月別アーカイブ: 2021年10月

ネコの調子が悪くなって考えたこと

0 はじめに

昨夜、飼っているネコの調子が悪くなった。慌てて夜間でもやっている救急病院に連れて行ったところ、原因は不明とのことで様子見となった。診察料30000円+タクシー代6000円がかかってしまったし、なんだか寝不足だ。ネコは今のところ元気そうだけど、何かあるかもしれないとちょっとドキドキしながら見守っている。新しく買った自転車を整備して出かけようなんて思っていたけれど、そんな気になれない。ネコはそんな気持ちなど知らず、どこかに隠れてしまっている。どこにいるのだろう。

ということで、なんだかマイナスな出来事が多かったので、少しでも取り戻すため、そのなかで思いついたことを書き残しておくことにする。

(1と2はそれほど難しくない割にいいことを言っているような気がするのでどうぞ読んでください。3と4は自分の土俵に入り込んだ独りよがりな議論だから、読み飛ばしてもらったほうがいいような気がします。)

1 ネコ中心主義

昨夜、ネコのことを心配しつつ布団に入り、ネコの病気や治療法についてスマホで調べながら、ふと、こんなことを考えた。ネコを心配しているのは、ネコのためなのだろうか、自分のためなのだろうか。ネコは病気を治療してもらいたいのだろうか、僕が治療させたいだけなのだろうか。ネコの病気を治療することの価値はどこにあるのだろうか。

このような複雑に入り組んだ問題について、その問題に巻き込まれた当事者(つまり僕)が、少しでもその問題を解きほぐすためには、適切な思考実験が有効だろう。

目の前に神様が現れたとする。神様が僕に問いかける。「このネコは近いうちに、1%の確率で死んでしまう可能性がある。だが、もし私(神様)がこのネコを別の世界に連れていったなら、そこでは100%、この家で過ごすのと同じように生き続けることができる。さて、君はこのネコを手放すかい。」つまり、この神様は、このネコ自身の幸せと、僕がネコと一緒にいることによる僕の幸せを天秤にかけ、どちらかを選ばせようとしている。

1%という僅かな差であるところがミソである。これが、死んでしまう確率が50%とかなら多分、ほとんどの飼い主はネコを手放すだろう。もし、1%だとうまくなければ、5%とか0.1%とか、ちょうど、悩んでしまうような数字に置き換えてください。

昨夜、僕は布団に入りつつそんなことを考え、0.1%でも、0.01%でも、ごくわずかな差であっても、ネコと別れ、神様に託すことを選ぶのだろうなあ、と思い至った。ネコ自身の幸せを最優先に考えるということが、きっと、飼い主であるということであり、親であるということだろうからだ。無理をして理想的な飼い主や親になろうと心がけるのではない。自ずとそういう判断をするということこそが、きっと、ネコを飼うということなのだろうと思う。

そのように整理したら、少し楽になった。僕はネコの幸せだけを考え、ネコのためにできることを、ただ事実としてやればいい。ネコのことを心配して思い悩むことなんてネコは求めていない。ただ金だけ出して、動物病院に連れていき、専門家の判断に従うということだけをすればいい。ネコを心配しながら見つめる必要などなく、ただネコに異常がないかどうかを事実として観察さえすればよい。あとは楽しくネコと過ごせばいい。ネコを心配し、ネコを救うという結果に執着するということは、つまりネコと一緒に暮らすという自分に執着しているということであり、それは全くネコのためにならない。僕が確保すべきは、自分中心ではなく、ネコ中心の視点なのだ。つまりネコ中心主義である。

2 人格の触れ合い

 だけど、そこでふと考える。神様は、別の世界にネコを連れていった後、そこでどのようにして、この家にいるのと同程度に幸せにするのだろうか。きっと、神様は、そこで、この家のコピーを作り、僕や妻のロボットも作ってネコの世話をさせるのではないだろうか。だけど、偽物の家と偽物の飼い主と過ごして、ネコは本当に幸せなのだろうか。

 この疑問の根底には、幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれるという考え方がある。ネコだから正確には人格とニャン格の触れ合いによって幸せは生じるはずだ。そこに僕や妻という人格が確かにあるからこそ、ネコは幸せになることができる。

それでも、神様は完璧なロボットを作るのだから、そこに人格が宿るという考え方もできるかもしれない。だけど、その場合ですら、神様が人格を持っているからこそ、ロボットに人格を吹き込むことができるとも言えるだろう。つまり、ロボットの僕とは神の似姿のことであり、そこには、ニャン格と神の人格(神格?)との触れ合いが確保されているからこそ、ネコは幸せになることができる。

ややこしいので、ニャン格も神格も人格に含めるならば、やはり、幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれるということになる。これを幸せの法則と呼ぶことにしよう。ネコの調子が悪くなり、僕はそんなアイディアを思いつくことができた。悪いことばかりではない。

