7200字くらいあります。最近入不二・永井関係ばかり書いている気がする・・・

1 はじめに

先日の永井や入不二らによるワークショップについて、文章を書いた。

『永井・入不二・青山・谷口・僕』https://dialogue.135.jp/2022/03/19/nagaikoki/

うち入不二による発表については、動画もアップされている。

『〈 〉についての減算的解釈 ─永井の独在性から入不二の現実性へ』https://youtu.be/qDAshhcWTdA

このワークショップについては、いずれ本になるそうなので、そこまで待ってもいいのだけど、特に入不二の発表について、考えたことがあったので書き残しておく。

入不二の動画の17:10くらいから『「一方向性(〈私〉→実在世界)」の内に含まれる「断裂」と「循環」』という発表がされている。入不二の発表のなかでも、特にこの部分から思いついたことについての話である。

2 〈私〉から実在世界への一方向性

永井の独在論によれば、〈私〉と実在世界の関係は、〈私〉から実在世界に行き着くことはできるが、逆に、実在世界の側から〈私〉に行き着くことはできない、という一方向性があるとされる。

確かに、普通の意味での「私」、つまり人物個体としての「私」しかいない実在世界をどこまで調べ尽くしても、そこに独在的な〈私〉を見つけることはできない。実在世界から〈私〉に至る経路は閉ざされている。だからこそ永井は偉業を成し遂げたのだとも言える。永井は、実在世界のなかには見つけることができないはずの〈私〉をなぜかみつけ出してしまい、更には、それを明確に独在性の問題として捉えることに成功してしまったのだ。

だが、一旦永井が成し遂げたとおりに〈私〉の高みに立ってしまった後に、そこから「私」の実在世界に下りることは容易である。なぜなら、独在的な〈私〉は、実存的な概念により描写できる《私》や、人物個体としての「私」として当たり前に理解されるのだから。〈私〉を私という言語で捉えた途端、それは《私》や「私」になってしまうことになる。

「私」から《私》に至り、更にそこから〈私〉に至ることは不可能と呼べるほどに困難な道のりだが、逆に、〈私〉から《私》、更に「私」に至ることは、そのような道筋を歩んだことに気付かないほどに容易である。永井はそれを一方向性と呼んでいる。

それに対して入不二は、その前半は認めつつ、後半を否定する。独在的な〈私〉からこの地球上に何十億人もの「私」がいるような実在世界に至る道はそれほど容易なことではないのだ。

入不二はその問題を断裂と循環として示す。

断裂とは「一」未満ということであり、〈私〉から実在世界への一方向の推移を完遂することはできないということである。なぜなら、〈私〉を実在世界と接続し、《私》という主体を現出させることはできても、その主体が実在世界というようなものを構成する力はないからだ。つまり一方向の推移を「1」とするならば、その推移は道半ばの「0.5」で断裂するということである。(なお、なぜそのような力がないかというと、〈私〉とは(永井的な用語としての)無内包の現実であり、内包(イコール内容と僕は解釈している)に満ちた実在世界を構成する力はないということであろう。)

独在的な〈私〉の世界と、人物個体としての「私」が複数いるような常識的な実在世界との間には断絶という問題があるということを入不二は示している。

もう一方の循環の問題とは、もし、〈私〉から実在世界への推移を成し遂げてしまったならば、それは一方向の推移ではなく「両」方向の循環になってしまう、という問題である。

〈私〉から「私」への推移を完遂するということは、つまり、出発地点の〈私〉と到着地点である「私」が私という語で結び付けられるということである。それならば、私という語を手がかりにして、不可能なはずだった、「私」から〈私〉に至ることは極めて容易なことである。「私」から〈私〉に至る道筋が(永井が見出した道筋以外では)不可能なのは、目的地点である〈私〉が無内包であり、実在世界のなかでは無内包なものを見つけることは不可能だからである。だが、それを〈私〉と表記できてしまった途端、そこに到達することは容易なことである。

入不二はそのことを、〈私〉と《私》と「私」の三水準の私が、私という表記を貫くことにより、自在に行き来できてしまう、という自体として述べている。これはつまり、一方向の推移を「1」とするならば、その推移は横溢し「2」の循環に至ってしまうということである。

