この文章は、『永井と入不二の対比 ~「現に」と「今の私において」~』https://dialogue.135.jp/2022/05/04/taihi/

の続きで、後半部分になります。35000字以上になってしまいました。

足して50000字近くになるはずなので、そのうち前半とあわせて書き直して長文のほうに載せようかな。

1認識論・意味論・存在論

(1)存在論の無内容性

ここからは、永井と入不二の違いに注目していきたい。だが、違いを述べるため、もう少しの間、共通点に目を向けていきたい。なぜなら、二人が袂を分かつその瞬間でこそ、その違いは鮮やかに浮かび上がるはずだからだ。

僕が理解している範囲では、二人の共通点として、哲学的議論は、認識論・意味(言語)論・存在論の三つに分けることができる、という議論の枠組みがあるように思う。また、永井と入不二はいずれも、明らかに、そのうちの存在論をやっているという共通点もあるように思う。つまり、二人は、認識・意味(言語)・存在について共通の捉え方をしているように思われるのだ。

では共通の捉え方とはどのようなものかというと、永井や入不二のような存在論をやる立場からすれば、認識論・意味(言語)論・存在論という三種類の議論は競合する並列の関係にはないという点が重要である。認識論と意味(言語)論は、存在論を論じるための手段である。だから、目の前にペットボトルが認識されているからペットボトルは存在している、とか、「ペットボトル」という言葉の意味によってペットボトルの存在が示されている、などと論じられることになる。存在論においては、存在こそが唯一の論点であり、認識や意味(言語)は存在を論じるための手段なのである。

その結果、存在論の議論における「存在」は抽象化していくことになる。なぜなら、存在自体には(少なくとも常識的な意味での)内容がないからだ。その存在がペットボトルだったり、コップだったり、三角形だったりといった内容を持つのは、そのような認識や意味があるからである。だが、存在論においては、認識や意味はあくまで存在論を前進させるにあたっての手段だから、なるべく、そのような便宜上の手段からは距離をとり、存在そのものに迫っていくべきだ、ということになる。その結果、存在論は、認識や意味により把握できる存在するものの内容(内包)ではなく、存在そのものを議論の対象としていかざるを得なくなる。こうして存在から内容が失われるのである。

こうして、存在論をやる限り、「(認識や意味ではない)存在とは何か。」という問いだけが真の存在論のテーマとなり、そして、永井や入不二が到達したように、存在とは「無内包(無内容)」である、という地点に到達するのは必然である、ということになる。以上が僕が素描する二人の存在論の共通点である。
(なお、永井ならば自分がやっていることは存在論ではなくて独在論だと言うだろうし、入不二ならば存在論ではなくて現実論をやっていると言うだろう。だが、いずれも従来の存在論とは全く異なる新たな存在論であると表現することはできるように思うし、そのような意味で、独在論や現実論を広義の存在論と呼ぶことを二人は否定しないように思う。よってここからは、存在論とは、独在論や現実論も含む広義の存在論を示す言葉として用いることにする。)

当然、存在論が認識論や意味論から完全に離れることはできない。なぜなら、認識や意味といった議論の手段なくして、存在という議論の対象を指し示すことはできないからだ。手段なくして対象に迫ることはできない。存在論においては、存在という議論の対象と認識・意味という議論の手段はいずれも欠くことができないのである。よって認識や意味についての考察を深めることを手段として、存在に迫ろうとしているということも二人の共通点であると言うことができる。

(2)意味論の強さ

ここからは、存在論において認識論と意味論が必要であると主張する根拠について述べていきたい。

まず、意味論が存在論において必要であることは、永井や入不二の議論から確認できるだろう。永井の独在論においては、共通認識としての「私」・「今」、実存としての《私》・《今》、独在的な〈私〉・〈今〉という三段階の考察により、私の今の議論が深められていく。そのうちの第一段階の「私」・「今」や第二段階の《私》・《今》については意味論とあわせて認識論も重要な役割を果たす。だが更に議論が深まり、第三段階の〈私〉・〈今〉にまで深まると、前半で述べた通り、認識論は役に立たなくなるが、それでも意味論的な説明からは逃れることはできない。永井の独在論をゴールまで運んでくれるのは意味論である。

(例えば僕は、前半で、「記憶や認識は関係がないという意味で、〈私〉は意味論的に時間連続性を有する、と言い切ってもいいだろう。」と述べている。)

入不二の現実論においても意味論が決定的な役割を果たす。例えば入不二は、現実性の力の透明な遍在性を示すうえで、すべての文に「現に」という語を付加することができる、という議論を持ち出す。「現に、ソクラテスは哲学者である。」、「現に、東日本大震災が起きた。」というように。これらの文は「現に」をつけずに、「ソクラテスは哲学者である。」、「東日本大震災が起きた。」としても全くその意味は変わらない。

また、入不二の主著『現実性の問題』においては、第一章の円環モデルや、追記とあとがきでのActu-Re-alityの構造のように、概念と概念の関係を図で示すような議論が重要な役割を果たしている。

これらの説明はすべて言語を用いた意味論的な説明であり、このような意味論的な説明を経由することで、入不二ははじめて、透明で遍在的な現実性の力を示すことに成功しているのである。

二人の議論は、具体的な観察や認識に基づかない議論であるという点で意味論的な存在論と呼ぶことさえできるだろう。永井の独在は、クオリアと呼ばれるような、ありありとした独在の認識とは関係なく、意味として独在なのであり、入不二の現実も同様に現実の認識とは関係なく意味として現実なのである。このように、別の二人の存在論において意味論は決定的に重要な役割を果たしている。

そもそも、哲学というもの自体が言語により論じるものであるという点で極めて意味論的な活動であり、哲学とは意味論であるとさえ言える。意味論を離れて哲学をやるということは、つまり、言語を用いずに哲学をやるということであり、それは永井であっても入不二であっても不可能なことである。彼らがやっていることが言語を用いる哲学という営みである限り意味論から逃れることはできない。意味論にはこのような強さがある。

(3)認識論の強さ 「真の実感」

では、もう一方の認識論はどうだろう。哲学において認識は言語ほどには重要ではない、と考えるならば、認識論は意味論に比べれば弱い議論だと思えるかもしれない。認識とは、我々人間という動物が持つ五感という機能にもとづく極めて偶然的なものだし、見間違いや夢の懐疑などにより容易に疑うことができるものである。これはコップではなくグラスである、というような認識の内容にはそれほどの哲学的な深みはないようにも思える。

だが認識の重要性としてまず指摘できることとして、哲学を始めるためには素材としての何らかの認識は必要なはずである、という点がある。認識の具体的な内容はともかくとして、何らかの認識は必要であり、全く認識がないとしたら、やはり哲学は始まらないようにも思われる。哲学において認識を全く欠くことはできないだろう。

だが僕は、哲学において認識が必要不可欠であるとすべき、より重要な理由があると考えている。言葉が意味を持つためには、「真の実感」とでもいうべき特殊な認識が必要である、というのが僕のアイディアである。言語とは、言語自体としての意味論と、「真の実感」としての認識論とがむすびつくことで、ようやく理解可能なものとなるのではないだろうか。そうだとするならば、哲学という言語活動が成立するためには、言語自体としての意味論と、「真の実感」としての認識論とが必要なのではないだろうか。

さて「真の実感」というのは僕が勝手に作った概念だから、説明が必要だろう。具体例をいくつか用いながら、「真の実感」という概念を導入していきたい。

まず「目の前にペットボトルがある。」という文について考えてみよう。この文が真であるためには、目の前にペットボトルがなければならない。しかし、「目の前にペットボトルがある。」という文があり、目の前にペットボトルがあるだけでは、その文は真とならない。なぜなら、視覚や触覚でそこにペットボトルがあることを認識しなければならないからである。だがそれだけでも足りない。なぜなら、ペットボトルを観察する主体は、本当に目の前にペットボトルがあるとは知らないから、それは見間違いや思い違いだと思うかもしれないからである。そのような可能性を排除するためには確かに「目の前にペットボトルがある。」という文は真であるという実感を持たなければならないはずだ。これが「真の実感」である。

同様に「2011年3月11日に地震があった。」という文が真であるためには、そのときの職場での記憶を呼び起こし、過去を再生するように認識したうえで、確かにその文が真であるという実感を持たなければならない。また「1025+4=1029」という文が真であるためには、暗算をしたうえで、確かにその文が真であるという実感を持たなければならない。

ここで3つの例を出したが、それぞれのプロセスの最後に付け加えられている「真の実感」はこじつけであり余計だと思われるかもしれない。常識的に考えるならば、目の前にペットボトルがあることや、東日本大震災の記憶が勘違いだと思うことはありえない。その文と、認識や記憶との対応を確認できさえすれば、更に真の実感など加えなくても、その文を真と認めることができるのではないだろうか。

だが僕はそれに反論したい。少なくとも最後の計算の例では、文に対応する認識や記憶がないので、頭の中で行った計算が計算間違いではなくて正しいものだと判断する手がかりは認識や記憶のようなものではないはずだ。そこで文を真とするのは「腑に落ちた」とでも表現したくなる「真の実感」しかない。そこに認識や記憶のようなものでアクセスできる客観的な手がかりがあるからではなく、自分の中の実感として、計算結果が腑に落ち、これ以上計算結果を疑い、検算しなくてもいいと感じたからこそ、その文が正しいことになるのである。もし、「真の実感」のようなものを必要とせず、検算との突き合わせにより真偽を確認できるとするならば、検算は無限に遂行されなければならないはずであり、検算をどこかでやめるためには、どこかで実感として腑に落ちる必要があるはずなのである。

それを認めるならば、ペットボトルや地震についても同じことは言える。外出するときに本当に戸締まりをしたか気になることがある。かすかに戸締まりをした記憶があったとしても、それは昨日の記憶かもしれない、なんて思うことは十分に日常でありえることだ。また、宝くじが当たるようなことがあれば、これは夢なのではないだろうか、なんて思って頬をつねることもあるだろう。戸締まりや宝くじの場合、「1025+4=1029」と同程度には検算が必要となるはずである。

