○○をしたい

1 「したい」と「するべき」

ヨガ教室の先生から、「したい」と「するべき」の違いについての話があった。僕なりの理解だと次のような話だった。

自分の内側から湧き出るような「したい」と外側から押し付けられるような「すべき」のバランスをとるかたちで人は生きているけれど、今は、コロナでそのバランスが崩れ、皆「するべき」ばかりで生きているからストレスが溜まっています。だから時々は身体の声を聞いて、「したい」ように身体を動かしましょう。

僕は納得しつつ、この話には続きがありそうだと感じた。「したい」や「するべき」とは、そもそもどういうことなのだろうか。通常、「したい」や「するべき」は単独では用いられず、食事をしたい、仕事をするべき、というように、具体的なものごととセットで○○をしたい、○○をするべきと表現する。では、食事や仕事というような具体的なものごとなしに、純粋な「したい」や「するべき」を取り出すことはできるのだろうか。

「するべき」については、○○をするべき、ではない純粋な「するべき」などないように思える。仕事や家事というような具体的なものごとを思い浮かべることなしに、ただ「するべき」という感覚を持つことは難しい。最も近いのは、長期の休みで時間があり余っているのに、このままじゃまずいから何かをするべきと思いつつ、何もせずゴロゴロしているときの感覚かもしれない。ただ、そういうときも、たいていは、具体的なやるべきことをわかっていつつ先送りしているか、「するべきことを見つける」をするべきと思っているかのどちらかだろう。

一方で、「したい」については、○○をしたい、ではない単独の「したい」がありうるように思える。深酒もせずによく寝た翌日の休日の朝、気持ちよく晴れた空を見上げたとき、または、海外旅行で入国審査を終え、空港でタクシーに乗り込み、異国情緒に溢れた街並みを窓越しに眺めたとき、僕は具体的なものごとと結びついていない、ただ「したい」を感じる。実際にはそこから具体的なスケジュールを考え、サイクリングに行ったり、美術館に行ったりするだろう。だけど、朝の目覚めの時や空港からのタクシーのなかでのひとときに感じる「したい」は、サイクリングをしたいではないし、美術館に行きたいではない。そこにあるのは、何かが新しく始まることへの漠然とした期待と高揚感のようなものだ。

このように考えると、「したい」には、気持ちのよい朝や海外旅行初日に感じるような、単独の「したい」と、食事をしたい、サイクリングをしたい、というような特定のものごとと結びついた「○○をしたい」という二通りがあるということになる。

つまり、特定のものごとと結びつかない場合があるかどうかという点で「したい」と「するべき」には違いがあるということになる。

2 二種類の「○○をしたい」

だが、この区分は本当に適切だろうか。「食事をしたい」というのは、食欲という生理的欲求に基づくものであり、これを「サイクリングをしたい」のような「したい」と同列に捉えるべきではないように思える。遭難し、何日も空腹で過ごした末に救出されたとき「食事をしたい」という言葉を発したとしても、それは、ほぼ「食べるべき」ということである。また、家で飼っている病気のネコを心配しつつ働いているときの気持ちは「家に帰りたい」と表現してもいいけれど、「家に帰るべき」と表現したほうが適切なように思える。「したい」のなかには、生理的欲求にせよ何にせよ、ただそうすることを強いられているような、「するべき」に接近した「したい」が混入している。

では、サイクリングをしたいや、美術館に行きたいというような「したい」は、「するべき」が混入していない、純粋な「したい」と考えてよいのだろうか。僕はここにも「するべき」が入り込んできていると思う。「ゴッホ展がそろそろ終わるから、早く美術館に行かなきゃ。」とか「最近、運動してないから、せっかく買った自転車乗らなきゃ。」なんていう言葉を思い浮かべるならば、僕の考えに同意してもらえるのではないだろうか。

以上の検討を経てみると、「するべき」と対比される「したい」の領域は、当初考えていたよりも、かなり狭いことが明らかになったと言えるだろう。つまり「するべき」が混入していない純粋な「したい」は、気持ちのよい朝や海外旅行初日に感じるような、ただ「したい」と、せいぜい、美しい絵を見たいとか、運動をして健康になりたい、というような、抽象度が高い「〇〇がしたい」のなかにしか見出すことができないということである。その外には広大な「するべき」に支配された領域が広がっており、「食事がしたい」や「美術館に行きたい」のようなものは「〇〇がしたい」という表現はしていても、「するべき」の領域に取り込まれているということである。

3 純粋な「したい」

ここまでは僕の考えに同意してもらえそうな気もするけれど、ここから一気に、あまり同意が得られなさそうな話をしたい。僕の考えはこうである。いくら抽象度が高くても、美しい絵を見たいとか、運動をして健康になりたい、というのは仏教用語で言うならば「執着」であり、やはり「するべき」の領域に囚われているのではないか。