3 哲学的蛇足1:別の時点の自分自身という人格

ただし、これには反論があるだろう。人間は誰とも触れ合わず、独りであっても幸せになる道筋があるはずではないか。例えば、無人島にいても、思い出に浸ったり、無人島から脱出した未来を思い描いたりして幸せになることはできるのではないか。

僕もそれは認める。だけどそれもやはり、未来や過去の自分自身という人格との触れ合いだと言えるだろう。時空的に連続する自分自身の存在という先入観があるから見えにくくなってはいるけれど、あえて時間による断絶を強調して捉えるならば、そこにあるのは別の時点の自分との触れ合いだとも言える。だから、この場合も「幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれる」という幸せの法則からは逸脱していない。

(僕は、異なる二時点間での人格の触れ合いというあり方こそが、時間は連続しているけれど、時間は断絶もしている、という時間の不思議なあり方をかたちづくっていると思っている。)

4 哲学的蛇足2:内側から湧き出る幸福感

更に、たとえ無人島に独り、他の時点のことを思うことなど全くなくても(つまり過去を思い出したり、未来を思い描いたりしなくても)、きれいな景色を見たときなどには、唯一の時点で、ただ独り、幸せになることもできる、という反論があるかもしれない。この、きれいな景色を見たときの幸せは、きっと、瞑想やマインドフルネスのときに感じるとされる幸福感に似ている。ただ内側から湧き出る幸福感である。

瞑想と異なり、きれいな景色を見たときの幸せについては、景色を見るという原因と幸福感が生じるという結果、つまり因果関係があり、その点で異なるとも言える。だが、原因と結果という二つの時点を認めてしまったら唯一の時点とはならなくなってしまう。唯一の時点にこだわるならば、やはり、きれいな景色を見たときにあるのは、瞑想と同じく、ただ内側から湧き出る幸福感であるはずである。

では、この内側から湧き出る幸福感とは、先ほどの「幸せは、人格と人格の触れ合いによって生まれる」という幸せの法則の例外なのだろうか。

これに対しては、まず、内側から湧き出る幸福感と人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せという二種類の幸せがあるのだ、という対応がありうるだろう。または、更に強く、人格と人格の触れ合いによって生まれるものこそが幸せであり、内側から湧き出る幸福感は「幸せ」ではない、とする対応もありうるだろう。

僕は後者の対応をとりたい。なぜなら、独り・唯一の時点ということにとことんまでこだわるならば、そもそも、「幸せ」という言葉を用いることはできないはずだからだ。言葉というものは、別の人格か、または少なくとも、別の時点の自分自身の人格というものを措定しなければ存在することはできない。ただ独り、唯一の時点において生じた内側から湧き出る幸福感に、「内側から湧き出る幸福感」という名前をつけることはできない。それは幸せという言葉で捉えることなどできない何かである。

一方で、人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せは、明確に言葉で捉えることができる。言葉で捉えることができる幸せこそが幸せと呼ぶに相応しい。

以上の考察は、人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せと、瞑想によって生じる内側から湧き出る幸福感(とも呼べない何か)の間には大きな違いがあるということ以上のことを指し示しているように思える。人格と人格の触れ合いによって生まれる幸せとは、つまり、言葉を用いることができるという幸せのことなのではないだろうか。僕は人と語り、ネコと語り、冒頭での思考実験のように神とも語り、この文章を読んでいるあなたとも語っている。だからこそ僕は幸せに生きている、ということなのかもしれない。

○○をしたい

1 「したい」と「するべき」

ヨガ教室の先生から、「したい」と「するべき」の違いについての話があった。僕なりの理解だと次のような話だった。

自分の内側から湧き出るような「したい」と外側から押し付けられるような「すべき」のバランスをとるかたちで人は生きているけれど、今は、コロナでそのバランスが崩れ、皆「するべき」ばかりで生きているからストレスが溜まっています。だから時々は身体の声を聞いて、「したい」ように身体を動かしましょう。

僕は納得しつつ、この話には続きがありそうだと感じた。「したい」や「するべき」とは、そもそもどういうことなのだろうか。通常、「したい」や「するべき」は単独では用いられず、食事をしたい、仕事をするべき、というように、具体的なものごととセットで○○をしたい、○○をするべきと表現する。では、食事や仕事というような具体的なものごとなしに、純粋な「したい」や「するべき」を取り出すことはできるのだろうか。

「するべき」については、○○をするべき、ではない純粋な「するべき」などないように思える。仕事や家事というような具体的なものごとを思い浮かべることなしに、ただ「するべき」という感覚を持つことは難しい。最も近いのは、長期の休みで時間があり余っているのに、このままじゃまずいから何かをするべきと思いつつ、何もせずゴロゴロしているときの感覚かもしれない。ただ、そういうときも、たいていは、具体的なやるべきことをわかっていつつ先送りしているか、「するべきことを見つける」をするべきと思っているかのどちらかだろう。