更にそれを認めるならば、宝くじとペットボトルの認識の間にあるのは、または戸締まりと大震災の記憶の間にあるのは、程度の差でしかない、ということも認めなければならないだろう。ペットボトルの認識や地震の記憶について、悪魔に騙されているのかもしれない、とデカルトのように疑うことはできるはずなのに、あえて疑わないのは、その認識や記憶が腑に落ちて、見間違いや思い違いでないかどうか、または悪魔に騙されているのではないか、これ以上確認しなくていいと感じたからこそである。そのようなプロセスを経るからこそ、その文が正しいことになるのである。認識や記憶のプロセスのなかに含まれる「疑わない」という手順を見過ごさずに議論を組み立てるためには、腑に落ちたからこれ以上疑わなくてよい、という「真の実感」のようなものを想定することは必要不可欠なのである。

僕はこの「真の実感」こそが認識論の最深部だと考えている。そして、この「真の実感」は言語の成立そのものにも関わっている。言語自体としての意味論と、「真の実感」という認識論が共働することで、ようやく言語を成立させることができる。つまり、そこから哲学が始まるのである。

なお、例えば「目の前にペットボトルが見える。」というような感覚報告の文では「真の実感」が必要ないと考えるかもしれない。だがこのような感覚報告の文は、そもそも認識を必要とするから認識論の重要性を補強する例とも言える。または、このような感覚報告の文とは、「目の前にペットボトルがある。」ということを視覚で確認し、それに「真の実感」を感じることができた、というプロセスを表現した文だと捉えることもできるだろう。いずれにせよ、感覚報告の例は、認識論の重要性に対する反論とはならない。

(4)哲学とは存在論である

さて、哲学をするためには、言語自体としての意味論と「真の実感」としての認識論はともに重要であり、哲学の手段として、意味論と認識論は必須であるということを認めていただいたとしよう。では、意味論と認識論を手段として用いて哲学が何をするのだろうか。

その答えこそが存在論である。なぜなら、永井や入不二に習って、哲学を意味論と認識論と存在論の三つに分けることができるとするならば、意味論でも認識論でもないものは存在論しかないからだ。更に言うならば、哲学とは言語を手段として行うものだと捉えるならば、哲学とは手段としての意味論・認識論ではないもののことであり、つまり、哲学とは存在論なのである。

では、存在論とはなにかといえば、手段としての意味論や認識論ではないもの、という以上の内容の規定はない。だから存在論は無内容なのである。これは、意味や認識を切り離すならば、存在は無内容だというのと同じことである。

付言しておくと、世の意味論や認識論と呼ばれる哲学が、目的と手段を取り違えるような間違いをしているのかというと、決してそうではない。意味や認識という道具を研ぎ澄ますことによってこそ哲学は先に進むことができる。哲学を先に進める方法はそれしかないとも言える。意味論や認識論とは、意味や認識という手段の重要性を強調した場合の哲学の呼称なのである。そして、哲学とは存在論だとするならば、意味論や認識論とは、存在論を前進させるために必要な手段に着目した場合の存在論の別名であるとさえ言える。

逆に、認識や意味という議論の手段ではなく存在という議論の対象に着目している哲学者、つまり存在論をやっているとされる哲学者であっても、自らの存在論を前進させるためには、意味や認識という手段についての考察を深めるしかない、とも言える。存在論をやるためには、意味論や認識論をやるしかないのである。

つまり、存在論とは意味論・認識論であり、意味論・認識論とは存在論なのである。それこそが哲学であり、哲学とはそのようなあり方しかできない。その営みを、意味論・認識論・存在論のいずれの名前で呼ぶかは、その唯一のあり方しかない活動について、どの側面を重視するか、という選択でしかない。つまり名付け方の違いということである。

(5)一流の哲学

そして、永井の独在論と入不二の現実論は、上記のようなことを重々承知のうえ、自覚的に存在論をやっているという共通点があるように思う。二人がやっていることは、あくまで意味や認識を道具として使うということを自覚しつつ、ひたすら、意味でも認識でもないもの、つまり存在に対する理解を深めていこうとするような議論なのである。

なお、彼らがやっていることは、そのようにして存在を突き詰めようとする存在論だから、常識的な意味での存在という言葉からは大きくかけ離れている。だから永井は、自分がやっていることは存在論ではなく独在論だと言うだろうし、入不二も自らの議論は存在論ではなく現実論だとするのである。

常識的には、存在という表現には、何かが存在している、という内容(内包)を伴うような語感がある。永井ならば、そのような内容の挿入、永井用語によるならば〈ものごとの理解の基本形式〉を拒否するものこそが独在である、と言うだろうし、入不二ならば、現実はそのような内容の挿入をすべて異論なく受容したうえで、そのような内容と存在は無関係である、とするはずだ。その理路は大きく異なるが、存在を無内包(無内容)と捉えるという点で、彼らの議論はいわゆる存在論からは明らかに乖離している。

だが、ここまで論じたように、広義の存在論というものを措定するならば、二人がやっていることは、認識論でも意味論でもないという限りでの広義の存在論、それも一流の存在論である。また、二人は、認識や意味という手段を極限まで研ぎ澄ましているという点では、一流の認識論や意味論をやっているとも言える。二人の哲学は、一流の存在論であり、そして一流の認識論・意味論であり、つまり一流の哲学なのである。

以上のように永井の独在論と入不二の現実論を重ね合わせることができる。

2拒否の力と受容の力

(1)嗅覚

ここまでが、永井と入不二を重ね合わせる作業であった。僕の言葉を用いるならば、永井がやっていることは、独在という存在のあり方についての議論であり、入不二がやっていることは、現実という存在のあり方についての議論である。ともに、意味や認識をあくまで手段として用いて、無内包で透明な存在そのものに迫ろうとしている。そのように二人の議論を結びつけて捉えるならば、存在を結節点とすることで、独在=存在、存在=現実、つまり、独在=存在=現実というようにして、存在・独在・現実を重ね合わせることができそうにも思える。では、二人が取り扱っている存在、独在、現実と呼ばれるものは、全く同じものなのだろうか。

僕は、この地点こそが、二人の議論の分岐点であると考える。だが、この分岐の議論を進めることには困難がある。なぜなら、二人がたどり着いた境地、つまり独在論、現実論と呼ばれる存在論は、少なくとも通常の意味での認識や意味を振り切っているという共通点があるからだ。そして、認識や意味を振り切っているのだから、認識や意味を手がかりにその内容の違いから異同を論ずることはできない。つまり、もし、独在論と現実論との間に違いがあるとしても、それは、認識や意味から把握できる内容の違いではないはずである。そして、その違いとは、言語自体としての意味論や、「真の実感」としての認識論、つまり言語の使用そのものからも離れた違いでなければならないのである。

ではどうすればいいのだろうか。哲学とは言語を使用する営みであるということに自覚的になったうえで、その言語の使用からなるべく距離をとり、哲学の対象、つまり存在そのものに切り込んでいくにはどうすればいいのだろうか。

それを曲りなりにも遂行するためには、言語使用のギリギリの際のところを見極め、そこで立ち止まるしかないと僕は思う。そのためには、僕たち読者は、彼らが書く文章の言葉遣いや、その文章を読んだときに読者として感じる「真の実感」のなかに残る僅かな痕跡を手がかりに、二人の議論の異同を嗅ぎ取っていくしかないと僕は思う。これを表現することは、永井や入不二ならばともかく、僕の実力では到底成し遂げることができない、アクロバティックな作業となるはずである。

(2)議論の力動性

残念ながら僕の力量では、その言語使用のギリギリの際を掬い取るような描写をすることはできないから、大雑把に僕が感じ取ったところを描写するしかない。

僕は二人の文章から「力」というキーワードを感じ取った。二人の議論にはともに力動性があるし、少なくとも入不二は「力」という言葉を重要視している。僕の嗅覚によれば、この力動性のあり方にこそ、二人の議論の違いがあるように思える。

更に大雑把に話を進め、結論から述べるならば、二人の間には、永井の力とは拒否の力であり、入不二の力とは受容の力である、という違いがあると僕は考えている。

(僕は拒否と受容について書いたことがある。『永井の一方向性と、永井と入不二の議論の対比』 https://dialogue.135.jp/2022/04/24/1houkou/

まず言えるだろうこととして、明らかに永井の議論には力動性がある。その力動性のうち、もっとも重要なものは、永井の〈私〉は、共通認識としての「私」、実存としての《私》、永井の独在的な〈私〉と議論がせり上がっていくようにして描写されるというところに現れているだろう。つまり、永井の議論には、「私」→《私》→〈私〉という力動性がある。

そのうえで、永井の力動性は拒否の力として捉えることができる。なぜならば、永井の議論における力の働き方のなかに拒否性を見出すことができるからである。それを最も象徴的に示しているのは、永井の〈私〉とは、共通認識としての「私」ではないし、実存としての《私》でもない、というように、「~ではない」という拒否の末に見出すことができるものであるということがある。そして、そのようにしてようやく見つけた〈私〉でさえ、永井以外の者が見出したものは真の〈私〉ではない、とされる。永井が到達した境地とは、そのようにしてすべてを拒否した末にたどり着く地点であり、より正確には、その到達すらも拒否する境地であると言ってもいい。以上が永井の拒否の力の素描である。

入不二の場合は、議論の力動性について、より自覚的である。『現実性の問題』における円環モデルには動性があるし、入不二自身が自らの現実性を「力としての現実性」と呼んでいる。

そして、入不二の力動性が受容の力であるというのは、つまり入不二の現実性とは、この世界にあるものはすべて現実であり、更にはまだこの世に存在しないものさえ潜在する現実である、というようにして全てを現実として受容した末に到達する境地であるからである。より正確には、そこに到達しないことをも受容することにより到達する境地と言ってもいいだろう。これが入不二の受容の力の素描である。

