※2500字くらいです。書いていたら、今日のことが昨日のことになってしまいました。

今日、知人と哲学カフェっぽいことをした。

そのなかで、衰退する日本における、僕たちのような勝ち逃げ組と、もっと若い苦労してる組との間の世代間の分断をどう解消すべきか、という話になった。

そのとき、僕は、「僕たちのような勝ち逃げ組は、せっかく手に入れた優位性をもっと有効活用すべきで、そうすることが若い世代のためにもなる。」というような話をしたのだけど、うまく話せず、ちょっとモヤモヤしたので整理してみることにした。

僕の話に対して、若い世代の参加者?友人?からは、「そんなことをしても若い世代のためにはならない。」という真っ当な反論があった。確かにそうなのだけど、僕が言いたかったことはそういうことではないのだ。

振り返ってみると、そのとき僕が考えていたのは、プラトン的な「徳」のことだったのだろうと思う。

僕の怪しい理解によれば、古代ギリシャの哲学者であるプラトンは、人が生きるにあたっては、勇敢さや気前の良さのような性質を備えることが重要だと考えていた。そして、そのような良い性質、つまり徳を発揮することこそが、人が人生を生きるにあたっての指針であり、幸せであると考えていた。

そして、プラトンがどうして勇敢さや気前の良さを徳だと考えていたのかといえば、勇敢さとは、つまり、共同体(アテネ)を守る兵士としての勇敢さであり、気前の良さとは、つまり、共同体のために金銭的な奉仕をする気前の良さだからなのだろう。プラトンは、共同体のために尽くして生きることこそが、徳であり、人生を生きるにあたっての指針であり、幸せであると考えていたのだ。

僕は、プラトンのアイディアが完全に正しいとは思わない。だけど、そこには、ある一面の真理が含まれているとは思う。

素人の勝手な印象だけど、古今東西、うまくいっている社会というのは、共同体の構成員が、何かしら共同体に尽くすような価値観を共有しているように思える。戦前日本は天皇崇拝を使って国をまとめたし、産業革命以降の欧米は、禁欲と勤労を重視するプロテスタント的な価値観があったから成功した側面がある。

一方で、現代日本は、そのような強制された価値観がないという意味で自由ではあるけれど、それで社会がうまくいっているとは、とうてい思えない。徳の欠如は確かに共同体に悪影響を及ぼすのだ。

以上のことを踏まえるならば、さっきの僕は、より正確には、「僕たちのような勝ち逃げ組は、せっかく手に入れた徳を発揮する機会をもっと有効活用すべきで、そうすることが、この共同体のためになり、ひいては下の世代のためにもなる。」と言うべきだったことになる。

僕たち現代日本人は、もっと古代ギリシャに学ぶべきではないか。

これも素人の怪しい知識だけど、アテネは、自由民と奴隷の階層社会だった。だから、自由民には、兵士(重装歩兵)として勇敢さの徳を発揮し、また、財産を寄付して気前の良さを発揮する機会が与えられていた。もし、自由民が戦いで臆病になったり、財産に固執したりして、徳を発揮できなくても、それだけで罰せられはしないけれど、それは彼らにとっての恥だった。だから、自由民にとって、徳を発揮するかどうかは自由ではなく、発揮すべきものだった。一方で、奴隷は、徳を発揮する機会がない代わりに、徳を発揮しないことを恥と思う必要もない立場にあった。

そして多分、日本もアテネと同様に階層社会になりつつある。それならば、勝ち逃げできた僕たちの世代は、いわばアテネの自由民であり、もっと下の世代はいわば奴隷階級だ。自由民である僕たち世代は、もっと共同体のために尽くすべき義務があるのではないだろうか。

プラトン的な徳の代わりに現代日本に流布している価値観は「自由」だろう。「自由」とは心地良い言葉だけど、富める人にも貧しい人にも同じように「自由」が当てはまってしまい、そこにある格差を見えにくくしてしまうという問題がある。

僕にはこうして物事を考える自由な時間があるし、自由を発揮する精神的な余裕もあるし、それを自由に文章に仕立てる能力を身につけるための教育もあった。だけど、そのような時間も余裕も教育もない人に、自由にしていいんだよ、と言ってもできるわけがない。自由とは、本来、恵まれた人しか手に入れることができない、極めて不平等なものなのだ。

だから、自由には徳という制約を加えるべきだ。いや、より正確には、自由とは、本来、自由に徳を発揮するという自由でしかないのだ。

だから、当面、僕が現代日本人に提示する処方箋は、もっと古代ギリシャに学び、自由民と奴隷階級に近い格差がある現状を直視し、自由民ならば自由民らしく、自由に徳を発揮し、自由に共同体に奉仕すべきだ、ということになる。

今日の哲学カフェで、参加者?友人?のひとりの発言に、日本の政治家は、もっとノブレス・オブリージュを担うべき、という発言があった。ここまでの話を踏まえれば、これは、政治家に限定されず、僕たち日本人のひとりひとりに当てはめるべきことだということになる。

さて、偉そうなことばかり書いてきたけれど、じゃあ、お前はどうなんだ、という声が聞こえてくる気がする。僕を知っている人ならば、お前は、そんなに勇敢で、そんなに気前が良いのか、ときっと言うだろう。

まずは率直に、偉そうに言ったけれど、自分自身できてないことを認めたい。すみません。

だけど、言い訳がましく聞こえるかもしれないけれど、僕は、徳が大事だということまではプラトンに賛同するけれど、その具体例として、勇敢さや気前の良さを持ち出すことには同意できない。それでは、具体例として、優しさや勤勉さのようなものを挙げればいいのかというと、そうでもない。

僕は、徳について、なにか具体例を挙げることに賛同できないのだ。強いて言えば、当面、徳とは何なのかが明らかになるまでの間は、徳とは何なのかを探究することこそが徳なのだと言いたい。つまり(当面は)、徳について探究することこそが、人が人生を生きるにあたっての指針であり、幸せなのである。

だから、僕がこうして色々と考えて文章を書くという行為自体が、ある意味で、徳の発揮だと言えなくもない、ということになる。

なんだかずるい気もするけれど、半分本気で、僕はそう思っている。