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2種類のごちそうさま 10 まとめ

10 まとめ

ここまで述べてきたことの要点をまとめる。
冒頭からの感謝(非難)のあり方はどのようなものか、という問いの答えは、「能動的感謝(非難)」、「不完全な受動的感謝(非難)」、「潜在的な受動的感謝(非難)」という3段階に分けられるようなあり方をしている、というものである。
そして、その答えに至る流れは次のようなものであった。感謝(非難)には顕在化した感謝(非難)とは別に潜在的な感謝(非難)があると。これを受動的感謝(非難)と呼ぶ。
しかし、その潜在的な受動的感謝(非難)を具体的に説明しようとすると、それは不完全なものにならざるを得ない。これを不完全な受動的感謝(非難)と呼ぶ。一方で、その具体的な説明を打ち切ることが能動的感謝(非難)である。また、顕在化した感謝(非難) とは、不完全な受動的感謝(非難)と能動的感謝(非難)のことである。不完全な受動的感謝(非難)によっては説明できないところに本来の受動的感謝(非難)があるが、この段階においては、間接的にしか存在することがわからない。実際に感謝(非難)が意識されたことをもって、「意識する」という言葉の意味を手がかりに、間接的にでも潜在的な感謝(非難)があることがわからなければならない。これが、受動的感謝(非難)が存在するということだ。
この「実際に感謝が意識されたことをもって、間接的に潜在的な受動的感謝があることがわからなければならない。」という結論を逆手にとって用いた一つのアイディアが思いつく。「より多く、より強く、実際に非難よりも感謝が意識されたならば、その分よい状況になる。」というアイディアだ。
ここには多くの論理的な飛躍がある。まず「わかる」という認識論的な議論と「ある」という存在論的な議論とを混同している。「現に感謝があるとわかるから、受動的感謝もあるとわかる。」ということと、「現に感謝があるから、受動的感謝もある。」ということは違う。また、受動的感謝にプラスの価値があり、受動的非難にマイナスの価値があるということを勝手に決め付け、更に、単純な足し算、引き算を行い、プラスの価値が多くて強く、マイナスの価値が少なくて弱いほうがよい状況だ、ということが導けるということを勝手に決め付けている。
しかし、この混同と決め付けを受け入れられるならば、「より感謝することが望ましい。」という実際の生活に生かすこともできそうな結論を手に入れることができる。よって、なんとか、この混同と決め付けを受け入れる余地がないのか検討してみたい。
まず、「わかる」ことと「ある」ことの混同についてである。
まず、この混同の何が問題なのかを整理してみよう。より多く、現に顕在化した感謝があるならば、潜在的な受動的感謝のうち、間接的に把握できる部分、つまり「わかる」部分は多くなる。しかし、潜在的な受動的感謝自体が増えたかどうかはわからない。これが問題だ。それは、洞窟の天井を照らしてコウモリを観察しているときに、懐中電灯の明かりを強くし、視野を広げるのと似ている。照らされて確認できるコウモリの数は増えるが、洞窟に住んでいるコウモリの数は変わらない。いや、明かりを嫌がって逃げて洞窟内のコウモリの数は減ってしまうかもしれない。または、考えにくいが明かりに興味を示して隣の洞窟からコウモリが来て、洞窟内のコウモリの数は増えるかもしれない。「わかる」部分が増えても、「ある」ことには全く影響はないかもしれないし、仮に影響があったとしても、どういう影響があったかもわからないということだ。洞窟内に「ある」コウモリは、明かりに照らされている「あることがわかる」コウモリと、明かりに照らされていない「わからないがある」コウモリに二分できる。明かりを強くすると、「あることがわかる」コウモリは増えるが、明かりに照らされていない「わからないがある」コウモリにどのような影響があるかはわからない。よって「ある」コウモリの総量にもどのような影響があるかはわからない。
しかし、このことについては、「わからないがある」というものを考慮に入れても仕方ない、という割り切りをして混同を受け入れるしかないのではないか。
ここでの議論は、実際の生活に活かすための議論、つまり、知識についての議論ではなく、知識の活用についての議論であると限定するならば、活用の場面では、活用できない「わからないがある」ものについては考慮せず、活用できる「あることがわかる」ものに焦点をしぼり、活用できるもののみを考慮することに問題はないのではないだろうか。
「わからないがある」コウモリを切り捨てれば、「ある」コウモリと「あることがわかる」コウモリは等しくなる。つまり、「わかる」ことと「ある」ことの混同は解消される。
言い換えれば、存在論と認識論のギャップを無視し、存在論を切り捨て、認識論のみで存在を捉えようとすることで混同を解消することができるということだ。
このようにして、潜在的な受動的感謝自体を切り捨て、受動的感謝が間接的に表出したものとして顕在化し「感謝が現にあるということ」のみを考慮することができる。
次に、価値についての決め付けであるが、受動的感謝は肯定的で、受動的非難は否定的だということまでは問題がないだろう。その区分がなければ、これまで、感謝と非難という対比をしていたことまでがおかしくなってしまう。問題はその先で、この肯定的な何かと否定的な何かを価値という同じ土俵に乗せ、多いとか少ないとか、強いとか弱いとかといった比較ができるということの飛躍である。