なお、二人が到達するのは、拒否や受容の結果として到達する静的な地点ではない。独在論や現実論はどこにも到達しない。その拒否や受容のプロセスとしての力動性にこそ、独在論や現実論のエッセンスがあるのである。

このことは、さきほど、哲学の対象は存在であり、意味(言語)や認識(真の実感)は手段である、としたことに重なる。彼らがやっているのは、哲学そのもの、という意味での存在論であり、その手段として、彼らは、言語使用そのものについての考察を研ぎ澄ませるということ、つまり意味論と認識論をやっているのである。意味論・認識論という手段=プロセスによってしか存在論という対象に迫ることはできないから、そこで行われる議論の重要性は、その議論の結果ではなく、その議論の力動的なプロセスにこそある、ということにならざるを得ない。存在とは議論の末に到達する静的な地点ではない。存在論とは、その議論(意味論と認識論)の力動的なあり方によってしか表現できないものなのである。

(3)独在から現実へと向かう無内包の力

二人の議論は、ともに力動性がありながらも、その力の働き方が拒否と受容という真逆のものである。僕の考えでは、これこそが二人の分岐点である。そして、これは分岐点だから、永井の拒否の力と、入不二の受容の力は、互いに互いを否定し合うような、対立するような関係にはない。あくまで同じものを共有しつつ、そこから分かれる二つの道である。

僕の言葉を用いるならば、二人の共通点は「無内包の力としての存在」というキーワードで表すことができる。永井と入不二はともに、実際に「無内包の現実」という言葉を使用しており、これらはほぼ同じことを表現していると言えるだろう。永井は、「私」→《私》→〈私〉とせり上がっていった先に、すべてを拒否し、内包を持つことすら拒否するような、無内包の独在としての力動的な存在を見出す。入不二は、どれも現実であるというかたちで全てを受け入れることで、内包など関係なくすべてを受け入れるような、無内包の現実としての力動的な存在を見出す。二人の共通点と分岐点はこのようにまとめることができる。

僕はこれを、西廻りと東廻りの2つの経路でのイギリスへの飛行機旅行に喩えたことがある。(『永井の一方向性と、永井と入不二の議論の対比』 https://dialogue.135.jp/2022/04/24/1houkou/)常識という成田空港から出発し、結局は、無内包の存在というロンドン・ヒースロー空港に到着する旅だとしても、西廻りの拒否・独在ルートと、東廻りの受容・現実ルートがあるという比喩である。

だが、この比喩は、西廻りの拒否の力と、東廻りの受容の力という、二種類の力がある、ということになってしまうという点で違和感がある。こんなに重要なものが二種類もあるというのはどうもおかしい。

そこで僕はこのように考え直してみたい。実は、二人は、同じひとつの力を、二通りの別のやり方で捉えただけなのではないだろうか。入不二はその力の流れに沿って、その力を受容するように捉え、永井はその力の流れに抗って、その力を拒否するように捉えたのではないだろうか。

そうだとするならば、入不二の現実とは、その力の到達地点を指し示す言葉となる。なぜなら、入不二の眼差しは、その力の流れに沿って、その力の行き先をみつめているからだ。一方の永井の独在とは、その力の出発地点を指し示す言葉だということになる。なぜなら、永井は、力の流れに抗って、その力の源をみつめているからだ。つまり、その力は、独在から現実へと流れているということになる。

     ←入不二 永井→
現実←-------------独在

なお、この力には、そのようなあり方で存在しているということ以外の内包はない。あえて言うならば、ここには「動性がある」という内包だけがあり、そして、「動性を生み出すものならば、力という表現が適している」という以上の内包はない。そのような意味で、これは無内包の力である。

独在から現実へと流れているのだから、この力には「独在から現実へと流れている」という内包があるようにも思えるが、残念ながら、独在には力の出発地点である、という以上の内包はなく、現実には力の到達地点である、という以上の内包はない。だからこその無内包である。よって、やはり、ここにあるのは、唯一の無内包の力である、としか言えない。

こうして、一見、分岐したかのように思えた入不二の現実と永井の独在は、再び重ね合わされてしまう。入不二は、その唯一の力が現実へと向かっているという点を重視して無内包の現実論をつくりあげ、一方の永井は、同じ唯一の力が独在から流れ出ているという点を重視して無内包の独在論をつくりあげたのである。二人の哲学をこのようにして重ね合わせ、つなげることができる。

さて、ここまで、何かをうまく説明するには、二つのものを並列に議論することが必要である、ということを強調してきた。一つ目の例が永井の「私」と「今」の対比であり、もう一つの例が独在論と現実論の対比であった。「今」がなければ「私」は際立たないし、独在論がなければ現実論について十分に描写することはできない。その逆もしかりである。

だから、独在論と現実論を重ね合わせてしまったのならば、それを描写するためには、対比されるもうひとつの何かが必要となるはずである。だが、残念ながら、僕にはそれを見出すことができない。だからこそ、独在論と現実論を重ね合わせることで見出すことができた、「独在から現実へと向かう無内包の力」をこれ以上描写することには困難がある。なぜなら一つしか類例がないものについて、言葉を適切に用いて読者にうまく伝えることはできないからである。永井はそれを〈ものごとの理解の基本形式〉と言っている。僕は永井が言っていることは極めて正しいと思う。

そして、そのような描写困難なものをあえて描写するためには、永井や入不二のような嗅覚と筆力が必要なのだが、残念ながら僕にはそれがない。

だから、ここからは、「独在から現実へと向かう無内包の力」という僕のアイディアを正面から言葉で捉えようとするのではなく、僕の提案に沿うならばこのようにうまくいく、という実例を挙げることで、僕のアイディアを補強していきたい。

3入不二の円環モデル

(1)入不二の円環モデル

実例として取り上げたいのは、『現実性の問題』において入不二が提示している円環モデルというアイディアである。

詳しくは『現実性の問題』を読んでいただきたいが、これからの議論に必要な範囲で簡単に触れておこう。円環モデルとは、入不二の現実論を円のかたちで模式図的に示したものである。円環モデルをアナログ時計に喩えるならば、0時ちょうどの始発点において何らかのものごとの存在が生じる。そしてそのものごとは0時から6時まで進む過程において内容を獲得し、そして内容の過剰性が顕在化した存在を飲み込んでしまう。6時から12時は潜在性の領域であり、そこを進むにつれて、顕在する存在ではないという意味での潜在性が深まっていく。そして12時となる間際にはついに全ての内容が潜在する。12時、全てが潜在し、全てが凪ぎ、そこから先に進む手がかりが全て失われた刹那において、12時から0時への断絶を飛び越える飛躍が生じ、再び0時ちょうどとなり、何らかのものごとの存在が生じるというプロセスが再始動する。

僕の要約ではうまく伝わらないかもしれないけれど、この円環モデルの特徴は、とても滑らかに色々なものを説明し尽くしているという点にある。0時から12時に進むプロセスのなかで、言語、論理、認識、存在といったものたちを全てつなぎ合わせ、全てをきれいに説明することに成功しているのである。

(2)永井の円環モデル

この僕の論考は、永井と入不二を対比して論じるものなので、この円環モデルと永井の独在論をどのように重ね合わせられるのかを考えていきたい。つまり、永井の独在論からすると、入不二の円環モデルをどのように解釈できるか考えていきたい。

半円環モデル

まず言えることは、永井の独在論は、入不二の円環モデルの半分しか捉えていない、ということである。

入不二の円環モデルは、0時から6時の顕在性の領域と、6時から12時の潜在性の領域に分けることができる。

(なお、入不二は顕在性という語は用いておらず、存在と潜在という対比をしている。だが、現実論とは広義の存在論であることを強調するならば、顕在的な存在と、潜在的な存在という対比としたほうがいいと僕は考えるので、顕在と潜在とを対比することとする。)

永井によれば、入不二の0時の始発点とは、独在的な〈私〉である。しかし、言語により捉えられる限り、〈私〉はそのままの純粋さを保つことはできず、言語を用いる者なら誰でも持っているとされる〈私〉へと変質する。つまり独在的な〈私〉から実存的な《私》へと転落する。そして更に、言語を用いる人間が、それぞれ自分だけで理解できる《私》は、言語を用いて相互に理解し合える「私」へと変質する。つまり実存的な《私》から、人々の共通認識としての「私」へと転落していく。それはつまり、誰もがそれぞれ「私」であるということを、誰もが相互に理解し合っているという世界である。

そして、常識的な「私」へと到達した先には、ついに「私」を特別視することは幻想だ、という考え方が出てくる。この目の前にあるコップは、僕である「私」が見ても、あなたである「私」が見てもコップだけど、そもそも、このコップは、僕やあなたのような「私」が見なくてもコップである。そう考えるならば、僕やあなたのような「私」という視点など必要ない。そもそもコップがコップであるのと同様に、僕は一人の人間という動物でしかなく、あなたも一人の人間という動物でしかなく、そこには「私」という描写など必要ない、という考え方に至る。これは、主体としての「私」から、客体としてのコップへの視点の移動であり、主観から客観への視点の移動であり、そして、主体や主観の抹消である。(科学の素人の僕の知識の限りだけど、)基本的に、自然科学はこのうちの最終段階のような視点に立っているはずである。つまり、物理主義の視点だと言っていいだろう。

円環モデルの0時の始発点から〈私〉、《私》、「私」と進んできた永井の独在性の議論は、このようにして終わりを迎え、そして、このあたりで、円環モデルの時計の針は6時を指し示すことになる。

だが、入不二によれば、ここまでは0時から12時までの現実論のプロセスのうちの半分であり、まだ、そこからの6時から12時までの潜在性の領域の議論が残っている。ここからは入不二の独壇場である。よって、永井が論じる限りでの独在論は、入不二の円環モデルに位置づけるならば、半円環モデルなのである。

