動物倫理学

1 肉食の問題

詳細の説明は控えるけれど、最近、僕は、自分が工場式畜産の関係者だということを実感させられる経験をした。そして僕はベジタリアンになろうかと真剣に考えてしまった。積極的にベジタリアンを目指すというより、肉食は勘弁してほしいというような逃げ出したい気持ちになったのだ。

僕は牛・豚・鳥・羊と色々な種類の動物の肉を比較的安い費用でたくさん食べる。それは当たり前のことだと思っていた。だけど実は、当たり前のことではあっても当たり前の肉ではない。僕が食べるのは、当たり前のようにのんびりと牧場で育つ動物の肉ではなく、生まれたときから狭いところに閉じ込められ、外を走り回ったことなど一度もないような異常な状況で育てられた特殊な動物の肉なのだ。そのようなものを僕は喜んで食べてきたし、値段や栄養バランスやおいしさや円滑な人間関係を考えるならば、これからも喜んで食べるのだろう。だけど、色々なことに折り合いをつけつつも、せめて、少しでも何かを変えるべきではないだろうか。そんなことを考えている。

この文章は、少し混乱した僕の心情を整理するために書いている。自分のため、ある程度まで、吐きつくして考え尽くしたいと思って書いている。だから冗長になっているし、脇道に逸れたりもしている。という点をご容赦ください。

2 はじめての動物倫理学

他の文章でも繰り返し書いているように、今、僕の中では倫理学がブームだ。それならば、肉食について倫理学的に考察するのもいいのではないだろうか。そんな思いつきで田上孝一の『はじめての動物倫理学』という本を読んでみた。

この本によれば、(ウィリアムズの『生き方について何が言えるか』でも勉強したとおり、)規範倫理学には功利主義(帰結主義)と義務論と徳倫理学という大きな3つの流れがある。その規範倫理学を応用するのが応用倫理学であり、動物倫理学は応用倫理学の一部門である。だから動物倫理学にも、功利主義的動物倫理学と義務論的動物倫理学と徳倫理学的動物倫理学があることになる。

田上によれば、動物倫理学は義務論と相性がいいようだ。なぜなら、動物倫理学とは、(人間生活に影響がない範囲で)動物を極力大事にしましょうね、というような動物福祉的な観点を超え、動物自体に権利があると考えるものだからだ。ダイレクトに動物と権利をつなげるためには、つまり功利計算や動物を愛する人間の徳といったものを媒介せずに動物と権利をつなげるためには、カント的義務論の道筋がうまくいくのは確かだと思う。カント的に述べるならば、動物はなにかの手段ではなく、人間と同様に目的とすべき存在なのだ。なんら条件付けなく、ただ動物は動物であるだけで人間と同様に尊重されるべき存在なのだ。とても切れ味がよい。

このように論ずる動物倫理学は歴史が浅い若い学問なだけあって、突っ込みどころが満載だと思う。チンパンジーやゴリラのような動物とサンマやカブトムシのような動物は全く対等なのだろうか。もしノアの方舟が陸地を見つける前に海の中に沈んでしまいそうになったら、救命用ボートでどの動物を助けるべきなのだろうか。(サンマは助けなくていい気もするけれど。)また、なぜ動物に権利はあるのに植物には権利がないのだろうか。サンゴのような動物には権利はあるのだろうか。動物プランクトンと植物プランクトンとの間にある違いとはなんだろうか。動物に権利があってもロボットには権利はないのだろうか。等々。僕から見ると、動物倫理学は、これらの問いに対して、大多数の人を納得させられるような答えは持っていないように思える。動物という視点から倫理について考えるのはなかなか難しい。

なぜ、動物という視点からのアプローチが難しいのかというと、動物の問題の裏には人間の問題がまとわりついてくるからなのだろう。動物倫理学とは、いわば「動物」という範囲を設定する議論だから、その延長にある「人間」という範囲設定の問題ともつながる。つまり「動物の権利」よりも前に「人間の権利」が問題になるということだ。そもそも人間には権利があるとはどういうことだろうか。本当に、友人や家族と見知らぬ異国の人々とでは同じ権利を持っているのだろうか。もし同じ権利があるならば、僕は腕を一本骨折した友人のことなど放っておき、腕を二本骨折した見知らぬ人のことを考えなければならないのだろうか。人間のことすら整理しきれていないのに動物のことに手を出すのは時期尚早のような気もする。

3 動物倫理学の自然科学的な正しさ

一方で、動物倫理学を支持する人たちは、僕が抱く懸念は既に解決していると言うだろう。彼らならば、動物倫理学はどうして動物が人間と同等に扱われるべきかをきちんと根拠付けて議論できていると主張するだろう。また、将来的には、どの程度の範囲の動物を人間と同等に扱うべきかを定義できうると主張するだろう。

確かにそうなのだ。彼らの主張には自然科学という根拠がある。現在の自然科学の知見を踏まえれば、人間と動物の間には決定的な差はない。人間が言葉を使うように、言葉を使う動物もいる。道具を使うのも人間だけではない。動物も苦痛を感じて苦痛から逃れようとするし、人間と動物の間の遺伝子上の差はわずかなものだ。機能面だけを比較するならば、生まれたばかりの赤ちゃんや認知症の老人よりも成熟した健康なチンパンジーのほうが人間的だとすら言うこともできる。

また、今のところは達成できていないが、近い将来、自然科学的な知見を用いて、一定の範囲の動物を人間と同等の機能を有するものとして明確に定義づけることも実現しそうな勢いもある。(なんとなくそれは、大型霊長類やイルカのような一部の動物を人間と同等だと定義づけるようなものになりそうな気がする。)

動物倫理学は、人間の機能に着目し、自然科学の知見を用いて動物にまで拡大するという、かなり成功を見込めそうな道筋を発見したのだ。人間の主体としての機能を自然科学的に把握し、それを人間という従来の枠組みにとらわれずに動物にまで拡張することで、倫理の主体の範囲を明確に捉えきることができるようになるのだ。だから、この議論は、動物倫理学という枠には留まらず、人間も含めたものとしての、自然科学的機能主義に基づく主体論だと言ってもいいと思う。