この飛躍は、肯定的な何かと否定的な何かを、それぞれ、受動的感謝、受動的非難と名付けたこと、更には感謝、非難と名付けたことで既に始まっている。洋服を買ったときの感謝、食事を食べたときの感謝、といったものを同じ感謝という言葉でくくり、更には昨日の食事への感謝と今日の食事への感謝を同じ感謝という言葉でくくっているということは、既に、それぞれの感謝は同質な部分があるということを認めている。つまりは同じ土俵にあるということを認めている。そして、同じ感謝なのだから、1回の感謝よりも2回の感謝のほうが感謝は多い、というような比較を可能としている。
また、感謝と非難を対比するものとして導入したことで、感謝をプラスとするなら、非難をマイナスとする、というような比較も可能としている。感謝と非難を同じ土俵に乗せ、肯定的なものが多く、否定的なものが少ないほうが良い状況だ、という分析を可能にしている。つまり、これまで述べたような意味で感謝、非難という言葉を用いるならば、この決め付けは受け入れざるを得ないということだ。
このように、この議論を知識の活用についてのものであると限定し、また、感謝、非難という言葉が導入されたことをもって、混同と決め付けの問題が解消されたものとして、「より多く、より強く、実際に非難よりも感謝が意識されたならば、その分よい状況になる。」という結論を受け入れてみることにしよう。そうすると、色々なことが言える。
まず、よりよい状況にするためには、より多く、より強く、実際に感謝が意識されるようにすればいいのだから、より感謝の機会があり、より強く感謝を意識すればよいということが言える。
具体的に、感謝を意識できる機会としては、例えば、商取引の機会がある。商取引の機会を増やせば、より感謝の機会が増え、よりよい状況になるということだ。また、商取引以外でも、家族関係、友人関係といった感謝の機会を増やすことでもよい。これは、労働は美徳であるということにも通じる。労働は商取引で交換をされるモノであり、労働が増えるほど商取引が増えるということだから、労働は望ましいということである。また、商取引が契約としての双方向のものか贈与のような一方向のものかどうかはどちらでもいい。
贈与を受けたことに感謝をし、贈与できたことに感謝をするならば、両者に感謝があるということであり、双方向の契約の場合と何ら変わりはない。他者との関係が生じているということが重要であり、その関係の原因が、商取引によるものか家族関係によるものか、ということに本質的な違いはない。
そして、強く感謝を意識するとはどういうことかというと、最大限に幅広い対象に感謝をするということだと言えよう。同じように居酒屋でハンバーグを食べたとしても、居酒屋の店員に対してだけ感謝をするよりも、ハンバーグになった牛を育てた少女や、太陽の恵みにも感謝をするほうが、強く感謝を意識していることとなる。これは、これまでの考えで言えば、能動的感謝に留まらない不完全な受動的感謝をすべき、ということだ。
つまり、より多く商取引などの機会を持ち、能動的感謝の不完全性に気付いて例示列挙としての不完全な受動的感謝をすることが好ましいということだ。
しかし、ここに問題がある。商取引関係、家族関係、友人関係というようなものは、感謝だけでなく非難を生む場合もあるのが、美味しいハンバーグにも非難する人がおり、毒キノコにも感謝する人がいるように、何が非難につながり、何が感謝につながるかはわからない。よって、ここで述べた感謝を増やすというやり方は正しくても実行できない。これが、なぜ、この世界が、商取引や家族関係といった関係に満ちており、皆が感謝の言葉を発しているのに、なかなか住みよくならないか、という疑問に対する答えなのではないかと思う。あえて更に飛躍し、潜在的な受動的感謝を持ち感謝を生むか、潜在的な受動的非難を持ち非難を生むかの根源的な違いを、人生に対する態度だと捉えるならば、人生に対して否定的な態度で臨むということが、その失敗の原因なのかもしれない。
以上、なかなかに美しい結論を導くことができたと思っているが、実は、このように私が望むような結論を導けたことにはからくりがある。そのからくりの伏線は、そもそも、冒頭で「感謝」に着目し、肯定的なものとして捉えたことに端を発している。そして、感謝に感情、満足といった広範な意味を読み込み、また感謝を「意識する」という側面から捉え、潜在的な感謝がある、としたことにある。
これまで、それらを、感謝というものの不思議さだとしてきた。しかし実は、ここまでで述べた感謝の不思議とは、現実というものの不思議の一部である。現に現実があり、その現実から色々な働きかけを受け、また、現実に対して働きかける。そのような現実との関わり方を、感謝という側面から切り取ったのが今回のこの文章である。だから、感謝が重大な意味を持つという結論になるのは当たり前だ。感謝というものの重大さに異をとなえられたなら、この文章は前提から崩壊する。
しかし、もし、この文章の読者であるあなたも感謝を重視し、違和感なく感謝の不思議さを受け入れられたなら、あなたも私と似ているということである。そして、私にとってそうであるように、あなたにとっても、この文章が何らかの意味があるのかもしれない。