一方で、「したい」については、○○をしたい、ではない単独の「したい」がありうるように思える。深酒もせずによく寝た翌日の休日の朝、気持ちよく晴れた空を見上げたとき、または、海外旅行で入国審査を終え、空港でタクシーに乗り込み、異国情緒に溢れた街並みを窓越しに眺めたとき、僕は具体的なものごとと結びついていない、ただ「したい」を感じる。実際にはそこから具体的なスケジュールを考え、サイクリングに行ったり、美術館に行ったりするだろう。だけど、朝の目覚めの時や空港からのタクシーのなかでのひとときに感じる「したい」は、サイクリングをしたいではないし、美術館に行きたいではない。そこにあるのは、何かが新しく始まることへの漠然とした期待と高揚感のようなものだ。

このように考えると、「したい」には、気持ちのよい朝や海外旅行初日に感じるような、単独の「したい」と、食事をしたい、サイクリングをしたい、というような特定のものごとと結びついた「○○をしたい」という二通りがあるということになる。

つまり、特定のものごとと結びつかない場合があるかどうかという点で「したい」と「するべき」には違いがあるということになる。

2 二種類の「○○をしたい」

だが、この区分は本当に適切だろうか。「食事をしたい」というのは、食欲という生理的欲求に基づくものであり、これを「サイクリングをしたい」のような「したい」と同列に捉えるべきではないように思える。遭難し、何日も空腹で過ごした末に救出されたとき「食事をしたい」という言葉を発したとしても、それは、ほぼ「食べるべき」ということである。また、家で飼っている病気のネコを心配しつつ働いているときの気持ちは「家に帰りたい」と表現してもいいけれど、「家に帰るべき」と表現したほうが適切なように思える。「したい」のなかには、生理的欲求にせよ何にせよ、ただそうすることを強いられているような、「するべき」に接近した「したい」が混入している。

では、サイクリングをしたいや、美術館に行きたいというような「したい」は、「するべき」が混入していない、純粋な「したい」と考えてよいのだろうか。僕はここにも「するべき」が入り込んできていると思う。「ゴッホ展がそろそろ終わるから、早く美術館に行かなきゃ。」とか「最近、運動してないから、せっかく買った自転車乗らなきゃ。」なんていう言葉を思い浮かべるならば、僕の考えに同意してもらえるのではないだろうか。

以上の検討を経てみると、「するべき」と対比される「したい」の領域は、当初考えていたよりも、かなり狭いことが明らかになったと言えるだろう。つまり「するべき」が混入していない純粋な「したい」は、気持ちのよい朝や海外旅行初日に感じるような、ただ「したい」と、せいぜい、美しい絵を見たいとか、運動をして健康になりたい、というような、抽象度が高い「〇〇がしたい」のなかにしか見出すことができないということである。その外には広大な「するべき」に支配された領域が広がっており、「食事がしたい」や「美術館に行きたい」のようなものは「〇〇がしたい」という表現はしていても、「するべき」の領域に取り込まれているということである。

3 純粋な「したい」

ここまでは僕の考えに同意してもらえそうな気もするけれど、ここから一気に、あまり同意が得られなさそうな話をしたい。僕の考えはこうである。いくら抽象度が高くても、美しい絵を見たいとか、運動をして健康になりたい、というのは仏教用語で言うならば「執着」であり、やはり「するべき」の領域に囚われているのではないか。

運動をしたくなったり、美しいものを見たくなったりするのは、そうすると、脳内に快楽物質が生じるからであり、それはつまり食欲と同じように、「快楽物質を出すべき」という生理的欲求に囚われているだけである、というような説明の仕方がありうる。だが、僕が考えているのはそういうことではなく、そのような科学的な事実があろうがなかろうが、そもそも文化的で健康的な人生を送ることを「したい」というのが執着であり、「するべき」の領域に囚われているということである。

個人的な話に立ち戻るけれど、僕は、気持ちの良い休日の朝や、海外旅行の初日には無限の可能性のようなものを感じる。これから何が起こるかは決まっていないのだから何でもできるという感覚である。確かに、もし僕がバンコクのスワンナプーム空港に着いたところならば、そこからバンコクの街を歩いてもいいし、南の離島まで一気に移動してビーチで寝転んでもいい。実際は日程やホテルの予約の都合はあるけれど、どの通りを歩き、どの店に入ってご飯を食べるか、といった詳細も考慮するならば、僕には様々な可能性がある。

そして、旅の間、実際に僕は普段ならできないような色々なことをして過ごして満足する。僕はそこそこ旅慣れているから、かなり自由に行動し、満足がいくまで旅を楽しむことができる。だけど、それでも、旅の最終日にまた空港に戻るとき、どこか寂しさを感じる。無限の可能性を秘めた未来として眺めていたタクシーの窓からの景色が、楽しかったけれど確定し、具体的な内容を持ってしまった過去の景色となっていることに気づく。

