哲学のひとつの効用 死の恐怖への処方箋

きっと多くの人がそうだと思うけど、僕も死ぬのは怖かった。死んだ後に僕はどうなっちゃうのだろう。子供の頃からそんな不安を抱えていた。だから死はなるべく先のことになるよう望んでいた。だけど、そのような意味での死への恐怖は哲学で克服された。ような気がする。と言っても、哲学で何かを理解して安心したという訳ではない。はっきり言えば、哲学によりもっとわからなくなったのだ。
僕らは誰も体験したことのない死を未知のものとして怖がっているけれど、そもそも、生というものすらよくわかっていないではないか。死とは生を失うことなのだとしたら、失うもののことを何も知らないのに、失うことを怖がるなんておかしいような気がする。更には、死のわからなさに気づいていない人はあまりいないけれど、生のわからなさに気づいていない人はかなり多いことを思い起こすならば、死のわからなさより生のわからなさのほうが根が深いとすら言える。僕がそのようなことに気づくことができたのは哲学の実践によるひとつの成果だと思う。
だからこそ僕は更に哲学することにかなりの時間を割いている。生きている間にこの生というものをしっかりと捉えきりたいと願っている。だけど残念ながら、どんなに頑張ってもそれは無理な相談だろう。生きている人間には絶対に無理なことを僕は目指しているのだ。それでも僕は無理を承知でそういうふうに生きていくしかないと決心はしている。
僕がもし痛みで苦しんだりせず、まともな精神状態で死ぬことができたなら、きっと僕は無念さとともに死ぬのだろう。もしかしたら一筋の涙でも流しながら、やっぱり僕の人生では生を捉えきることはできなかったなあ、なんて思いながら死ぬのだろう。だけど、それは明日死んでも、1年後に死んでも、10年後に死んでも全く変わることはない。いつ死ぬにせよ、僕は似たような感想とともに死んでいくことになるはずだ。
そう考えると、僕は哲学により、少なくとも早死にすることへの恐怖を克服したとも言えなくはない。まあ、早死にというほど若くもないけれど。

哲学のひとつの効用 死の恐怖への処方箋」への1件のフィードバック

  1. 波多智子

    60をひとつ越えたいま、以前よりも、死ぬことそのものよりも老いることに不安と心配と恐れが増大していることを実感しています。
    若者へと成長することは、初体験でしたが、そこには今感じているような不安などはなかったように思います。
    肉体に対する恐れよりも、未知なる未来への漠とした恐れの方が強かったような・・・
    老いるという肉体の変化も初体験なのですが、そこには、何らかの希望めいたものは、ありません。
    足腰はまだ普通に動かせますが、明らかに体力は落ちています。耳は遠くなり、目は一段と霞んできました。60を越えるというのは、いつ何時突然死んでも不思議とはならない年齢なのだと痛感しています。
    この世に生まれてきたものは、そこから死に向かっていくとは言い得て妙ですね。
    それは本当なんだと思い知ります。
    一方で、年を取るという体験ができる 僥倖にも思いを馳せます。
    私が残せるものは、死ぬときです。死にゆく過程をどう見せるかが今の私の課題です。

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