※やっと平井先生の本の考察の後半を書きました。結局4万字くらいになっちゃいました。平井・永井・入不二という三兎を追ったら、どれもちょっと中途半端かも。1月以上こればっかだったから、ちょっと休憩。

1 拡張MTSの提案

僕は平井靖史の『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』(以下、『できている』)という本を読み、感動したので文章を書いていたら、結構長くなってしまったので、とりあえず『MTS(マルチ時間スケール)の素晴らしさを語る』(以下、『語る』)という文章としてブログにアップした。(https://dialogue.135.jp/2023/01/15/mts1/)『語る』には、僕の独自の考えも盛り込まれているけれど、平井の土俵から大きくは外れていないと思っている。

その続きとなるこの文章では、平井の土俵から外れ、僕自身の興味に引き寄せた議論を行っていきたい。ここでやろうとしているのは、『できている』を僕が好きな永井均や入不二基義の哲学へ接続することである。だから、先日書いた文章が平井へのファンレターだとするならば、これから書くこの文章は永井や入不二へのファンレターだと言えるかもしれない。

この文章で僕が行おうとしているのは、平井のMTSの二つの拡張である。ひとつが空間(人称)への拡張であり、もうひとつが形而上的領域への拡張である。平井のMTSは、自然主義的時間論であるとも言えるけれど、僕はそれを、空間論(という言い方があるかどうかはわからないけれど)として拡張し、更に形而上学的な議論として拡張し、形而上的時空論とでも言うべき「拡張MTS」を提案することを試みたい。

2 MTSの僕なりの理解

(1)物質と生物

まずこの文章の議論の前提となるMTSを理解するためには、平井自身が入門書としてわかりやすく書いた『できている』を読むのがおすすめだし、もし僕の理解を知りたいならば、先日書いた『語る』を読んでいただきたい。けれど一応、この文章単独でも成立するよう、MTSの僕なりの理解を簡単にまとめておこう。(だから以下の説明は平井のMTSをかなり僕なりの理解で再構成したものとなる。)

MTSの出発地点となるのは、物質と生物である。物質世界にゾウリムシや人間のような生物が誕生する場面からすべてが始まる。そこには、神様や天使や精神世界といったものが登場しないという点で、現在の自然科学の成果にも沿った、極めて常識的な世界観だと言えるだろう。

だが、このような常識的な世界観には、いくつかの哲学的な難点がある。例えば、クオリアをうまく説明できないといった問題が生じるのだ。僕はあまり詳しくないけれど、哲学上、クオリアの問題を解決するために様々なアイディアが提案されてはいる。けれど、僕にはその多くが有望ではないように思える。常識的な世界観を尊重しようとするとクオリアがあるという実感から乖離するし、クオリアがあるという実感を尊重すると常識的な世界観から乖離してしまうのである。

そこで登場するのがMTSである。MTSは常識的な世界観を出発地点としつつ、いや、物質と生物があるという常識的な世界観を出発地点とするからこそ、そこから、見事にクオリアのような哲学的難問を解決するのだ。この素晴らしさに僕は感動して、こんな文章を書いている。

(2)2つの力と4層構造

まず、図示すると、MTSはこのように4層構造になっている。最下層の物質レイヤーから、感覚レイヤー、体験レイヤー、人格(生物)レイヤーとなる。このうち、特に重要なのは物質レイヤーと人格(生物)レイヤーである。なぜなら、MTSの出発地点となるのは、物質と生物だからだ。

※ 人格レイヤーを生物レイヤーと言い換えているのは、ここで表しているものは、観念的な人格に留まらず、物質的な身体を持つ生物でもあることを強調するためである。

そして、このMTSの構造を織り上げるのは、物質からのボトムアップの力と、生物からのトップダウンの力である。この二つの力がぶつかり、干渉し、折り合うところ、つまり第1層の感覚レイヤーや第2層の体験レイヤーにおいてクオリアが生まれる、というのがMTSのクオリア問題の解決法である。

物質のボトムアップの力とは、物質が生物において現象しようとする力であると言っていいだろう。物質は基本的には相互作用し中和している。物質は他の物質の力と相互にぶつかり合い、打ち消し合うことによって、相殺され、あたかも静的であるように中和されているのである。例えば、山奥の澄んだ水を湛えた湖では、実は水分子が熱運動をして激しく飛び回っているにも関わらず、全体としては静かな湖面を保っているようなイメージである。

 だが、そこに生物が誕生した途端、その中和が崩れ、物質は生物の知覚において顕在化し、現象しようとする。そこには、物質から生物に向かう力動性がある。先ほどの図のとおり、MTS構造は、物質を下、生物を上に描くことができるから、これが、物質から生物へと向かう上向きの力、つまりボトムアップの力である。

一方の生物のトップダウンの力とは、逆に、生物の側から、視覚や触覚のような知覚機能により、物質を把握しようとする力であると言える。僕たち人間であれば、例えば視覚を用いて物質を把握しようと意図するし、ゾウリムシなら接触により外界を感知しようとする機能を持っている。ゾウリムシの場合には人間と同様の意図を持っているとは言えないけれど、感知しようとする機能を有しているという意味で、広義の意図を持っていると言ってもいいだろう。この、把握しようとする広義の意図がトップダウンの力である。

だが、いくら生物が物質を見ようと意図しても、物質の側に現象するという性質がなければ物質を見ることはできない。また、いくら物質が現象しようとする力を宿していても、生物が見ようとしなければ物質は現象しない。生物に宿るトップダウンの力と、物質に宿るボトムアップの力が出会うからこそ、生物は物質を見ることができるのである。

この二つの力の出会いにおいて生じるのが体験や感覚であり、そのうちのある側面はクオリアとも呼ばれる。

(3)凝縮

なお、生物が物質を見ることができる仕組み、つまり、生物において物質が現象する仕組みを、MTSは、物質の量の凝縮による質への転換として説明する。

前述したとおり、生物に出会わない限り、物質の力は物質相互に相殺され完全に中和している。そこに生物が登場し、生物によって見られようとすることで、物質の力は脱中和され顕在化し、顕在化した大量の物質の働きが、生物と出会い、ひとつの体験や感覚として凝縮して把握される。例えば、物質とは1秒間に何兆回という電磁波の波動として表現することもできるだろう。そして、人間の視覚を例とするならば、人間は、1秒間に何兆回という大量の電磁波の波動を、そのままで把握することはできず、0.02秒の幅(人間が知覚できる最小の幅)というはるかに粗いスケールで把握することになる。

ここでは、何兆もの波動という物質の量を、1つの「赤い」という感覚に「凝縮」するという事態が生じていることになる。これは、何兆もの波動を、一つの感覚に置き換えるという点で、量的な減少であると言ってもいい。しかし一方で、これは単なる減少ではなく、赤いというクオリアの生成でもある。つまり、量的な減少と引き換えに質的な増加が生じているのである。これが物質の量の凝縮による質への転換である。この量から質への転換により、生物の知覚は成立するのだ。

以上が、MTSの基本的なアイディアである。

(4)時間の流れ

ア クオリアとしての時間

ところで、MTSは「マルチ時間スケール」だから時間に関する理論である。MTSはこの構造を用いて、時間が流れるという難問を解決する。

時間には、時間が流れるというと、何が流れているのかよくわからなくなってしまうし、時間が流れないというと、すべての変化を否定することになってしまうという難問がある。赤信号は100%赤信号であり、赤信号のどこにも青信号性は含まれていない。それでも時間が流れると、赤信号はやがて青信号になってしまう。赤信号という物質のなかにはどこにも時間の流れによる変化を可能とするような要素が含まれていないのに、なぜか時間は流れ、赤信号は青信号に変化してしまうのである。この変化は、物質が寄与していないように見えるという点で魔法のようであり、つまり、時間の流れによる変化には魔法が必要だということになる。だが、魔法とは、平井が強調するように、自然主義的な議論においては忌み嫌うべきものである。

この問題を、MTSは魔法を用いずに解決する。MTSによれば物質においても生物においても時間は流れない。だが、物質からの力と生物からの力が出会い、折り合うようにして出現する中間レイヤーにおいてのみ、持続や流れといった時間に関わるクオリアが生じるのである。これらのクオリアが時間の流れによる変化という描写を可能にする。

つまりMTSは世界を多層化することにより、ある層では時間は流れず、ある層では時間が流れるという、折衷的な解決策を可能とするのである。

MTSによれば、時間の流れとは、物質的な世界のあり方には寄与しないけれど、あくまでも物質の相互作用の産物であるクオリア(質)である。だから、時間の流れを、魔法ではなく、物質と(物質としての)生物の相互作用という自然主義の枠組みで捉えることができるのである。

イ 知覚機能の偶然的な能力の違い

そして平井のアイディアからは離れるが、時間を自然主義的に描写するにあたっては、平井のMTSから僕が読み取ったことも役に立つだろう。それは、過去の想起や未来の予期も、現在についての視覚と触覚などと同様に、広義の知覚機能である、というアイディアである。

僕が抱く時間の流れというイメージの根底には、未知のものであった未来が、現在において知られ、そして確定して過去になっていく、というような、未来・現在・過去への時制の推移がある。つまり、よく知ることができない未来から、よく知ることができる現在・過去へ、という対比があるからこそ、僕がイメージするような、時間の流れが生じているとも言える。

僕は、この時間の流れの向きを決めるのは、人間の広義の知覚機能間の、偶然的な能力の違いに由来していると考えたいのだ。

人間には、視覚は発達しているけれど、嗅覚はそれほどでもない、といった、知覚機能間の能力上の違いがある。同様に、人間には、機能上、過去の想起は上手だけど、未来を予期することは苦手だという特性があるとも言える。そして、そのような特性を知覚機能間の能力上の違いと同一視し、想起と予期の知覚機能の違いにより、人間はこのような時間推移のイメージを持つようになったとも言える。そのように考えるならば、人間が大前提のようにしている、いわゆる時間推移のイメージは、人間という生物が偶然的に獲得した知覚機能上の特性に由来し、偶然的な産物である、とも言えることになる。

未来を予期することと、嗅覚のような比較的不得意な知覚機能とを同一視することには疑問があるかもしれない。確かに、視覚に比べた場合の嗅覚の不得意さに比べても、確かに現在を見ることや、過去を想起することに比べて、未来を予期することはかなりおぼつかない。だが、人間は、未来について全く知ることができない訳ではない。ヤカンをコンロの火にかけたら、数分後にはお湯が沸くということは、ほぼ知っていると言ってもいいだろう。確かにその間に大地震が起きて、ガスの供給が止まり、そのような未来が到来しないことはありうる。だから予期によって未来を完全に知っている訳ではない。だけど、それは、現在において、蛇を見たと思ったら、実はロープの見間違いであり、実は現在を完全に知っている訳ではなかった、ということと大きな違いはない。

または、未来が知覚機能のひとつであることを説明するために、超能力を用いた思考実験をしてもいいだろう。例えば、精度の高い予知能力を持っているけれど、過去のことは忘れっぽい予言者がいたとしたなら、その予言者にとっては、時間のあり方は僕たちとは大きく異なるかもしれない。当然、時間推移には、知覚機能の違いだけでなく、クオリアも関わってくるから、時間の流れが逆転するほどのことはないだろう。だが、確実な未来から不確実な過去へと流れる予言者の時間というのは、いわゆる常識的な時間とは、僕には想像がつかないほどに、大きく異なるものとなるだろう。

