『生まれてこないほうが良かったのか?』を読んで

はじめに

森岡正博の『生まれてこないほうが良かったのか?』を読んだ。色々なことを考えたので、ひとつの流れにまとめて書こうと思ったけれど、うまくまとまらないので断片的に書き残すことにする。多分僕にとっては、この本はそういう本なのだと思う。考えるきっかけとしての本ということである。

五蘊と霊

この本によると、仏教では、物質、感覚、識別、意思、認識という5つの要素を五蘊(ごうん)と呼び、これをあたかも、持続して存在する実態としての「私」であるかのように錯覚するところから、執着が起こり、苦しみが生じるとするそうだ。(p.179)だから、持続し、輪廻するのは「私」ではなく五蘊という執着である、ということになる。(pp.180-181)仏教的には常識なのだろうけれど、僕は初めて知った。

なんとなく、この話は「怖い話」に似ていると思った。僕は気分転換に怖い話をSNSで読むことがあるけれど、僕が好きなのは、死者の念のようなものがひっそりと残っているような話だ。昔の事故現場で被害者らしき霊が佇んでいるのが見えたり、親の葬式のときに物が落ちたりするような。僕は、霊魂とまでは言わないけれど、その人が生きていたときの思念の痕跡のようなものが残存することはありうる気がしている。まるで急ブレーキをかけたかのように、ある人の人生が突然の死により急に途切れてしまったとき、止まりきれず、慣性により進み続けてしまう何かがそこにあるのではないか。

ただし、それを「何か」というと、何らかの実体があるもの、残存する思念のようなものをイメージしてしまい、誤解を招くかもしれない。あくまで、その何かとは、影のようなもの、あるいは、あえて、錯覚と言ったほうがいいだろう。

五蘊という執着も、これと同じ話のような気がする。霊とは、その人が生きていたという錯覚がリプレイされ続けているようなものだとするならば、仏教によるならば、この現世そのものが錯覚だということになるのだろう。

では、そのような事態を生じさせている「何か」とはなんだろうか。何かには実体はない。錯覚である。だが錯覚を生じさせる何かがそこにはあるのだから、そこに何もないということではない。このとらえどころがない何かを僕の言葉でどのように表現すればいいのだろうか。

喩え話を用いたほうがいいかもしれない。ある人の人生をテニスボールの動きに喩えよう。そして人生を観察する第三者の視点を、テニスのラリーを観戦することに喩えよう。つまり観戦者は、誰かの人生の比喩としてのボールの動きを目で追っているということになる。そして、ラリーのなかでボールがネットにかかってしまったとしよう。つまり死である。そして観戦者はボールの行方を見失しなったとしよう。ボールを見失った観戦者は、ボールが進むはずだった方向に視線を動かし続けることもあるだろう。僕が考える何かとは、そのような視線の動きのことである。五蘊とも同視できるだろう何かとは、急にその人の人生が途切れたということを受け入れきれず、その人の人生を観察し続けようとする観察者の視線の動きのことだということになる。視線は(科学的な語用ではないけれど)慣性により動き続けたと表現したと言ってもいいかもしれない。そのような意味で、これは、慣性により生じた錯覚だということである。

重要なのは、そこで重要な役割を果たすのは、当事者であるボールやある人の人生ではなく、それを観察する第三者の視線の動きだという点だ。ここでは、ボール自身からテニスの観戦者へ、または、人生を送って死を迎えた人自身からその人生の観察者へ、という人称的なズレが生じている。当事者ではない観察者だからこそ、予測して視線を動かす必要がある。予測するから予測が外れると慣性により間違えた動きをすることもある。当事者であれば自らのことについて間違いを犯すことはない。

僕の考えでは、この一人称から三人称への人称的なズレと仏教における五蘊という執着はイコールで結ぶことができる。三人称的に自分自身を捉えざるを得ないという人間の業こそが、自分自身に対する執着、五蘊、つまり物質、感覚、識別、意思、認識を生じさせている、ということである。だから、仏教における悟りとは、このズレを逆転させ、三人称から一人称に自分を捉え直すということなのではないだろうか。

だが、この三人称から一人称への逆転は、悟りという言葉を使わなければならないくらいに困難なことだろう。きっとそれは、自らをテニスの観戦者の立場からテニスボール自身として捉え直すくらいに根源的な転回であるはずだ。だから、本来立ち返るべき、目指すべき一人称とは、きっと僕自身も含め、ほとんどの人が垣間見ることもできないものなのだろう。

