえずは完成することになる。

 では自然科学を精緻に捉えることを試みてみよう。それはいわば常識的な意味での自然科学を濾過し、純化する作業だとも言える。

まず常識的な意味での自然科学が成立するためには、時空・因果・観察者といった道具立てが必要だろう。水に熱を加えるとお湯になるという常識的な意味での自然科学の描写が成立するためにはガスコンロとヤカンが配置される場としての空間が必要だし、その空間が持続的に存在するという意味での時間も必要だ。そのようにして成立する時空のなかで水からお湯になるという変化も生じる。また、水からお湯に変化したのは熱を加えたからだ、という意味での因果も必要だろう。そして意外と重要となるのがそれを観察する視点だ。誰も観察をしなかったら水からお湯になるという状況が観察されることはない。このようにして自然科学を成立させるために時空・因果・観察者といったものが登場することになる。

 これを独我論的に言い換えるならば、ヤカンがガスコンロにかけられているのを僕が見るところから始まる。観察者としての僕は、ヤカンではなくお鍋をガスコンロにかけることも可能だったというような意味で空間的にその場を解釈し、更にそこに時間推移も見る。こうして僕は時空を見出す。そしてガスコンロの火とヤカンとを関係付けるようなかたちで因果的な解釈を行う。このようにして、観察者・時空・因果といったものが登場することになる。

 つまり独我論的には、僕が観察者として時空や因果を見出すからこそ自然科学がこのようなものとして成立するのであり、もし観察者がいなかったら、そこに時空や因果はなかったはずだ、ということになる。

 以上の描写は常識的な自然科学についてのものである。僕はそれには満足できない。その先には真の純粋な自然科学があるはずだ。

 そのような自然科学に対する僕のアプローチの仕方とは、僕が観察する前の世界について思いを馳せることだと言ってもいいだろう。僕によって汚染される前に世界があったはずだ。その純粋な世界とはどのようなものだったのだろうか。

 今の僕はそれをはっきりと捉えることはできないけれど、その世界のことを自然科学的世界と呼びたい。なぜなら、自然科学はなぜかこんなにも上手くいっているからだ。自然科学が成功しているのは、自然科学が観察者・時空・因果といったものを通じて立ち現れるからではないはずだ。もし自然科学の成功の原因が観察者・時空・因果にあるのだとしたら、成功の秘訣は、要は人間と世界の関係性にあるということになり、いわば自然科学の成功は人間の思い込みだということになってしまう。

 だけど僕は直感として、自然科学の正しさの源泉は人間の手が届かないところにあるように感じてしまう。僕は自然科学に詳しくないけれど、人間がどんなに探求しても、そこにはブラックホールやら素粒子やらと新たな謎があり、その謎を解き明かすことで更に次の謎が登場する。簡単でもなく、全く手が届かないでもない、ちょうどいい謎が世界には散りばめられている。そしてそれらの謎は、相互に有機的に結合し、壮大な自然科学の体系を作り上げている。それはまるで人間には決して触れることができない神の所業のようにも思える。真の自然科学的世界は、観察者・時空・因果といった道具立ての向こうにあるはずではないか。

 僕は、その、決して人間には手が届かないもの、神や世界と呼ぶべきものを僕の哲学体系のなかに位置づけたい。人間には決して手が届かないものを哲学体系に位置づけるなんて無謀だと思うかもしれないけれど、それは決して不可能だとは思っていない。なぜなら、僕の出発点は既に人間ではないからだ。僕が出発点としている「今ここの私」は、人それぞれという意味での人間ではない。いわばもう一方の神である。人間には手が届かなくても、一方の神からもう一方の神への橋渡しならば、僕にもできるかもしれない。それは単なる交通整理なのだから。

 観察者・時空・因果を超えたところにある、真の自然科学的世界とはどのようなものだろう。僕はその世界が整合性・無矛盾性を持っていることは確かだと思う。なぜなら自然科学とはそのようなものだからだ。確かに観察者・時空・因果を使った人間的な把握は、その真の世界のごく一部にしか到達していないかもしれない。だけど、その一面的な把握においても、世界は整合し無矛盾的なものとして立ち現れている。これはその世界が本来的に有する整合性・無矛盾性の一部を垣間見ているからに違いない。

 そして、きっと、その世界とは一体性・全体性も有しているのではないか、とも考えている。なぜなら、整合性・無矛盾性に満ちた世界が分割されていたり、何個もあったりすると考えることはオッカムの剃刀に反するからだ。世界は唯一であり、それが全体でもあるから、整合し無矛盾なのではないか。他にも世界の整合性・無矛盾性を説明する道筋はありえるのかもしれないが、そこには余計で不要な想定が入り込むことになりそうな気がする。

 もし、ここまで述べたことが正しかったとしたなら、そのように描写された世界と「今ここの私」はどのように関わることになるのだろうか。つまり「純粋な自然科学の世界」という神と「今ここの私」という神はどのようにして出会うのだろうか。

 僕はその地点にこそ人間があると言いたいのだけど、そう考えることは人間中心主義すぎて我田引水のような気がする。それに、せっかく純粋さを維持することを心がけて考察してきたのに、全てぶち壊しになってしまう気がする。

 僕は時々そんなことを考えている。

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