正直、僕の直感ではそのような解決方法はなかなか受け入れがたいけれど、自然科学が大多数の人にとっての常識となっている現代においては、動物倫理学が持つ力を無視することはできない。それならば、先程僕が列挙したような動物倫理学に対する疑問は、自然科学によりいずれ解決することになるのかもしれない。

4 自然科学的な議論の威力

再度、我々、動物倫理学反対論者の立場に身を置いてみよう。

動物と人間を同一視するような動物倫理学の主張にはいくつもの反論を思いつく。動物倫理学は、これから成熟した人間になる赤ちゃんや、過去に健康な人間であった老人の特別さを無視している。人間が扱う言語と動物が扱う言語では複雑さが違う。等々。だけどそのような理由付けは、自然科学の知見という決定的な正しさと比べれば恣意的で怪しいもののように思える。どうも我々の旗色は悪いようだ。

だが、より決定的な我々の問題は、そもそも、動物と人間を同一視することに反対する人は、本当に赤ちゃんの成長可能性や言語の複雑さこそが自らの主張の根拠だと心から信じてはいないという点にある。そのような人は心の底では、赤ちゃんはこれから大人に成長するかどうかとは関係なく人間だと言いたいはずだ。また人間特有の言語の複雑さを論拠とはしても、仮に人間と同等以上に複雑な言語を話すカラスを発見したとしても、そのカラスを人間として扱いたくはないはずだ。反対論者の心の奥底には、論理では割り切れない極めて人間的で強力な感情がある。だけどその感情が「感情」として議論の俎上に乗ってしまったら、その「感情」は自然科学を味方につけた動物倫理学に対しては無力である。動物倫理学反対論者が本当の拠り所としている「感情」は、「感情」を離れたところで行う論理的な議論とは相性が悪い。

別の言い方をするならば、根源的な動物倫理学の議論の強さは、僕たち人間は肉食すべきか、という問いを立てた途端、その問題は、自然科学的な動物倫理学的な議論の土俵に取り込まれてしまうという点に由来しているとも言える。

どういうことか少し丁寧に言葉を補おう。「僕たち人間は肉食すべきか。」という問題設定は、個人的な問いではなく、「僕たち人間」という人間一般についての問いであると言える。そうだとすると、肉食すべきか、という問いに答える前に、人間一般という問題領域の設定の是非について考えざるを得ないはずだ。つまり、まずは、人間とはなにか、どこまでが人間か、という問題について整理せざるを得なくなるということだ。

そして、その答えは、私という個人ではなく、誰もが共通に持っている人間一般の特徴から論ずることになるはずだ。それならば、その答えは、人間には46本の染色体があって、道具や言語を使えて・・・というようなものになるだろう。つまり、「僕たち人間は肉食すべきか。」という問いは、「46本の染色体があって、道具と言語を使える者としての人間一般が肉食すべきか。」という問いであることが明らかになったことになる。これはほぼ、自然科学的な人間の機能に関する問題設定であり、さきほどの動物倫理学の議論の土俵に乗っている。

議論の出発地点が定まったならば、あとは簡単だ。自然科学的な道筋に入り込んだなら、そこから先に逃げ道はなく、動物倫理学の議論の流れに沿って、僕たちは人間と動物を同列に扱うべきだという帰結に向かって一直線に進んでいくことになる。

以上の考察が明らかにしているのは「僕たち人間は肉食すべきか」という問い方が既に自然科学的な動物倫理学への道筋をつけてしまっているということである。

5 個人的な道筋

だが本当に人間一般という問題設定から必然的に自然科学的な答え方が導かれ、動物倫理学的な議論に帰結せざるを得ないのだろうか。人間とはなにか、どこまでが人間か、という問題に対しては、DNAがこうなっていて、道具と言語を使えて、というような自然科学的な答え方とは違う対応の仕方は本当にないのだろうか。

対案としてはきっと色々なアイディアがあり、それぞれについて丁寧に検討していくべきなのだろう。だが紙幅の都合から、また、僕の興味はそこにはないという理由から、その問題には立ち入らず結論だけ述べたい。僕は、それらの対案はいずれも失敗すると考えている。自然科学的な議論の道筋を突き進む以外には、人間一般についての問いとすることを諦め「僕にとって」という個人の領域に進む道を選ぶしかないと考えている。

自然科学的な方向に進まず、かといって個人的な方向にも全く入り込まずに「人間一般にとって」という問題領域に完全に踏みとどまったまま、議論を深めることは不可能なのだ。そのような議論は、一見成功したように見えても、どこかで個人的な視点や自然科学的な知見を密輸入してしまっているはずだ。(例えば、優しさを持っているのが人間だ、という主張があったとしよう。だが優しさというものを定義するにあたっては、主張するその人が個人的に知っている優しさを用いているか、そうでなければ、客観的に自然科学によって記述できる優しさを用いているはずである。)

それならば、これから進む道は二つしかない。個人的な道筋に進むか、客観的で自然科学的な道筋に進むかの二者択一である。残念ながら僕は、動物倫理学が進んだような客観的で自然科学的な道筋では納得しきれないので、個人的な道筋に進むしかない。こうして僕にとっての肉食の問題は、「僕は肉食すべきか。」という極めて個人的な問題として立ち現れることになる。

6 議論の向き

ここからの議論では「僕は肉食すべきか。」という極めて個人的な問題をどこまで個人的な問題として純度を保って論ずることができるかが肝要となる。

当然ながら、ものごとを個人的な問題として論ずるにあたっては、個人的な視点を徹底することが重要だ。なぜそんな当然なことを強調するのかというと、議論というものは、複数で行う場合でも、このように一人で文章を書きながら行う場合でも、どうしても客観的な視点というものが混入しがちだからだ。そうならないように注意深く議論を進める必要がある。

