死後のストーリー

※3500字くらいあります。哲学のことは書いてないつもりです。というか哲学じゃないことを書くことで哲学のことを書いているのかも。

1 方便としての死後のストーリー

子どもの頃の僕にとって、死んだらどうなるか、というのは大問題だった。死後は真っ暗で何もなくなっちゃうかも、それとも地獄に落ちるのかも、なんていうことを考えて、とても怖かったのだ。

その問題は今も解決はしていないけれど、今の僕にとっての大問題とは、とにかく、いかに生きるかであり、更には、そもそも生きるとはどういうことか、というものだから、子どもの頃の僕を捉えた、死後の問題は色褪せてしまっている。

だけど、生きるにあたって、死後についてひとつのストーリーをつくっておくことは役に立つかもしれない。なぜなら、いかに死ぬかを明確にしておくことで、いかに生きるかも明確にすることができるからだ。

加えて、科学が幅を利かせている現代においては、生きている間のことはすべて自然科学の知識を持った専門家が説明してくれてしまう、という事情もある。専門家に頼らず、素人が自由に考えられることは死後にしかない。せめて、そのくらいは自分で好きに考えさせてほしい。僕は、僕自身で死後のストーリーを考えたいのだ。

きっとそれが宗教なのだろう。もともとは、宗教は、死後のことだけでなく、生きている間の現世のことも決めることができていた。神様が海をかき回して日本をつくった、太陽は天使が動かしている、というように。だけど、そういう話はすべて科学的な説明に置き換えられてしまって、死後のことだけが宗教の管轄となっている。現代において、宗教とは、死後のストーリーなのである。

さて、僕が考えたストーリーはこうである。

「この人生は、5回繰り返される最初の1回の人生である。そして、この人生で獲得した個々の知識や記憶を来世に持ち越すことはできないけれど、人格的な成長の成果は持ち越すことができる。」

このように考えるのは、臨死体験や神の啓示のような証拠があるからではない。そう考えることが、この現世を生きる力になると僕自身が感じるからだ。つまり、このストーリーは単なる方便なのである。

だけど僕はそれで満足だ。なぜなら、冒頭で述べたとおり、今の僕にとっての問題は、いかに生きるかであり、死後のことなどどうでもいいからだ。よりよく生きることができるならば、死後のことなど方便でかまわない。

(当然、ここにはいくつも問題がある。方便に基づき、よりよく生きることなどできるのか、とか、そもそも、よりよく生きるべきなのか、といった問題である。だけど、これらは哲学の問題であり、この文章では哲学には踏み込まないと決めているので、これらの問題は無視する。)

2 方便としてのストーリーの効能

なぜ、あえて方便に過ぎないストーリーについて書くのかというと、このストーリーが役立つと思うからだ。だから、ここからは、僕が考えた死後のストーリーの効能について紹介したい。

僕が考えるストーリーとはこのようなものであった。

「この人生は、5回繰り返される最初の1回の人生である。そして、この人生で獲得した個々の知識や記憶を来世に持ち越すことはできないけれど、人格的な成長の成果は持ち越すことができる。」

では、どのようにして、僕のストーリーが役に立つのだろうか。

まず、5回輪廻が繰り返されるというところがミソである。1度限りの人生では寂しいし、無限に繰り返されるのではうんざりしてしまう。5回ではなくてもいいけれど、それほど多くない回数、繰り返されるくらいが丁度いい。

そして、そのうちの最初の1回目というのも重要である。5対5のポケモンバトルをしたとしよう。別にポケモンバトルじゃなくて、日本シリーズでもいいけれど、とにかく何回か戦って、その最終結果で勝ち負けを決める勝負を想像してみよう。そのとき、最初の負けはそれほど困らない。次は頑張るぞ、と思うことができる。だんだん勝負が進むにつれ、負けは諦めにつながるけれど、最初の1敗で諦めることはないだろう。

同様に、人生で失敗しても、この人生は最初の1回目で、これからまだ4回人生が残っていると思えば、悔しいけれど諦めとはならない。失敗から立ち上がることができる。そう思えることが、僕の死後のストーリーの効能である。