2種類のごちそうさま 9 受動的非難

9 受動的非難

それでは、予告したとおり、受動的非難に話を移す。まず、受動的非難と対比されるだろう受動的感謝についておさらいすると、これまで述べてきたとおり明確に説明することはできないが、あえて言えば「感謝の対象を限定しない感謝」、「自然に意識させられている感謝」である。そして不完全な受動的感謝として、例えば「この料理が出されるまでには、栽培してくれた人や調理してくれた人がいたので、食事を手に入れることができた。
だから、その人達に感謝しましょう。」というような感謝の原因についてのストーリーがありえた。
その対になるものとしての受動的非難を想定するならば、それは、あえて言えば「非難の対象を限定しない非難」、「自然に意識させられている非難」である。そして、受動的非難を不完全ながら表現するならば「この料理が出されるまでには、栽培した人や調理した人がいたので、食事を手に入れることになってしまった。だから、その人達を非難しよう。」というような非難の原因のストーリーがあると言えるだろう。
ここで、具体例を考えていて疑問を感じる。料理が出てきて非難するというのは、どういう状況だろう。例えば、毒キノコ料理が出てきて、死にそうに苦しんだ後に言った台詞なら違和感はない。しかし、そういうことなのだろうか。
ここで、感謝の原因のストーリー、非難の原因のストーリーというものを、丁寧に捉え直してみたい。これまで、食事を手に入れることができた原因についての感謝のストーリーとは、例えば、牛を育ててくれた酪農家や、調理してくれた料理人が、ハンバーグを準備してくれた。だから、酪農家、料理人に感謝しよう、というストーリーだった。
しかし、実は、ハンバーグを準備してくれたことと、感謝することの間には、原因のストーリーとは別な意味でのストーリーが隠されている。それは、ハンバーグを食べるとお腹がいっぱいになる、とか、ハンバーグを食べると空腹で死なずに済む、とか、ハンバーグを食べると満足感が得られる、というようなストーリーだ。つまり、感謝するということは、ハンバーグが好ましいものである、というストーリーがある、ということが前提となっていた。
しかし、実際には、次の4通りが考えられる。
1 好ましいもの(ハンバーグ)に対して感謝する。
2 好ましいもの(ハンバーグ)に対して非難する。
3 好ましくないもの(毒キノコ料理)に対して感謝する。
4 好ましくないもの(毒キノコ料理)に対して非難する。
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1と4は当然であり、これ以上の説明は不要だろう。問題は2と3だが、私は、2のような状況について、何にも満足することができない、わがままな王様のような人をイメージできる。そして、3のような状況については、例え毒キノコで苦しんでも、それを与えてくれたことに対して感謝するような聖人のような人をイメージできる。(釈迦の伝記に、そういうエピソードがあった気がします・・・)つまり、2と3は、通常はありえないが、絶対にありえないとは言えない、というようなレベルの事態だろう。ありえるのだから2や3も考慮の対象から除くことはできない。
2や3のような極端な状況まで考慮すると、好ましいものを与えられたから感謝し、好ましくないものを与えられたから非難する、とは言えなくなる。これは、その対象が好ましいか、好ましくないかによっては感謝と非難のいずれなのかは決まらないということである。