議論の純度を保つための僕が最重要だと考える留意事項は、議論というものが本質的に有する双方向性にあえて意識を向けるということがある。議論というものは本質的に双方向的なものだが、双方向性は個人的な視点を純粋なかたちで保つことを困難にする。個人的な視点を保ちつつ議論を行うということには、避けがたい困難がある。もし完全に避けることができないならば、そこに意識を向け、双方向性という障害物からどのような影響を受けざるを得ないかを慎重に見極めるしかない。

さて、双方向性という障害物は議論のなかにどのように潜んでいるのだろうか。複数の人の間で行う議論を思い浮かべてもらえればわかりやすいと思うけれど、議論においては話す人と聞く人がいる。AがBに対して「私(A)はネコが好きだ。」と言ったなら、ネコが好きなのはBではなくAだ。だから「私(A)はネコが好きだ。」というAの言葉は、Bにとっては、「あなた(A)はネコが好きだ。」と理解される。Aが発した「わたし」という言葉をBは「あなた」と変換して理解する。AからB、BからAと議論の向きが変わるごとに、「わたし」という言葉は「わたし」と「あなた」の間で揺らいでいる。

同様に、「僕は肉食すべきか。」という、この文章の筆者(つまり僕)の問いは、この文章を読んでいるあなたにとっては、「(この文章の作者である)あなたは肉食すべきか。」として理解されるべきだ。だが、言葉が持つこのゆらぎに無頓着でいると、もしかしたら、あなたは「(この文章の読者である)私自身が肉食すべきか。」という問いとして解釈してしまうかもしれない。これはつまり、僕からあなたに向かうべき議論の向きを逆に取り違え、あなたは僕とあなたを同一視してしまったということである。これが双方性という障害物に衝突してしまった状況だ。

こうなってしまったら、あとは話が早い。僕とあなたは同じ人間であり、人間という種であり、DNA構成がこうなっていて、言語を使えて、道具を使える。つまり僕たち人間は動物倫理学的な主張に基づき、肉食を拒否すべきである。

そのような道筋に入り込まないためには、議論とは本質的に双方向で行われるものであることに留意し、議論の向きに留意し、個人的な視点から逸脱せず、議論の純度を保ったまま、議論を進めなければならない。つまり、「僕は肉食すべきか。」という問題は、どこまでも作者である僕の問題であり、読者であるあなたの問題ではない。あなたは僕の問題に何ら関わることはできない。ということになる。

だけど、このようにして純度を保つのはなかなか困難だ。そのように言われたら、きっと、読者であるあなたは、僕のそのような対応が面白くないだろうし、この文章を読み続けることすら止めたくなるかもしれない。

現に、ほとんどの哲学はそのような道には進まず、作者も読者も同列なものとして扱われ、読者は作者に置いていかれることなく議論は進んでいく。

だが、これこそが問題なのだ。「僕は肉食すべきか。」という極めて個人的な問題は、作者と読者を同列なものとして扱うような語り方では、その問題の本質を捉えることはできない。極めて個人的な問題を極めて個人的な問題のままに論ずるというのは不可能と言えるほどに難しいことなのだ。

7 権利という幻

だけど、厳格に作者と読者を切り分けたままでは、読者が面白くないだろうから、少しは柔軟に対応し、読者を大切にしたほうがいいかもしれない。(より重大なのは、僕は、作者としての私の時空的連続性も怪しいと思っていて、その意味では、私自身も一人称としての作者ではなく二人称的な読者性を含んでいると思っている。つまり厳密な一人称的な作者など、どこにもいないと考えていることになる。)

だから、多少譲歩して、作者と読者という区別ではなく、主体と客体という区別に置き換えてみよう。(永井均ならば、これは多少の譲歩どころではなく、決定的な問題の取り逃がしがあると言うだろう。)

そうすると、ここまで僕がしてきた話は、主体から客体へという議論の向きに意識的になるべきだ、という話になる。主体から客体へという議論の向きは一方通行であり、向きが逆転したり、その結果、両者の関係性が均されたりすることはありえない。世の中では、この議論の向きを軽視することによって様々な問題が生じているように僕には思える。哲学的な問題の多くは、主体と客体の同一視という問題に由来しているように思える。

その最たるものが、ここで取り上げている倫理の問題だろう。特に、権利や義務にまつわる問題は、個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方向性に留意することで、かなり見通しがよくなるのではないだろうか。

結論から言えば、主体と客体を区別する視点に立つならば、権利とは、どこにも実体を見出すことができない幻のようなものだと僕は考えている。まずはこの僕のアイディアを、主体から客体へという議論の向きに言及せずに説明してみよう。

例えば、僕が道を歩いていたら、いきなりバッグをひったくられたとする。そのとき、僕のバッグの所有権はどこにあるのだろうか。僕は泥棒に向かって「返せ!」などと叫んで追いかけるかもしれない。そのとき、僕は所有権に基づき叫んでいるのだろうか。どうも僕にはそうは思えない。そのときの僕は、ただ夢中で泥棒を追いかけていて、権利のことなど念頭にはないはずだ。

権利が登場するのは例えば、警察で泥棒にバッグを盗られたと訴えるような場面だろう。交番でちょっと間の抜けた警察官に事情を説明したところ、どうしてそんな主張ができるの、と問われたら、きっとその警察官に向かって「僕には権利がある」と怒鳴るだろう。権利とは、あえて登場する必要がなければ登場せずに済むものだ。あえて言なくても僕はバッグの所有権があることを前提に泥棒を追いかけるし、泥棒も同じ前提を共有して逃げる。それが問題となるのは、間抜けな警察官が登場したときくらいである。その警察官ですらも一旦権利について理解したならば更に権利について問いただすことはない。権利が言葉として登場するのは権利が権利として機能していないときだけである。

それでも権利が幻だとするのは否定が強すぎると思われるかもしれない。権利というものは潜在的には存在すると描写することも可能だという反論はありうる。なぜなら人は潜在的に心のどこかで権利を意識しながら生きているとも言えるのだから。