主客の転回

それでは、入不二の語り方とは異なるが、僕なりに永井の独在論の6時以降の続きを論じてみよう。

円環モデルの6時の転回点とは、主客の転回でもある。そこからの潜在性の領域では、主体としての「私」は背景に退き、客体の、例えば「コップ」が前面化してくることになる。だが、完全に「私」は抹消されない。なぜなら、その物体をコップとして解釈するのは「私」だからである。「私」という解釈者による解釈がなければ、これは、赤いプラスチックでできた円筒形の物体である。(今、僕は、ペン立てに使っているWFPに寄付するともらえるコップhttps://ja.wfp.org/get-your-redcupを見ています。)その円筒形の物体をコップとして解釈するのは僕という「私」である。そこには「私」が残り続けている。

わかりにくいかもしれないので、別の説明をしておこう。僕は野矢茂樹の「クリーニャー」という概念が好きなので、コップではなくて、こちらを使ってみる。クリーニャーとは、掃除機の上にネコが乗っている状況を表現する言葉である。確か、野矢は普通の掃除機にネコが乗っている状況を想定していたと思うけれど、僕は、ルンバにネコが乗っている状況を想像してしまう。ダイソンでもルンバでもいいけれど、説明の都合上、ルンバにネコが乗っている状況を想像してほしい。これがクリーニャーである。

ネコがルンバに乗ると、それはネコでもルンバでもなくクリーニャーと呼ばれ、ネコがルンバから降りると、それはネコとルンバと呼ばれ、クリーニャーとは呼ばれなくなる。大事なのは、クリーニャーとは、ネコとルンバによるクリーニャー状態ではない、という点にある。それは、「きのこの山」が、細長いビスケットと平べったいチョコレートによる「きのこの山」状態ではない、というのと同じことである。「きのこの山」は「きのこの山」であるのと同様に、クリーニャーはネコやルンバを経由しなくても直接的にクリーニャーとして把握される。

ここで、二種類の人間がいると考えてみよう。「ネコ」や「ルンバ」という語を用い、「クリーニャー」という語を用いない人間と、「クリーニャー」という語を用い、「ネコ」や「ルンバ」という語を用いない人間である。前者の人間は、例えば、「ルンバに乗っていたネコが、ルンバから降りた。」などと状況を描写するだろう。一方で、後者の人間は、同じ状況について、「クリーニャーが毛が生えた部分と、ツルツルの丸い部分とで分離した。」などと表現するはずである。

これは、同程度に正しい描写である。「きのこの山を半分食べられちゃった。」と「細長いビスケットのお菓子と平べったいチョコレートのお菓子をくっつけて置いていたら、細長いビスケットのお菓子のほうを全部食べられちゃった。」が同程度に正しいのと同じことである。どちらでもいいのに、僕たちは、たいてい、クリーニャーという語は用いず、ネコとルンバという語を用い、また、きのこの山という語を用いている。この選択は偶然的で、恣意的である。

そして、この選択をしているのは「私」である。「私」である僕も、「私」であるあなたも、「ネコ」や「ルンバ」や「きのこの山」や「コップ」という語を用い、「クリーニャー」のような語を使わないという選択をしているから、僕とあなたで共通の言葉を用いることができている。

これが、円筒形の物体を「コップ」として解釈するような、解釈者としての「私」が残っているということの詳細である。どれほど客体としての「コップ」が前面化しても、それをコップと呼ぶ限り、その背景には、解釈者としての「私」が必要なのである。

だから、自然科学においても、「私」は必要である。ブラックホールであっても、クォークであっても、それをそのような独立した観察・考察対象として切り出し、それを客観的な「もの」として位置づける限り、そのように解釈することを決定した解釈者が必要だからである。その解釈者を何と呼んでもいいけれど、それを普通は「人間」と呼ぶだろう。そして、その「人間」とは、単なる動物の種としての人間ではなく、永井の独在論によれば、独在的な〈私〉に起源を有する、一般化された「私」なのである。

しかし入不二の議論に基づくならば、6時から12時の潜在性の領域においては、そのような顕在性の残滓さえも潜在化されていく。客体の解釈者として背景に退いた「私」は、更に背景の背景に退いていくのである。

僕は、コップやクリーニャーやきのこの山を使った議論で、背景に退いた「私」を捉えることに成功したと考えている。しかし、そのようにして捉えた「私」を「私」として解釈するためには、更に「私2」がその背景にはいるはずだ、と考えなければならない。コップがコップとして成立するためにはその背景に私が必要であるのと同様に、私が私として成立するためには、その背景に私2が必要なのである。そして、同様に、私2が私2と成立するためには、その背景に私3が必要であり・・・と考えざるを得ないとするならば、私3、私4、私5・・・といくらでも同様の作業を繰り返すことになる。

この無限後退こそが潜在化のプロセスであり、そして、無限後退のベクトルの先に、潜在化の極を見出すことができることとなる。これが入不二の円環モデルの12時である。

永井の半円環モデルは、以上のように拡張することで、入不二の円環モデルと重ね合わせることができるのである。

もうひとつの拡張

なお、前半で論じたように、僕は、永井の〈私〉や〈今〉は不徹底であり、本当の独在論は、〈私〉や〈今〉を重ね合わせた〈今の私〉から始まるべきだと考えている。つまり、0時の始発点とは、〈私〉や〈今〉ではなく、〈今の私〉こそがふさわしいと考えている。

これは、0時1分から始まる永井の独在論に、0時0分から0時1分までの僕なりの拡張作業を行ったということになるだろう。0時1分から6時までの永井の独在論に、0時0分から0時1分までの僕の拡張と、6時から12時の入不二の拡張を加えることで、永井の独在論は円環モデルとして完成するのである。

(2)議論の優位性

以上のように、永井の独在論は、永井の円環モデルとして捉えられ、いわば入不二の円環モデルの一部として取り込まれることになる。入不二は、この円環モデルを用いて、論理や言語といった様々なことを論じており、その一環として、独在をも論ずることもできていると捉えることもできる。そのように考えるならば、入不二の現実論は永井の独在論よりも全面的に優位であると考えることもできる。

だが入不二の優位性にも綻びはある。アキレスの踵のように唯一、入不二の円環モデルには弱点があり、その滑らかさが失われている点があるのである。12時から0時の飛躍である。入不二は、0時から始まった円環運動が12時まで進むことは極めて円滑に説明しているが、12時に至ったところから、また0時に戻るという飛躍が生じてしまっているのである。入不二の円環モデルによるならば、10時、11時と進む円環運動は、12時で終わってもよいはずなのに、なぜか0時が来てしまう。これは、入不二自身が、12時と0時の間には断絶があり、12時から0時に至るためには飛躍が必要である、と論じているとおりである。この地点では、明らかに、ここまでうまく用いられてきた円環モデルを滑らかに前進させる力では説明がつかず、もう一つの別のベクトルの力が加わっているように見える。

なお、入不二の現実論によれば、ここで飛躍を成し遂げる力こそが真の現実性の力であり、そこにこそ現実論の真骨頂があるとされる。0時から12時までの円環運動と、12時から0時への飛躍では全く別なことがなされているように感じられるのは確かだが、その全く別なことに見えることがいずれも現実性の力であるという点にこそ現実性の力の妙があり、それこそが現実論の根幹である、と入不二は考えているのである。

僕は入不二に同意しつつも、この円環モデルにおける円環運動と飛躍の問題は、更に論ずべきことがあると考える。

この円環運動と飛躍の問題とは、入不二の現実論と永井の独在論の重なりを示すものなのではないだろうか。つまり、円環モデルのうち、円環運動を入不二の現実論が担い、飛躍を永井の独在論が担っていると言えるのではないだろうか。

12時から0時に飛躍するとは、つまり0時にすべてが始まるということであり、そのような意味で、0時とは、始発点という特異点である。始発点においては、そこで起きた何かこそが全てだという意味で、その何かとは無内容(無内包)である。

この、無根拠に理由なく全てがそこで始まってしまう始発点とは、明らかに永井の独在のことである。永井ならば、その始発点を〈私〉または〈今〉と呼ぶだろうし、前半の議論を踏まえるなら、僕はそれを〈今の私〉と呼びたい。〈私〉・〈今〉・〈今の私〉のいずれなのかはともかく、独在的な特異点が無根拠に立ち上がるところから永井の独在論は始まるのは確かだろう。

そのようなものである永井の独在論ならば、12時から0時の飛躍を説明できる。というか、0時となり独在的な特異点が立ち上がるということこそが独在論のすべてであるとさえ言える。そのように考えるならば、0時から12時の入不二の現実論と、12時から0時の永井の現実論が組み合わされることによってこそ、円環モデルは完成するとも言えるのではないだろうか。

(3)想定される反論

だがきっと二人は、僕のアイディアを受け入れないだろう。

入不二ならば、「現に」の現実性によってこそ、12時から0時への飛躍は生じるのである、と応じるだろう。あり得ないはずの飛躍がなぜか生じてしまうということも現実であり、それこそが現実の力なのである。

だが、この文章の前半で行ったように、「現に」の現実論と「今の私において」の独在論を対比し、並列的に扱うならば、入不二の「現に」にも二通りの力が含まれていることに気づくはずだ。

ひとつは、「現に、ソクラテスは哲学者である。」のような、任意の文に付加できる、無色透明の「現に」である。なぜ、この「現に」が無色透明なのかといえば、文つまり言語と相性がいいからである。僕がここまで行ってきた考察を踏まえるならば、この「現に」とは、言語自体としての意味論と、その言語を成立させるために必要な「真の実感」としての認識論にかかる言葉である。「ソクラテスは哲学者である。」という文は言語としてうまく意味を持っているし、そして、それに真の実感を感じることもできる。そのことを示すために、「現に、ソクラテスは哲学者である。」と言いたくなるのである。つまり、「現に、ソクラテスは哲学者である。」とは、「現に言語としてうまく意味を持っており、現に真の実感を感じているとおり、ソクラテスは哲学者である。」という言葉の短縮形であるとも言えるだろう。「現に」という言葉は「ソクラテスは哲学者である。」といった文が言語として存在するために必要な意味論と認識論が現に機能している、ということを、意味しているのである。そんな当たり前のことを「現に」は指し示しているだけだから、「現に」を付加し、「現に、ソクラテスは哲学者である。」としたとしても、そこには何の変化もなく、つまり無色透明なのである。