これまでは、無意識の領域にある受動的感謝については、言葉で言い表すことはできないが、何らか関わることはできるように考えていた。例えば、美味しい料理を空腹のときに食べると受動的感謝が生じる、というように、好ましいことを与えられれば、受動的感謝が生じるということが前提となっていた。しかし、そうではない。
また、受動的感謝は、完全に把握することはできないが、調理してくれた人だけでなく、栽培してくれた人にも感謝する、というような列挙を続けることによって、不完全ながらも一部は把握することができると考えていた。しかし、3通り目の例である「好ましくないもの(毒キノコ料理)に対して感謝する。」は、「好ましくないもの(空腹)に対して感謝する。」と言い換えることさえできる。その場合、何も与えられず空腹であることに対して感謝をすることとなり、調理してくれた人がいないことや、栽培してくれた人がいないことに対して感謝をすることになる。同じ感謝に対して正反対の理由を挙げることさえできる。つまりは、受動的感謝に何が含まれていてもよいということだ。美味しいハンバーグを食べたことについて、牛に対する受動的非難があるかもしれないし、空腹であることについて、食事を提供してくれない母親に対する受動的感謝があるかもしれない。これまでは、受動的感謝を不完全ながら、一部でも把握するための手がかりとして、受動的感謝という好ましいものを生じさせるに至った好ましい原因を探す、というやり方をとってきたが、そのやり方は通用しない。何が含まれてもよい、ということは、感謝の対象、原因を探す手がかりがない。感謝の原因のストーリーを描くことができない。これは、これまで述べてきた限定列挙としての能動的感謝(非難)のストーリーであっても、例示列挙としての不完全な受動的感謝(非難)としてのストーリーであっても、受動的感謝(非難)というものを全く捉えられていないということだ。
以上の2つのことは、受動的感謝には全く関わることはできず、全く把握することはできないということを意味している。それは、受動的非難も同様である。
そして、このことは、これまで述べてきた、「受動的感謝(非難)は言葉では言い表すことができないが、無意識の領域に現にある。」という不思議さを更に深める。これまでは、完全に言葉で言い表すことはできないが、不完全に、一部なら関わり、言葉で言い表すことはできると考えていたが、そうではなく、全く、一部でも言い表すことはできない。
しかし、それでも現に感謝(非難)がある、という不思議さが受動的感謝(非難)にはある。
このように考えると、これまで肯定的な感情を感謝、否定的な感情を非難、としてきたが、感情という用語を受動的感謝、受動的非難に対して用いることは適切ではない。感情ならば、うれしい、悲しいなどということがわかり、肯定的か否定的かが把握できてしまう。受動的感謝、受動的非難とはもっと潜在的で把握できないものである。
しかし、この「把握できない」とは全く把握できない、ということではない。そこから、感謝・非難をしようとする意識が顕在化していることがわかる。また、感謝・非難をしようとする意識の原因として、潜在的な受動的感謝、受動的非難があることがわかる。
なぜなら、先ほども述べたように、感謝・非難は「意識する」ものであり、意識されなくとも既にあるのでなければならないからだ。潜在的な感謝を意識することが顕在的な感謝であり、潜在的な非難を意識することが顕在的な非難でなければならない。実際に感謝・非難が意識されたことをもって、間接的に潜在的な受動的感謝、受動的非難があることがわからなければならない。