僕は、旅行の初日が好きだ。海外旅行だと初日は移動で終わってしまうときもあるから、正確には、着いた最初の夜、ホテルで寝て、起きてこれから何をしよう、と考える、あの瞬間が好きだ。そこには、4泊5日という有限の期間のなかに、無限の可能性が秘められている。有限と無限が混ざったような、あの感覚が僕は好きなのだ。もし、この人生が、5回の人生の最初の1回目の人生であるならば、この人生は、きっと、旅行の初日のようなワクワクするような人生となるだろう。

僕はそんな人生を送りたいと思っている。僕が死後のストーリーをつくりあげるということは、つまり、この今、現に僕が送っている人生を生きるストーリーをつくりあげるということでもある。

これは、つまり、方便としての死後のストーリーをつくりあげ、方便としての人生を生きることにもつながるため、哲学的にはやや危険なことではある。だけど、ライフハック的には悪くないような気がする。もし、宗教がライフハックなのだとすれば、僕のこの死後のストーリーもひとつの宗教になりうる。オーダーメイドの僕だけの宗教である。

3 もうひとつの効能

 僕のストーリーには、5回の輪廻転生のうちの1回めの人生ということに加えて「この人生で獲得した個々の知識や記憶を来世に持ち越すことはできないけれど、人格的な成長の成果は持ち越すことができる。」ということも含まれる。

なぜ、こうなるのかといえば、もし、知識や記憶を来世に持ち越すことができたとしたら、この世の中にはそういう人がたくさんいるはずなのに、そうではないからだ。知識や記憶を来世に持ち越すことができたら色々便利だとは思うけれど、残念ながら、この世の中のあり方に反している。

また、なぜ人格的な成長の成果だけは持ち越すことができるのかといえば、知識や記憶は持ち越せないにしても、何かしらを持ち越すことができなければ、そもそも輪廻転生にはならないからだ。僕が僕として輪廻転生をするためには、何らかの連続性がなくてはならない。その何かとは、きっと、人格的な成長の成果に違いない、と僕は思うのだ。

当然、僕の輪廻転生の連続性を確保するのは他のものでもいい。例えば、僕は納豆が好きなのだけど、来世でも納豆が好きであれば、僕の連続性は確保されるだろう。または、僕は扁平足なのだけど、来世でも扁平足なら、僕の連続性は確保されるだろう。そのような嗜好や身体的な特徴でもいい。では、僕は、なぜ、あえて、人格的な成長の成果により、連続性を確保するというストーリーを描くのだろうか。

それは、僕の勝手な思いつきであり、僕の押し付けがましい思想であるのは確かだろう。僕は、校長先生のつまらない長話のように、だらだらと、人格的な成長が大事だと主張しているに過ぎない。

だけど、一応、多少はフォローしておくと、納豆好きというような嗜好や、扁平足であるというような身体的特徴は、それが変わらないということで、僕の連続性を確保している。一方で、人格的な成長とは、つまり僕の人格が変わっていくということであり、僕の人格が変わっていくことで、僕の連続性が確保されているのであるという違いがある。変化により連続性を確保するというストーリーには、他のストーリーにはない特別さがあるのである。

その変化を人格的な成長と呼ぶかどうかは別にして、僕は、この人生のなかで変化していき、そして、その変化こそが、来世の人生と今の人生とを結ぶ紐帯になる。そう考えることで、今、僕がやっていることが無駄ではないと少しだけ思える。それは、無根拠な思想ではあるけれど、このストーリーのもうひとつの効能だと思う。

こうして、死後のことについて思いを馳せることで、僕は、僕なりの宗教と僕なりの思想をひねり出し、多少は心穏やかにこの人生を過ごすことができることになる。

残念ながら、哲学者としての僕は、宗教や思想は哲学にとっての夾雑物だと考えている。だから、僕がぼんやりと、宗教や思想に心の安らぎを求めようとしても、心の中のどこかから、そんなものは方便であり、まがい物ではないか、という声がする。哲学者としての僕が、生活者としての僕を追い詰めてしまっているのだ。

だから時々は、そんな声など無視して、こんなことを考えるのもいいかもしれない。僕は死後について考えることで、僕の宗教と僕の思想に身を委ね、僕自身を癒やすのだ。そのような意味で、死とは癒しなのかもしれない。

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