未来の予期や過去の想起が、視覚や触覚などと同様に広義の知覚能力のひとつであることを認めるならば、そこにあるのは、程度の違いはあっても、人間は嗅覚よりも視覚が発達していることと同様の意味での得手不得手の違いしかないのである。

そして、そのような偶然的な知覚機能の能力の違いと、時間の流れとは深く結びついている。つまり、時間の流れもある側面では偶然の産物であり、人間の機能がこのようなものでなかったなら、時間のあり方も全く違ったものであった可能性もあるのだ。

ただし、これは、平井が述べたことではなく、平井のMTSから僕が読み取ったことであることは重ねてご留意いただきたい。

※視覚のような知覚機能と、予期のような知覚機能との間には、直接的な体験により把握できるかどうかという、直接性の有無とでも言うべき大きな違いがあると考え、両者を区分しようとするかもしれない。

だが現在を視覚で捉えるという、最も直接的で最も確実と思われる知覚機能さえも、そこで把握されるものは、平井が「天然のプロジェクションマッピング」(p.209)と表現したとおり、それほど直接的なものではない。例えばペイズリー柄のハンカチは、タイプ的なハンカチに、タイプ的な「ペイズリー模様」が貼り付けられたものとして処理されてしまう。現在における視覚体験さえも、過去の同種の体験から形成されたタイプ的な質が貼り付けられた体験であり、純粋な直接的な体験ではないのである。

3 空間への拡張

(1)MSS導入の意図

ここからは平井自身が述べたことから大きく離れ、平井のMTSをこねくり回して「遊んで」みたい。

まず、この章で僕がやろうとしていることは、時間についてのアイディアであるMTSを、空間にも拡張してみることである。これはつまり、時間論としてのMTS(Multi Time Scale)を、空間論としてのMSS(Multi Space Scale)に拡張することだ、と言ってもいいだろう。

このようなことをする動機は二つある。一つは『できている』を読む前から僕が感じていた問題を解決するためであり、もうひとつは『できている』を読んで僕が感じた問題を解決するためである。

※僕がMSSとしてやろうとしていることは、人間とアリでは空間の捉え方が違う(p.48)というような、空間のスケール相対性とは違うことである。

ア 距離ゼロの関係性

まず、前者の僕が以前から感じていた問題のほうから説明しよう。

導入のため、かねてから感じていた、それほど哲学的ではない疑問の話から始めたい。それは、「あの庭先の花の匂いがする。」という言葉に対する疑問である。僕が妻と近所を散歩していると、ふと、数メートル先の家の庭先に咲いているキンモクセイの香りに気付いたとする。その時僕は妻に向かって「あの庭先の花の匂いがする。」と言う。僕は、この言葉に疑問があるのである。

キンモクセイの匂いは、嗅覚の仕組みとしては、キンモクセイの花びらから出た物質が風に漂って、僕の鼻の穴に入り、粘膜に付着するから匂いとして感知される。つまり、匂っているのは、数メートル先のキンモクセイではなく、僕の鼻の穴に入り込んだキンモクセイの一部である。だから正確には、僕は「あの庭先の花の匂いがする。」ではなく、「僕の鼻の奥の粘膜に付着した物質の匂いがする。」と表現しなければならない。

嗅覚は、遠く離れた物体を認識できるように思われているが、実は、嗅覚は距離ゼロのものしか認識できない。嗅覚が認識できるのはなんであれ、鼻の穴の中に入った物質だけなのである。だから、「あの庭先の花の匂いがする。」という言葉は正確ではない。難癖をつけているようだけど、確かにそのような指摘は成立するように思える。

なお、この話はあくまで導入部であって、僕が本当に指摘したいのは、同じような話が視覚や聴覚でも言える、ということである。

郵便ポストが赤く見えるのは、太陽の光が郵便ポストに当たった際に、郵便ポストが特定の周波数の光以外を吸収し、ある特定の周波数の光だけが反射されて僕の目に届くからである。また、太鼓を叩いた音が聞こえるのは、太鼓を叩くことで、太鼓の皮が振動し、その振動が空気を揺らし、空気の揺れが波として僕の耳の穴に入りこみ、鼓膜を刺激するからである。

いずれも、嗅覚の場合とは異なり、郵便ポストや太鼓といった事物そのものは僕の目や耳に届かない。だが、郵便ポストに反射した光や、太鼓の皮が動かした空気を、拡張した郵便ポスト、拡張した太鼓と解釈することはできないだろうか。僕が赤い郵便ポストを見る時、僕の目には拡張した郵便ポスト自体が到達しており、僕が太鼓の音を聞く時、僕の耳には拡張した太鼓自体が到達しているという解釈である。

なぜ、そのような実感にそぐわない解釈ができると考えるのかといえば、同様のことをすでに、人間が道具を用いるような場面では行っているように思えるからだ。僕が鉛筆で文字を書く時、僕ではなくて鉛筆が文字を書いたとは言わない。また、僕が車で人を轢いたなら、僕ではなくて車が人を轢いたとは言わない。鉛筆で文字を書く例においては、僕と紙との間には数センチの距離があり、車で人を轢く例においては、僕と被害者との間には、車のボンネットの長さに応じた距離、多分1メートルくらいの距離がある。その距離を埋めるのは、鉛筆や車という拡張された僕なのである。同様に、郵便ポストや太鼓からの数メートルの距離を埋めるのは拡張された郵便ポストであり拡張された太鼓である、と考えることができるのではないだろうか。

そのように考えることを認めるならば、鼻の粘膜とキンモクセイの欠片との距離がゼロであるように、文字を書くときの僕と紙の関係も、僕が人を轢くときの僕と被害者の関係も、僕が郵便ポストを見るときの僕と郵便ポストの関係も、僕が太鼓の音を聞くときの僕と太鼓の関係も、いずれも距離ゼロだと言える。

そして、僕が不思議なのは、実は距離ゼロであるというアイディアと、自然科学での知見が、どうしてこんなにもうまく一致するのだろうか、ということである。僕には、キンモクセイの花びらの切片も、太陽光線自体も、空気の振動も、直接観測することはできない。それなのに、科学は、次々と、実は距離ゼロであることを解き明かしてしまうのである。なんで、こんなにうまくいってしまうのだろうか。

または、この疑問を因果関係という言葉を用いて表現し直してもいい。つまり、どうして、この世界のものごとは、これほどにも、もれなく距離ゼロで接して、因果関係を及ぼし合っているのだろうか、という疑問である。

そんな疑問を僕は持っていたのだけど、『できている』を読み、MTSをMSSに拡張することでこの問題を解決することができるのではないかと思いついたのである。これが、MSSに拡張しようとする僕の1つ目の意図である。

※ ベルクソンの「点Pとそれが発する光線、そして網膜、関与する神経要素は、一つの緊密につながった全体を成しており、点Pはこの全体の一部なのである。」(p.265)というのは、この拡張された郵便ポストのことを指しているのだろう。 

※ このような距離ゼロという捉え方と、身体と環境の一体性を強調する、ベルクソンの直接実在論(p.254)は相性がよいように思える。ただ、ベルクソンの場合、〈遠くの対象をその場所で直接知覚する〉という純粋知覚論と呼ばれるテーゼがあるらしい(p.254)が、僕ならば、〈遠くの対象をその対象と(知覚)主体とがひとつながりに接続され拡張された場所で直接知覚する〉と言いたい。

そのほうが、「距離はあるが分割されない空間」(p.266)、「広大な身体」(p.267)といった表現とも相性がよいように思える。

イ 多元性の共約不可能性

MTSをMSSに拡張する、僕の2つ目の意図は、『できている』を読んで気づいた問題を解決するためである。

「持続の多元論」(p.140)という言葉も使われているとおり、MTSは多元論である。それも、MTS構造内部で、感覚ごと、体験ごとに、クオリアとしての多元的な時間が持続し、流れるという意味で多元的であるだけでなく、生物は、それぞれの生物ごとにMTS構造を有してもいるという意味でも多元的であり、つまり二重の意味で多元的なのである。

まず、一つ目の生物内部の多元性に着目してみよう。僕という生物の体験において、時間は持続し、流れる。だから、コップでお茶を飲むという体験における時間と、テレビでCMを観るという体験における時間とを比較し、どちらがより時間が流れ、持続していたかを論じることには意味がない。時間の持続・流れは個々の体験の内部にしかないからである。つまり、ここには体験の多元性ゆえの共約不可能性という問題がある。

それでも、それぞれの体験は共約可能であり、何らかの比較ができるように感じるのは、お茶を飲むという体験も、CMを観るという体験も、いずれも人生を生きるという体験の一部として捉えることもできるからである。MTSは、体験レイヤーの上位に人生全体をひとつのスケールとした人格レイヤーを設定することにより、個々の生物内部での多元性により生じる共約不可能性の問題を解決するのである。

非常に雑駁な説明なので疑問が残るかもしれないが、より大きな問題は二つ目の生物相互の共約可能性の方にあるので、そちらに話を進める。問題は、MTSは、個々の生物内部の多元性に由来する共約不可能性を解決できたとしても、各生物間の多元性に由来する共約不可能性の問題は解決できない、という点にある。

MTSの最上位レイヤーには生物の個体が位置付けられるから、MTSは生物の数だけあるはずだ。僕には僕のMTSがあり、あなたにはあなたのMTSがある。だから同じ打ち上げ花火を見ていても、僕とあなたの間では、体験のクオリアとしての時間の持続、流れは共約不可能である。

なお、この共約不可能性は、比較しようとすると何らかの理由で比較が頓挫するという意味での不可能性ではない。そもそも僕のMTSとあなたのMTSは隔絶しているから、比較自体が無意味であるという不可能性なのである。

このような捉え方は、現代の科学とも相性がいいだろう。なぜなら(僕は文系人間なので怪しい理解だけれど、)(特殊)相対性理論は、時間の経過は観察者によって相対的であると考えるからだ。それならば、僕とあなたでは時間のあり方が異なるというアイディアは、科学的には、それほど違和感はないように思える。

ただし、自然科学においては、観察者相互での時間の流れがどの程度違うのかを、理論や観察結果から導いた法則性により説明できるはずだ。僕は相対性理論の具体的な中身を知らないけれど、科学というものの在り方からして、Aの移動速度はBの移動速度の何倍だから、Aの時間経過はBの時間経過の何倍である、というように法則に基づく確定ができるはずである。つまり科学的な法則を基礎に置くことで、時間経過は生物間で共約可能となるのである。

一方で、僕の問題認識は、それでは解決できない。このような物理法則による生物間の架橋をも支えるような、より深いところに、共約不可能なはずの複数のMTS構造間の共約を可能とするような何らかの仕組みがあるのではないか、というのが僕の問題なのである。

そして、その仕組みとは、つまり、同じ空間に複数のMTSを位置づけることなのではないか、というのが、MTSを空間的に拡張しようとする二つ目の動機である。

(2)空間における4つのレイヤー

ここからは、僕が考えるMSSつまりマルチ空間スケールについて説明するけれど、基本的に僕は、空間についても、平井のMTSをそのまま拡張できると考えている。つまり、『語る』での説明を踏襲するならば、時間と同様に、空間は、物質の現象しようとするボトムアップの力と、生物(人格)の知覚しようとするトップダウンの力との折り合いにより説明でき、空間は、その折り合いにより生じる複数のレイヤーとして捉えることができるのである。