だけど実際には、潜在的にでも僕たちが意識しているのは、権利よりも義務だと言ったほうがいいように思える。たいていの場合バッグを盗まれないのは、所有権があるからではなく、泥棒(になるかもしれない人)の側に盗らない義務があるからだと言ったほうが適切なように思える。

なお、そのように義務優位の理解をしてしまうのは、泥棒は作為的であり、泥棒をしないことは不作為的だからだという反論もありえるだろう。泥棒をしないというデフォルトの不作為の状態と義務とが結びつくから、義務のほうが権利よりも表面化しているということになる。

しかしこの反論に対しては再反論ができる。例えば、待ち合わせの約束を守るといった作為的な義務がある。待ち合わせの時間に渋谷のハチ公前に行くよりも、このまま家で寝ているほうがデフォルト状態だけど、だからといって、待ち合わせを守る義務と、守らせる権利とのどちらが基本かと言えば、義務だろう。待ち合わせを守らせる権利を主張する前に、そもそも待ち合わせを守らなければならないという直感がそこにはある。つまり、作為、不作為に関わらず、義務がまずあり、権利とは、義務から反射的・派生的に生じる幻のようなものなのだ。

8 主体と客体

以上の議論の流れは少々複雑だし、ちょっと危うい不確かなところがあるように感じられるだろう。だけど、さきほど述べたとおり、個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性を重視することで、同じことをより明確に、より深く捉えることができる。やってみよう。

権利にせよ義務にせよ、主体の側にしか、それを帰することはできない。バックを盗まれた私であっても、約束の時間に合わせてベッドから起きようとしている私であっても、その私にだけ、権利や義務がある。泥棒やハチ公前で待っている友人には権利や義務はない。いや、人間なのだから泥棒や友人にも権利や義務はあると言いたくなるかもしれない。常識的にはそのとおりである。だけど、個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性を重視するならば、そのようなことは言えない。着目できるのはあくまで主体だけであり、泥棒や友人のような客体に対して何かを帰することなどできない。

非常識だと思うかもれないが、個人的な観点を徹底するならば、このような帰結となることは明確である。明らかに、客体としての誰かに権利や義務を帰することなどできず、ただ主体である私にしか権利や義務を帰することはできない。私以外の人間一般、つまり客体にまで幅広く権利や義務といったものを帰することができるように思えたのは、主客を混在化し、私を「私たち」に読み替え、人間一般の権利・義務のようなものを措定するという常識的な道を歩んでしまったからである。

常識的な道を外れることに抵抗があるかもしれない。だが、常識的な道をそのまま突き進んでも、待っているのは動物倫理学という茨の道だ。動物倫理学とは、何か大事なものを取り逃がしながら、その大事なものについて決して気づくことはできないという点で、倫理学の袋小路だと言ってもいいと僕は思う。

9 主体の権利

常識的な道から離れ、個人的な観点を徹底し、主体にしか義務や権利を帰することができないことを受け入れたとしよう。では、「権利を主体に帰する」とはどういうことだろうか。

「義務を主体に帰する」ならばよくわかる。主体としての僕には泥棒をしない義務や待ち合わせの約束を守る義務がある。それらの義務を意識的にでも無意識にでも胸に留め、僕はそのように生きている。主体である僕は言われなくとも様々な義務とともに生きている。

一方で、「権利を主体に帰する」とはどういうことか僕にはよくわからない。確かに常識的には僕にはバッグの所有権があるし、友人に約束を履行させる権利もあるだろう。だからといって僕は権利に基づき泥棒を追いかけ、約束に遅刻してきた友人を叱責しているのではないという実感がある。僕は日々の生活において、権利を使っていない。

これは自由という概念を介在させたほうが伝わりやすいかもしれない。

僕の義務は僕の自由を制限している。泥棒ではない人にむやみに追いかけないという義務に従うかどうか決定するにあたって、僕は自由ではない。僕に義務があるならば、その義務には従うべきだ。

一方で、僕の権利は僕の自由を制限しない。僕に泥棒をおいかける権利があるとしても、追いかけるかどうかは自由である。権利があっても追いかけないかもしれないし、より重要なことは、権利がなくても僕は追いかけるかもしれない。権利は僕の行動に何の影響も及ぼさない。

いや、権利や義務の有無を考慮して人間は生きている、という反論はあるかもしれない。権利がないのに人を追いかけたりしたら、警察に捕まってしまうかもしれない。そのようなリスクは考慮に値する。

だが、僕が言っていることはそういうことではない、あくまで僕は純粋に個人の視点に立っている。僕がここで想定しているのは、主体である僕が僕自身に対して課している義務であり、僕が僕自身に対して認めている権利のことである。人は自分自身に対して課した義務からは絶対に逃れることはできない。義務を履行しないことはできるが、その場合には罪悪感という罰が課される。一方で、自分自身に対して認めた権利は何らその人の行動に影響を及ぼさない。もし影響があるとしたら、それは、自分自身に対して認めた権利を超えたことをしてはいけない、という義務だからである。権利を自分自身に認めるということには何の意味もない。

以上のように考えるならば、義務と権利を同列に取り扱うことはできないことは明らかだろう。義務は主体に帰するものだが、権利はそのようにはなっていないのだ。

では権利はどこに登場するのかと言えば、客体の側である。主体である僕は約束を守るという義務を抱えているとき、その約束の相手である友人という客体に、権利という幻を見るのだ。僕がバッグを欲しがっているときでも同様だ。僕はむやみにバッグを盗らないという義務を抱えつつ、バッグを陳列している店や新品のバッグを持っている通行人に所有権という幻を見ている。重要なのは、僕はここで個人的な一方通行の議論をしているから、僕がその客体の側に立つことは不可能だということである。だからどこまでも主体である僕は権利を理解することはできない。