だが、「現に」12時から0時への飛躍は生じる、というときの「現に」はそうではない。「現に、登山道に蛇がいる。」や「現に、かぐや姫は月に帰って行った。」と言うことはできないのと同様の問題がそこにはある。いずれの文も、そこにある独在性を捉えそこねているのである。登山道に蛇がいるように見えるのは、今の私という特定の視点からだけであり、かぐや姫が月に帰って行ったという物語世界に没入しているのは、今の私という特定の視点においてだけである。同様に、12時から0時への飛躍が生じるのは、今の私という特定の地点においてだけである。他の地点に立っていたなら決して生じないことが、なぜか12時ちょうどの地点に立ったときにだけ生じるから、それは飛躍なのである。

それでも、「現に」12時から0時への飛躍は生じる、と言えてしまうのは、その「現に」とは、現実性と独在性の混交物だからである。遍在する現実性の力は独在性の力にも及び、「現に、今の私において」12時から0時への飛躍は生じる、と言えてしまう。つまり、入不二の現実論が独在性を持ち出さずに円環モデルのすべてのプロセスを説明できるように読めてしまうのは、現実性の力に加え、そこに独在性の力を取り込んでいるからなのである。

だから、ここでの話は、前半で僕が行った議論の焼き直しでしかないとも言えるだろう。さきほど僕は、見間違いやフィクションのような、現実性よりも独在性が優位となる場面と、想定外の出来事や他者の痛みのような、独在性よりも現実性が優位となる場面があると論じた。そのうえで、独在性優位の場面においても、現実の遍在性は独在をも包み込み、その独在を、現に独在である、というかたちで、現実性の描写として取り込むことに成功するし、逆に、現実性優位の場面においても、独在の遍在性は現実をも取り込み、その現実を、今の私において現実である、というかたちで独在性の描写と取り込むことも成功すると論じた。この話と、0時から12時の現実論の優位性と、12時から0時の独在論の優位性の話はきれいに重なっているのである。

もう一方の、想定される永井からの反論についても論じておこう。永井ならば、〈私〉の独在論は時空的な連続性が確保されているから、そもそも入不二の円環モデルのようなものを想定しなくても、ものごとが連続的に生じるという事態を描写することができる、と考えるのではないだろうか。

だが、前半で論じたとおり、永井の〈私〉は不徹底であり、独在論をより徹底するためには、〈私〉と〈今〉をつなぎあわせ、〈今の私〉というより純粋な独在性を想定しなければならない。独在性が〈今の私〉に至ることを容認するならば、記憶のようなものを用いて〈私〉の連続性を確保することはできない。〈今の私〉が何らかのかたちで時間的に連続して存在しなければならないとするためには、〈今の私〉が連続的に生じるような構造を構築しなければならない。そして、そのような構造を想定するうえでは、入不二の円環モデルは、記憶などといったものに頼っていないという点で極めて有力な候補となると僕は思う。

当然、永井はそのような僕の問題設定自体を受け入れないだろう。だが、僕の哲学における僕の問題設定に基づくならば以上の再反論が成立することは必然だと僕は思っている。

二人からの想定される反論に対して再反論を加えることでより明確になったと思うが、入不二の円環モデルとは、0時から12時までの現実論と、12時から0時までの独在論が共働して作り上げられたひとつの「独在から現実へと向かう無内包の力」を描写したものなのである。

(4)逆円環モデル

逆円環モデル

だが、ここまでの議論をひっくり返してしまって申し訳ないけれど、実はここには大きな誤りが含まれている。実は、永井は全然、このような語り方を全然していないのである。

永井の独在論とは、〈私〉や〈今〉の独在性を読者に理解してもらうための議論である。常識的な世界にどっぷりと浸ってしまった人々は、独在性という問題があることになかなか気づくことができないから、永井は手を変え品を変え、それに気づいてもらおうと努力している。その努力の痕跡こそが永井の独在論である。

だから、永井は、独在的な〈私〉から出発して、いかにして、この常識的な世界が構成されるか、というようなことには興味がない。説明の都合上、そのような議論がされることはあっても、それはあくまで、独在的な〈私〉を説明するための便宜的なものである。永井によれば、いったん独在的な〈私〉に到達したならば、そこからこの常識的な世界が構成されるのは当たり前なのである。

よって、永井の独在論は、この常識的な世界から、いかに独在的な〈私〉を見出すか、という議論の経路をたどる。さきほどの僕の円環モデルに沿った、永井の独在論の描写は、全く逆なのである。

永井の議論とは、まずは「私」や「今」のような特権的な視点を認めない自然科学的な立場から出発し、そこに常識的な意味での「私」や「今」を認め、更に実存的な《私》や《今》を認め、ついには〈私〉や〈今〉を見出すような道筋である。永井の独在論は、〈私〉→《私》→「私」ではなく、どこまでも、「私」→《私》→〈私〉であり、〈私〉という問題の根源にたどり着くまでの果てしない旅なのである。

よって、円環モデルの時計の文字盤で永井の独在論を表現するならば、永井の独在論は、6時、5時、4時と時計を逆回りにたどっていくようなものである。つまり、入不二の円環モデルは右回りで、永井の円環モデルは左回りという違いがあり、入不二の円環モデルに対して、永井の独在論は逆円環モデルなのである。

逆向きの飛躍

この永井の独在論は、逆円環モデルとして、入不二の円環モデルとはちょうど反対に、12時から0時まで至る道筋として描くことができる。それならば、この逆円環モデルでは、入不二の円環モデルと真逆に、0時から12時へと向かう逆向きの飛躍が生じるはずである。

これがどのような飛躍なのかは説明する必要があるだろう。ただし、この逆円環モデルの逆向きの飛躍は、本来ならば〈今の私〉や潜在性を導入した拡張版の独在論で考えるべきだが、そうすると話が複雑になってしまうので、ここでは永井バージョンの独在論で考えることにしよう。

永井の議論に基づき、6時から0時1分へと至る逆「半」円環モデルを思い描いてほしい。そのうえで、この飛躍とは、0時1分から6時へと向かう飛躍であると考えてほしい。なお、永井の0時1分とは独在的な〈私〉であり、6時とは独在的な〈私〉だけでなく実存的な《私》や主体としての「私」のような何らかの特権的な私が完全に否定された自然科学的な世界観の地点である。

そうだとするならば、この飛躍とは、独在的な〈私〉が自然科学的な世界のなかに位置づけられ、自然科学的な世界のなかに主体としての「私」が誕生する場面として捉えることができる。または、同じことだが、独在的な〈私〉がいわゆる常識的な世界を構築する場面として描写することも可能だろう。永井ならば、そんなことは全ての人が日常的に行っていることであり、極めて容易なことだと言うはずだ。だが、本当にそんなことが可能なのだろうか。

これは、先日のワークショップで入不二が永井の一方向性の議論に対して提起した疑問である。永井の一方向性とは、「私」から〈私〉への移行は困難だが、〈私〉から「私」への移行は極めて容易であるというというものである。つまり「私」と〈私〉をつなぐ道筋は、〈私〉から「私」への一方通行であるという主張である。

だが入不二はワークショップにおいて、永井が極めて容易だとする〈私〉から「私」への移行にも、実は断裂と循環があると指摘した。まず、独在的な〈私〉には主体としての「私」を能動的に構成する力はなく、そこには断裂がある。また、一方で、いったん〈私〉から「私」への移行が成し遂げられてしまったら、容易に逆方向への移行も可能となって循環し、独在論の一方向性が失われてしまう。入不二はそのように論じ、〈私〉から「私」への移行には飛躍があるとしたのである。(このワークショップについて、僕は『永井・入不二・青山・谷口・僕』https://dialogue.135.jp/2022/03/19/nagaikoki/)で書いています。)

僕はこの入不二の指摘は正しいと思う。確かにここには飛躍があり、これこそが、永井の逆「半」円環モデルの飛躍なのである。入不二の円環モデルと同様に、決して乗り越えることができない断絶を、なぜか乗り越えられてしまうからこそ飛躍なのであり、そして一旦飛躍した後に振り返ってみても、そこには全く飛躍を見出すことができなくなってしまう。そのことを、入不二は断裂と循環として指摘しているのである。

ではなぜそのような飛躍が成し遂げられるかといえば、永井の独在論が入不二の現実論を取り込んでいるからである。独在的な存在を常識的な世界のなかに重ね合わせることができるのは、「現に」そうなっている、という入不二的な現実論の力を用いているからなのである。

そして、なぜそのようなことができるのかといえば、先ほどの入不二の話とちょうど逆であり、独在論の遍在性は現実性にすら及ぶからであり、だから独在論は現実論の力をも取り込むことが可能となるのである。

そして、これは決して独在論の欠点ではない。入不二がちょうど反対のことについて現実性の力の最大限の発揮の場面であると捉えたとおり、これは独在論が持つ力強さが最大限に発揮された場面でもあるのである。

以上のように考えるならば、僕が提示した永井の逆円環モデルとは、つまり、独在論優位で、独在論が現実論を巻き込むような構造を描写したものなのである。入不二の円環モデルと永井の逆円環モデルはちょうど鏡写しのような関係にあると言ってよいだろう。