だから、まず、空間においても最下層に物質レイヤーが位置づけられる。この物質とは何か、原子なのか、陽子なのか、といった問題はあるけれど、その話は後ほど取り上げるとして、とりあえずのイメージとしては、物質レイヤーにおける物質とは、原子や分子のような、人間は直接知覚できない微小サイズの物質である、としておけばいいだろう。

更に、物質レイヤーの上に感覚レイヤーを位置づけることができるという点も、時間と空間は類比的である。原子や分子といった直接は認識不可能な物質も一定程度集まれば、認識可能なサイズとなる。当然、認識できる最小の大きさは視覚や嗅覚といった感覚の種類によって異なり、また認識されようとする物質の種類によっても異なるだろう。ゴマ一粒を見ることはできても、ゴマ一粒の匂いを嗅ぎ取ることは難しい。けれど、ゴマ一粒の大きさのくさやの干物ならば嗅ぎ取ることはできるかもしれない。けれども、人間が感覚可能な最小サイズは、視覚を代表例として、およそコンマ数ミリメートルとしておけば、話を進めるうえでのイメージとしては十分だろう。

とにかく、コンマ数ミリメートル程度のサイズ感のものとして、僕たちは感覚レイヤーにおいて、物質を感覚として捉えることができる。赤い光を感じるから、そこに何らかの赤いモノがあるのだな、などと知ることができる。ただし、まだそれが何なのかはわからない。それが赤いポストだと知ることができるのは次のレイヤーにおいてである。

そして、感覚レイヤーの上位レイヤーは、MTSにおいては体験レイヤーと呼んだが、実はほぼ同じことだけど、MSSにおいては事物レイヤーと呼んだほうがいいだろう。感覚レイヤーにおける、ぎりぎり認識可能なサイズのモノは、更に集まって事物レイヤーにおいて事物となる。鉄片が集まってポストとなり、プラスチック片が集まってペットボトルになる。このポストやペットボトルといった事物が事物レイヤーのサイズ感である。

僕たちは、ここでようやく、赤い光の集合を赤いポストであると知ることができる。これを、MTS的に赤いポストを体験する、と言ってもいいのだけど、体験というと、そこにある時間経過の側面が強調されてしまう。だから、MSS的には、空間的な広がりを強調するために事物という言葉を用い、赤いポストという事物を知る、と表現したい。だから、体験レイヤーではなく、事物レイヤーなのである。

ところで、このMTS/MSSにおける事物/体験レイヤーは、他のレイヤーにはない特徴がある。

僕は先日書いた『語る』において、MTSの第2層にあたる体験レイヤーにはグラディエーションとしての幅があることを指摘した。同様に、MSSの第2層にあたる事物レイヤーにもグラディエーションとしての幅があるのである。僕は今、デスクトップパソコンで文章を書いているけれど、この事物は、キーボードとモニターとマウスと捉えることもできるし、全体でパソコンと捉えることもできるし、更には、僕の部屋の一部と捉えることもできるし、地球の一部とすら捉えることもできるだろう。事物の捉え方にはこのような事物レイヤーとしてのグラディエーションがあるのだ。

そして、MSSの最上層に位置づけられるのは、MTSの場合と同様に生物(人格)レイヤーである。ここから生物は、知覚機能を用いて物質を把握しようとするという、下向きの力を発揮する。

なお、この最上層をMTSにおいて人格レイヤーと呼ぶのは、時間というもののあり方と、人間という生物の種のあり方が密接に関わっているからだろう。MTSは時間論だから、過去や未来の取り扱いが重要となるけれど、過去の想起や未来の予期という知覚機能については、人間が最も優秀である。だから、時間を論ずるうえでは、人間を生物の代表例としたほうがよい。だから人格レイヤーなのである。

だから、過去や未来を取り扱わなくて済むMSSにおいては、生物レイヤーと呼んだほうが誤解を生じにくいように思える。MTSでも、MSSでも、最上位の生物(人格)レイヤーの担い手は、観念的な人格ではなく、あくまで身体を有する物質としての生物だということを強調するためには、生物レイヤーという呼称のほうが適しているように思うからだ。(そこで、これからは、MSSにおいては生物レイヤーと呼ぶことにする。)

以上のとおり、MTSと同様に、MSSは、物質レイヤー、感覚レイヤー、事物(体験)レイヤー、生物レイヤーというスケールの異なる4つのレイヤーにより構成されるのである。

そして、そのレイヤー間の重ね合わせが凝縮により行われるという点もMTSとMSSは同じである。つまり、原子レベルの物質を感覚可能なサイズになるまで集めて凝縮することにより、感覚の質が生じる。そしてその感覚を事物として把握可能なサイズになるまで集めて凝縮することにより、事物としての質が生じる。そして、事物をあつめて生物において凝縮することにより、生物における質が生じるのである。MTSとの違いは、その凝縮が、MTSでは時間的凝縮であるのに対して、MSSならば空間的凝縮である、ということくらいである。

(3)過去・未来と他者の類似性

そして、MTSでは「現在」が重要な役割を果たすのと同じように、MSSでは「私」が重要な役割を果たす。つまり、第1層の感覚レイヤーでは、私において赤い光の感覚が生じ、私において甘い感覚が生じる。同様に、第2層の事物(体験)レイヤーでも、私において赤いポストとして見えて、私において甘いケーキとして味わわれる。

なぜなら、「私」が重要な役割を果たすのかと言えば、人間は、過去のポストを想起し、未来のケーキを予期するよりも、現在のポストを見たり、現在のケーキを味わったりするほうが得意だが、同様に、他者においてポストを見たり、ケーキを味わったりするよりも、私においてポストを見たり、ケーキを味わったりするほうが得意だからだ。人間は、過去を想起したり、未来を予期するよりも、現在を知覚するほうが段違いに得意だから、人間にとって現在は特別なものである。同様に、人間は、他者において知覚するよりも私において知覚するほうが段違いに得意だから、人間にとって私は特別なものなのである。

だが、強調しておきたいのは、過去や未来のことは、全く把握できない訳ではなく、想起や予期によってある程度把握できるのと同様に、他者のことも、全く把握できない訳ではなく、想像によってある程度までは把握できるということである。他者が足の小指をテーブルの脚にぶつけて飛び跳ねていれば、痛いことが容易に想像できる。

ただし、私と他者では把握の仕方はかなり異なる。私のことであれば、(平井が天然のプロジェクションマッピングと呼んだように限界はあるけれど)かなり直接的に把握できる。一方で、他者のことは直接的には把握できない。他者の内面で生じている感覚や体験は、想像という、間接的で、精度が低いやり方でしか把握することができない。

私が現在を把握する際には、視覚や味覚のような狭義の知覚機能という優秀な能力を用いることができる。しかし、過去、未来、他者については、想起、予期、想像という、それよりも劣った能力を使わざるをえないのである。

このように、MTSとMSSを重ね合わせることで、現在と私の類似性、過去・未来・他者の類似性を見出すことができる。

※ この私と他者の違いの問題を純化して考えることで、大森荘蔵的な他我問題が生じるのだろう。(読んだことはないけど)

そして、MSSの長所は、そのような純化を拒否し、私と他者の違いは、人間の偶然的な能力違いであり、そこには究極的な哲学的問題はないと考えられるところにある。

だから、他者の体験、感覚に対する懐疑は生じない。MTSを拡張したMSSは自然主義的世界観に基づいているから、あくまでも、物質として確かな存在である他者が、物質的なプロセスにより確かに物質を知覚しているのである。そのうえで、機能上の問題から、私には他者の感覚を感じることができないにすぎない。

(4)距離ゼロに対する距離アリ

そして、この、私と他者の違いが、MSS、マルチ空間スケールにスケールを導入することを可能とする。これまでのところ、MSSには、複数のレイヤーはあっても、そのレイヤーに物差しの目盛りに相当するものが登場してこなかった。けれど、ようやく空間をスケール化することができるのである。

まず、第1層の感覚レイヤーにおいては、私における感覚と他者における感覚との間に目盛りを打つことができる。永井均や大森荘蔵的な言い回しになるけれど、私は私の感覚しか感じることはできず、私は他者の感覚を感じることはできない、という区切りこそが感覚レイヤーにおける目盛りである。私の感覚が距離ゼロであり、他者の感覚が距離アリとなる。

同様に、第2層の事物レイヤーにおいては、他者としての事物と、他者以外の事物との間に目盛りを打つことができる。ヤカンやポストのような他者以外の事物ならば、私が見たり触ったりすることでおよそ把握することができるけれど、他者という事物だけは、そのような、いわゆる直接的な把握を拒否し、想像により把握するしかないからである。

なお、事物レイヤーで把握される事物とは、上位の生物レイヤーからの視点に立つならば、凝縮により質化された事物である。

そして、ヤカンの質ならば、原理上、僕は完全に把握することができるはずである。お湯を沸かす道具である、鉄でできている、というように。

当然、それだけの描写では全てを把握しきれていないけれど、僕の人生は未完了相にあるから、このような描写は今後、いくらでも継続可能であり、そうすれば、いずれ探索的認知により、生物が事物の質を完全に把握することは原理上は可能となるはずである。

しかし、一方の他者という事物の質だけは、原理上、僕には把握しきれない。ある他者についての、僕の友達である、男性である、アジア人である、といった描写は、その他者の質を捉えきれていない。彼自身は、自分のことを僕を友達と思っていないかもしれないし、更には、(最近のLGBT的な視点を踏まえるならば)彼の性自認としては男性と思っていないかもしれないし、アジア人だとも思っていないかもしれない。他者という事物の質だけは、他者自身ではない視点から把握し尽くすことはできないのである。

※僕は、他者という事物の質を把握できないのは、広義の知覚機能の違いによるものであり、偶然にも想像という知覚機能が、視覚などの知覚機能に劣っているからだと考えている。

それならば、思考実験により、想像という知覚機能が、視覚などの知覚機能と同等以上のものであった場合のことも検討できなければならないはずである。

それは、きっと、他者が足の小指をテーブルの脚にぶつけて飛び跳ねているとき、僕自身も痛みを感じているような状況であろう。なぜなら、痛みを最もよく把握するためには、自らが痛まなければならないはずだからである。

つまり、想像という知覚機能が発達すれば、他者とは自分自身を延長したようなもの、例えば、遠隔操作される自己のようなものになってしまうのではないだろうか。

同様のことは時間についても言える。僕が極めて優秀な予知能力者となって、現在を見るように、ありありと未来を見ることができるようになった状況を想像するような思考実験である。そのような僕にとっての未来とは、きっと現在のようなものになってしまうのではないだろうか。

※ 距離ゼロであることと、探索的認知とが関係するように書いてしまっているけれど、実はそうではない。

平井は、藪から飛び出した棒から咄嗟に飛びのくのは、「蛇だった」とわかってからでは遅い(p.218)という例を出している。これは、探索的認知によらない事物の把握の典型例である。

だが、その場合でも、棒なのか蛇なのかさえわからない何らかの視覚刺激との「距離ゼロ」の接触により事物を捉え、咄嗟に飛びのくという反応をしている、と描写することは可能である。よって、探索的認知によっても、よらなくても、距離ゼロは成立する。