10 脱線1:主体の義務・言語の限界としての他者への配慮・自由

(この章は、書いてはみたものの、議論の流れとしては余計なものなので読み飛ばして結構です。)

主体である僕は権利を理解できない。だが、先ほど、泥棒をすべきでないというような義務については理解できるとした。ここでの義務とは他者への配慮と言い換えることもできるだろう。

 だけど、どこまでも主体的である僕に、義務、つまり他者への配慮の何を理解できるというのだろう。主体から客体に向かうベクトルの一方通行性を思い起こすならば、僕は客体つまり他者の側に立つことはできない。他者の側に立つことなく、他者についての何がわかるというのだろう。

 明らかに僕は、他者という、本来わかるはずがないものをなぜかわかってしまっている。これはつまり個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性に留意した議論にとどまることに失敗しているということである。僕は純粋であるべき議論のなかに、客体に原点性を認め、客体を原点として主体に向かう逆向きの議論を混入させてしまっている。だから他者への配慮や義務といったものに言及することが可能となってしまっている。これはつまり、先ほど、権利は幻だと述べたよりも更に根源的なレベルにおいて、義務についても本来言うことができないはずのことを言っているという問題が生じてしまっているということである。

 この問題は、明らかに、先ほどの妥協、つまり作者と読者という視点から、主体と客体という視点への移行が影響している。だから、この義務の成立の問題はかなり根源的であり、他者や言語といったものの成立と、ほぼその起源をともにしているものだと言えるだろう。「個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性に留意した議論にとどまる」というスローガン自体が、他者も理解可能な言語で表されているし、個人と他者という二項対立を前提としたものである。それならば、そこから他者への配慮という意味合いでの義務が導入されるのは必然だとも言えるだろう。

 そして蛇足として付け加えるならば、このような最小限の描写としての義務から、自由という概念が生まれる。ここでの自由とは、他者への配慮という意味での義務に衝突しない範囲内で確保される選択肢のことである。

 僕の見立てでは、この地点こそが倫理学における言語の限界ではないかと考えている。この地点こそが、義務・自由・他者・言語といったものが一挙に立ち上がるようなビッグバンである。ビッグバン以前を語ろうとすると、言語で言語を語るという意味での困難が生じ、言葉が空回りしてくる。

 ただし、この文章で僕が強調したいのは、主体の権利と義務のうち、義務については言語の限界の瀬戸際での議論が必要だが、権利はそうではないということである。権利については、通常の議論の道具立てのなかで、個人の視点を純化して捉えることにより、それが幻であることを明確に解き明かすことができたと僕は考えている。(よって次章以降は、この章での議論は引き継がない。)

11 主張することの問題

 ここまでで明らかになったのは、個人的に一方通行的に捉えるならば、客体には権利も義務もないということ、そして、主体には義務はあるが権利はないということだ。まとめると、つまりは主体の義務しかないということだ。

 そこから客観的に双方向的に捉えていくことで、主体の義務から反射的・派生的に客体の権利が生じ、そこから類推するようにして、主体の権利や客体の義務といったものも生じることになる。

 では、一旦このようにして常識的な義務・権利システムが構築されてしまったら、ここまで僕が行ってきた議論は全く無意味なものとなってしまうのだろうか。ここまでの僕の議論を何らかのかたちで活かすことは全くできないのだろうか。

 僕はこの義務・権利システムにはもうひとつの突破口があると思っている。

 それは「権利を主張する」という言い方のおかしさである。

 さきほど確認したように、義務・権利システムの出発点は、主体の義務にある。つまり主体である僕が「(私自身の)義務を主張する」とは言える。そこから客観化し、双方向化する過程のなかで、僕は「(客体であるあなたの)権利を認める」とも言えるだろう。なぜなら義務から反射的に創造されるものとしての権利を認めるのだから。更には、主語が僕からあなたに譲り渡されることにより、あなたは「(あなた自身の)義務を主張する」と言えるようになるし、更には、あなたは「(あなた自身から見た客体としての私の)権利を認める」とも言えるようになるだろう。このように義務と権利は世界中の人に確かに拡大していく。

 だけど着目してほしいのは、この過程のなかで生じるのは、あくまで「義務を主張する」と「権利を認める」のペアだけだという点である。そこには「義務を認める」や「権利を主張する」はない。にもかかわらず(「義務を認める」はあまり使われないので無視すると)世間では「権利を主張する」という言葉が広く用いられている。そこに何らかの誤解があるのではないだろうか。

12 ルサンチマン・内省

ニーチェだったらこの誤解を、ルサンチマンと呼ぶのかもしれない。ニーチェ的に述べるならば、弱者は、あえて権利と義務を転倒し、本来できないはずの「権利を主張する」ことを可能とし、弱者ならではの武器を発明したということになる。

 強者であれば権利を主張する必要などない。腕力に自信があるならばバッグを盗られたなら追いかけて取り返せばいいし、部下が約束の時間に遅れたなら、ただそのことを咎めればいい。だけど弱者はそうはいかない。女性が男性の強盗に抵抗することは難しい場合が多いだろうし、上司が待ち合わせに遅れても、多くの部下は異議を唱えることはできない。腕力や人脈や権力という面での強者ならばなんでもないことでも、弱者は何ら対処できず、そんなとき、弱者はおとなしくしているしかない。

 だけど弱者であっても、権利を主張することでなんとかなる場合もある。盗難を警察に届け出たり、裁判を起こしたりして、法的に救済してもらう余地はある。きっと法制度というものが「権利を主張する」制度なのだろう。または法制度に頼ることができなくても、権利を主張することで、悪いのは相手であり、力が足りなかった自分ではないと自分を慰めることはできる。

 だから「権利を主張する」に至った経緯には、やむを得ない面もある。だが忘れてはならないのは、先ほどの考察を踏まえるならば「権利を主張する」ことは端的に誤りであり、あくまで方便であり、次善の策であり、必要悪でしかないということだ。

