X-A=B

※1600字くらいです。

僕が高校生の頃から抱えている疑問を、あえて今の僕の言葉で表すならば「この言語で捉えられる前の、何か(近似的な表現としては「これ」「世界」)とは何なのか。」というようなものになるだろう。

そして、この疑問を少しでも探求しやすく加工するならば次のようになるだろう。

「この言語で捉えられる前の何かをあえて言語で捉えるならば、どのように捉えることができるのか。また、この捕捉の過程において何が失われることになるのか。そして、捕捉したものに失われたものを付け加えるようにして復元したならば、何が復元されるのか。」

僕が最近考えていることは、こういうことばかりのような気がする。表向きは毛色が違っていても、どこかでこういう話につながっている。

このような構造で思考をしてしまうのは明らかに入不二基義の『現実性の問題』のせいだと思う。

僕が捉えたい何かを近似的に表現するならば、「これ」や「世界」となるだろう。わかりやすいが誤解を招く言い方をするならば、僕はこの眼前に広がる「この世界」に驚いている。そして「この世界」は一体何なのだろう、という疑問を抱えている。

だけど、このような表現には、残念ながら様々な誤りが含まれている。まず、僕が驚く世界とは、僕の視界に捉えられる限りの世界ではない。視界に捉えることができない世界も含む。また、実際に現前している世界に限るものでもない。かつて存在した世界やいつか存在するだろう世界や存在するかもしれない可能性としての世界も含む。そして、物理学的な宇宙というような描写ができるものに限るものでもない。想像上の物語や人の心といった、そもそも世界という言葉がそぐわないようなものさえも含む。また、僕が指し示したいものは、時空的把握という人間が偶然的に持っている性質によって制限されるものではない。そのような意味でも、世界という言葉はそぐわない。他にも様々なかたちで表現の限界を指摘することができるだろう。

だから、「この世界」「これ」「世界」といった言葉は誤解を招く。「これ」と指差しできないものも含むのに「これ」はおかしいし、「世界」と呼べないようなものも含むのに「世界」もおかしい。そうかと言って、もっといい言葉も見つからない。だから、僕はどうしたものかと試行錯誤している。

だけど入不二は、その何かについて「潜在性」という、(今のところ)最も適切な描写を与えてくれた。あえて、この言語で捉えられる前の何かを言語で捉えるならば、それは入不二の「潜在性」なのである。そう考えると、僕は少し居心地がよくなる。

だが、この捕捉の過程においても失われるものはあるはずだ。なぜなら、どんなにうまい言葉を入不二が発明したとしても、そこには何らかの制限が加わっているはずだからだ。では、何が失われることになるのか。

入不二はこの問題にも答えを出してくれている。それは「現実性の力」である。そして、入不二によれば、あえて「潜在性」として言語で捉えられる前の、言語以前の何かとは「現実」である。なぜなら、言語以前の何かは、あえて「潜在性」として言語で捉えることができるが、この捕捉の過程において失われた「現実性の力」を付け加えるようにして、「現実」を復元することもできるからである。

僕は、これは、なかなかいい線をいっている議論だと思う。少なくとも、僕がやるべきだと思っていることに、最も肉薄した議論であり、少なくともこれ以上の議論は今のところ思いつかないほどの議論である。

だけど、僕にとっての入不二の議論の最大の意義は、この議論を通じて、僕がやるべきことを明確に指し示してくれたというところにこそあると思う。

入不二は、次のような式でXに迫ることができることを示してくれた。

X-A(現実性の力)=B(潜在性)

X=B(潜在性)+A(現実性の力)

X=C(現実)

僕は僕なりにA、B、Cを探し求め、入不二とは違うやり方で、僕の問題に更に肉薄していきたい。

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