運動をしたくなったり、美しいものを見たくなったりするのは、そうすると、脳内に快楽物質が生じるからであり、それはつまり食欲と同じように、「快楽物質を出すべき」という生理的欲求に囚われているだけである、というような説明の仕方がありうる。だが、僕が考えているのはそういうことではなく、そのような科学的な事実があろうがなかろうが、そもそも文化的で健康的な人生を送ることを「したい」というのが執着であり、「するべき」の領域に囚われているということである。

個人的な話に立ち戻るけれど、僕は、気持ちの良い休日の朝や、海外旅行の初日には無限の可能性のようなものを感じる。これから何が起こるかは決まっていないのだから何でもできるという感覚である。確かに、もし僕がバンコクのスワンナプーム空港に着いたところならば、そこからバンコクの街を歩いてもいいし、南の離島まで一気に移動してビーチで寝転んでもいい。実際は日程やホテルの予約の都合はあるけれど、どの通りを歩き、どの店に入ってご飯を食べるか、といった詳細も考慮するならば、僕には様々な可能性がある。

そして、旅の間、実際に僕は普段ならできないような色々なことをして過ごして満足する。僕はそこそこ旅慣れているから、かなり自由に行動し、満足がいくまで旅を楽しむことができる。だけど、それでも、旅の最終日にまた空港に戻るとき、どこか寂しさを感じる。無限の可能性を秘めた未来として眺めていたタクシーの窓からの景色が、楽しかったけれど確定し、具体的な内容を持ってしまった過去の景色となっていることに気づく。

この話から僕が伝えたいのは、内容がない無限定の未来と、内容のある確定した過去という対比である。僕は「したい」と「するべき」には違いがあり、更に「したい」には、純粋な「したい」と、「○○をしたい」という違いがあるとした。そのうえで、僕は、純粋な「したい」だけが無限定の未来とつながっており、「するべき」や「○○をしたい」は内容のある確定した過去とつながっていると考えている。たとえ、文化的で健康的な人生を送ることを「したい」というような抽象度が高いものであっても、そのような内容を伴っているという点で、過去のしがらみに囚われており、「するべき」と同種のものになってしまっているのだ。その証拠に、文化的で健康的な人生を送りたいという言葉には、海外旅行の初日のようなワクワクしたものを感じることができない。

当然、僕の海外旅行の例も「したい」を捉えることに、十分には成功しないだろう。なぜなら、海外旅行や天気のいい朝という具体的な描写に囚われているからだ。本当の無限定の「したい」は、海外旅行をしているかどうかや、天気がいいかどうかといったようなことに関わるものではないだろう。純粋な「したい」とは、きっとイデアであり、通常の人間に手に入るものではないだろう。だから仏教は執着を捨てよ、と言っているのであり、それができた一握りの人間だけが、悟りを開き、本当の「したい」を手に入れることができるのだろう。僕は悟りを開いていないからわからないけれど、きっと純粋な「したい」とは、人生の純粋な肯定とかなり近いところにあるのではないだろうか。

4 内側と外側

仏教の執着の話にまで行ってしまったけれど、立ち戻るならば、「したい」とは内側から沸き起こるものであり、「するべき」は外側から押し付けられるものである、というヨガの先生の話は正しいと思う。

仕事をするべき、というのが外からの押し付けであるように、食事をしたいというのは生理的欲求という外からの押し付けである。それと同様にゴッホの絵を見たいとか、健康でいたいというのも、ゴッホの絵が好きだった過去の自分や、健康を望んでいた過去の自分からの、今の自分への押しつけであり、今の自分からすれば、外からの押し付けである。純粋な「したい」を気持ちのよい朝や海外旅行の初日にしか感じられないというのも、そのような過去から培われた価値観からの押し付けである。

そのような外からの押し付けをすべて取り除き、本当に今の自分の内側から沸き起こっているものを見定めていると、具体的な「○○がしたい」が形作られるその直前の一瞬、思考が生成されるビッグバンの瞬間、純粋な「したい」が僕にも感じられるような気がする。僕が確かに言えるのは、世界は「するべき」に満ちていて、「したい」は「今ここの私」のなかにしかないということである。

5 反出生主義

話は変わるが、僕は森岡正博の『生まれてこないほうが良かったのか?』という本を読み、最近少し話題になっている反出生主義とはどのようなものか知った。

僕のまとめだと、反出生主義は、「喜びや快楽があるプラスの状況」「苦しみがあるマイナスの状況」「喜びも快楽も苦しみもないプラマイゼロの状況」の3つを想定し、例えば(森岡の例だと)喜びや快楽に満ちた人たちが住む島Aと、苦しみに満ちた人たちが住む島Bと、無人の島Cを想定する。そのうえで、無人島Cは喜びの島Aに比べて悪いものではないし、当然、無人島Cは苦痛の島Bに比べたらましであると考えることができるとする。それならば、人が住んで、完全無垢な喜びの島Aであり続ける事ができない限り、無人島Cとすることが最善の選択であるということになる。つまり人類は絶滅すべきということになる。