僕が探索的認知を持ち出したのは、いったん探索的認知を始めたならば、その中断による不完全な把握が問題となるからであり、そもそも探索的認知を始めなければ、そのような問題すら生じない。

(5)私という事物

ア 私の身体

このように、事物レイヤーにおける事物については、他者かどうかという大きな区分があるのだが、この区分にはいくつか注意点がある。

まず注意を要すると思われるのは、私自身の身体という事物の取り扱いである。私の身体は、他者という事物ではないことは確かだろうが、では、ヤカンのような(他者ではない)事物と同じものとして取り扱ってよいのだろうか。

例えばそれは、僕の腹痛をどのように取り扱うか、という問題だと言ってもいいだろう。大事な会議の前の緊張で、僕の腸が変な動きをして、お腹が痛くなったとする。そのときの僕の腸を単なる事物として捉え、腸の動きをヤカンの水が沸騰した場合と同じように捉えてよいのか、という問題である。

結論から述べると、僕は、僕の身体の器官を単なる(ヤカンのような)事物として捉えてよいと考えている。なぜなら、ヤカンの状況を見て把握することと、腸の状況を痛んで把握することは、全く等しいからである。そこには、問題が、皮膚の外側で起きていることか、皮膚の内側で起きているか、という違いと、どの知覚機能を使用しているか、という違いしかないように僕には思えるのである。(痛みにより、腸の状況を把握できることは、痛みによりハチに刺された状況を把握できることと大きな違いはなく、いわば、広義の触覚であると言ってもいいだろう。)

イ 私の知覚

また、もうひとつの注意点として「私の知覚」を事物レイヤーに位置付けられるかという問題がある。

ライオンを見るという知覚を例とすると、ライオン自体は、明らかにMSS上の事物レイヤーに位置づけることができ、またライオンを見るという体験としてMTS上の体験レイヤーに位置づけることもできるだろう。

だが、ライオンを見たことは、更に、ライオンを見たことを思い出す、というように、更なる知覚機能の対象とすることもできる。いわば知覚の二次的利用である。

この二次的に利用される「私の知覚」は、MSSにおいてどのように位置付けられるのだろうか、というのが、ここでの問題である。

一見したところ、ライオンを見たという知覚自体には、物質的な要素が何もないように見える。だから、そのような知覚を貫通するかたちではボトムアップの力も生じず、トップダウンの力とも出会わず、よって、物質レイヤー上の物質として位置付けられることもないように思える。

だが、ここで、MTSとはどこまでも自然主義的世界観に基づく、物質システムについての描写であったことを思い出すべきだろう。それならば、ライオンを見ようとするトップダウンの力と、ライオンを構成する物質からのボトムアップの力の折り合いにより生じたライオンを見るという知覚体験も、あくまでも物質的なものであるはずである。

それならば、ライオンを見たこと自体がMTS/MSSの体験/事物レイヤー上の体験/事物として位置付けられるはずなのである。だから、その知覚という体験/事物を二次的に利用することも可能となるのである。

よって、「私の知覚」自体を事物として、MSSの事物レイヤーに位置づけることができるのである。なお、そこには他者という事物のように、把握が困難なところはないので、「私の知覚」は、ヤカンのような他者でない事物として区分することができるだろう。

※ただし、ここには、「私が知覚すること」から「私が知覚したこと」へのわずかなズレがあるという点には留意するべきである。僕がこの節で明らかにしたのは、「私が知覚したこと」が体験/事物であるということである。「私が知覚すること」は、「私が知覚しようとすること」と「私が知覚したこと」に分解でき、「私が知覚しようとすること」のほうは、つまりトップダウンの力のことであり、拡張MSSのレイヤー上に位置づけることはできない。ここには僅かだけど明確なズレがある。

また、同様のズレは、MSS上の事物としての「ライオン」とMTS上の体験としての「ライオンを見ること」のほうにもあるように思う。

(6)距離の計測

ちょっと、「私」の扱いに手間取ってしまったけれど、一つ前の節に戻っていただくならば、MSSにおいては、距離ゼロと距離アリの2つの距離があるのであった。一方で、通常、空間は、1メートル、2メートルと計測可能な距離があると考えられている。このような計測可能な距離をMSSではどのように導入することができるのだろうか。

MSSにおいて計測可能な距離を導入することは、MTSにおいて計測可能な時間を導入することに比べても難しい。なぜなら、時間には並び順があるが、空間にはないからである。

時間を擬人化して学校の教室の席に喩えるならば、時点Aさんの隣の席が時点Bさんの席で、更にその隣が時点Cさんになることは簡単に決められる。なぜなら、時点には年月日のようなタイムスタンプがあって、いわば、背の順や五十音順のように、並び順が定められているからだ。

一方の空間はそうではない。地点Aさんの隣がだれの席で、更にその隣がだれの席になるかは決まっていない。たしかに、東海道新幹線ならば、東京の隣は品川で、品川の隣は新横浜というように決めることはできるけれど、それは、人間が便宜的に定めた並び順であり、空間そのものの並び順ではない。

※きっと、時間には順序があるけれど、空間には順序がないということは、時間は流れるけれど空間は流れないということときっと関係している。

だが、この便宜的にであっても並び順を決められるという点が重要である。便宜的にであっても空間において事物の並び順を決めることができるのは、それらの事物を個別に捉えることもできれば、全体として捉えることもできるからである。だから、全体として東海道新幹線という事物として捉えたうえで、東海道新幹線の駅という個別の事物として捉えるならば、東海道新幹線という路線全体のなかで、駅の順序を決めることも可能となる。同様に、生徒たちも含めた教室全体をひとつの事物として捉えることが可能だから、生徒一人ひとりの席を決めることができるのである。

それが、事物レイヤーには、グラディエーションがあるということである。事物レイヤーには、品川駅を品川駅として捉えることもできるし、東海道新幹線のなかの駅のひとつとして捉えることもできる、というグラディエーションがある。そのグラディエーションの最上位には、この宇宙をひとつの事物として捉えるという視点を設定することもできるだろう。だからこそ宇宙における品川駅の位置付けを決めることもできるのである。このグラディエーションにより、全宇宙における並び順の問題を解決することができるのである。

そのような作業を経たうえであれば、全宇宙という最上位の事物レイヤーのなかに、タイプ的な1メートルの距離という事物を便宜的に設定し、そのタイプ的事物を並べることにより、計測可能な宇宙空間を構築することができるようになる。これが計測可能な距離の起源である。

時間にはタイムスタンプという確たる並び順がある一方で、空間には便宜的な並び順しかない。だから計測可能な時間を想定するよりも、計測可能な空間を想定することのほうが難しい。だから、個人ごとの主観的な距離と、計測可能ないわゆる客観的な距離との乖離は、時間の場合よりも、より大きいものとなるだろう。だが、事物レイヤーのグラデーション性により、とりあえずは便宜的にでも計測可能な空間を成立させることができる。そしてきっと、自然科学の成果が、個人ごとの主観的な距離の乖離をより狭めてくれているのだろう。

※ 誤解してはならないのは、ここで登場させた宇宙とは、あくまでMSSにおける第2層にあたる事物レイヤーのグラディエーションにおいて最上層に位置付けられるに過ぎないという点である。更にその上には第3層の生物(人格)レイヤーがある。つまり、宇宙を、その生物における宇宙として見る視点があるのである。だから、この宇宙という最上層の物質レイヤーのことを、環世界と言ってもいいかもしれない。現代人における環世界とは、きっと太陽系から銀河系へと広がる科学的な宇宙なのである。

(7)科学とMSS

ア 科学とMSSの不思議な一致

ここまでの話を踏まえることで、冒頭の僕のキンモクセイに感じていた問題が解決できる。

僕が「あの庭先の花の匂いがする。」と言うとき、キンモクセイの花は他者ではない事物だから、MSS的に述べるならば、僕は、キンモクセイの花という事物と距離ゼロで接している。それが自然主義的世界観に基づくものであるMTSを拡張したMSSにより描写した、物質的に裏打ちされた事実である。それは、その知覚される事物が郵便ポストであっても、太鼓であっても、MSS的には同じことである。

また、「キンモクセイの花びらから出た物質が風に漂って、僕の鼻の穴に入り、粘膜に付着するから匂いとして感知される」というように、科学的な説明が可能なのは、それが自然主義的世界観に基づく物質的な事実だからである。それは、郵便ポストが太陽光線を反射させて網膜に届く場合でも、太鼓による空気の振動が鼓膜に届く場合でも科学的には同じことである。

MSSと自然科学のいずれでも、僕は、キンモクセイや郵便ポストや太鼓と、距離ゼロで接するのである。

そして、このような不思議な一致が成立するのは、MSSも自然科学も自然主義的世界観に基づく物質的な事実だからである。物質と生物というどこまでも自然的なものを基盤に置くからこそ、科学もMSSもそこから逸脱することがないのである。

だから、自然科学の知見は、MSS(とMTS)に直接的に活かすことができるし、そして、MSS(とMTS)の知見は自然科学に直接的に活かすことができることになる。自然主義的世界観という共通の土俵の上に成り立つ科学とMTS/MSSは、科学がMTS/MSSをよく説明し、そして、MTSは科学をよく説明するという、共依存関係があると言ってもいいだろう。

イ 探索的認知

このMSS(とMTS)と自然科学との相互依存的な関係は、MTS/MSSの側から述べるならば、探索的認知の話として考えることができるだろう。つまり、自然科学とは、MTS/MSSにおける探索的認知である、というアイディアである。

探索的認知とは、つまり、複数回の知覚機能の活用により、体験/事物をより精緻に把握しようとすることだと言える。この探索的認知が有効に成立できるのは、複数回の知覚機能の活用により、その結果が収斂していくからである。例えば、キンモクセイを見て、そしてキンモクセイの匂いを嗅ぐことにより、二つの知覚を組み合わせることにより、そのキンモクセイに関する知識が増えていく。また、品川駅を新幹線を構成する駅のひとつとして捉えたり、独立した駅というひとつの事物としてとらえたりすることで、品川駅に関する知識が増えていく。

このことは、MTS/MSSにおける第2層の体験/事物レイヤーのグラデーション性として描写することもできるだろう。体験/事物とは、MTS/MSSにおける体験/事物レイヤーに位置付けられるから、この体験/事物の探索的認知とは、つまり、体験/事物レイヤーを何度も重ね書きし、グラデーションのように描いていくことだとも言えるからだ。

そして、MTSの最上位の第3層の人格レイヤーは未完了相だから、下位レイヤーにあたる第2層における探索的認知としての重ね書きは、原理上はどこまでも行うことができる。そして、到達できないにしても、その先には、理想的で完全な探索的認知という目標を設定することができる。この理想的で完全な探索的認知こそが自然科学が目指すものなのではないだろうか。

(到達できない)理想に到達したとするならば、そのとき、第2層の体験/事物レイヤーは飽和し、それ以上の探索的認知は不必要なものとなるはずだ。僕は、『語る』では、自然科学とは、中間層つまり、第2層の体験レイヤーと第1層の感覚レイヤーのバイパスであるとしたけれど、正確には、探索的認知の完遂による飽和を経たうえでのバイパスなのである。