よって、永井の一方向性は「1」として完遂することはできず、断裂の「0.5」または循環の「2」となってしまう。一方向性の「1」とは、「0.5」の断裂と「2」の循環の合成物なのである。

以上の説明は、入不二の説明に僕なりの言葉を補ってはいるが、説明として概ね間違ってはいないと僕は思う。そして僕はその説明に同意する。

2 〈私〉を固定的に捉えることはできない

入不二は直截には言っていないが、僕は、この困難は、永井の独在性を〈私〉という固定的な表現で示すことの困難に由来するものだと思う。

永井は確かに〈私〉を発見した。正確には、自明なものについて〈私〉という輪郭を与えた。だが、より正確に言うならば、永井は〈私〉があるはずの方向を指し示すことに成功したに過ぎないとも言える。人は、あちらに北極星がある、と真北を指差すことはできても、(現代の科学技術では)北極星に到達することはできない。同様に、人は〈私〉の方向を指し示すことができても、そこに到達することはできない。

入不二は、僕が比喩的に述べたことについて、次のように表現している。

「〈私〉へ至らんとするルートは無限の否定性を特徴として持つ。私という人物個体や概念・形式ではないという無限の否定としてのみ〈私〉は存在する。」

〈私〉を北極星に喩えるならば、北という方角は、無限の否定性である。無限の否定を完遂することはできないから、〈私〉に到達することはできない。しかし、都度、無限に否定し続けることによって、〈私〉の方角を指し示すことはできる。〈私〉とは、そこに到達することはできないが、指し示すことはできるものなのである。

〈私〉とは蜃気楼のようなものだと言ってもいいかもしれない。蜃気楼は、光の屈折がはるか遠くのオアシスを間近に見せる幻である。(蜃気楼にいつかは到達できるという違いはあるけれど。)入不二は、そのような側面を強調し、永井の〈私〉を虚焦点と呼んでいる。永井の本に従い人々が理解することができる〈私〉とは、そのようなものなのである。永井の〈私〉を捉え切り、概念として固定的に手元に置くことはできない。

さきほど、〈私〉から実在世界への一方向の推移は完遂できない、と言ったが実は、そもそも我々は、〈私〉という固定的な出発地点に立つことなど、できていなかったということである。一方向の推移の不可能性はここに由来するものである。

なお、この問題について永井は十分に自覚的だと思う。なぜなら、永井は、永井が書いた文章を読んだ読者が、〈私〉について理解することをも否定しているからである。永井の〈私〉は、第一発見者である永井だけがアクセスできるという秘教的なあり方をしている。だから、僕のような悟っていない者が〈私〉を固定的な地点として捉えることなどできないのである。当然、この文章を読んでいる(永井以外の)あなたであっても、青山拓央や入不二のような永井哲学の理解者であっても同じである。ここにも無限の否定が及んでいる。

きっと、永井の〈私〉に至る道筋の最も根源的なところにある否定とは、言語で表現されることの否定であり、永井以外の者が永井と同様に理解することの否定なのだろう。

なお、僕は語感としては、否定というよりは拒否としたほうがいいように思うので、これからは〈私〉に至る道筋が持つこの性質を、拒否性と呼ぶことにしたい。

〈私〉に接近するためには、〈私〉が持つ拒否性を受け入れ、〈私〉の拒否性に十分に自覚的であることが必要である。〈私〉とは〈私〉に接近することを〈私〉から拒否されることによってのみ近づくことができるものなのである。だから、本質的に、そこに到達することは決してできない。よって、〈私〉を到達地点として固定的に描写することは誤りである。

入不二の一方向性の困難は、そのことを指し示していると僕は理解している。

3 入不二の道筋

ここまで、永井が示した〈私〉への道筋の特殊さについて論じてきたが、実は入不二は、永井とは全く別の〈私〉へと至る道筋があると考えている。永井とは全く反対に向かい、大きく迂回して、裏から〈私〉に至る道筋である。日本からロンドンに行こうとして、シベリア上空を飛ぶのではなく、太平洋を横断し、アンカレジ経由で向かうような道筋である。