そして、重要なのは、入不二がたどる時計の文字盤と、永井がたどる時計の文字盤は、全く同じものである、ということである。先ほど、僕なりに永井的に入不二の円環モデルを描写したつもりだ。もし、その描写が成功しているならば、永井の独在論と入不二の独在論はきれいに重ね合わせることができる。つまり、永井も入不二も「独在から現実へと向かう無内包の力」という唯一の力を描写しており、その違いとは、描写するときの視点の違いでしかないということになる。

(5)往復モデル

独在論と現実論の違いとは、「独在から現実へと向かう無内包の力」という唯一の力を捉えるときの視点の違いである、という捉え方を強調するならば、円環運動は往復運動へと書き直すこともできるのではないだろうか。僕は、入不二の円環モデルと、(僕が勝手に命名した)永井の逆円環モデルとの間をつなぐものとして、往復モデルとでもいうべきものを提案したい。

入不二の円環モデルとは、0時から12時に向かって右回りで円を描くモデルであり、永井の逆円環モデルとは、12時から0時に向かって左回りで円を描くモデルである。それならば、円を引き伸ばして数直線とし、0から12に数直線をたどる動きと、12から0に逆に数直線をたどる動きとして、二つの円環モデルを組み合わせることができるのではないだろうか。

このように考えることのメリットは、12時と0時との間にあるギャップを飛躍する必要がなくなる、という点にある。入不二の円環モデルに添って0から12まで進み、12に至ったら、駅で反対方向の電車に乗るようにして、永井の逆円環モデルに添って12から0まで進めばいいのである。そして0に至ったら、また折り返せばよい。

これはつまり、入不二の現実論に沿って顕在性の領域から潜在性の領域に進み、すべてが潜在してしまい、議論がそこで行き詰まってしまったら、その先に進むことを諦め、そこから反対方向に議論を進めることとし、永井の独在論を起動させるということである。(これは12時の折り返し)

また、永井の独在論に沿って、「私」「今」→《私》《今》→〈私〉〈今〉→〈今の私(私の今)〉と議論を進め、議論が行き詰まってしまったら、その先に進むことを諦め、そこから反対方向に議論を進め、入不二の現実論を起動させるということである。(これは0時の折り返し)

このようにすることで、12時と0時の間(または0時と12時の間)にあるギャップを回避し、飛躍する必要がなくなるのである。

また、それにより派生的に生じるメリットもある。円環モデルを採用した場合、12時から0時への飛躍のなかに独在性の力が押し込まれ、独在性の力が見えにくくなる。また、永井の逆円環モデルを採用した場合、0時から12時への飛躍のなかに現実性の力が押し込まれ、現実性の力が見えにくくなる。だが、往復モデルを採用することで、対等に両論を扱うことができ、入不二の現実論と永井の現実論を明示的に指し示すことができる。前半で論じたとおり、二人の議論はともに同程度に強力である。その強力な議論を並列的に議論として取り込むことができるというのは極めて大きな利点だろう。

先ほど次のように「独在から現実へと向かう無内包の力」を眺める二つの視点を描いた。

     ←入不二 永井→
現実←-------------独在

これにもうひとつ、次のような視点を追加したということになる。

        僕
        ↓
    ←入不二 永井→
現実←-------------独在

僕は、入不二の視点と永井の視点という二つの視点を俯瞰的に眺め、0から12までは入不二の視点を使い、12から0までは永井の視点を使う、という使い分けを行っている。二つの視点を自由に使い分けることにより、僕は不自然なギャップを避けて、破綻のない議論を繰り広げることができる。

このような論じ方ができるということは、唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」という僕のアイディアの正しさを間接的に示していると言えるのではないだろうか。唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」を、視点の違いにより、入不二は現実性の力と捉え、永井は独在性の力と捉えたのである。

(6)行き止まり

ここまで、僕は、三つの構造を提示してきたことになる。入不二の円環モデルと、永井の逆円環モデルと、僕の往復モデルである。

そのうえで僕は、僕の往復モデルこそが、円環モデルと逆円環モデルに内在する、飛躍の問題を回避できたと論じた。

では、僕の往復モデルに問題はないのだろうか。僕は、僕の往復モデルも、あくまで過渡的な描写であり、そこには乗り越えられるべき課題があると考えている。

その課題とは、どうやって、折り返し運動を行うのか、という問題である。僕の往復モデルとは、つまりは「独在から現実へと向かう無内包の力」を独在という始発点からたどり、現実という終着点まで到達したら、またそこから、反対方向にたどり直し、そして独在という始発点に戻る、という視点移動を往復するようにして行う、というものである。では、この視点移動を往復するようにしていかに行うことができるのだろうか。そこには、「独在から現実へと向かう無内包の力」とは異なる、往復運動をコントロールするような別の力が必要である。視点を動かす力である。だが、もしそのような力を認めてしまったら、「独在から現実へと向かう無内包の力」は唯一の力ではなくなってしまう。

その点で、折り返し運動がない円環モデルや逆円環モデルのほうが有利である。だが実は、円環モデルや逆円環モデルでも同様の問題が生じている。そもそも、入不二は、なぜ右回りを選択し、そして、永井は、左回りを選択したのか、という問題である。

または、先ほどの、図によるならば、「←入不二 永井→」の二つの矢印はなんの矢印なのか、という問題である。これは明らかに、「現実←独在」という矢印とは別の矢印である。これでは、「独在から現実へと向かう無内包の力」は唯一の力ではなくなってしまうではないか。それは僕の視点を加えても同じことである。

         僕
         ↓
     ←入不二 永井→
現実←-------------独在

ここがとりあえずの行き止まりである。

ここまで僕は、二つの矛盾したことを主張してきた。ひとつは、入不二の議論も、永井の議論も、そして僕の議論も、唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」の眺め方の違いとして捉えることができ、「独在から現実へと向かう無内包の力」という唯一の力こそがすべてをきれいに説明し尽くすことができてしまう、という主張である。

そしてもうひとつの主張は、唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」では、入不二と永井と僕の間での眺め方の違いがなぜ生じるかを説明できないから、唯一の力とは別に、その唯一の力の眺め方の違いを生じさせるような何らかの別の力が必要となってしまう、という主張である。

僕は、いずれの主張も放棄することはできない。唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」というアイディアは放棄するには惜しいし、かといって、その唯一性に投げかけられる疑問も致命的で無視することはできない。

(7)飛躍モデル

どうやら行き止まりに来てしまったようなので、アプローチを変えて、円環モデルの飛躍の話に立ち返ってみよう。

ここまで行ってきた話とは、つまりは、0時と12時をつなぐやり方は何通りもある、という話であるとも言える。入不二は、0時から12時までの滑らかな円環運動と、12時から0時の飛躍という2つのつなげ方があると指摘した。永井(を拡張した僕)は、12時から0時までの滑らかな(逆)円環運動と、0時から12時までの飛躍という2つのつなげ方があると指摘したことになる。つまりつなげ方は次の図のように4通りあることになる。

そのうえで、僕は、入不二の円環運動と永井の逆円環運動を組み合わせ、往復モデルをつくりあげる、というようなこともした。

ここで気づくのは、もう一つの組み合わせがあるということである。つまり、0時の独在と、12時の現実とを、入不二の飛躍と、永井の飛躍とでつなげるというやり方である。これは、円環モデルのような滑らかな説明を拒否し、すべてを力による飛躍と捉えるような論じ方である。生の現実性の力の発露と、生の独在性の力の発露により、ただ飛躍だけしていくような構造である。

つまり、0時と12時をつなげるやり方は4通りあるということになる。

①入不二の円環モデル 円環+飛躍

②永井の逆円環モデル 逆円環+飛躍

③僕の往復モデル 円環+逆円環

④僕の飛躍モデル 飛躍+飛躍

である。

この4つのモデルと、「独在から現実へと向かう無内包の力」を捉える視点とを対応させることができるだろう。先ほど僕は、次のように、3つの視点を導入した。

        僕
        ↓
    ←入不二 永井→
現実←-------------独在

これに、僕は4つ目の飛躍モデルの視点を次のように書き加えることとしたい。

             ③僕の往復モデル
                 ↓
     ←①入不二の円環モデル   ②永井の逆円環モデル→
現実←----------④僕の飛躍モデル----------独在

入不二の円環モデルとは、「独在から現実へと向かう無内包の力」を、順方向にその力が及ぶ先である現実に着目して捉える視点であった。一方の永井の逆円環モデルとは、同じ力を、逆方向にその力の起源である独在に着目して捉える視点であった。そして先ほど僕は、その二人の視点を俯瞰的に捉え、二つの視点を使い分けるような、往復モデルという視点を導入した。

そのうえで、ここで僕は新たに、「独在から現実へと向かう無内包の力」に完全に巻き込まれ、その真っ只中に投げ込まれたような、第四の視点を付け加えることとしたい。これが飛躍モデルの視点である。

飛躍モデルとは、ただただ、現実性の力や独在性の力により、飛躍を繰り返していくような構造である。または、より正確に述べるならば、それは繰り返すといった描写や、構造としての把握すらできない飛躍そのものであり、モデル化というかたちでの把握から逃れてしまうとも言えるだろう。

比喩的に述べるならば、飛躍モデルとは、無内包の力という大波に飲み込まれ、溺れてしまったような状況であると言ってもいいかもしれない。

入不二は『あるようにあり、なるようになる』において、現実性の力(正確には運命の力)をビッグウェーブに喩え、そして自らの現実論(正確には運命論)をビッグウェーブに乗ると表現した。つまり、ここで登場している円環モデルを用いるならば、入不二は自らの現実論を、円環する現実の力の鋒にうまく順方向に乗っている状況をイメージしているということになる。

それに対して、僕の飛躍モデルとは、サーファーがボードから落ちてしまい、ビッグウェーブに巻き込まれ、ただただ、その力のなすがままになっているような状況であると言っていいだろう。

入不二や永井は、うまく「独在から現実へと向かう無内包の力」に乗り、進む方向はともかくとして、その力とうまく折り合いをつけている。だからこそ、その力を捉え、現実論や独在論のような議論を展開することができている。