その理想状態においては、これまでに行った探索的認知はすでに知識として蓄えられ、いつでも引き出せるようになっているはずである。だから、理想状態においては、新たに視覚や触覚のような知覚機能を働かせなくても、ただ「思う」という知覚機能を働かせるだけで蓄えられた知識にアクセスし、物質を把握することができるはずである。これが、僕が自然科学とはバイパスであると述べたことの、より正確な描写である。

自然科学とは、そのような理想状態への到達を目指す試みであり、そして、到達できないにしても、およそ到達したものとして、更なる探索的認知によらず、「思う」ことで世界を把握しようとする試みなのである。そして、その試みは、確かに、かなりのところまで成功している。

そして、僕は、自然科学だけでなく、MTSも、この理想状態にかなり近づいているように感じるのだ。当然、到達することはない理想だけど、理想に向けて大きな一歩を踏み出すことに成功しているように感じるのだ。だから、MTSに基づくならば、「思う」という知覚機能、つまり哲学するという機能を用いるだけで、かなりのところまで、自然主義的な世界を把握することに成功しているように思えるのである。

(8)相互依存

ここでMTSとMSSに共通する問題を指摘しておきたい。この二つのアイディアには、実は相互依存とでも言うべき問題が含まれているのである。

まず、MTSは、空間の問題を無視することで成立していると言ってもいい。例えば僕はMTSにおける体験を描写するうえで、ライオンを見るという体験を頻繁に用いている。これは、動物園にせよサバンナにせよ、数メートルから数十メートル先にライオンを見るという体験である。このような空間の広がりを無自覚に受け入れることで、MTSが成立し、そしてMTSにおける現在が成立するのである。本来ならば、空間の広がりを受け入れるためには、MTSより前にMSSを論じなければならない。その点でMTSはMSSに依存しているのである。

一方のMSSも、時間の問題を無視することで成立していると言ってもいい。事物としてのライオンがいる、という事態を成立させるためには、僕がライオンを知覚しなければならないが、平井が論じた通り、そこには、多くの作業が必要である。例えば、ある茶色の光の集合体をライオンとして知覚するためには、0.5秒から3秒程度の処理時間が必要とされ、また、そもそも、ライオンをライオンという事物として把握するためには、過去の体験により、ライオンのタイプ認識を獲得していなければならない。ライオンという事物は、時間的な広がりがなければ成立し得ないのである。本来ならば、時間的な広がりを受け入れるためには、MSSより前にMTSを論じなければならない。その点でMSSはMTSに依存しているのである。

このように、時間論であるMTSと空間論であるMSSは相互依存している。だから、MTSとMSSを統合してつくりあげようとしている拡張MTSは、時間と空間が相互依存した議論であることになる。

そして、この相互依存は、議論を進めるために必要な相互依存でもある。なぜなら哲学的に必須かどうかはともかく、少なくともわかりやすい議論をするためには、その議論の対象について、何らかのイメージを喚起するような内容を持たせなければならないからだ。例えば、MSS/MTSにおける事物/体験について説明する際に、ポストやライオンといった具体的な例を用いず、また、そのようなイメージを持つことすらも禁止して、事物/体験とは何かを説明することは僕にはできない。MSSにおける事物レイヤーを説明する際には、ライオンを見るという体験により成立した事物を用いて説明せざるをえないし、MTSにおける体験レイヤーを説明するためには、ライオンという事物を見るという体験である、という述べ方で説明せざるをえない。

そのような説明が読者に伝わり、理解されたうえであれば、説明の際に用いた具体例は忘れ去られてもよいが、それでもなお、形式としてのMTSとMSSという二つの構造は残らざるをえない。

つまり、豊かな具体例を用いて説明可能な構造を成立させるためには、説明に用いられる材料を成立させるための構造Aと、それにより説明されるための構造Bという二つの構造が必要である。そして、MTSとMSSの場合には、互いが互いを説明するための材料を提供し、説明されるという相互依存の関係にあるのである。

この相互依存の問題を解決するために、時間も空間も拒否して、豊かな具体例を用いずに議論を進めるという道筋もありえるのかもしれない。

だけど僕は、相互依存の関係を生かして、MTSとMSSを並列し、相互依存的な議論を続けることで、内容豊かな議論を行う方向を選びたい。なぜなら、内容豊かな議論を行うことができるという点にこそ、平井のMTSの魅力があるように思うからだ。

(9)二種類の生物

ここで、MSSにおける最上位の第3層の生物レイヤーにおける生物に着目してみたい。下位にあたる第2層の事物レイヤーにおいては、他者としての事物と、他者以外の事物という区分がされたことを踏まえるならば、この第3層の生物レイヤーにおける生物とは、他者ではない生物、つまり私という生物のことになるはずだ。

つまり、MSSにおいては、第2層に位置付けられる他者という生物と、第3層に位置付けられる私という生物の二種類の生物が登場するのである。

しつこいけれど、これは自然主義的な拡張MTSの枠組みにおける議論だから、私という言葉を強調しても、今のところ、永井の独在論のような形而上学的な議論が入り込む余地はない。だが、それなのに、MSSは永井の独在論をうまく取り込むことができる、ということを、ここで指摘しておきたい。

MSSが永井の独在論を取り込むことができるのは、第3層の生物レイヤーには私という生物が位置付けられ、そして、第2層の事物レイヤーには他者という生物を位置づけられるからである。ここには、私という生物と他者という生物の位置付けの層的なズレがある。このズレが、永井の独在論における〈私〉の特別さをうまく表現しているのである。

私と他者は同じ構造のなかに描くことができるのに、私は頭一つ分、突出しているというズレである。

だが、当然、このズレが永井の独在論を生み出しているとは言えない。その話はこの後の形而上的拡張で行う。ここで言えるのは、MSSは永井の独在論と相性がよい、というところまでである。

また、同じようなことは、第3層に位置付けられる私という生物とは何かを、もう少し精緻に考えることでも導くことができる。

先ほど述べたとおり、私の身体や私の知覚は、第2層の事物レイヤー上の、他者ではない事物として位置づけることができる。よって、第3層に位置づけられる私という生物とは、私の身体でも、私の知覚の集積でもないものだということになる。

それは何なのだろうか。自然主義的世界観の領域に留まる限り、その何かを明確に指し示すことはできないけれど、少なくとも、それは、きっと質的なものであるはずであるということまでは言える。

なぜなら、最上位の第3層には、通常の意味での量的なものを位置づけることはできないからである。もし、最上層が複数あったら、その複数性を捉えるような更に上位の視点が必要となる。だから、MTSにおける最上層を占める人生も、MSSにおける最上層を占める私という生物も、それがすべてである、という点で最上層なのである。もし、第3層に位置付けられる私という生物が量的なものであったならば、第2層における事物レイヤー上の事物にとどまってしまうだろう。

そして、もうひとつの理由は、拡張MTSにおいては、凝縮が質を供給してくれるので、量ではない、質というものを取り扱うことができるからである。だから、拡張MTSとしてのMSSにおいては、私という生物の質こそが、第3層に位置付けられるはずなのである。

私という生物を質として捉えるというやり方は、量に頼らないという点で、永井の独在性と相性がよい。ただし、それ以上のことは、ここでは述べることはできない。

(10)生物個体間が共約可能であるということ

ところで、MTSには、導入部で述べたとおり、共約不可能性の問題がある。

共約不可能性には、ある生物個体内での共約不可能性と、生物個体間での共約不可能性の2種類がある。確かにMTSは人格レイヤーにより体験を統合的に把握することにより、前者の、ある生物個体の人生のなかでの体験・感覚の共約不可能性を解消する。だが、それぞれの生物個体が各自にMTSを持っていて、また、MTSより上位の構造はないことから、後者の生物個体間の体験・感覚の共約不可能性は、MTSでは解消できない。

そして、MTSにおいては、時間とは、体験・感覚における流れ・持続の時間クオリアだから、そこから、生物個体間における時間の共約不可能性まで導かれてしまう。

しかし、MTSにMSSを重ね書きすることにより、この共約不可能性は解消する。なぜなら、MSSにおいては、第3層の人格レイヤーに私という生物を位置付け、そして第2層の事物レイヤーに他者という生物を位置づけることができるからである。ひとつの図式のなかに、複数の生物を描き入れることができるということは、つまり、それらの生物同士は共約可能だということになる。

では、このMSS構造において、複数の生物が共約可能であるとは、具体的にはどのような事態を示しているのであろうか。

常識的に考えるならば、時間の流れのなかで、ある特定の時点を取り出すと、その時点には空間的な広がりがあり、そこに同時的に複数の生物が位置付けられるだろう。つまり、複数の生物は、同じ空間に、時間的に同時に存在するから共約可能だということになる。

だが、MTSにおいては、時間は流れない。時間が流れ、持続するように思えるのは、生物のトップダウンの力と物質のボトムアップの力が折り合い、感覚や体験の質として、時間が流れ、持続するというクオリアが生じるからにすぎない。時間が流れないMTSにおいては、同時であるということに常識的な意味を持たせることはできない。

また、同じことを別の言い方をするならば、同時であるためには、まず、時間を計測する必要があり、そのためには、時間を測られるものと、測るもの(時計)が同時に存在しなければならないという循環が生じてしまうから、同時性を導入することは不可能だと言ってもいいだろう。よって、同時性による説明はうまくいかない。

結局、このような説明がうまくいかないのは、同時性という言葉が具体的なイメージを喚起してしまっているからである。同時性という言葉が具体的なイメージを持ったとたん、それは、タイプ化された計測できる時間という、本来のMTSにおける時間の扱いから遠く離れたものが導入されてしまうのである。

だから、話を進めるためには具体的なイメージの喚起によらない説明をするしかない。

だが僕には、その他の説明の仕方としては、構造的な説明と、比喩的な説明くらいしか思いつかない。そのうち構造的な説明のほうは、すでにMTSとMSSを用いて説明してしまっているので、それ以上のことはできない。よって、残された方法である比喩的な説明を試みてみたい。

比喩的に述べるならば、複数の生物が共約可能であるとは、生物同士が距離ゼロで接しているということなのではないだろうか。当然、この距離とは、計測可能な空間的な距離ではなく、また時間的な距離でもない。時間も空間も含意せず、ただ接しているのである。

あえて価値判断を混入させて、私という生物と他者という生物とが接しているという事態を表現するならば、私と他者は寄り添っている(またはつきまとっている)と言うこともできるだろう。(当然、その他者が肯定的価値を有するなら寄り添っていて、否定的価値を有するならつきまとっているのである。)このような、心理的な距離のなさの表現は、計測可能な距離によるよりも、よりMTS/MSS本来の距離のなさをうまく表現しているように思う。

そして、この、寄り添う(つきまとう)という他者との関係性の表現こそが、他者という事物の質そのものであるようにも思える。

※僕は、昨年死んでしまったチーズというネコのことを以前、文章にも書いたけれど、僕とチーズとの関係性は、寄り添う、という言葉がふさわしいものだったと思う。そのこととMTSとをつなげたくて、この文章を書いているという側面もある。

(11)おまけ:基盤となる物質

この章の最後に、MTSを拡張してMSSを導入することの意義をひとつ指摘しておきたい。物質とはなにか、という問題を考える上でも、さきほどから論じている、MTSとMSSの相互依存性を念頭に、MTSとMSSの双方向から攻めることは有効と思えるのだ。