入不二が現実論として示す道は、「現に」という副詞で表現されるような、遍在的な現実の力を使う道筋である。

入不二の現実論において重要な役割を果たす現実性という語を理解するにあたって特殊な状況を想像する必要はない。ごく当たり前の状況において、ごく当たり前に、現実性はあまねく働いている。僕は「現に」会社に出勤したり、「現に」昼寝をしたりする。「現に」ウクライナで戦争が起きたし、僕は「現に」そのことを嘆いたり、「現に」そんなことを忘れて楽しく過ごしたりしている。

どんなにつまらない日常であっても、どんなに特別な非日常であっても、それは「現に」現実である。何もせずに昼寝をした一日も「現に」昼寝をしたのであり、何億円もかけて宇宙旅行をした一日も「現に」ロケットに乗ったのである。どんなにありえないような思考実験的な状況であってもそれは変わらない。「現に」悪霊がデカルトを騙しているのだし、「現に」水槽の中の脳なのである。

日常も非日常も、「現に」現実である。そのような理解を、「現に」という副詞を付け加えることでそのことを誰もが極めて当たり前に共有できる。入不二の現実論はそこに尽きている。永井の独在論につきまとっているような理解の困難さは全くない。永井の独在論が門戸を閉ざし秘教的であるのに比べて、入不二の現実論はあっけらかんと門戸が開かれており顕教であると言ってもいいだろう。もし、入不二の現実論を理解するのが難しいと感じるならば、それはきっと、そこに何らかの理解の困難があるはずだと疑っているからなのではないか。だが残念ながら、入不二の議論には、読者が自力で悟らなければならないような障壁はない。きちんと入不二が示す議論を追っていくことでそのとおりに理解できるものである。以上のような入不二の議論の特徴について、永井の独在論には拒否性があるのに対して、入不二の現実論には受容性があるとまとめておきたい。

だから、入不二の現実論には、永井の独在論のような、ひりひりするような緊迫した中心性がない。あっけらかんと現実は遍在している。

入不二はそこに、なんらかの事情で中心性が加わることで、〈私〉という特異点が生じると考えている。つまり、入不二によれば、〈私〉とは、「遍在性+中心性=独在性」という極めて単純なかたちで描き切ることができるものなのだ。入不二はそのことについて、動画の最後のほうで唯一中心分有型の〈私〉として述べている。

以上が実在世界から独在的な〈私〉へと向かう東廻りのルートである。永井が東京からロンドンまで西廻りで直行しようとしたのに対し、入不二は実在世界から、純粋な現実性を経由し、そこから〈私〉に至るというアンカレジ経由の迂回ルートを発見したのだ。

4 永井と入不二の対比

 なお、入不二は、現実性を力として捉えている。「ウクライナで戦争が起きた。」という文を「現に、ウクライナで戦争が起きた。」とすることで、現実性が付与され、文が現実のものとなる。これが現実の力である。なお、この力は透明であり、「現に」という言葉を、それを可視化するためにあえて用いているにすぎない。だから、「現に」という言葉を外しても、実は「ウクライナで戦争が起きた。」という文には現実性がある。

 このことは、永井の〈私〉の独在性には、拒否によってのみ迫ることができる、ということに似ている。永井の独在性にある拒否性も、拒否という力である。入不二の現実性にも、永井の独在性にも力動性がある。

 その点で、永井と入不二は、ちょうど背中合わせのような関係にあると思う。永井の議論を駆動しているのは、拒否の力であり、入不二の議論を駆動しているのは受容の力である。そこにあるのは、全く同質なのに、向きだけが違う二つの力だ。

 その力は、入不二ならば、すべての文に「現に」という言葉を付与することができる、という普遍性として表現できる。一方で、永井の場合には、あらゆる言葉の内で、「私」(と「今」)に限定して特別性を認め、更に、その「私」(と「今」)も、通常の用法ではなく、更に《私》(と《今》)に限定して特別性を認め、それでも飽き足らず、更に〈私〉(と〈今〉)に限定して特別性を認める、ということをやっている。つまり、二人が言語に対して行っている作業も、ちょうど、普遍化と特別化という真逆のことである、と言える。