2種類のごちそうさま 8 能動的非難

8 能動的非難

これまで、「ごちそうさま」という感謝の言葉をキーワードにしてきた。そして、当然ながら、「ごちそうさま」と言うときの気持ちを肯定的な感情として捉えてきた。
しかし、食事を食べ終わったときや、その後で会計をするときの気持ちは、必ずしも肯定的とは限らない。レストランで出された食事が、高い値段なのに冷めていてまずかったら「ごちそうさま」と言う気も失せる。この否定的な感情を、肯定的な感情を感謝としてきたように、非難と呼ぶことにする。
なお、肯定的な感情そのものが感謝なのか、それとも肯定的な感情から生まれるものとして別に感謝があるのか、という問題があるが、無意識の範疇にある受動的感謝も感謝の範疇に含めていることを踏まえると、肯定的な感情と感謝との間に差を見出すことは難しい。よって、当面は肯定的な感情そのものが感謝だと考えることとする。この捉え方は、感情にも、これまで感謝としてきたものと同じように、意識されていないときと意識されているときがあるという実感があるということとも合致しているだろう。同じように否定的な感情そのものを非難と呼ぶことにする。
この肯定的な感情である感謝と否定的な感情である非難とは、どのような関係にあるのだろう。感謝には、受動的感謝と能動的感謝とがあるように、非難にも、受動的非難と能動的非難とがあるのではないか、という仮説を立てて考えてみたい。
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まず例に出した、レストランで出された食事が高い値段なのに冷めていてまずかったときの非難について考えてみる。先ほど感謝について検討してきたときと同じように、何に対して非難をしているのか、非難の対象を考えてみよう。この非難は、冷めたハンバーグになった牛に対する非難や、付け合せのキャベツを育ててくれた太陽に対する非難ではない。そのような幅広い非難ではなく、商取引において、支払った金額に見合ったものが提供されなかったということに対する非難である。これは店に対する非難だと言えよう。つまり、これは、先ほどの能動的感謝に似ている。よって、能動的非難と呼ぶこととしよう。
そうすると、商取引以外にも、結婚してくれた妻、契約してくれた神に対する能動的感謝があったように、妻や神に対する能動的非難があってもよい。妻がご飯ひとつ作ってくれない、とか、神が雨を降らせてくれない、といったような非難が、それにあたるだろう。
以上、能動的非難については、能動的感謝と同様に、簡単にイメージできるのではないだろうか。
この先の考察の対象は、予想通り、受動的非難というものに移ることになるが、その前に一旦立ち止まり、もう少し能動的非難について考えてみることにする。ある商取引や、ある妻の行為が能動的感謝の対象となるか、それとも能動的非難の対象となるかは、どのように決まるのだろうか。少なくとも、「100円とリンゴ1個を交換することが適正だから、100円より安くリンゴが手に入れられれば感謝すべきであり、100円より高ければ非難すべきである。」というような明確な基準は存在しないことは明らかだ。しかし、
経済学のように、取引ごとに、需要と供給の関係により、リンゴと日本円との適正な交換レートが設定されるというような話でもない。私の実感は、もう少し恣意的である。少々高くても、人のよさそうなおばあちゃんが、微笑みながらリンゴを渡してくれれば感謝するし、少々安くても、買った直後にもっと安いリンゴを見つければ、なんだか損をした気がして非難したくもなる。商取引ではなくて夫婦関係、つまり妻に対する気持ちも同様である。妻が同じように食事を作ってくれていても、そのときの機嫌で、なんだか感謝した
くなったり、非難したくなったりする。
私は、能動的感謝の対象となるか、それとも能動的非難の対象となるかは、どこまでも恣意的に決まる、と考えたい。その方が、先ほど、能動的感謝について恣意的だと述べたことと合致する。「100円でリンゴを買えたから、安く売ってくれた店に感謝する。」でも、「100円でリンゴを買わされたから、高く売りつけた店を非難する。」でも、どちらでもいい。能動的非難は、能動的感謝と同様にストーリーであることから、いずれも恣意的であり、その境界も恣意的であるということだ。
私は、この能動的感謝と能動的非難との境界が恣意的であることを、欲望に際限がないことと結びつけて考えたい。能動的に感謝をするということは、それに満足しているということである。そして、能動的に非難するということは、それに不満であるということである。その満足と不満の境が恣意的ならば、満足するかどうかは恣意的に決まるということになる。つまり、満足を避け、常に能動的に非難し、不満でいることを恣意的に選ぶことが可能となる。つまり欲望に際限がないことが可能である。このように、能動的感謝と能動的非難は、一般的に言われるような、満足、不満、欲望、といった話に結びつけることが可能である。