第1層の感覚レイヤーにおいては、MTSによる時間的な凝縮とともに、MSSによる空間的な凝縮も生じている。そして、そのことがMTSとMSSに共通する第0層の物質レイヤーにおける物質のあり方も規定する。

MTSにおける時間的な凝縮の描写に適している物質のあり方は、たとえば電磁波というあり方である。なぜなら多数の電磁波の波動という量の凝縮として、時間的な凝縮を描写することができるからだ。一方で、MSSにおける空間的な凝縮の描写に適しているのは、たとえば原子というあり方である。なぜなら多数の原子の量の凝縮として、空間的な凝縮を描写できるからだ。

だが、場面によって、時間的な凝縮に適した物質の描写と空間的な凝縮に適した物質の描写を使い分けるというのは、最も基盤となる物質レイヤーを描写するうえでは作為的で不適切なやり方のように思える。それならば、基盤としての物質レイヤーを構成する物質とは、時間的な量を持ち、かつ空間的な量を持つようなものとして描写されなければならないのではないだろうか。

僕は物理学は全くよくわからないけれど、MTSにMSSを重ね書きすることにより、哲学の側から、拡張MTSという哲学理論を満たすために必要となる物質を規定し、予言のようにして、物理学のあるべき姿を示すことができるというのは意義があることのように思える。

※平井は、点画を例として、色斑点のモザイクの集合体が風景画として立ち上がるような、空間的な凝縮について指摘したうえで、空間的な凝縮に先行して、ドットとしての色の感覚を成立させるような時間的な凝縮があるとしている。

これに対して僕は、第1層の感覚レイヤーにおいても、第2層の事物(体験)レイヤーにおいても、時間的凝縮と、空間的凝縮が相互依存的に生じていると考えている。特に、事物(体験)レイヤーにおいては、MSSにおける点画が風景画として立ち上がるような空間的な凝縮と、MTSにおける風景画を見るという体験としての時間的凝縮とが相互依存的に生じていると考えることができる。

※僕は、物質レイヤーにおける物質とは、物質そのものではなく、MTS/MSSに適合した「物質の描写の仕方」が表されたものであると考えている。では、物質そのものとは何か、という問題が残るが、それは形而上的拡張により論ずべき問題である。

4 形而上的領域への拡張

ここまで色々と述べてきたが、とにかくMTSはすばらしい。MTSは、自然主義的世界観を採用した場合に僕が思いつく大問題、つまり意識、クオリア、記憶、時制といった問題をほぼすべて、自然主義の枠組みのなかで、魔法を用いずに解決してしまう。自然主義的世界観とは、つまり常識的な世界観だから、常識的な世界に生きている人ならば、このMTSを採用することで、ほぼすべての哲学的問題を解決することができるとさえ思える。

だが、MTSのすばらしさは、そのことに留まらない。僕は自然主義的世界観には満足できないタイプの人間なのだけど、そんな人間でも、自然主義的世界観を離れてもなお、MTSのすばらしさを堪能できるのである。自然主義的世界観が成立する領域を自然領域と呼ぶならば、僕が問題とする領域は形而上的領域と呼ぶことができるだろう。この形而上的領域においても、MTSは有効に「使える」のだ。

そんなことをこれから論じていきたい。

(1)形而上的領域へのいざない

ア 想像と思考

まずは、自然主義的世界観に支えられた拡張MTS(以下、この章では、MTSにMSSを加えたものを拡張MTSとする。)の限界を探っていきたい。

ここまで、僕は様々なものを広義の知覚機能であると捉えることにより、拡張MTSの議論に取り込んできた。

まずは、ベースとして、誰も疑問を感じないような、典型的な知覚機能があるだろう。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感である。これらは、現在における物質を直接的に体験し、事物として把握できるという意味で、最も人間が得意とする知覚機能である。(完全な直接的把握ではないことには留意しつつも。)

そして、僕はそれらの典型的な知覚機能に加え、過去の想起、未来の予期も知覚機能であるとした。きっと、過去の想起については、記憶というかたちで、いわゆる体験の質が伴っているという点で、知覚機能として扱いやすいけれど、僕は、未来の予期についても、偶然的な能力上の違いしかないから同列に扱うことができる、と考えている。

更には、他者を問題とする際に、想像という知覚機能も導入した。他者の痛みは直接は感じられないけれど、想像はできる。想像によりある程度は他者の痛みを把握できるから、これも知覚機能のひとつなのである。

僕が、これまで広義の知覚機能に含めてきたのはおよそこのようなものである。

この節では、この中でも想像という知覚機能に着目したい。

ここまで、想像とは、他者を想像するという文脈で用いてきたけれど、想像という知覚機能が持つ力はこれにはとどまらない。

例えば、想像は、反実仮想のような場面でも用いられる。今、僕は日本にある自分の部屋にいるけれど、もし、タイのビーチにいたら、という状況を想像し、状況をある程度までは把握することもできる。日が照って暑いんだろうなあ、というように。

また、想像により、僕が生まれる前の遠い昔や、僕が死んだ後の遠い未来を想像することもできる。恐竜が大地を歩いている場面や、地球が赤色巨星となった太陽に飲み込まれる場面を具体的に想像し、その怖さや凄さを思い浮かべることができる。

そんなとき、拡張MTS的に述べるならば、僕の想像しようとするトップダウンの力は、可能世界や、遠い過去や遠い未来の物質からのボトムアップの力と出会い、折り合っていることになる。

当然、そんなことは直接的にはできないから、そこでは、トークンのタイプ化という人間特有の能力が最大限に発揮され、完全に間接的なかたちでボトムアップの力の擬制が行われていることになる。僕が想像するとき、僕は、ボトムアップの力と折り合っていることに「なっている」のである。

プロジェクションマッピングの比喩を用いるならば、想像という知覚機能とは、スクリーン代わりの壁すらないところに、ホログラムのように、すべてを映し出すような機能であると言ってもいいだろう。これを成し遂げてしまうのが、人間のタイプ化能力のすごいところである。

僕は、ここから形而上的な領域に議論を移したいと思っているけれど、第一の関門は、この「想像」という働きを知覚機能として認めるかどうか、というところにあるだろう。

多分、ここには明確な正解はなく、答えは、読者の方々の問題意識のなかにしかないのだろう。平井のMTSの素晴らしさは、この関門を越えると決めても、越えないと決めても、どちらにせよMTSを楽しめるというところにある。だから、どちらを選んでも大差はないのである。

だが第一の関門を越えると決め、先に進んでも、縦横無尽に力を発揮した想像という知覚機能の力も、やがて限界が見えてくる。なぜなら、想像は、想像もつかないものは取り扱うことができないからだ。

例えば僕は、ビッグバン以前の宇宙を想像できない。僕は、5次元の世界も想像できない。また、僕は、死後の世界も想像できない。それらはすべて、僕にとっては想像もつかないないものである。

だから、それらは、僕の拡張MTSの第2層において、具体的なかたちで体験/事物をかたちづくることはない。

恐竜や赤色巨星であれば、ハリウッド映画かなにかで培った陳腐なタイプの切り貼りかもしれないけれど、ある程度は現実に即していると思えるイメージをかたちづくることができる。これが想像できるということである。

一方で、ビッグバン以前の宇宙や、5次元の世界や、死後の世界についてもSFXを駆使してそれなりのイメージを持つことはできるだろうが、それが現実に即しているとは全く思えない。(もし思える方がいたら、例が悪かったので、ご自身が思えない例を念頭に置いて読んでください。)これが想像できないということである。

※ ビッグバン以前を知覚機能により把握することの不可能性は、星とは天空に穿たれた穴から差し込まれる光だと思っている古代の超能力者は、星の内部構造を透視できないのと同じことである。

もしかしたら、その古代人は、星の内部構造の透視に成功するかもしれないが、それが星の内部構造であるとは知ることができないのである。

他にも、想像できないものはあるだろう。例えば、平和や、平等といった抽象的な概念である。ハトが平和を象徴したり、皆が仲良く肩を組んでいる情景が平等を表しているようにも思えるけれど、それは、平和や平等そのものを想像し、具体化したものではない。

また、数学や論理も想像できないものだろう。二個のリンゴは想像できても、2という数自体は想像することができないからである。

ここにあるのは、人間が有するタイプ化能力の限界であるとも言える。死後の世界などは、いくらでもタイプ化能力によりイメージをふくらませることはできるけれど、それが実際のものに似ても似つかないものだということ(または似ているかどうかすらわかるはずがないこと)を知ってしまっている。また、平和概念や2という数などについては、そもそもタイプ化を許さないのである。

だが、タイプ化し、豊かなイメージを付与できないからといって、全く考えられない訳ではない。僕たちは、死後の世界や、平和概念や、2という数を(今実際やっているように)取り扱うことができる。

そして、扱うことができる、ということを知覚機能の働きであると考えるならば、これは、思考という知覚機能だと言えるのではないか、というのが僕の提案である。

当然、死後の世界も、平和概念も、2という数も、拡張MTS上の体験/事物レイヤーに位置づけることはできない。なぜなら、思考により把握しようとするトップダウンの力は、間接的にすら、物質のボトムアップの力とは折り合っていないからである。だから、そこには具体的なイメージがないのである。つまり思考においてはタイプ化によるプロジェクションマッピング機能が働いていないのである。

だから、思考を知覚機能のひとつであると考えるためには、自然主義的世界観に基づく拡張MTSから離れ、更に、形而上的領域へと拡張していかなければならない。

具体的なトップダウンの力とボトムアップの力の折り合いが生じない場面においても、なお、思考により抽象的な折り合いが生じ、抽象的な体験/事物が抽象的な体験/事物レイヤーに位置づけられると考えるのである。そして、それだけを手がかりに、形而上的領域へと議論を進めるのである。

これを認めるかどうかが、形而上的領域への第二の関門である。

ウ 共約不可能性

そうまでして、自然領域から形而上的領域に踏み出そうとする動機は、依然として、共約不可能性の問題には、解決すべき問題が残っていると考えるからである。

さきほどは確かに、時間論であるMTSにおいて、人生レイヤーの下に諸体験を位置づけることで、ある生物個体における複数の体験を共約可能なものとし、また、空間論(または人称論)であるMSSにおいて、私という生物と他者という生物を同じ図式のなかに描くことにより、複数の生物個体間の諸体験を共約可能なものとした。

だが、MSSの図式のなかに生物を書き込む際には、私という生物だけが第3層の生物レイヤーに位置付けられ、他者という生物は第2層の事物レイヤーに書き込まれるというズレが何故か生じてしまうという問題が残ってしまうのである。

なお、MTSにおいては同様の問題は生じない。確かに、MTSにおいても、第3層には、この人生としての現在があり、そして、第2層には、それぞれの体験における現在がある、というように二つの現在を見出すことができる。だが、MTSにおいては、第3層の現在とは、つまり未完了相としての現在であるが、一方の第2層の現在とはアオリスト相としての現在であり、両者はアスペクトが異なるという区分ができる。だから、MTSにおいては同じものが別のところに位置付けられるという問題は生じないのである。

だが、MSSにおける、私という生物と、他者という生物は、全く同じ生物でなければならない。なぜなら、拡張MTSは、物質があり生物がいるという常識的な自然主義的世界観を出発地点にしているからである。常識的な自然主義的世界観に基づくならば、私という生物だけは特別である、と考えることはできない。