この話から僕が伝えたいのは、内容がない無限定の未来と、内容のある確定した過去という対比である。僕は「したい」と「するべき」には違いがあり、更に「したい」には、純粋な「したい」と、「○○をしたい」という違いがあるとした。そのうえで、僕は、純粋な「したい」だけが無限定の未来とつながっており、「するべき」や「○○をしたい」は内容のある確定した過去とつながっていると考えている。たとえ、文化的で健康的な人生を送ることを「したい」というような抽象度が高いものであっても、そのような内容を伴っているという点で、過去のしがらみに囚われており、「するべき」と同種のものになってしまっているのだ。その証拠に、文化的で健康的な人生を送りたいという言葉には、海外旅行の初日のようなワクワクしたものを感じることができない。

当然、僕の海外旅行の例も「したい」を捉えることに、十分には成功しないだろう。なぜなら、海外旅行や天気のいい朝という具体的な描写に囚われているからだ。本当の無限定の「したい」は、海外旅行をしているかどうかや、天気がいいかどうかといったようなことに関わるものではないだろう。純粋な「したい」とは、きっとイデアであり、通常の人間に手に入るものではないだろう。だから仏教は執着を捨てよ、と言っているのであり、それができた一握りの人間だけが、悟りを開き、本当の「したい」を手に入れることができるのだろう。僕は悟りを開いていないからわからないけれど、きっと純粋な「したい」とは、人生の純粋な肯定とかなり近いところにあるのではないだろうか。

4 内側と外側

仏教の執着の話にまで行ってしまったけれど、立ち戻るならば、「したい」とは内側から沸き起こるものであり、「するべき」は外側から押し付けられるものである、というヨガの先生の話は正しいと思う。

仕事をするべき、というのが外からの押し付けであるように、食事をしたいというのは生理的欲求という外からの押し付けである。それと同様にゴッホの絵を見たいとか、健康でいたいというのも、ゴッホの絵が好きだった過去の自分や、健康を望んでいた過去の自分からの、今の自分への押しつけであり、今の自分からすれば、外からの押し付けである。純粋な「したい」を気持ちのよい朝や海外旅行の初日にしか感じられないというのも、そのような過去から培われた価値観からの押し付けである。

そのような外からの押し付けをすべて取り除き、本当に今の自分の内側から沸き起こっているものを見定めていると、具体的な「○○がしたい」が形作られるその直前の一瞬、思考が生成されるビッグバンの瞬間、純粋な「したい」が僕にも感じられるような気がする。僕が確かに言えるのは、世界は「するべき」に満ちていて、「したい」は「今ここの私」のなかにしかないということである。

5 反出生主義

話は変わるが、僕は森岡正博の『生まれてこないほうが良かったのか?』という本を読み、最近少し話題になっている反出生主義とはどのようなものか知った。

僕のまとめだと、反出生主義は、「喜びや快楽があるプラスの状況」「苦しみがあるマイナスの状況」「喜びも快楽も苦しみもないプラマイゼロの状況」の3つを想定し、例えば(森岡の例だと)喜びや快楽に満ちた人たちが住む島Aと、苦しみに満ちた人たちが住む島Bと、無人の島Cを想定する。そのうえで、無人島Cは喜びの島Aに比べて悪いものではないし、当然、無人島Cは苦痛の島Bに比べたらましであると考えることができるとする。それならば、人が住んで、完全無垢な喜びの島Aであり続ける事ができない限り、無人島Cとすることが最善の選択であるということになる。つまり人類は絶滅すべきということになる。

このロジックの正しさは、苦しみというマイナスの価値を把握するのは容易だが、喜びのようなプラスの価値を把握することは困難だというところに由来しているのだろう。確かに、マイナスの価値は苦しみという言葉で捉えることができるが、プラスの価値については、喜びと言っても、快楽と言ってもどこかしっくりこない。丁度いい言葉が見つからない。地獄については、針の山とか火の海とか、具体的な描写がされるのに、天国については、花が咲いていて、気持ちのいい音楽が鳴っていて、というようなぼんやりとした描写しかされないのに似ている。僕は当然、地獄には行きたくないけれど、どうも天国にも行きたい気がしない。何もなくて退屈してしまいそうな気がする。天国のような描写の空虚さがプラスの価値にはある。

このことと、先ほどの「したい」と「すべき」の話は繋がっているように思う。つまり、喜びや幸せのようなプラスは個別具体的な内容のない「したい」でしか表現できないから、プラスの価値を描写できないという話なのではないだろうか。

6 倫理学理論・自由

更に脱線するならば、個別具体的なプラスを描写できないというところから、世の倫理学理論は作り上げられている気がする。つまり、描写できないプラスを手に入れることよりも、具体的に把握可能なマイナスを避けることをロジックの基本にしているということである。例えば、カントの義務論とは、義務に反してマイナスのことをしないようにするということを基本方針としているし、ロールズのマキシミン原理も、要は最悪を避ける戦略である。功利主義は、なんとか功利というプラスを捉えようとしているが、功利主義が成功できないのは、プラスを具体的に把握できないからなのだろう。義務論がカントにより一挙に体系化されたのに比べ、功利主義に様々な亜種や改良が施され未だに完成されていないのは、義務論が「するべき」とつながり、功利主義が「したい」とつながっていることと無縁ではないはずだ。

