つまらない真理

僕がここに色々と書き連ねている動機の少なくともひとつは「未だ知られていない真理を記述したい」というものだ。

だけど、その真理は、新しくはあっても、つまらないものかもしれない。例えば、初めて「空気を吸うことが身体の維持に重要だ」ということを発見するような場合を想像してみたらいいだろう。そんなことをあえて言われなくても、全員が既に空気を吸い、身体を維持し、生きている。言葉としては知らなくても、皆がそのように実践している。つまり、このような知識は実生活には何の役にも立たない。新しくはあってもつまらない真理というものは確かにありうる。

そんな真理をあえて記述することに何の意味があるのだろうか。僕が一生を賭け、幸運にも真理を手に入れ、その真理を自慢げに書き残したならば、きっととても滑稽に見えるだろう。僕は、皆が既に知っている当たり前なことを得意げに大声で叫んで回る子供のようだろう。

確かにそうだ。僕も世の中がひっくり返るような真理を発見したいと願っている。初めて文字を発明した人や、初めて貨幣を発明した人のことを僕は知らないけれど、そういう人に僕は憧れる。僕は、この人が存在する前と後では世界が変わったと言われるような存在になりたい。せっかくなら、ADやBCといった記号付きで僕の存在を刻みつけたい。

一方で僕は全く何の役にも立たない真理を発見することにも憧れる。本当のすごいのはそういうものかもしれない。誰もが既に知っていたはずなのに、誰も言語化できていなかったことを捉えて表現する。言語化したからと言って、何の役にも立たないし、ほとんどの人にはその凄さもわからない。哲学の世界ではそういう知識(まだ真理とまでは呼べないにせよ。)がゴロゴロしている。例えば、永井均の〈私〉などはその典型例だろう。

(僕は正直、自分の哲学にだけ興味があって、学術的な意味での哲学という分野には興味がない。だけど哲学という分野にはこういう無駄だけど凄い知識がたくさんあるという点では素晴らしいと思う。)

 僕は矛盾している。僕は、生活者としては哲学的すぎるし、哲学者としては生活的すぎる。実生活なんてどうでもいいと思いつつ、実生活への意義というものにも強いこだわりがある。どうもそのあたりが、僕が大成しない理由なのかもしれないなあ。

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