(それでもあえて想像するならば、純粋な一人称と純粋な無人称は一致するはずだ。僕が学んだ哲学によれば、そういうことになる。)

実験哲学

この本によれば、ニーチェは実験哲学を行ったそうだ。

実験哲学とは、つまり、自分自身がその哲学を生きるということだ。これは世間での哲学という言葉の使い方に近いように思える。人生哲学や経営哲学というように、信条や思想を哲学と呼ぶことがある。これは、その信条や思想ともに人生を過ごしたり、経営を行ったりするということである。

僕は従来から、哲学と思想は全く違うと思っていた。違っているどころか正反対のものだとさえ言ってよい。哲学とはそのアイディアをも疑い、吟味するものだが、思想とはそのアイディアを信じ、従うということだ。だから立憲主義や共産主義という思想は共産主義を信じるものであり、立憲主義や共産主義を疑うことは許されない。

ニーチェの実験哲学という用法には、そのアイディアを信じ、実践するという意味合いが込められている。その点で僕の考えによれば、ニーチェの実験哲学は哲学ではなく思想に位置づけられるということになりそうだ。

だが、僕の判断では、ぎりぎりでニーチェの実験哲学は哲学として踏みとどまっていると言いたい。僕は思想よりも哲学を好ましいと思っているので、あえて言うならば、ニーチェの哲学はぎりぎりのところで思想への堕落から免れていると言ってもいい。なぜかといえば、ニーチェは自らの哲学を信じ、従うことを他者に押し付けていないからだ。

従来の僕は思想と哲学の違いについて、信じるか疑うかという線引きをしていたけれど、より厳密に捉えるならば、その信じたことを他者に対して主張し、押し付けるか、それとも、自分自身のなかだけで信じるか、というところで区分したほうがいいのかもしれない。

その理由はいくつか考えられる。

まず、哲学とはあらゆるものをその対象とするから、当然、何かを信じて実践することについても哲学の対象となりうる。それならば、哲学は「何かを信じて実践すること」をその内容に含んでいなければならない。つまり、哲学は「何かを信じて実践すること」から完全に離れることはできない。

もう一つの理由として、哲学において真なる知に至るやり方として、とりあえず、あるアイディアに沿って実践してみて、それが成功するかどうかで真偽を確かめるというやり方が有効である可能性があるという点がある。まさに実験である。そのような手法を認めるならば、仮にとりあえず、信じて実践するということはありうる。

他にも理由は考えられるかもしれないが、重要なのは、人様に迷惑をかけない、ということだろう。思想の押し付けは迷惑だが、自分だけがその思想を信じる分には迷惑ではない。その謙虚さが哲学と思想を分けるのだとすれば、謙虚な思想に哲学という別名を与えることはそう悪いことではないと思う。

物理主義

僕は、(永井的な)私やクオリアといった問題領域における物理主義というものにどうやったら魅力を感じられるのかがよくわからなかったけれど、この本でヨーナスの代謝型生命論(pp.334~335)を知り、こういう考え方なら物理主義に乗る人もいるかもしれない、と思った。

ヨーナスは生命が常に行っている新陳代謝に着目する。コンピュータと違って生物は、細胞レベルでは常に新陳代謝をして微小物質の入れ替わりを行っている。つまり生物とは、テセウスの船のように、その身体を構成する物質をどんどん入れ替えながら、生命としての同一性を保って生き続けている存在なのだ。つまり肉体は入れ替わっていくのに、意識は継続しているということであり、意識を生命として捉えるならば、物質レベルとは別次元で生命が存在するということである。

このことを、(永井的な)私やクオリアといった問題領域に当てはめるならば、新陳代謝という物質的な道具立てにより、生命や意識というものを物理的に捉えることができるということであり、そこに私やクオリアといった現象の発生源を位置づけることもできるということになる。つまりクオリアとは、物理的な微小物質の入れ替えにも関わらず、生命として一体性を保つことにより生じる物理的な現象であり、その一体性こそが私なのである、ということになる。

僕はそれに与しないけれど、僕の仮想敵国としての物理主義というものがどういうものかが少しはわかった気がする。

(僕は、例えば、地球や太陽や焚き火の炎も、微小物質を新陳代謝しながら一体性を維持しているけれど、それらも僕たちと同等の生命なのか、とヨーナスに反論してみたい。)