また、「自由」という概念が考えられるのも、人間に共通の「○○がしたい」の○○に当てはまるものを特定して描写することができないからだとも言えるだろう。

もし、個人について「○○がしたい」という個別具体的なプラスを確定的に描写できるとしたら、そこから、分析を進め、人間に共通の具体的なプラスを見いだすことができるはずだ。そして、そこから人間に共通の「○○がしたい」を見出す道がありうる。実際に、プラスではなくマイナスについては、例えばカントは、自身の経験から個人的なマイナスを確定的に捉えたうえで、それを人間であれば誰もが共有するマイナスに敷衍し、そのマイナスを避けるために人間に共通の具体的な「するべき」という義務を見出すことに成功したとも言える。カントがマイナスについてやったことと同じことをプラスでもやればいいはずであり、もしそれが成し遂げられれば、人類がやりたいことは特定できるのだから、そこに自由など要らなくなる。例えば、人を傷つけたり、自殺したりしたがる人に対して、それは人間として本当は「したい」ことではないのだ、と指摘することができる。

だけど、それができないから、そこに自由というものを認めざるを得ず、そのうえで、判断を「ひとそれぞれ」に丸投げしているということである。

7 未来と過去

なぜ、このような「するべき」と「したい」の非対称性があるのかといえば、それは、やはり、僕が海外旅行の例で少し触れたように、「したい」が海外旅行の初日のような意味で、無限定であり未確定である未来とつながっており、一方で「するべき」は海外旅行の最終日のような確定した内容のある過去とつながっているからなのだろう。「するべき」は、過去と繋がっているから、確定していて、具体的な内容があり、分析可能であり、カントの義務論のような体系的な捉え方が可能となる。そして、なんといっても「するべき」と言われても、ワクワクせず、つまらない。「するべき」という言葉には、確定した過去のように、未来においても振るまうべき、という意味が含まれている。過去に縛られてしまうことがつまらなさの原因である。

「したい」は未来であり、無限定で未確定である。そこには「ひとそれぞれ」のような妥協の産物としての劣化した自由ではなく、自由という言葉すら似つかわしくない本当の自由がある。(自由という言葉は、「自由であるべき」という言葉が成立しうるように、まだ過去に囚われている。というか自由という言葉は、過去から逃れようとする未来に対する、過去からの最後のすがりつきのような言葉だと思う。同様の言葉として「変化」がある。)

なぜ「○○をしたい」の○○を描写できないかといえば、それは僕たちが知らない未来だからだ。未来とは全く知らないところへの飛躍なのだ。その飛躍へのワクワクこそが「したい」であり、「今ここの私」として生きるということなのではないだろうか。

超自然主義と超懐疑主義

はじめに

澤田和範さんの『ヒュームの自然主義と懐疑主義』を読んだ。

これは博士論文がもとになっているだけあって、とても専門的な内容だと感じた。正直、僕では細部をきちんと理解できなかったし、だから、僕はこの本の魅力を十分に掴み取ることができなかったと思う。なぜなら、この本の魅力の多くは、きっと、学術的に丁寧に細部の議論を組み立てているというところにあるのだろうからだ。

ではなぜ、僕はこんな文章を書こうと思い立ったかというと、僕はこの本からとても重要なことを読み取ることができたように思ったからだ。この本には、議論の細部を捨象しても、いや、捨象するからこそ際立つような大きな魅力があるように思えるのだ。

ダメ出し

まず、この本の魅力を伝える前に、この本にダメ出しをしておきたい。正確には、この本自体ではなく、このような本が書かれざるを得ないという哲学業界の状況に対してである。

僕の読解だと、この本の最重要ポイントは、従来の自然主義や懐疑主義を超えた次元にある超・自然主義や超・懐疑主義とでも言うべきものを見いだしたという点にある。そのうえで、超・自然主義と超・懐疑主義を統合できるということを示したところにある。これはきっと、澤田のオリジナルの発見である。

(超~という言葉は使っていないけれど。)

そして、この本がきっと、学術上、つまり哲学業界内の価値として重要なのは、この澤田のオリジナルの発見が、実はオリジナルではなく、ヒュームがそのように考えていたはずだ、ということの発見でもある、というところにある。ヒュームも実はそのように考えていたはずだということを示すことにより、澤田のこの発見は学術上価値があるものとなる。だからこそ、それを示すために澤田は、紙面の大半を使って、丁寧にヒュームの思考の痕跡を辿ったのであり、(僕は十分理解できていないけれど)それを示すことに成功したということなのだろう。