一方の僕は、そのビッグウェーブから離れ、ドローンで空撮するようにして俯瞰的な往復モデルを構築するか、または、ビッグウェーブに完全に巻き込まれるようにして飛躍モデルを構築している。そう言うと、僕がやっていることには何か積極的な意味合いがあるように聞こえてしまうかもしれないが、実際のところは、僕が往復モデルを採用するとき、僕は、波に乗っている入不二や、波に抗っている永井を観察しているだけであり、波の力そのものを捉えてはいない。また、僕が飛躍モデルを採用するとき、僕は、ただ波に巻き込まれているだけであり、波のことなど考える余地はない。それはそれで、ビッグウェーブとの関わり方のひとつのあり方ではあるけれど、ビッグウェーブの力を捉えるという作業とは程遠い。

「独在から現実へと向かう無内包の力」を捉え、議論するためには、往復モデルでは遠すぎるし、飛躍モデルでは近すぎる。そこでは、入不二や永井のような絶妙な距離のとり方が必要なのである。円環モデルとして表せるような入不二の現実論や、僕が逆円環モデルとして捉えたような永井の独在論は、往復と飛躍の中間に位置づけられる議論であり、そして、俯瞰と没入の中間に位置づけられる議論なのである。この中間性こそが、(逆)円環モデルを議論として魅力的なものとしているのである。

4 哲学の力

(1)肯定性の力

最後に、僕が行き詰まってしまった問題について、できる限り考察して、この文章を終えることとしたい。僕は、入不二の現実論と永井の独在論を統合し、唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」を提案した。一方で、入不二と永井とでは、その唯一の力の眺め方の違いがあり、その違いを生み出すような別の力があるはずである、ということも論じた。入不二と永井が論じた(と僕が考えている)唯一の力とは別に、もう一つの力があるはずなのである。この力とは何なのだろうか。

僕は直接的に答えることはできないので、更にもう一つ、別の力を付け加える、という作業をしてみたい。先ほど、次のような図を提案した。

             ③僕の往復モデル
                ↓
    ←①入不二の円環モデル   ②永井の逆円環モデル→
現実←----------④僕の飛躍モデル----------独在

僕はここにもう一つの力を見出すことができると思う。それは、「独在から現実へと向かう無内包の力」にどっぶり浸かった④の視点から、①②への視点、③の視点へと引き上げる、上向きの力である。

僕は、この力を肯定性の力と呼びたい。

     ↑肯定性の力
  現実←--独在

なぜ肯定性なのかというと、「独在から現実へと向かう無内包の力」はないのではなくてあるからである。「独在から現実へと向かう無内包の力」などなくても一向にかまわないのに、なぜかある。そこからすべては始まる。そのはじめの一歩を踏み出すということは、その唯一の力を肯定的に捉えるからこそ可能となる。これが肯定性である。

なお、ここでの「ある・ない」の対比は通常の意味での「ある・ない」ではない。「独在から現実へと向かう無内包の力」など「ない」、と語ってしまったら、それは、一旦、その力を認めたうえで否定するということなので「ある」ということになる。ここでの「ない」とは、「独在から現実へと向かう無内包の力」のことなど、一言も触れないし、考えることもない、ということである。一度でも語られてしまったなら、それは「ある」なのである。

だから、ここでの「ない」とは、僕自身や、ここまで僕の文章にお付き合いいただいた読者には、決してたどり着くことができない境地である。僕の文章を否定的に読んだ読者でさえ、僕が論じていることの意味が断片的にでも理解できてしまったなら、例外なく、「ある」の肯定性の力が及んでしまっていることになる。

その点を踏まえると、この肯定性の力とは、議論すること自体の肯定性の力だと言ってもいいだろう。議論はされないのではなく、議論はされてしまっているという肯定性である。

なお、そのように考えるならば、「独在から現実へと向かう無内包の力」にどっぶり浸かった「④僕の飛躍モデル」の視点に立つことは決してできないことは明らかである。なぜなら、そのような視点を考察すること自体が肯定性の力の発揮であり、それが「独在から現実へと向かう無内包の力」からの乖離・浮上につながってしまうからである。人は確かに「独在から現実へと向かう無内包の力」のことなど考察することなしに、ただどっぷりとその力に浸り、ただ飛躍することはできるはずである。だが、その境地に立ったまま、その力について考察することは不可能なのである。「独在から現実へと向かう無内包の力」を「④僕の飛躍モデル」の飛躍そのものとして考察するということは、決して戻ることはできない過去を懐かしむようなものだと言ってもいいだろう。

(2)逆転現象

そして、肯定性の力により「独在から現実へと向かう無内包の力」から浮上したうえで、入不二のように、その力が向かう現実の方向を向くか、永井のように、その力の起源である独在の方向を向くかは、その人の興味によりけりである、ということになるだろう。

永井の言葉づかいによるならば、ここでの興味とは、哲学的驚き、タウマゼインと呼んでもよいだろう。入不二は現実に驚き、永井は独在に驚いた。そこから、彼らの哲学は始まっているのである。

ここで興味深いのは、タウマゼインから哲学は始まるが、その哲学の内容としては、そのタウマゼインこそが哲学の到達地点になるという逆転現象である。入不二の現実論とは、模式的に述べるならば0時の独在から12時の現実へと至る議論であると言えるだろう。つまり入不二は、自らが驚いた12時の現実を説明するために、0時から12時までの長い円環モデルの道筋を描いているのである。永井も同様である。永井は0時の独在に驚き、その独在を説明するために、常識的な現実から議論を始め、0時の独在に向かう議論を独在論として展開していることとなる。

つまり、タウマゼインとは、哲学の始まりであり、かつ哲学における議論の到達地点である。それならば、議論を始めるためには、タウマゼインとは別に、議論の出発地点を設定する必要がある。

多少本筋とはずれるが、入不二と永井の違いは、ここにも見出すことができるだろう。入不二は、現実というタウマゼインとは別に、議論の出発地点をどこに設定するとうまい議論ができるか、ということに意識的であるように思える。一方の永井は、自らの独在というタウマゼインにはゆるぎがないが、議論の出発地点については無頓着である。だから、永井の議論は、入不二の円環モデルと比較すると、6時から0時に向かう半円環モデルのように見えてしまうのである。

多分、この違いは「独在から現実へと向かう無内包の力」からの二人の距離のとり方の偶然的な違いに由来するのだろう。若干ではあるが、入不二のほうが、この力から距離をとっていて、そして永井のほうが、より、この力に浸っているのである。

僕は入不二ファンなので、入不二の距離のとり方のほうが好ましいと感じるけれど、あくまで単なる好みなので、あくまで脱線の考察である。

この脱線から気づいたけれど、「独在から現実へと向かう無内包の力」から浮上するためにはタウマゼインとそれを語る意志が必要だということなのではないだろうか。

肯定性の力とは、議論すること自体の肯定性の力であるということは、つまり、タウマゼインとそれを語る意志こそが、「独在から現実へと向かう無内包の力」どっぷりから浮上する肯定性の力なのではないだろうか。現実にせよ独在にせよ、彼らはそれに驚き、論じようとしたからこそ、無内包の力にどっぷり浸った状況から離脱することができたということである。

力の肯定性を強調する言い回しをするならば、自らのタウマゼインを哲学的驚きとして認め、自らが哲学的議論を遂行する力を信じ、自らを哲学者として信頼する肯定性こそが、無内包の力から自らを浮上させる力なのではないだろうか。

(3)飛躍を遂行する力

議論を少し戻すと、入不二は現実に驚き、永井は独在に驚くというタウマゼインから哲学は始まっているのだった。そして興味深いことに、彼らの哲学の内容としては、そのタウマゼインこそが哲学の到達地点になるという逆転現象が生じている。入不二の現実論とは、独在という現実ではないものから、現実へと到達する道筋についての議論であり、永井の独在論とは常識的世界という独在ではないものから、〈私〉の独在へと到達する道筋についての議論である。

確かに議論を終えてみれば、入不二ならば、実はその議論の出発地点である独在にも現実性の力は及んでいたことが明らかになるし、永井ならば、実は常識的世界も独在性抜きでは説明がつかないことが明らかになる。だが議論の道筋としては、あくまで、タウマゼインとは程遠いように見えるところから、タウマゼインに向けて議論は始まるのである。これが僕が注目したい逆転現象である。

ここで僕が述べたいのは、この逆転現象こそが、円環モデルや逆円環モデルにおける飛躍を生じさせているのではないか、ということである。

円環モデルでも逆円環モデルでもいいけれど、入不二の円環モデルのほうを取り上げるならば、入不二は自らのタウマゼインである12時の現実に向かう議論をしようとして、そこから最も遠いところにある(と入不二が考える)0時の独在性を自らの議論の出発地点として定めた、ということになるだろう。そのうえで、0時から12時に向かう長い議論を進めるなかで、様々なものごとを説明し尽くすことを通じて、現実という自らのタウマゼインの正当性を論証し、そして読者に理解してもらおうとしたのである。

では、現実性の議論を終え、12時の地点に立ったならば、入不二はどうするのか。

入不二は、また、0時からの議論を始めるしかないはずである。なぜなら、入不二は、自らのタウマゼインにより12時の地点に立っていたにも関わらず、あえて0時からの現実性の議論を始めたはずだからである。一度その選択をしたならば、二度目も同じ選択をしない理由はない。議論のはじめにおいて、入不二は、自らのタウマゼインにより12時の地点に立っていたにも関わらず、あえて無根拠に0時の始発点から議論を始めたのだから、その無根拠さを貫くためには、12時の地点に立ち返ったならば、何度でも無根拠に、同じ議論を繰り返さなければならないのである。

この無根拠な議論の繰り返しこそが飛躍の正体である。つまり、自らのタウマゼインにより12時の現実の地点に立っているにも関わらず、あえて0時の始発点から12時に向けた議論を始めるという逆転現象こそが根源的な飛躍だということになる。