 その結果、表現されるものは、入不二ならば全てを受容するような、凪いだ普遍性であり、永井ならば全てを拒否し、せり上がるような中心性である。

 入不二は、ベタとスカという言葉を用いたこともあるが、入不二の現実性はベタである一方で、永井の独在性は、すべてを拒否し、内容がなくてスカスカだという意味で、スカと呼ぶこともできると思う。

 永井の独在論は、拒否の力であり、そこで用いられるのは限定され特別化した私や今といった用語であり、そこで見出されるのはせりあげるような中心性であり、全てを拒否した結果としてのスカである。一方の入不二の現実論とは、受容の力であり、そこで用いられるのは、「現に」という普遍的な用語であり、そこで見出されるのは凪いだ遍在性であり、全てを受容した結果としてのベタである。二人の議論は、異常のような対比ができると思う。

※ なお僕は、入不二の受容という言葉には、何ら倫理的な意味合いはないと思っている。あえ て言えば、善も悪もすべて受容するという意味で、極めて非倫理的な考え方だと言ってもいいと思う。この点でも、すべての倫理を拒否するという意味で非倫理的な永井とは対象的な立場にあると言えるだろう。

5 無内包の現実

 背中合わせに立っていた二人が、ぐるっと思索の旅をし、また出会う場所が「無内包の現実」である。永井はシベリア上空を通ってロンドンに着き、入不二はアンカレジ経由でロンドンに着く。二人が落ち合う場所が「無内包の現実」(純粋現実性)である。

 同じ場所であっても、そこまで至る経路が違うから、見える景色は異なる。永井の「無内包の現実」とは、内包をすべて拒否し、内包がありえないという意味での無内包である。一方で入不二にとっての「無内包の現実」とは、内包はあってもなくてもよいが、内包と関係ない次元での現実という意味での無内包である。そのせいだと思うが、最近の入不二は、あまり「無内包の現実」という語は使わず、純粋現実性というような別な表現を好んでいる。

 よって、二人が指し示すものは全く異なるとも言える。だが、それでも同じ地点に到達していると僕に思えるのは、それが、この常識的な実在世界から最も遠いところだからである。二人が見ている景色は全く異なるが、ここから最も遠いところを見ているという点で二人が見ているものは重なるはずである。二人が重なる地点としての「無内包の現実」とは、まさに無内包であり、そこに現実性であれ、独在性であれ、何らかの意味を込めることはミスリーディングである。「無内包の現実」とは、この常識的な実在世界から最も遠いところを地点として意味するだけの言葉なのである。

 だから、二人の議論をロンドン旅行に喩えるよりは、日本の反対側のブラジルあたりを持ち出したほうがよかったかもしれない。二人は、ここから最も遠いところへ旅をしようとしていただけなのだ。

6 補足 中心分有型の〈私〉

そのように考えるならば、このワーキンググループで入不二が中心分有型の〈私〉というようなものを持ち出し、永井の議論に合わせたことは過剰なサービスだったと言ってもいいだろう。この中心分有型の〈私〉の議論とは、二人は「無内包の現実」というロンドンで待ち合わせればよかったのに、あえてモスクワあたりまで入不二が永井を迎えに行ったようなものだからである。

その無理は、入不二が、遍在するベタの現実性に、中心性を加え、〈私〉という特異点を立ち上げたところに現れている。僕は、この中心性の付け加えは、入不二の議論の弱さだと思っている。

確かに、ここでも現実の偏在性は働いており、現実においては、「現に」中心性は加えられ、「現に」〈私〉という特異点が立ち上がる。その点では、この事象は入不二の現実論の圏内で行われているとは言える。だが、入不二の現実論は、そこで特異点として特権的に立ち上がるのが、なぜ〈私〉(か〈今〉)なのか、ということが説明できない。永井と比べた場合、入不二の議論にはそのような弱さがある。

ただし実は、これはどうでもいい弱さである。なぜなら、入不二の現実論の目的地は、「無内包の現実」(純粋現実性)だからである。入不二はロンドンに着いたのに、あえてそこで飛行機を乗り換え、永井を迎えにモスクワに行く必要はない。ロンドンでのモスクワ行きの飛行機への乗り換えとは、ベタの遍在する現実に、あえて、〈私〉という特異点を付け加えることを意味している。