これは僕が僕だけのことを考えて書いたものだ。だから本質的に僕にしか意義がない話だけど、もしかしたら何か役に立つかもしれないので書き残しておくことにする。

僕は高校生の頃から、好きなタイプは「頭がいい人」だった。頭がいいといっても色々ある。学校の成績がいい人、知識がある人、機転が利く人、堂々と主張する人、大人びた人、浮世離れした人などなど。僕は高校生、大学生、社会人とその時ごとに、色んなタイプの頭がいい人を好きになってきた。また、真剣に恋をするときも、身近な人にちょっと好意を持ったようなときも、単にアイドルを気に入ったようなときも、色んな機会ごとに頭がいい人を好きになってきた。客観的には「頭がいい人」ではなくても、どこかに頭のよさを読み込んで来たように思う。(例外はあったかもしれないけど。)

今朝、職場に向かって歩きながら、ふと、昔好きだった人のことを思い出した。そしてそこから、歴代の僕が好きになった人たちに対して「頭がいい人」という表現をすることによって、僕はどんな思いを込めてきたのかな、なんて考えた。

そのとき僕の心に浮かんだのは、水がこんこんと湧き出る泉のイメージだ。僕が好きになる人は、泉のように、僕にとって未知で新鮮なものを目の前に見せつける人たちだった。僕は彼女たちに触れることで(肉体に接触するだけでなく精神的に出会うという意味も含め)僕は新しさを手に入れ、僕の人生は更新されるはずだ。僕が好きになるのは、そんな予感を感じさせる人たちだった。

僕が「頭がいい人」という言葉に込めてきたものを、近似値的にでもかなりうまく表現できているのが、この「泉」という言葉だと思う。

僕が泉のような人を好きになるのは、彼女たちが僕に無いものを持っているからであり、要は無いものねだりなのだろう。なぜなら絶対に、僕は泉のようにはなれないからだ。

思い返すと、僕も他の誰かに対して新しいものを供給できる存在になりたいと思って生きてきた気がする。「泉」なんてキーワードを思いついたのは今朝のことだけど、昔から僕は誰かにとっての泉のような存在になることを望んで生きてきたような気がする。そして多少は、僕は他の誰かにとって、そのような存在になれることもあったような気がする。

だけど、僕は僕自身にとっての泉にはなれない。僕は僕自身にとっては馴染みがありすぎる存在だ。時々は、何かを閃いたりして自分の中にある新しさに驚くこともあるけれど、すぐにそれは自分のものとなり、自分に馴染んでしまう。その仕組み上、僕は僕にとっての泉になることは決してできない。

では、僕は泉にとって何ら意味がない存在なのかといえば、そうではないだろう。泉には湧き出た水が貯まる場所が必要だ。泉に池がなければ、泉の水は消え去ってしまう。泉から湧き出た水が維持され存在し続けるためには、それを受け止める場所が必要だ。僕はきっと彼女たちにとっての池という場所になることはできる。

僕に受け止められることで、彼女の新しさは固定され、理解可能なものとなり、そして古くなる。僕はその人の新しさを陳腐化し消費するだけの存在とも言える。だけどだからこそ、その人の新しさは確かに新しいものとして存在したことになるとも言える。

そして大事な点は、泉は僕にいくら消費されても、こんこんと湧き出るというところにある。僕が彼女たちを好きになるとき、その人たちは、いつまでも僕に新しいものを供給してくれるように感じられた。幻想かもしれないけれど、そんな幻想により僕は恋におちたということなのだろう。

こんなふうに考えていたら、僕は二つのことに気づいた。第一に、昔から僕は、男性であっても、僕に新しいものを供給してくれるような人に知り合いたいと思っていて、実際に時々は知り合うこともできたということ。第二に、ただし、そのような男性は、恋愛という幻想が働かない分、極めて少ないということだ。(女性に対しては、僕の性欲を正当化するため、あえてその人を泉のように思い込むような嘘をつくこともあったように思う。)

このことから得られる教訓は、今後も、男女問わず、なるべく幻想抜きでしっかりとその人を見極めて、泉のように思える人とつきあっていくべきだということだろう。

多分、僕が「泉」に喩えたものは、他者性そのもののことなのだろう。僕は他者を好きになる。そんな当たり前のことを僕はしてきたし、今後もしていくのだろう。それはとても当たり前のことだとも言える。