言い換えるならば、この飛躍とは哲学者の飛躍であるとも言えるだろう。

人は、生きているなかで、何かタウマゼインらしきものを感じることはあるかもしれない。いや、きっとほとんどの人に何かしらのタウマゼインが訪れるのではないか、と僕は想像している。だがそれをもとに、哲学を始めなければ、それは哲学的驚きとはならない。多くの人は「独在から現実へと向かう無内包の力」にどっぷりと浸ったままで、そのような力に流されて生きていることにも気づかないまま、ただ生きているのだろう。一方で、哲学者ならば、タウマゼインに導かれるようにして哲学を始めることで、「独在から現実へと向かう無内包の力」から浮上し、距離をとることができる。これは、自らのタウマゼインについて、自ら考えることができる哲学者の特権である。

しかし、哲学をするとは、タウマゼインから距離をとったところから議論を始めるということである。これは僕が逆転現象と呼んだものであり、つまり、哲学者の飛躍である。哲学者が哲学を語るためには、語るために必要な議論の始点と終点の間の距離が必要であり、その距離は、無根拠に飛躍して設定するしかないのである。入不二ならば、それは0時の始発点から12時の現実までの距離であり、永井ならば常識的世界から独在までの距離である。

なおこれは優れた哲学理論に固有の話ではなく、例えば、「ヤカンを火にかけたらお湯が沸く。」という話であっても同じである。その話が成立するためには、ヤカンを火にかけることと、お湯が沸くことの間に距離が必要である、ということの延長線上の話である。もし距離がゼロであったら、「ヤカンに火をかけたら、ヤカンに火をかけるることになる。」というトートロジーになってしまう。

(4)哲学の力

さて、ここまでの議論で、この章の冒頭で僕が設定した問題について、およそ答えは出たと思う。問題とは、唯一の「独在から現実へと向かう無内包の力」について、入不二と永井とでは、その唯一の力の眺め方の違いがあるが、その違いを生み出すもう一つの力とは何か、というものであった。

僕の答えは、それは、哲学者が持つ「哲学の力」である、というものである。永井や入不二は自らに訪れたタウマゼインを逃さず、タウマゼインを論じることを選択し、タウマゼインから離れた地点に議論の出発地点を置くという対応をとった。この哲学者ならではの態度をとらせるものこそが「哲学の力」であり、この力こそが、議論の方向性、つまり哲学者の顔の向きを決めるのである。

そのように考えるならば、。「独在から現実へと向かう無内包の力」を語らないのではなく、あえて語るという肯定性の力と、自らのタウマゼインに基づき自らのタウマゼインとは異なる地点からあえて語るという飛躍を遂行する力はきれいに重なる。哲学者は、語らなくていいことをあえて語るからこそ哲学者なのである。その哲学者だけが持つ哲学の力こそが、「独在から現実へと向かう無内包の力」にどっぷりと浸るのではなく、そこから浮上した視点を持つことを可能とし、そして、その視点の向きをも決定するのである。

ここまでの議論をまとめるならば、ここまでの議論で二つの力を見出すことができたということになる。ひとつは「独在から現実へと向かう無内包の力」であり、もうひとつは、哲学者だけが持っている「哲学の力」である。そして、この「哲学の力」こそが、(逆)円環モデルの飛躍を成し遂げ、円環モデルを成立させる力となっているのである。

(5)自分語り

さて、残念ながら、「独在から現実へと向かう無内包の力」は唯一のものだったはずなのに、それとは別に「哲学の力」なるものを認めなければならないようだ。最後に、この二つの力を統合できないものか、もう少し、あがいてみようと思う。

僕の議論には、まだ語ることができていない問題がある。それは、この文章も哲学の遂行であるならば、この文章を、この文章においてどのように位置づけるのか、という問題である。

僕は、入不二や永井の議論を材料として用いて、彼らの議論を俯瞰的に眺めることで、自らの議論を行ってきたつもりだ。俯瞰することにより、彼らでは見えなかったものを見ることができたはずだ、という自負はあるけれど、一方で、何か大事なものを取り逃がしてしまっているという問題意識もある。その取り逃がしてしまっているものとは、僕は僕の哲学を遂行しているという当事者性であり、自己言及性である。ここまで僕は、僕の哲学ではなく、入不二や永井の哲学のことばかり語り続けていた。

だから最後に少々、自分語りをさせてもらうことにしよう。

僕のタウマゼインとは、まだうまく言葉で表現できないけれど、この文章につなげて表現するならば、「なんにせよ、なにかが存在する」という驚きである。前半で論じたとおり、ここでの存在とは、言語でも認識でもない、という程度の意味しかないので、このタウマゼインは限りなく、入不二の現実性に近いものである。

そして、僕が当面、議論の出発地点としなければならないと考えているのは、「とにかく、今、私は哲学の文章を書いている」ということである。これは、永井の独在性の亜種であり、永井ならば、何をしていても、それは私であり今である、というところを、哲学に限定したバージョンである。なぜ哲学に限定するのかといえば、僕がそういうことを考えるときは、常に、哲学の文章を書いているか、または、書いてはいなくても哲学のことを考えているからである。そして、更に限定するならば、今僕がやっていることは哲学の文章を書くこと以外ではありえないからである。

哲学的議論とは、任意で設定した議論の出発地点から、タウマゼインとしての議論の到達地点に向かうものだとするならば、僕の議論は、「とにかく、今、私は哲学の文章を書いている」から始まり、「なんにせよ、なにかが存在する」で終わるものとなるはずである。これは、入不二の円環モデルにかなり近いものである。つまり僕の議論とは、「独在から現実へと向かう無内包の力」についての議論となるはずだとも言える。

一方では、僕の議論は「とにかく、今、私は哲学の文章を書いている」という地点から始まるものだから、この議論は「哲学の力」についての議論ともなるはずである。僕は「私は哲学の文章を書いている」ということを唯一の事例として、そこから哲学を構築することを模索している。それはつまり、哲学することについて哲学するという、哲学についての力動的な議論となるはずである。

まだ詳細を論じる準備はできていないけれど、こうして、僕の哲学においては、「独在から現実へと向かう無内包の力」と「哲学の力」はきれいに重なるという予感がある。

僕の哲学の枠組みだけ説明しておこう。僕は高校生の頃、「なんにせよ、なにかが存在する」ことに圧倒され、驚いた。なんだかわからないけれど、僕の前にはとてつもない世界が広がっており、そこでは様々な出来事が起きているようなのだ。だけど、一方で、僕の手元には何も確かなものがないということにも気づいた。僕は懐疑主義者で、なんでもデカルト流に疑ってしまったのだ。この世界には確かなものなんて何一つない、と気づいてしまったのだ。だけど、ある日、「とにかく、今、私は哲学の文章を書いていることは確かである」というコギトの亜種から議論を始めてみようと思い立った。この出発地点はかなり恣意的なものだけど、そこに人生のかなりの時間を費やすことを意味する重い決断ではある。こうして設定した出発地点を独在と呼び、そして僕の目標地点である「なんにせよ、なにかが存在する」を現実と呼ぶならば、僕の歩んでいるのは、「独在から現実へと向かう無内包の力」に導かれて進む道のりである。そして、その力の別名は、考えなくてもいいことをあえて考え、語らなくてもいいことをあえて語っているという意味で、「哲学の力」である。

このように考えるならば、入不二と永井の議論の向きの違いなどという問題は霧消する。そこには僕の哲学というひとつの向きしかないからである。ひとつしか類例がないものについて、その向きを論じることは無意味である。

以上、なかなかうまいまとめかただと思うけれど、このようにまとめることには大きな問題もあるだろう。

今僕が述べたことは、要は、僕は「独在から現実へと向かう無内包の力」にどっぷり浸り、哲学者をやっていく、という宣言でもある。ここには哲学者の優位性はなく、別に昆虫学者をやっていく、でもいいし、サラリーマンをやっていく、でもいいし、大工をやっていく、でもいい、ということになってしまう。

僕は、僕が哲学を遂行するという当事者性により、「独在から現実へと向かう無内包の力」と「哲学の力」を重ね合わせることに成功したつもりになっていた。だけど、その重ね合わせが完全に成功してしまったあかつきには、「哲学の力」などどこにもなく、ただ無内包の力に巻き込まれて生きる一人の人間がいるだけである。その人は、変な文章を書くのが好きだという理由で便宜的に哲学者などと呼ばれることはあるかもしれないけれど、ここでの哲学者とは、サラリーマンと僕が呼ばれることと何ら違いはない。僕は、水を飲んだり、風呂に入ったりするのと同じような意味で、哲学の文章を書くことを遂行しているに過ぎない。それが無内包の力である。

僕が先ほど提案した「飛躍モデル」とはこういう事態を指しているのだろう。僕は、書かなくてもいいのにあえて哲学の文章を書いている。つまり僕は無根拠に文章を書いているのであり、これは飛躍である。同様に、僕は、飲まなくてもいいのに無根拠に水を飲み、入らなくてもいいのに無根拠に風呂に入り、生きなくてもいいのに、無根拠に生きている。これは飛躍である。僕は飛躍を繰り返して生きている。そのような事態を僕の「飛躍モデル」は描写しているのだろう。このような描写は真実の一端は表現できていても、これは真実の全てではない。

「飛躍モデル」だけではうまくいかないし、かといってすべてを俯瞰する「往復モデル」だけでもうまくいかない。その〈中間〉が大事なのであり、その中間のひとつのあり方として、入不二の円環モデルや、永井の逆円環モデルは非常に魅力的である。

そのうえで、「飛躍モデル」「往復モデル」「円環モデル」「逆円環モデル」を自在に行き来するような、もうひとつの〈中間〉を追加することができたということは、僕にとって、とても意義深いことだったと思う。

僕は、僕が提起した問題にすべてを答えきれていないけれど、僕の考察はとりあえず、ここで終わりにしたい。