以上の業績を認めたうえで、僕のダメ出しとは、「ヒュームの思考を辿るような作業は不要なのではないか。」というものだ。なぜ、澤田のオリジナルというだけでは駄目なのだろう。ヒュームが実はそのように考えていなかったとしても、澤田の発見の哲学的な価値に変わりはないはずだ。澤田がヒュームを踏み台にして、そのようなアイディアを独自に思いついた、ということでもいいのではないか。哲学においては、哲学業界が喜ぶような学術上の分析など不要なのではないか。

このような述べ方は極端すぎるだろう。先人たちを尊重することは重要なことだし、誰かのアイディアを自分のもののように剽窃するべきではない。それでも僕にはどうしても、この本において澤田が行った二つの発見のバランスが悪すぎるように思えてしまうのだ。澤田は、超・自然主義と超・懐疑主義の統合という哲学的発見と、その発見は実はヒュームが行ったものであるという哲学史的発見をしているけれど、後者に力点を置きすぎているのではないだろうか。

もし僕の批判が的外れでなかったとしても、それは澤田個人の問題ではなく、そのようにせざるを得ない哲学業界の問題である。僕は、澤田のような才能が哲学業界の都合により浪費されてしまうことがもったいないと思うのだ。

魅力

脱線してしまったけれど、この本の魅力のほうに移りたいと思う。

僕は懐疑主義的な傾向があるから、ヒュームという人に関心はあった。だけど、きちんとヒュームについての著作を読んだことはない。僕の懐疑とヒュームの懐疑はちょっと種類が違うように感じていて、ちょっと優先順位が低かったのだ。

僕の懐疑は「どうしたら確かな一歩を踏み出せるのか。」というものだ。その点から言うと、デカルトやヒュームが行っている(と僕が思っていた)「実は、目の前にコップがあると思っているけれど、実はこれは夢だったり、見間違えだったりするかもしれない。」という懐疑は徹底されていない。なぜなら、そのように主張できるということは、過去の夢や見間違いの経験と眼の前のコップの認識とを比較して懐疑を提示することは確かにできるということだからだ。彼らは懐疑を行うという確かな一歩を踏み出してしまっている。デカルトはそこからコギトなんて言っている。僕からすると、そのような懐疑は不徹底であり、僕の懐疑とは関係がない。僕はそんなふうに思っていた。

この本を読み、やはり、ヒュームの懐疑は自然主義的なものなのだということを確認した。自然主義に囚われているから懐疑を行う人間本性という枠組みから離れることができていない。彼らの懐疑はそのような枠組みから離れられず不徹底だという僕の理解は間違えていないようだな、なんて思いながらこの本を読み進めていた。

だけど、この本の終盤にさしかかり、そのような僕の先入観は大きく見直しを迫られることとなった。実はヒュームは、従来の自然主義を超えたところにある超自然主義とでも言うべきものを語るために、確信犯的に、あくまで助走として、従来型の自然主義を用いているだけなのではないか。そして、これは夢ではないか、というような従来型の懐疑主義でさえも、従来型の自然主義から超自然主義へと跳躍するための踏切台として用いているだけなのではないか。僕はそんなことを思い浮かべながら、この本の終盤を読み進めた。

ヒュームは、いや澤田は、ヒュームのテキストを用いて、まず、従来型の自然主義でどこまでいけるかを示そうとする。どこまでいけるか示そうとするというのは、つまり、従来型の自然主義が従来型の懐疑にどこまで耐えられるかを実験してみるということである。この澤田の実験の過程で、従来型の自然主義と従来型の懐疑主義は衝突し、両者に圧力がかけられることとなる。澤田の精緻な分析によりこの圧力が極限まで高められ、二つの従来型の主義主張がどちらもそのままで立ち行かなくなったとき、そこから爆ぜるように新たに超自然主義と超懐疑主義が生まれる。いや、超自然主義と超懐疑主義という二つの主義とするのは不正確である。超自然主義と超懐疑主義とは一体化はできないけれど、切り離すこともできない。そこで誕生するのは、超自然=懐疑主義とでもいうべきひとつの視座である。