 では、どうすればいいというのか。僕が提案するのは内省だ。内省については最近書いているので詳細は省略するが、簡単に言うと、理想的には、強者も弱者も「権利を内省する」ことでルサンチマンを経ずとも強者と弱者の間に横たわる問題は解決すると僕は考えている。権利は主張するものではなく、内省するものなのだ。

(内省については、『オリンピック開会式をネタにしてウィリアムズの道徳について考えてみた』(http://dialogue.135.jp/2021/07/23/janaihou/)で書いています。)

13 肉食の倫理学的問題

ここまで、個人的な視点を徹底するため、議論というものが本質的に有する双方向性にあえて意識を向け、主体から客体へ向かうベクトルの向きに留意し、個人的な視点から逸脱せず、議論の純度を保ち議論を進めることにより、どのようなことが導かれるのかを見てきた。

その帰結は、倫理学的には、客体の権利・義務や主体の権利というものは導くことはできず、主体の義務しか導くことはできないというものであった。また、そこから義務・権利システムとしていくら拡張しても「権利を主張する」ことは導けないというものであった。更に、その対応としては、現実にはルサンチマン的に「権利を主張する」ことはやむを得ないけれど、理想的な対応としては「権利を内省する」べきだと僕は考えている。

 では、そのような知見を踏まえて冒頭の問いに戻りたい。さて僕は肉食すべきなのだろうか。

ここでまず留意すべきは、この問いは主体である僕だけの極めて個人的なものだという点である。つまりこれは、一義的には、主体である僕にとっての義務の問題である。そこではまだ義務・権利システムは立ち上がっていないから、反射的に生じるだろう客体の権利や、そこから更に派生するだろう主体の権利や客体の義務といったようなものは未だ存在しない。

この地点に立ち止まり、そこから先に進まないならば、この問いに対する答えは、僕は肉食をしてもよいし、しなくてもよい、というものになるだろう。なぜなら、そこにはそれ以上の議論の材料がないからだ。そこにあるのは好みや選好とでも呼ばれるような非哲学的な材料だけである。それならば好きにすればよい、ということになる。僕は僕自身の好みに応じて肉食したりしなかったりすることになる。

このままでは議論にすらならないのでもう一歩進み、義務・権利システムを立ち上げてみよう。そこは、僕の義務だけが佇んでいるようなさきほどまでの寂しい世界ではなく、義務や権利があふれる世界であり、それはつまり、生々しい他者が存在する世界でもある。だが注意しなければならないのは、そこにはまだニーチェ的なルサンチマンはなく、だから「権利を主張する」というような事態は生じることがないという点である。そこには確かに動物の権利はある。だけどそれは、あくまで主体である僕が動物を保護する義務があると考える限りにおける反射的な権利である。だから、その権利は主張されることはない。これはつまり、動物福祉的な捉え方のことである。この段階で僕は動物福祉的な考え方を手に入れることができたということになる。

更にもう一歩進むならば、僕はついにニーチェ的なルサンチマンを手に入れ、「権利を主張する」ことを覚える。これはつまり、完全に主体と客体を同一視し、自他を同一視するということである。ここで「僕は肉食すべきか」という極めてプライベートな当初の問いは「僕たち人間一般は肉食すべきか」という問いに変貌することになる。つまりここからは、自然科学的に基づく動物倫理学の道を進むことになる。このように、自然科学的な動物倫理学に進むプロセスとニーチェ的なルサンチマンにより「権利を主張する」こととなるプロセスが完全に同時並行で進行するのは偶然の一致ではない。動物の倫理学が、自然科学を武器にして、動物の権利を主張するものであることは必然なのだ。

なお、先ほど僕は、ルサンチマン的に「権利を主張する」よりも、もう少し上品に「権利を内省する」ほうが望ましいということを提案した。だけどそれでも、ここまでのプロセスは大きくは変わらない。ただ、動物の倫理学が、自然科学を武器にして、動物の権利を内省するものへと変貌するだけである。

僕が倫理学的に考察できるのはここまでである。このような知見を活かして、僕は肉食に対してどのように向き合うべきなのだろうか。更に考えてみよう。

14 肉食の実践的問題

 ここまでの整理で、倫理学的問題は、①完全に個人的な領域、②義務権利システムは立ち上がっているけれども完全には自他が同一視されていない領域、③完全に自他が均され自然科学だけが正当性を持っている領域、という3つの領域に分けて扱うことができることが明らかになった。

 さて、実践的に僕は肉食についてどうすべきなのだろうか。

まず、①完全に個人的な領域においては、僕は僕の好み・選好・直感を重視するしかないと思う。僕の肉食の問題の出発点は、工場式畜産に対する嫌悪感だ。僕が『はじめての動物倫理学』を読んでつくづく感じたのは、第二次世界大戦以降主流となっている工場式畜産には特有の倫理的問題があり、大昔からの「生きるためには殺さなければいけない」論理は通用しなくなっているということである。確かに僕たちは、生きるために仕方なく、ではなく、ただ少しでも食費を安く上げるためだけに、不必要に劣悪な環境で動物を飼育するという倫理的な罪を犯している。僕はこの直感を大事にしたい。

ただし、僕はそれ以外にも色々な直感を持っている。僕は、美味しいご飯を食べて人生を楽しく生きるべきだと思っているし、動物だけでなく人間のことも大事にすべきだと思っている。それらとうまくすり合わせるべきという直感もある。

僕はこれらの直感に基づき、ToDoリストに「工場式畜産により育てられた動物の肉はなるべく避けるようにする。」と書き入れることにしよう。

次に「②義務権利システムは立ち上がっているけれども完全には自他が同一視されていない領域」において重要なのは、どこまで、僕が先ほどの直感を丁寧にシステム化することができるかどうかであり、僕だけではなく、世の中の人々にも適用できるようなかたちで一般化できるかだと思う。