このロジックの正しさは、苦しみというマイナスの価値を把握するのは容易だが、喜びのようなプラスの価値を把握することは困難だというところに由来しているのだろう。確かに、マイナスの価値は苦しみという言葉で捉えることができるが、プラスの価値については、喜びと言っても、快楽と言ってもどこかしっくりこない。丁度いい言葉が見つからない。地獄については、針の山とか火の海とか、具体的な描写がされるのに、天国については、花が咲いていて、気持ちのいい音楽が鳴っていて、というようなぼんやりとした描写しかされないのに似ている。僕は当然、地獄には行きたくないけれど、どうも天国にも行きたい気がしない。何もなくて退屈してしまいそうな気がする。天国のような描写の空虚さがプラスの価値にはある。

このことと、先ほどの「したい」と「すべき」の話は繋がっているように思う。つまり、喜びや幸せのようなプラスは個別具体的な内容のない「したい」でしか表現できないから、プラスの価値を描写できないという話なのではないだろうか。

6 倫理学理論・自由

更に脱線するならば、個別具体的なプラスを描写できないというところから、世の倫理学理論は作り上げられている気がする。つまり、描写できないプラスを手に入れることよりも、具体的に把握可能なマイナスを避けることをロジックの基本にしているということである。例えば、カントの義務論とは、義務に反してマイナスのことをしないようにするということを基本方針としているし、ロールズのマキシミン原理も、要は最悪を避ける戦略である。功利主義は、なんとか功利というプラスを捉えようとしているが、功利主義が成功できないのは、プラスを具体的に把握できないからなのだろう。義務論がカントにより一挙に体系化されたのに比べ、功利主義に様々な亜種や改良が施され未だに完成されていないのは、義務論が「するべき」とつながり、功利主義が「したい」とつながっていることと無縁ではないはずだ。

また、「自由」という概念が考えられるのも、人間に共通の「○○がしたい」の○○に当てはまるものを特定して描写することができないからだとも言えるだろう。

もし、個人について「○○がしたい」という個別具体的なプラスを確定的に描写できるとしたら、そこから、分析を進め、人間に共通の具体的なプラスを見いだすことができるはずだ。そして、そこから人間に共通の「○○がしたい」を見出す道がありうる。実際に、プラスではなくマイナスについては、例えばカントは、自身の経験から個人的なマイナスを確定的に捉えたうえで、それを人間であれば誰もが共有するマイナスに敷衍し、そのマイナスを避けるために人間に共通の具体的な「するべき」という義務を見出すことに成功したとも言える。カントがマイナスについてやったことと同じことをプラスでもやればいいはずであり、もしそれが成し遂げられれば、人類がやりたいことは特定できるのだから、そこに自由など要らなくなる。例えば、人を傷つけたり、自殺したりしたがる人に対して、それは人間として本当は「したい」ことではないのだ、と指摘することができる。

だけど、それができないから、そこに自由というものを認めざるを得ず、そのうえで、判断を「ひとそれぞれ」に丸投げしているということである。

7 未来と過去

なぜ、このような「するべき」と「したい」の非対称性があるのかといえば、それは、やはり、僕が海外旅行の例で少し触れたように、「したい」が海外旅行の初日のような意味で、無限定であり未確定である未来とつながっており、一方で「するべき」は海外旅行の最終日のような確定した内容のある過去とつながっているからなのだろう。「するべき」は、過去と繋がっているから、確定していて、具体的な内容があり、分析可能であり、カントの義務論のような体系的な捉え方が可能となる。そして、なんといっても「するべき」と言われても、ワクワクせず、つまらない。「するべき」という言葉には、確定した過去のように、未来においても振るまうべき、という意味が含まれている。過去に縛られてしまうことがつまらなさの原因である。

「したい」は未来であり、無限定で未確定である。そこには「ひとそれぞれ」のような妥協の産物としての劣化した自由ではなく、自由という言葉すら似つかわしくない本当の自由がある。(自由という言葉は、「自由であるべき」という言葉が成立しうるように、まだ過去に囚われている。というか自由という言葉は、過去から逃れようとする未来に対する、過去からの最後のすがりつきのような言葉だと思う。同様の言葉として「変化」がある。)

なぜ「○○をしたい」の○○を描写できないかといえば、それは僕たちが知らない未来だからだ。未来とは全く知らないところへの飛躍なのだ。その飛躍へのワクワクこそが「したい」であり、「今ここの私」として生きるということなのではないだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です