二人称的な指し示し

この本を読み、そして『まんが哲学入門』を思い出し、なんとなく、森岡の立ち位置が少しわかった気がする。森岡の単著はこの2冊しか読んでないけれど、僕なりに腑に落ちたので書き残しておくことにする。

『まんが哲学入門』で最も印象に残るコマは、哲学をまんまるくんに教える先生がこちらに向かって指差しをする場面だ。(p.167)

この場面は、ひとり存在(『生まれてこないほうが良かったのか?』では独在的存在者(p.161))とは、この本を読んでいるあなた(読者)のことだ、ということを表現している。この箇所が(少なくとも、僕にとっての)森岡の哲学の最重要点だと思う。

この森岡のアイディアは興味深い。だけど、僕の理解では、このようなアイディアは似たようなかたちで別の哲学者が行っている。何人かの哲学者に、独在的存在者はどれか、と質問する場面を想像してみよう。(以下、不正確だけど雰囲気として、こんな感じかな、という描写となります。)カントならば、独在的存在者は、それぞれの人間としての超越論的統覚である、と答えつつ、あたりにいる人間を指差すだろう。永井均ならば、独在的存在者は「私」である、と答えつつ、自分自身を指差すだろう。入不二基義ならば、独在的存在者は「現実」である、と答えつつ、周囲を包み込むように指し示すだろう。そして、森岡正博ならば、独在的存在者は「あなた」である、と答えつつ、その質問者のことを指差すだろう。

それぞれ、やり方は違うけれど、それぞれのやり方で独在的存在者を指し示すという動作は行うことができているし、その指し示す動作ができるというところに、彼らの哲学の正しさが含まれていると僕は理解している。

更に重要なのは、いずれの指し示し方をしても、そこで話は終わらず、結局はそこから「全て」に話が波及していくという点だ。森岡の描写に従うならば、カントの超越論的統覚とはアートマンであり、ショーペンハウアーによればアートマンとは物自体である。つまりカントが指差した超越論的統覚とは、結局は、この世界の全てとも同一視できるだろう物自体とつながっている、ということになる。永井の「私」についても、この世界全ては「私」の世界であるという独在論的な世界把握につながっている。入不二は、出発地点からして「現実」という全てである。そして森岡の「あなた」もアートマンと接続するかたちで論じていることからも、物自体としての全てへの道筋に乗っていることは明らかである。指差しの仕方の違いは、単なる出発地点の違いであり、到達するところは「全て」であるという点で大きな違いはないとも言える。

以上のように考えるならば、森岡が行った、独在的存在者(p.161))とは、この本を読んでいるあなた(読者)のことだ、という語り方は、新しくはあっても、既にいくつかある指し示し動作の新たな派生型のひとつだと理解しても、それほど間違えていないだろう。無人称のカント、一人称の永井、超人称?の入不二に加えて、二人称の森岡ということになる。

二人称と生命

この本を読むまで、正直、どうして森岡が二人称にここまでこだわるのかがわからなかった。二人称の問題というのはせいぜい、一人称と無人称の中間に位置づけられる、派生的な問題だと思っていた。だけど、森岡自身は語っていないが、彼が二人称にこだわる理由を僕なりに整理できた気がするのだ。ここからはそのことを書き残しておきたい。

 森岡の哲学は「生命の哲学」だ。僕は、森岡における生命とは何かについて興味があったのだが、この本を読んだ限り、そこに大きなひねりはなく、自然科学的に真正面から生命を定義している。つまり生命とは、何十億年前に微生物として誕生し、人間にまで進化した、この生命である。だから当然、森岡も、僕も、人間は皆生命であるということになる。正直、僕は、哲学的にはあまり面白くないなあ、と思った。

だけど、ここで、森岡が行った二人称的な指し示しを思い出してみるとパズルの最後のピースがはまったような感覚があった。独在論的存在者というような形而上学的な次元を出発地点として、このような常識的な生命像を描くためには、二人称的な指し示しが必要なのではないか。

森岡(まんまるくんの先生)は、僕を指差し、独在的存在者は「あなた」だと言う。それを受けて、僕は「独在的存在者とは、ああ、この僕のことなのか。」と思いたくなる。だけど、実はそうはならない。なぜなら、独在的存在者とは、どこまでも、この僕ではなく、「あなた」でなければならないからだ。僕は、僕自身のことを独在的存在者として指差すことは許されない。(それをしてしまったら永井の道筋となる。)僕は、独在的存在者である「あなた」として、更に別の人を指差さなければならない。そして、その指さされた誰かは、同様にまた別の人のことを指差すことになる。その誰かも、また別の誰かを・・・このようにして指差しの連鎖が生じることになる。