デフォルトとチャレンジ

この過程の詳細については、この本を読んでいただきたいが、特に僕にとって新しかったのは、デフォルトとチャレンジ(p.176)というアイディアである。僕は名前しか知らないけれどブランダムとい哲学者のアイディアとして「デフォルトとチャレンジ構造」という認識論モデルがあるそうだ。「これは、単純化して言えば、ある信念を保持する認識的資格をデフォルトで認める」(p.176)ものだそうだ。ボクシングではタイトル保持者と挑戦者が対戦した結果、引き分けだったらタイトル保持者が王座を維持する。つまり挑戦者がタイトルを奪取するためには、ポイントを積み上げたり、KOを奪ったりして具体的な優位を示さなければならない。それと同じようなことが、信念同士の戦いでも行われるというアイディアだと言えるだろう。だから、目の前にコップがあるというデフォルトの信念に対して、これは実は夢かもしれないという懐疑の信念がチャレンジするならば、挑戦者は、その懐疑の信念のほうが優位であるという材料を何か提示しなければならない。空を跳べたり、死んだはずの人が登場したりといった明らかに夢であるような証拠があれば別だけど、通常は、これが夢であるということを積極的に支持するような材料などないから、このチャレンジは失敗し、これは夢ではないという常識的な捉え方が維持されることになる。このようにして「デフォルトとチャレンジ」構造の導入により、哲学的な懐疑は無力化され、懐疑主義は自然主義に敗北することになる。つまりこれは「デフォルトとチャレンジ構造」の導入により、自然主義が超・自然主義となることによって、懐疑主義を乗り越えたということである。

哲学者A

だがこれで終わりではない。ここからが、ヒュームというか澤田のすごいところだと思うのだけど、澤田は、哲学者の立場というものを持ち出し、そのデフォルトの信念を一般常識的な立場から、哲学者の立場へと移してしまうのだ。つまり、澤田によれば、目の前に見えるコップが実際に外的に存在するという信念はあくまで非哲学者の信念であって、哲学者の信念とは、目の前にコップが見えるというのは内的な感覚の報告であるという信念であるはずなのである。哲学者は、すでにこのコップが夢かもしれないという可能性に気づいてしまっているのだから、哲学者は、コップを疑うことがデフォルトになってしまっている。つまり「デフォルトとチャレンジ構造」においては、今や立場は逆転し、懐疑主義がタイトル保持者であり、自然主義者が挑戦者の立場に立たされている、ということである。それならば、自然主義者は積極的に懐疑を無効化するような材料、つまり、目の前のコップが夢ではない、という証拠を提示しなければならない。だが、残念ながらそれはできない。こうして懐疑主義が勝利する。これはつまり、先ほどの話とは逆に、「デフォルトとチャレンジ構造」を逆手にとって、懐疑主義が超・懐疑主義となり、自然主義を乗り越えたということである。

では、哲学者の立場に立つならば、懐疑主義が完全な勝利を収めるのかというと、そうはならない。なぜなら、哲学者である個人、つまり哲学者Aの人生とは、常に哲学者としてのものではなく、日常生活においては非哲学者のものでもあるからだ。哲学者Aは目の前に見えるコップはあくまで内的感覚であると主張しながらも、日常生活においては、そのコップが外的存在であるようにも取り扱う。哲学者Aの人生は、哲学者と非哲学者の間を行き来するものとなり、超・自然主義と超・懐疑主義の間を行き来するものとなる。ただし、それは単純な往復運動ではなく、より正確には(僕が哲学者Aだとして、僕の実感を踏まえるならば)哲学者Aのなかで超・自然主義と超・懐疑主義が渦巻いていると言ったほうがいいだろう。このような状況を、僕ならば、超・自然=懐疑主義と呼ぶ。この立場は、哲学者Aという人間の人生を基盤にしているという意味で極めて自然主義的であり、かつ、哲学者Aの人生を賭けた懐疑を基盤にしているという意味で極めて懐疑主義的なものである。

哲学者讃歌

僕の言葉で説明してしまったので、もしかしたら澤田の考えとは違うところがあるかもしれない。だけど、僕の理解では、以上のようなことを、澤田は主に第6章「ピュロン主義的メタ哲学」で論じていることになる。ピュロン主義というのは全ての信念を懐疑により判断保留に追い込むものであるが、それがメタレベルでピュロン主義自身にも適用され、その懐疑さえも判断保留に追い込まれている状況を「ピュロン主義的メタ哲学」という言葉は示しているのだと思う。超・自然主義と超・懐疑主義の両方を抱え込み、にっちもさっちもいかなくなっている哲学者Aの状況をうまく示している言葉だと思う。

だけど、僕の実感からすると、判断保留といういわば静的な描写は、哲学者Aを描写しきれてはいないと思う。僕の内面では、超・自然主義と超・懐疑主義が渦巻いている。それは判断保留という言葉が似合わないような、動的な状況である。動的だからこそ、僕もヒュームも、多分澤田も、立ち止まらず、なんとか哲学を再開することができる。そこに哲学者の人生という動性があるからこそ、哲学者Aは哲学者の人生を歩み続けることができる。そこには人間本性ならぬ哲学者本性があり、人間讃歌ならぬ哲学者讃歌がある。これが、僕がこの本から読み取った、この本の魅力である。

僕の懐疑とは「どうしたら確かな一歩を踏み出せるのか。」というものであった。澤田の答えは、「確かな一歩などなくても、君が哲学者ならば、その一歩を踏み出さなければならない。」というものだろう。哲学者讃歌とは、そういうことである。