ここで役立つのはウィリアムズの近接性の議論(『メンタリストDaiGoの話』(http://dialogue.135.jp/2021/08/14/daigo/)で書いています。)だろう。例えば、友人との待ち合わせのために歩いていたら、溺れる子供を見つけたような場合、友人との約束の時間までに待ち合わせ場所に到着する義務よりも、子供を見殺しにしないという義務のほうを優先する。ウィリアムズによれば、これは対立する二つの義務のうち、より近接性の高い義務を優先したということである。

動物と人間とのいずれかを選んで助けなければならないとき、または、動物のなかでも、飼っているネコと見たこともない家畜とのいずれかを選んで助けなければならないとき、毛が生えて温かい哺乳類と昆虫とのいずれかを選ばなければいけないとき、僕はきっと、人間を、飼っているネコを、哺乳類を選ぶだろう。それは、ウィリアムズの言う通り、自分に近いかどうかという近接性に基づく判断があるように思える。この近接性という視点だけでどこまで完璧にシステム化できるかはわからないけれど、かなり有効な戦略であることは確かだと思う。僕はこの知見に基づき、ToDoリストに「工場式畜産により育てられた動物の肉はなるべく避けるようにする。自分に近いと僕が思う動物の肉はなるべく避けるようにする。(哺乳類よりは魚類、魚類よりは昆虫を食べるようにする。)」と書き加えることにしよう。

最後に「③完全に自他が均され自然科学だけが正当性を持っている領域」において重要なのは、やはり「権利を内省する」ことだろう。ここでの内省とは要は、他者とであれ自問自答であれ、権利についてしっかりと議論することだと言い換えてもいいだろう。(議論という言葉を使うならば、「内省する」とは議論であり、ルサンチマン的な意味で「主張する」ことも議論の一種であるという点で、内省と主張との間には大差はない。ただし、内省は受容的であるのに比べて、主張は攻撃的であるという意味で、その態度だけが決定的に違う。他者との共同作業がうまくいくのは当然、受容的なほうである。その意味では、議論よりも対話のほうが好ましい表現かもしれない。)

(議論というより)対話という視点から考えるならば、ここで考慮すべき他者とは、ともに対話を深め合うことができる人間だけである。動物とは対話ができないから、動物は他者ですらない。そうすると、ともに対話をする存在である人間は尊重すべきだが、ともに対話をできない動物のことは尊重しなくていいということになる。

だが本当にそうだろうか。他者との対話は言葉でしかできないものなのだろうか。言葉が通じない他者は殺しても構わないのだろうか。そのことを考えるために動物と対話を行おうととする場面を想像してみよう。僕個人の感覚で申し訳ないけれど、僕はそのとき動物の眼差しを思い出す。動物とは言葉は通じないけれど、動物とはその眼差しで対話することができる。そんな気がする。いや、それでは十分ではないだおう。では目がない動物ならばどうなのか、とった疑問が生じた場合のことも考えて更に踏み込んで述べるならば、動物とはその全存在をかけて対話することができる。僕はそう思う。

そこで僕はToDoリストに「工場式畜産により育てられた動物の肉はなるべく避けるようにする。自分に近いと僕が思う動物の肉はなるべく避けるようにする。(哺乳類よりは魚類、魚類よりは昆虫を食べるようにする。)心を通わせることができるように思える動物の肉はなるべく避けるようにする。」と書き加えることにしよう。このようにして出来上がったToDoリストが今回の考察の成果だ。

大事なのは「なるべく」という言葉だ。僕にとっては、家族や友人と円滑に社会生活を営んだり、美味しいご飯を食べたりすることも大事だ。そういうときは躊躇なく、楽しく肉を食べたいと思う。そういう考え方を、最近はフレキシタリアンとか、ゆるベジとかと呼ぶらしい。長々と書いた割にありがちな結論になってしまいました。すみません。

15 脱線2:環境倫理学・想像力

 (この章は脱線なので、読まなくて結構です。)

 「なるべく」という結論になってしまうのは、きっと、倫理的には、動物のことだけでなく、色々なことを考慮する必要があるからなのだろう。動物倫理学に近いものとして『はじめての動物倫理学』でも取り上げられているのが環境倫理学だ。動物も環境の一部ではあるけれど、人間に似た存在のである動物という視点ではなく、環境を環境そのものとして考慮しようとするのが環境倫理学だ。環境倫理学によれば、動物だけでなく生態系としての環境そのものも考慮しなければならない。

 僕の気力はもう限界で、環境倫理学の考察にまで手を出すことはできないが、僕がこの本を読む限り、田上の環境倫理学批判は成立しておらず、環境倫理学にはもう少し引き出せるものがありそうだと思う。

 環境倫理学に関わることとして、その手前の問題として書き残しておきたいのは、やはり、倫理とは想像力の問題なのだなあ、という実感である。

僕は①完全に個人的な領域、②義務権利システムは立ち上がっているけれども完全には自他が同一視されていない領域、③完全に自他が均され自然科学だけが正当性を持っている領域、という3つの領域を進むようにして議論を進めてきたけれど、最も重要なのは①完全に個人的な領域であり、その領域における限りでの個人的な選好や直感というべきものである。今回の話でいえば、工場式畜産に対する嫌悪感である。この嫌悪感が議論を駆動し、僕をここまで連れてきてくれた。

この嫌悪感は想像力の賜物だとも言えるだろう。僕は工場式畜産の悲惨な状況で飼育される動物のことを想像し、想像力により堅固なひとつの物語を作り上げた。この想像力を根源的な力として、倫理が駆動している。

今回、想像力は工場式畜産に対する嫌悪感を生んだけれど、きっと、想像力は、それとは全く別に、生態系の美しさ、完全さへの憧れのようなものを生むこともあるだろう。そうしたら僕は環境倫理学的な思考をするのかもしれない。なんとなく、環境倫理学に対しては、そんな可能性を感じる。想像力は色々なものを生み出す可能性を秘めている。