この連鎖が生命というアイディアと整合するように思えるのだ。なぜなら、この連鎖は、「あなた」として指差し可能な対象すべてに指差しが行われるまで続けられるからだ。その対象とはきっと、指差されることが可能な存在、つまり生命を持つものすべてと一致するだろう。つまり、この連鎖は、生命の連鎖である、ということになる。太古の昔に地球に生命が生まれてから、そして将来、生命が絶滅するまでの間のすべての生命が、「あなた」という指差しによりつながっている。森岡が描こうとした生命とはそのようなものなのではないだろうか。

このようにして描かれる形而上学的な生命の姿は、そこから生命の哲学を描き始めるためのキャンバスとしては必須のものとなるはずだ。なぜなら、そのように連鎖しているものとして描かれた生命は、平等であり、独立であり、動的であるはずだからだ。(カントの無人称は静的であるという点で、永井の一人称は不平等であるという点で、入不二の超?人称は非独立であるという点で、それぞれ常識的な生命像と折り合いが悪いような気がする。)

そして、この「あなた」の指し示しによる連鎖は、きっと、出産して子孫を残すという、この本で問題となってきたような意味での生命の連鎖とも重なり合うように思える。つまり、出産とは、「あなた」の指し示しと等しいとも言えるのではないか。反出生主義とは、この生命の連鎖に正面からNOを突きつけようとするものなのだから、森岡としては、是非とも反論しておく必要があったのだろう。

指差しの差し返しと時間

ここまでうまくまとめたような気もするけれど、少々怪しいところもある。なぜ、(永井のように)自分自身への指差しが禁じられ、「あなた」としか指差すことができないのか。また、指差した本人を指差しし返すのではなく、別の人を「あなた」と指ささなければならないのか。(指差しを一部で循環せず、生命全体に広げていくためには、別の人を指指ささなければならない。)

このことに答えるためには、時間論に話を広げる必要があるだろう。

僕は、ある瞬間とある瞬間の間にある時間的な断絶を深く捉えている。一瞬前の僕は今の僕とは違うし、一瞬後の僕も今の僕とは違う。瞬間ごとに僕は断絶している。僕はそう考えている。ちょっと常識とはかけ離れているけれど、過去に対しては記憶を想起するというかたちでしかアクセスできないということを考えるならば、きっとそれは揺るぎない事実である。

だけど、一方で時間は完全に断絶しているのではない。僕は一瞬前も僕であり、一瞬後も僕であるはず、なのだから。これもまた、揺るぎない事実である。

この断絶しているのに断絶していないという不思議さは、時間論における大問題なのだろうけれど、この不思議さと「あなた」という指差しの不思議さは重なり合っているように思う。「あなた」という指差しが成立するためには、私とあなたが独立していなければならないけれど、指差しが可能である程度には関係づけられていなければならない。「独立しているけれど、関係がある。」このような不思議な関係性は、人称と時間の両方で同じように生じており、その意味で、この二つを重ね合わせることは可能であるように思える。

もし、私から「あなた」へという人称的な指差しと、今から過去へという時間推移とを重ね合わせることが許されるならば、先程の二つの指差しの問題、つまり「自分自身への指差しが禁じられ、「あなた」としか指差すことができないのか。」と「指差した本人を指差しし返すのではなく、別の人を「あなた」と指ささなければならないのか。」という二つの問題はいずれも解決するように思える。つまり、現在の私が現在の私を指差しできないのは、そこに時間推移があるからであり、私を指さそうとしても、それは別の時点の私という「あなた」になってしまうからである。また、指差した人のことを指差し返そうとしてもできないのは、それも別の時点の「あなた」になってしまうからである。

このようにして、時間的な断絶を深く捉え、そしてそれを人称的な断絶と重ね合わせ、それでもその断絶を指差しにより連鎖させることで、繋がっているけれど独立であるという不思議な生命の存在をうまく描写できるのではないだろうか。

正直、僕は、森岡と哲学的な問題意識をあまり共有しておらず、なぜ森岡はそこにこだわるのか、と理解できないことも多いけれど、一方で、興味深く、刺激となるところも多いなあ、と思う。僕と森岡との哲学的関係も、断絶しているようで連鎖している不思議な関係なのかもしれない。

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