観念の生気の内部性

僕は、この本から讃歌とも言い表したくなるような生き生きとした動性を感じ取ったけれど、この読解はそれほど的外れではないと思う。なぜなら、きっとヒュームは僕が感じ取ったのと同じものを「観念の生気」(p.150)と描写しているだろうからだ。(生気という言葉が原文(英語?)だとなんと表現されているかは知らないけれど、日本語の語感としては重なり合うと思う。)

僕の関心に引き寄せるならば、これはクオリアが持つ、生き生きとした感じともつながる。更に一気に話を進めるならば、僕はこれを内部性と呼んでもいいと思う。人間の人生を内部から捉えるならば、そこにはクオリアがあり、観念の生気があり、そこからは自然主義的な世界が広がっている。なぜなら人間の人生を内側から捉えるということは、つまり人間本性を起点として世界を捉えるということだからだ。ただし、その人間が日常の非哲学の領域から哲学の領域に足を踏み入れ、懐疑を知ってしまったなら、人間本性ではなく哲学者本性を起点とした懐疑主義的な世界が広がることとなる。

重要なのは、自然主義的であれ、懐疑主義的であれ、いずれにせよ、観念の生気が充満した、クオリアに満ちた内部からの視点からのものであるという点にある。僕は哲学者Aとして、現に観念の生気を持ち、現にクオリアに満ちた世界に生き、現に自然主義的であり、現に懐疑主義的である。そこにあるのはどこかから俯瞰したような客観的な視点ではなく、僕という哲学者の内部からの視点である。僕はこれを内部性と呼びたい。

なお僕はここで意識的に「現に」という言葉を使ったけれど、入不二基義の現実性の議論とは、この内部性を巡る議論であると言ってもいいと思う。ただし、外部に対比しての内部ではなく、どこまでも外がない内部の極北についての議論ではあるが。哲学者讃歌とも言えるような澤田の議論は、入不二とは別のやり方で内部の極北を指し示すことができるほどのポテンシャルを持っているように僕には思える。

やばいと逸脱

最近、意識的に「やばい」という言葉を使うようにしている。若者用語を使って若者に迎合したいという面もあるのだろうけれど、それを抜きにしても、「やばい」というのは、つくづくいい言葉だと思うのだ。

昔ながらの意味では「やばい」は悪いことだった。やばい奴というのは常識が通じない危険な奴だった。だけど、昔から、やばい奴にはどこか否定しきれない特別さもあったようにも思う。学校の不良にどこか憧れていたように、僕には、やばい奴への憧れがあった。30年近く前、スノーボードが流行り始めた頃、僕はスノーボードのビデオを見るのが好きだった。やばい奴らがやばい高さのジャンプ(エアー)を決めていた。滑り以外でも、きっとクスリでも決めているのだろうと思うような言動をしていて、そのやばさも格好よかった。そのとき、やばい、という言葉を使っていたかどうかは忘れたけれど、僕にとってのやばい、とはそういう感覚をひきずった言葉だ。

僕が好きな怒髪天というバンドのボーカルの増子直純によれば、ロックはやばい優先だ。「やばい」とはロックだということでもある。(そのことについて、僕は『ロックの日』という文章で書いたことがある。http://dialogue.135.jp/2018/02/17/69nohi/

僕にとっての「やばい」は、逸脱という言葉に置き換え可能だ。今までどおりの延長ではなく、決まったレールから逸脱することが「やばい」だと言える。

「やばい」のよさは、善悪のような物差しが適用できないという点にある。そこにあるのは、逸脱の大きさという絶対値のみである。プラスかマイナスかは逸脱してからでないとわからない。

だから、「やばい」は純粋な驚きの表現だとも言える。未知なるものへの驚きを意識的に見逃さないようにしようとして、僕は「やばい」という言葉を使うのかもしれない。

そのわからなさこそが未来そのものだとも言える。逸脱がなければ、変化もないし、成長もない。僕は未来の可能性という価値の片面は、そこに逸脱し、変化し、成長する可能性が広がっているところにあると思っている。(未来の価値のもう片面は、現在の延長として幸せを掴み取る可能性が広がっているというところにあり、どちらの可能性を重視するかは場合によりけりなのだろう。)

僕は、逸脱し、変化し、成長する場面を想像するときには、フランクルの『夜と霧』を思い出す。僕が好きなのは、収容所のなかでマロニエの木と語らう若い女性が、死の数日前に劇的な成長を遂げたというエピソードだ。その成長は、過去との連続性が乏しいという意味で、逸脱という言葉がふさわしいと思う。(以前書いた『夜と霧を読んで』という文章http://dialogue.135.jp/2018/03/17/yorutokiri/で触れている。)

このように、僕が考える「やばい」は劇的な成長という未来の可能性ともつながっている。だから僕は「やばい」と言いたくなる状況に着目し、そのやばさを自分に対して推奨していきたい。

だけどそのように自分を鼓舞しなければならないのは、実際のところ、「やばい」を選ぶのはきついからなのだろうなあ。