だから、MSSにおいて、他の生物は第2層に位置づける一方で、私という生物だけを第3層に位置づけることを正当化するためには、常識的な自然主義的世界観を離れ、形而上的領域に議論を進めなければならないのである。

(2)永井の独在論との接続

ここからは形而上的な話をしていきたい。

※ だから、ここからは、思考という知覚機能だけを頼りに話を進めることになるので、具体的なイメージに基づく議論はできないことになる。ただ、それでは議論が窮屈になってしまうので、とりあえずは具体的なイメージも用いて議論を進め、理解されたうえで、そのイメージを取り除く、というやり方をとるしかないだろう。

では、MSSにおける私という生物と他者という生物の違いの問題について考えてみよう。

この問題とは、つまり、私という生物と他者という生物との間には、MSS上のレイヤーの違いがあるという拡張MTSの構造上の正しさを認めつつ、かつ、それでも同じ生物なのだから、そのような違いがあってはならない、という二つの要請を同時に満たさなければならない、という問題である。

このような矛盾を都合よく解消できるようなアイディアなどない、と言いたいところだけど、簡単に見つけることができる。それは、永井の独在論である。

永井の独在論は有名だし、僕の文章でも何度も取り上げているから説明を省くけれど、永井の独在論ならば、私の特別でなさと私の特別さを同時に説明することができる。

永井の独在論を最もよく説明するのが、私と他者(あなた/彼・彼女)との累進構造だろう。

この累進構造というアイディアと拡張MTSの相性は非常によく、MSSとは、ある側面では、この累進構造の一部を切り取ったものであるとさえ言えるほどだ。私という生物が上位にあり、下位に他者ではない事物(=私)と他者という事物(=他者)を位置付けた構造である。(独在論に引き寄せるならば、MSSの第2層の事物レイヤーにおいては、他者としての事物だけは私からの把握を免れようとするから、それは特に他者としての事物と呼ばれるのである。だから逆に言うならば、他者ではない事物とは、つまり私における事物であるとも言ってもいいことになる。)

永井によれば、このMSSの構造が更に累進するところにこそ独在論の真骨頂があるのだけど、MSSは累進の手前の出発地点を描いているとも言えるのだ。

なお、MSSにMTSを加えた拡張MTSならば、永井の累進構造の累進性を捉えている、と考えることもできる。

まず、私という生物だけが突出しているMSSに対して、MTSにおいては個々の生物が最上位にあり、いわば全ての生物が対等であると考えることができる。そこから、MSSとMTSを重ね書きしたものとしての拡張MTSとは、つまり、私の特別さを捉えたMSSと、私の特別さを否定したMTSという二つの構造を併置したものであり、その併置された二つの構造の往復運動により、永井の独在性の累進性をとらえることに成功している、と解釈することもできるのである。

MSSによる私の突出と、MTSによる私の回収という往復運動である。

このように、平井のMTSは、空間(人称)的に拡張して拡張MTSとすることで、永井の独在論をもその圏内に捉えることができるポテンシャルを有しているのだ。平井は徹頭徹尾、自然主義的な議論をしていたはずなのに、実は永井の独在論をも捉えることができるのである。これは結構すごいことだと思う。

※このことを書きたくて、前章で僕は、長々とMSSを導入してきたとも言える。だから、MSSによる空間的拡張とは、実は人称的拡張である。

(3)独在論側からの反論

だが、独在論側からは、拡張MTSは独在論が含意することを十二分に捉えられていないという反論があるだろう。

なぜなら、拡張MTSにおける最上位の人格/生物レイヤーとは、あくまでレイヤーだからである。レイヤーがレイヤーとして成立するためには、そのレイヤー特有の内容を持っていなければならない。MTSならば、その生物における人生であり、MSSならば、私という生物であるという確かな内容がそこにはある。だが、独在論における独在性とは無内包である。拡張MTSにおける最上位に具体的な内容を持つレイヤーが位置付けられる限り、拡張MTSは無内包としての独在性を捉えることはできていない。

同じことを拡張MTSの内部で述べることもできる。第1層の感覚レイヤーも、第2層の体験/事物レイヤーも、それは、物質からのボトムアップの力と、生物のトップダウンの力との折り合いにより生じるものであった。それならば、第3層の人格/生物レイヤーについても、より上方からのトップダウンの力とボトムアップの力との折り合いで生じている、と考えるべきではないのか。

つまり、人格/生物レイヤーのさらに上からのトップダウンの力と、ボトムアップの力が人格/生物レイヤーにおいて出会い、個々の生物の人生や、私という生物として現象している、という捉え方をすべきだということである。

考えてみれば、個体としての生物がトップダウンの力の源泉であると考えたのは、MTSが自然主義的世界観を採用し、生物と物質があるという常識を前提としたからである。

だが、もし、そのような世界観を脱し、形而上的領域に議論を移したならば、トップダウンの力を個体としての生物由来のものであると捉える必然性はなくなる。実は、より上位にトップダウンの力の源泉はある。それこそが独在性なのである。

ただし、独在性には、トップダウンの力を生み出すような能力はないだろう。なぜなら無内包だからである。だから無内包性を強調し、あえて言うならば、独在性には、この拡張MTSの図式の上方に逃げ去ろうとする力が働いているとさえ言うこともできる。なぜなら、図式に描かれるということはつまり内包を持ってしまうということであり、それならば、独在性は、どこまでも図式の外になければならないからである。そして、拡張MTSにおいては上方に生物、下方に物質が位置付けられるから、独在性が拡張MTSという図式としての把握から逃げるならば上方である、ということになる。

(4)入不二の潜在性との接続

では、独在性がトップダウンの力を持たないのに、どうやって生物がトップダウンの力を持つようになったのだろうか。だが、その話をする前に、別の話をしたい。

なぜなら、拡張MTSにおける最上位の人格/生物レイヤーに問題があったのと同様に、最下層レイヤーである物質レイヤーにも、それがレイヤーであることに由来するもうひとつの問題があることを指摘したいからだ。

ここまで論ずる中でも、物質レイヤーにおける物質とは何か、という問題については注意して論じてきたつもりである。電磁波や原子といったものが常識的には物質の候補となるけれど、どうもそこには具体的なイメージを喚起するための方便が含まれている。少なくとも、MTSとMSSを同時に満たすためには、時間的な凝縮と空間的な凝縮の双方が同時に可能となるような物質が最も基礎的な物質でなければならないが、そのような物質を僕は知らないし、そのような基礎的な物質に基づく大統一理論など物理学的にありえないように思える。そのような問題を匂わせつつ議論をしてきたつもりである。

だから、物質レイヤーについても、感覚レイヤー、事物/体験レイヤー、人格/生物レイヤーと同様に、より下方からのボトムアップの力とトップダウンの力の折り合いにより生じるものだと考えるのが妥当ではないだろうか。

つまり、第3層より更に上からのトップダウンの力と第0層よりも更に下からのボトムアップの力が第0層の物質レイヤーで折り合い、現象するのが、電磁波であり原子なのである。そのように考えるならば、全く種類の異なる物質が同じ物質レイヤーに位置付けられることの疑問も解消する。

では、ボトムアップの力の源泉は何かという問題が生じるけれど、それこそが、入不二の潜在性であると僕は考える。なお、入不二の潜在性は永井の独在性ほどには有名ではないかもしれないけれど、僕の文章では何度も登場しているので、ここでは説明を省略する。

※とは言いつつ、一応、入不二の現実論を僕なりに簡単に述べておく。入不二の現実論は、力としての現実性と、マテリアルとしての潜在性の二元論である。

入不二の現実論は、具体的な認識を成立の根拠としないという意味で、非認識論的で形而上学的な議論である。だから、現実性も潜在性も具体的な認識内容では描写できないし、制限も加えられないという意味で、どちらも無内包である。だけど、その意味合いは違っていて、現実性は内包と無関係であるという意味で無内包であり、潜在性は内包に無限に満ちているという意味で無内包である。

だから、マテリアルとしての無限内包の潜在性こそが、すべての存在の素材となる。潜在性を素材として、それが実体化するから、何かが存在するのである。そして、その潜在性が実体化する力を与えるのが力としての現実性である。

ただし、留意するべきなのは、現実性の力が発現する場面はこの実体化の場面に限定されないということである。現実性の力は遍在しており、実体化するならば、そこに現実性の力があるのと同様に、実体化しないならば、そこに現実性の力があるのである。そのような意味で現実性はすべての内包と無関係なのである。

さて、拡張MTSと入不二の潜在性を接続するならば、拡張MTSにおける第0層の更に下にマテリアルとしての潜在性があることになる。そこを源泉としてボトムアップの力が生じ、その力とトップダウンの力が出会うことで第0層の物質レイヤーにおいて、電磁波や原子といったかたちで物質が現象するのである。

ただし、ここでも問題となるのは、無内包である入不二の潜在性にはそのようなボトムアップの力を生む能力はないということである。潜在性とは、その名のとおり、どこまでも潜在していく性質を持っている。性質と言うとそのような内包を持っていることになってしまうので、より正確に言うならば、潜在性は、無内包であるからこそ、MTSのような構造に把握されることから、どこまでも逃れようとする。そして、永井の独在性がMTSの図式の上方に逃れようとするように、入不二の潜在性はMTSの図式の下方にどこまでも逃れてしまうのである。

あえて、どこまでも逃れる独在性と潜在性を図のなかに書き込むならばこのようになるだろう。

(5)入不二の現実性の導入

問題は、ボトムアップの力とトップダウンの力がどのようにして生じるかである。無内包である独在性には物質と知覚し、捉えようとする力はなく、無内包である潜在性には生物において現象しようとする力はない。それなのに、独在性の領域を源泉とするトップダウンの力と、潜在性の領域を源泉とするボトムアップの力が折り合うことにより、すべてが生じるのである。この二つの力の折り合いにより、第1層の感覚レイヤー、第2層の事物/体験レイヤーのみならず、第0層の物質レイヤーと第3層の生物/人格レイヤーも含めたすべて、つまり拡張MTSの構造のすべてが生じるのである。

僕は、この力は、入不二の現実性の力に由来していると考える。なぜならば、入不二によれば現実性の力は遍在しているからだ。遍在しているならば、現実性の力は、当然、トップダウンの力とボトムアップの力でもなければならないはずである。もし、トップダウンの力とボトムアップの力でないとしたら、そこで力の欠けが生じ、遍在していないことになってしまう。

だから、正確には、遍在する現実性の力は、この拡張MTSの図上を縦横無尽に働いていると考えるべきだろう。そのうち、トップダウンの力とボトムアップの力のみに着目したときにだけ、きれいに拡張MTSの構造が描かれるにすぎないのである。

(6)脱中和と再中和

だが、ここでここまでの拡張MTSを巡る議論のなかでも最大の疑問が生じる。なぜ、遍在する現実性の力のうち、あえて、トップダウンの力とボトムアップの力のみを用いて拡張MTSという構造を描いたのか、という問題である。

僕はその答えのヒントは、『できている』での平井の言葉のなかに隠されていると思う。平井は中和・脱中和について次のように述べる。

物質システムは時間的につぶれた瞬間的相互作用の総体である。そこでは常に相互作用は一つの瞬間の中では中和・相殺されている。意識とは、そこから一部のローカルな相互作用が遅延することにより、この中和・相殺が解除されることの効果である。(p.277)