なお、僕の想像力は、そんなに上品なものばかりではない。例えば、僕は女性に対する征服欲のような想像力だって持っている。そんな想像力だって、非倫理的という意味での倫理を駆動する力を持っている。善いにせよ悪いにせよ生きる道筋を決めることが倫理なのだとしたら、そこで多種多様な想像力が重要な役割を果たしているのは間違いないと思う。僕は色々なことを想像し、色々な物語をつくりあげ、複数の物語に折り合いをつけ、それぞれの物語を「なるべく」尊重するようにして生きているのだろう。

動物倫理学」への3件のフィードバック

  1. 波多智子

    記事を拝読しながら、長谷川町子さんの、サザエさん打ち明け話の挿話を思い出しました。
    戦時中、町子さん一家は鶏を飼っていました。立派な鶏冠があり、人間には媚びない孤高の風合いの鶏です。町子さんは、ある日、姉が庭に出ているとき、彼が姉に向かって猛然とつつきに行く姿を目撃します。町子さんは、普段から彼に餌をあげているのですが、つつかれたことがありません。
    ふむ、と考えた町子さんは、姉の着物を着て庭に出てみます。すると、それに気が付いた彼は、猛然とつつきに来ました。
    町子さんは、次に、自分の着物を着て庭に出ます。彼は、町子さんに気が付きますが、つつきに来ません。町子さんはこれを、数回繰り返して、鶏は、着物の柄を見極める、と結論します。
    町子さんは、彼を大層気に入り、この孤高の鶏を愛でます。
    ある日、遠くから親戚が訪ねて来ます。町子さんのお母さんは、その親戚をもてなす為に、この鶏を鳥鍋にしてしまいます。
    町子さんは、それを知って彼の為に泣いたそうです。
    このお話は、まさしく、町子さんとある鶏との、個人的なお話です。
    工場大量生産の現代では、ほとんど聞かないお話ですね。動物は、工場製品です。そこに、命であるとか、人間と同じように生きる権利を有した生き物である、というのは、動物を製品にしてしまったのと同じ、人間側の理由付けだと思います。
    動物が、人間のように、決起し、権利を叫び、待遇改善を求める運動や騒動を起こすとき、はじめて、権利が生じます。
    でも、それをすることはあり得ませんし、彼らは仲間の惨状を見ても見ぬ振り、というか何もしません。
    面白いてすよね、人間には、動物を、自分の都合のいいように扱うことができます。
    可愛がることも、虐待することも、製品として効率よく生死をコントロールすることも、なんでも出来ます。
    動物と人間の歪んだ関係は、ペットという存在や動物園の動物にも当てはまります。
    うちにも、猫がいます。彼はかれこれ11年生きていますが、去勢され、狭い家に閉じ込められ、憧れるかのように、窓から外の世界を眺めます。
    人間の考えた理想の命を生きています。
    色々なことを考えさせられました。興味深い記事をありがとうございました。

    返信
    1. user 投稿作成者

      読んでいただきありがとうございました。
      うちにもネコがいますので、ペットの問題も考えちゃいますね。
      「憧れるかのように、窓から外の世界を眺めます。」というのは僕も感じます。
      ただ、その描写さえも人間が考えた物語とも言えるんですよね。
      人間が押し付けた幸せという物語というのか。なんとか思考で動物のことを捉えようとしても、それは人間が勝手に考えた物語に過ぎない、となる。
      動物が逃げ水のように無限後退して遠ざかっていく感じ。
      あと、どうでもいいけど、長谷川町子さんは服を着替えて実験するなんて面白い人なんですね!

      返信
      1. 波多智子

        お返事をありがとうございました。
        アリストテレスは奴隷必要論を説いたと聞いたことがあります。
        私は駅掃という仕事で湖口をしのいでいます。お客さんの捨てたゴミを片付け、汚したトイレを綺麗にし、げろを拭き取ります。
        まさしく、奴隷の仕事です。ですので、彼の奴隷必要論には賛成です。
        社会生活を営む上で、誰かの後始末をする仕事は、都市が発展すればするほど必要になります。
        人権というそれこそ幻のような概念のお陰で、最低限より少しいい位の生活が出来ます。
        そうした私には、安いお金で買えるお肉は有難いです。
        いつ何時スーパーに行っても、お肉コーナーにはいつでも様々な形のお肉が並んでいます。それは、はっきり言っても、異常で異様な光景です。恐らく日本全国、流通の発達している地域はどこも同じではないでしょうか。
        旬のものなんて高級品と化しています。
        人間のこの、宙に浮いたような、灰汁のような暮らし方は、豊かさと呼ばれて久しいですよね。
        こんな暮らし方をしていたら、死ぬのが怖いのも当たり前のように思えます。
        灰汁のように社会に浮いているのですから、いつ、掬われて捨てられるか分からないあやふやさは、自分がまるでモノのようになった気分です。
        かと言って、自分で食べ物を収穫するとか、動物を捌いたりなんて暮らしに戻るわけにもいきません。
        テレビを見ていたら、養鶏場の悲惨な状態を扱った番組をやっていて、橋下徹さんが、今すぐ改善はできないけれど、僕たちはそうした動物に感謝の気持ちを忘れちゃダメですよね、なんて言ってました。
        それこそ、それは、他人から強要されるものではありません。
        宗教は、その役割を果たしていましたね。強要だとか強制ではなく、暮らしの中に当たり前のように伝統として、礼儀として、作法として染み通っていました。
        工場の大量生産には、そんな価値観は賦与される余地すらありません。
        辺見庸さんか、キリスト教の尼さんが、難民に食物を分ける前に、祈りを捧げることに苦情を書いていました。曰く、いい匂いの漂う中、腹がぐぅぐぅ鳴っているのに、丸でじらすかのようにお祈り、それも長い祈りなんて、いらないだろ。
        嗚呼、私もこの人と同じだと思いました。食べる、食べられるという幸いに、何の感謝も抱いていない、食べられることを当たり前の権利のように思い込んでいる。
        連綿と続く人間の歴史のほんの一隅に生きる私は、確かに個人ではあるけれど、決してひとりきりではないとこの頃思います。

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