平井のMTSも、それを拡張した拡張MTSも、徹頭徹尾、物質としての生物と物質を前提とした自然主義的世界観に基づいているから、ここでの物質システムとは、MTSの一部としての物質レイヤーのみを指すに留まらず、拡張MTS構造が成立する背景も含めた全体のことであると考えることができるだろう。

※平井のこの言葉は、僕の図式に当てはめると、物質レイヤーから、感覚レイヤー、体験レイヤーへと向かうボトムアップの力を説明する場面でのものだが、僕は、この言葉を拡張MTS全体についての言葉として読み替えている。

そのうえで、それらはすべて、瞬間的相互作用の総体であり、その瞬間的相互作用は常に中和されているのである。先ほど用いた例だが、湖の水の分子は、実は常温であっても熱運動により四方八方に飛び回っているように、物質は、あらゆる方向に力を発揮しようとしながら、それが他の物質の力と相互にぶつかり合い、打ち消し合うことによって、相殺され、全体としては、あたかも静的な湖面であるように中和されているのである。

この、熱運動にも喩えられる、あらゆる方向に発揮されようとして、ぶつかり合い、打ち消し合っている力こそが入不二の現実性の力なのではないだろうか。

そして、物質のなかに、生命という物質が生まれることにより均衡がくずれ、湖面が荒れる。これが脱中和である。この脱中和を象徴的に示すものが、永井の独在性である。

だが、脱中和により生じた不均衡は一時的なものである。現実性の力は遍在し、あらゆる方向に働いているから、現実性の力により、崩れた均衡はやがて回復されていくのである。つまり再中和していく。これは、大量のサイコロを振り続けるような状況を想像すればいいだろう。たまたま6が連続で出ることはあっても、何度も振るうちに大数の法則により、出目の平均は3.5に収斂していくようなかたちで、縦横無尽の現実性の力が、全体的な傾向として、不均衡を均していくのである。

このとき、現実性の力には、あたかも生命の出現により乱れた湖面を収斂して再中和しようとする方向づけがあるように見えるはずだ。これこそがボトムアップの力とトップダウンの力という二つの力の正体なのではないだろうか。

確認のため、このプロセスを拡張MTSを用いて言い直してみよう。

まず、生命が出現する前には、MTSもMSSもない。そこにあるのは、入不二の潜在性だけであり、それは図の最下部にとりあえず描かれる。(無内包なので本来描かれれるべきでないから「とりあえず」である。)

そこに、生命が出現する。それを象徴的に示すのが、永井の独在性である。それは図の最上部にとりあえず描かれる。(無内包なので本来描かれれるべきでないから「とりあえず」である。)

そして、遍在する現実性の力の、不均衡を均そうとする働きによって、潜在性と独在性の間に引き寄せようとする力が生じる。ボトムアップの力とトップダウンの力である。潜在性を地面、独在性をリンゴに喩え、両者の間に引力が働くとイメージしてもいいだろう。

この二つの力の折り合いにより、最下層には非生物としての物質が位置付けられ、そして最上層には、物質としての生物が位置付けられる。

ようやくここまで舞台が整ってから、自然主義的な議論として拡張MTSの議論を始めることができる。

そこからは、何度も繰り返してきた説明のとおりであり、ボトムアップの力とトップダウンの力の折り合いにより4層構造が出現し、その過程でクオリアのような質も生じる。

重要なのは、この拡張MTSの構造は、脱中和された生命が、遍在する現実性の力により収斂して再中和するプロセスのなかで描かれるということである。だから、やがて拡張MTSの構造は潰れ、再中和され、生命の突出は均されていくのである。それらのこと、すべて込みで、平井の言葉を用いるならば、物質システムの相互作用なのである。

だから、MTSの第1層における感覚や、第2層における体験、つまり意識やクオリアと呼ばれるものは、生命として脱中和された物質が、相互作用により再中和する過程において生じる副産物であると言ってもいいだろう。

また、だからこそ、意識やクオリアは物質的に無寄与なのであるとも言えるだろう。僕が見る光が赤いということは、この世界の物質的なあり方とは全く関係がない。しかし、平井がMTSで描いたとおり、それはクオリアが物質的ではないということではない。脱中和により生じた生命という物質の余剰としての力が、クオリアという無寄与な力に変換されることにより、余剰が消費され、やがて脱中和は再中和される。MTSはそのような物質のあり方をも表現しているのではないだろうか。

※僕は、物質システム全体において、あらゆる方向に発揮されようとして、ぶつかり合い、打ち消し合っている力こそが入不二の現実性の力であるとした。

それでもここでの説明で用いる限りは問題ないのだけど、正確には、現実性の力はぶつかり合い、打ち消すというような固有の働きはないだろう。なぜなら、無内包だからである。現実性の力はただ飽和しているだけで、それが打ち消し合っているように見えるだけに過ぎない、と言ったほうが正確だろう。

また、僕は現実性の力が働く物質についても、それを水分子のような分割可能なもののように描写したけれど、入不二の潜在性を踏まえるならば、正確には、そのような捉え方をも免れるような、潜在したマテリアルである、としたほうが正しい描写になるだろう。

(7)MTSの物質性

この章では、形而上的拡張として、おおまかには、拡張MTSの最上層の生物/人格レイヤーの上に永井の独在論を継ぎ足し、そして、最下層の物質レイヤーの下に入不二の潜在性を継ぎ足し、そして、MTSをつくりあげる力の源泉は入不二の現実性であると見做す、という作業を行ってきた。

これはMTSの側からすると、自然主義的なMTSの議論が形而上学に侵食されてしまったように見えるかもしれない。だが、そうとも言い切れない。なぜなら、MTSには、物質レイヤーを担うのは物質であり、人格レイヤーを担うのも物質的な生命であり、結局はすべてが物質である、という物質システムとしての基盤の頑強さがあるからである。

すべてを物質システムの相互作用として説明し、そこに魔法のようなものの介在を許さなかったことがMTSの魅力であり、強さなのである。

当然、形而上的な領域に議論は移ることで、具体的なイメージを喚起するような説明はできなくなる。だから、一見すると、知覚により検証不可能な魔法のような概念が登場しているように見えるかもしれない。だが、あくまで物質システムであるMTSの拡張作業の一環で形而上学的な概念を導入しているだけなので、それらの概念に魔法のような力が宿っている訳ではない。だから、永井や入不二がどのように考えているかは別として、この文章で用いる限りは、永井の独在性も、入不二の潜在性/現実性も、すべて物質のある側面を表現したものであり、それ以上の魔法のような含意はないのである。

だから、もし、僕が行った形而上的拡張により、MTSが永井や入不二の哲学に侵食されたように見えたとしても、あえて言うならば、それと同時に、MTSは、逆に、永井や入不二の形而上学を侵食してもいると言えなくもない。なぜなら、MTSの形而上的拡張により継ぎ足された独在性、潜在性、現実性とは、永井や入不二自身の議論そのものではなく、物質的に解釈された独在論・現実論でなければならないからである。この議論の変質こそが、MTSからの侵食の痕跡である。

ただし、このMTSの側からの侵食、つまり、永井や入不二が発明した概念の物質化は、それほど、彼らの議論に影響を与えないようにも思える。

まず、入不二の潜在性はそもそも、マテリアルとしての側面が強調されており、もともとが物質的であったと言える。

また、永井の独在性についても、永井は、物質世界に対する精神世界のような隔絶した場所に独在性を位置付けようとはしていない。あくまで、物質があり、物質としての生物たちが存在しているこの常識的な世界において、なぜかある特定の物質としての生物だけが独在的な私であるということを独在性の議論の出発地点としている。それは極めて物質的な描写であると言っていいだろう。

ただし、入不二の現実性だけは、現実性の力の遍在性が物質システムという限定を拒否することになるだろう。なぜなら、物質システムであろうが、なかろうが、遍在的に現実性の力は及ぶからである。その点にだけ片目をつぶるならば、永井の独在論も入不二の現実論も、物質化とは相性がよいように僕には思える。

つまり、潜在性と独在性は物質が有する特性の一側面であり、そして現実性の力とは物質に働く力なのである。(現実性の力は、非物質にも遍く働く力でもあるのだけど。)

(8)粘土のようにこね回す

そして、独在性、潜在性、現実性を物質化することにより、とっつきにくかった形而上的領域の議論が親しみやすいものになる。喩えるならば、物質であるということを「つなぎ」として、ハンバーグか粘土のように形而上的領域の議論をこね回すことができるようになるのである。これは形而上的物質による粘土遊びである。

僕はここで、その形而上的粘土で、今まさにブレイクしようとする波を作ってみたい。

そのうえで、その波の先端に永井の独在性を位置づけてみる。物質という粘土で作った波だから、どこまでも物質の独在性である。そして、その波がまさに打ち付けようとする水面を入不二の潜在性とする。これも当然、物質の潜在性である。なお、入不二の現実性は、この粘土のどこにも登場しないけれど、形而上的物質を粘土のようにこね回して、どんなかたちにでもできるという自由自在性こそが、入不二の現実性である、というかたちで位置づけることができる。

パソコンのトラックボールで書いたのでうまくないけれど、そんな波の断面図を書いてみた。

すべては物質だから、こね回して、こんなものを作ることもできる。

なぜ、こんなものを作ったのかと言えば、このブレイクしようとする波の先端と、水面との間にこそ、拡張MTSが描かれると思うからである。物質としての波の先端と、物質としての水面との相互作用の力が拡張MTSにおけるボトムアップの力とトップダウンの力となり、そこに4層構造の拡張MTSが描かれるのである。

そして、重要なのは、なだらかな水面も、ブレイクしようとする波の先端も、水という物質であることには変わりないということである。どの部分も結局は物質だから、こね回してこんな美しいものを作ることができるのである。(僕の絵では美しさが伝わらないだろうから、ネットで検索して波の写真を見て想像してください。)

そして、こんなに美しい構造がつくりあげるものだから、MTSは美しく、頑強で、普遍的なのである。だから、MTSは、僕がこの文章で行ったような形而上的な遊戯にも耐えることができるのである。

※ここでブレイクしようとする波を用いているのは、入不二の『あるようにあり、なるようになる』の最終章(p.319)でビッグウェーブが登場するからでもある。

4 蛇足

ここまで僕は、MTSに対して、空間(人称)的拡張と形而上的拡張という2つの拡張を加えてきた。それは、僕の形而上的な問題を考える上では意義のある作業であったし、とにかく面白い作業であった。

だが、平井の議論は、そのような拡張をしなくても十分面白いし、むしろ、そのような拡張はしないほうが面白いようにも思う。特に、科学的な知見と、平井の議論がきれいに整合していく様は、読んでいてわくわくした。僕のような、それほど科学の話が好きではないタイプの人間でも、心動かされるような魅力が平井の議論にはある。だから、この文章で僕がやったことは、すべて蛇足であると言ってもいいかもしれない。

だけど、この蛇足に意味が全くない訳でもないと思う。あえて形而上的領域につなげても、そうせずに自然領域にとどまっても、いずれにしても、変わらずにその説得力を保持し続けるというMTSの力強さを表現できたと思うからである。

そして、このMTSの力強さは、何かしらの根源的な正しさに由来しているという予感が僕にはある。僕はこの文章でそんなことを表現したいと思ったのだ。