2種類のごちそうさま 7 恣意的な限定

7 恣意的な限定

このように述べてきてお気付きかもしれないが、このような感謝の対象の限定は恣意的である。言い換えれば、能動的感謝のストーリーをどのようなものとするかは恣意的である。本来であれば、私が妻と結婚できたとしても、妻が収穫した野菜を妻の所有物とできなければ、私は野菜スープを食べることはできない。よって、妻が収穫した野菜を妻の所有物とできたことに感謝しなければならない。野菜を育ててくれた太陽の恵みにも感謝しなくてはならない。肥料メーカーにも感謝しなくてはならない。肥料に含まれている魚を生んだ母魚にも感謝しなくてはらならない。また、妻と結婚できたことを感謝するためには、妻の親が妻を生んでくれたことを感謝し、妻が昨日無事にご飯を食べられたことを感謝しなくてはならない。商取引に感謝するならば、貨幣を鋳造した造幣局の職員にも感謝し、過去から商取引という慣行を維持してきた人達にも感謝しなくてはならない。また、神が契約してくれたことに感謝するならば、少なくとも神という概念を発見してくれた人には感謝しなくてはならない。そして、当然ながら、ハンバーガーを渡すときの笑顔や、妻のより美味しいご飯を作ろうとする心遣いといった特別さにも感謝しなくてはならない。
しかし、能動的感謝は、これらを全て隠蔽する。能動的感謝とは、恣意的に感謝すべき対象を限定し、本来感謝すべき対象を隠蔽することである。
なぜ、この隠蔽を行うのかと言えば、これまで、不完全な受動的感謝として述べてきたように、感謝すべき対象は意識して把握しようとしても、どこまでも不完全であらざるを得ないからだ。これは、きりがない、という意味で耐え難い。自らが感謝するとき何に感謝しているかがよくわからない、というのは、あまり心地よいものではない。そして、その不完全さに耐えられず、受動的感謝を打ち切り、更なる感謝すべき対象を隠蔽することが受動的感謝の能動的感謝への変質だ。これは、受動的感謝に対する裏切りである。
そして、その裏切りには特徴がある。能動的感謝の対象は、商取引つまり資本主義、家族、神との契約、いずれも、人間が考えた、人やモノ、つまり人と世界との関係についての概念であるということだ。隠蔽の方法として、人と世界との関係についての概念が使われる。他にも同様の例を見つけることができる。例えば「日本人だから、年金をもらえる。
だから、日本人であることに感謝しよう。」というのは国家という概念に能動的感謝を行うことで、それ以上の受動的感謝を放棄しているということだ。また、「民主国家だから、自由に発言ができる。だから、民主国家に生まれたことに感謝しよう。」というのは民主主義という概念に能動的感謝を行うことで、それ以上の受動的感謝を放棄しているということだ。このように、これらの概念は、感謝すべき対象を恣意的に制限し、隠蔽するように働いている。なお、神に対する態度としてよく言われることに、神に根拠を求めてはならない、というようなものもあるが、これは、この隠蔽をも隠蔽しようとするものだとも言える。
少々脱線するが、私は、このような隠蔽をやめるべき、というような主張をしているのではない。隠蔽は、社会、集団というものが成立するためには必然であるとさえ考えている。
どういうことか説明しよう。不完全な受動的感謝の対象は、例示列挙なのだから、個人間でどこまで例示列挙しているか、どこまでイメージしているかの違いがある。例えば、私は、食材を作ってくれた農家には感謝しているが、食材を運んでくれた運送業者への感謝は意識していないとする。一方で妻は、食材を作ってくれた農家にも、食材を運んでくれた運送業者にも感謝している、というような違いがあるとする。そうすると、私と妻とは、感謝、食材、運送業者というものの概念を共有していないこととなる。妻が、運送業者という言葉を使ったなら、そこには「さっき使った食材を運んでくれた感謝すべき人」という意味が含まれているが、私がその言葉を受け取ったなら、「感謝すべき人」とうような意味合いは含まれない。つまり、私と妻の間では正しいコミュニケーションが成立しない。正しいコミュニケーションを成立させるには、両者が持つ概念の意味を完全に一致させるか、それが無理なら、同じように考えているのだろう、とみなすしかない。この、みなす、という働きが、能動的感謝が感謝すべき対象を隠蔽するということである。この隠蔽がなければ、社会におけるコミュニケーションは成立しない。これが隠蔽は必然だと言った理由である。
また、更なる脱線をしたい。商取引、家族関係、神というようなものが、能動的感謝における限定の理由として用いられると言ったが、これらには象徴となるモノがあるという共通点がある。商取引の象徴としては貨幣があり、家族関係の象徴としては戸籍や家系図、または血といったものがある。神の象徴としては十字架や仏像といったものがあるだろう。
そして、更なる共通点としては、これらのモノには、単なるモノとしての意味を超えた、象徴的な力があるということがある。これは、能動的感謝の対象の全てを商取引、家族関係、神というような概念そのものに負わせることに耐えられず、実体としてのモノに負わさざるを得なかったということを意味するのではないだろうか。受動的感謝の能動的感謝への変質、能動的感謝による更なる受動的感謝の隠蔽は、能動的感謝に無理をさせているように思われる。
話を戻すと、このような隠蔽も受動的感謝自体には届かない。先ほど受動的感謝は無意識の領域にあり、受動的感謝は意識しなくてもあると言った。つまり、能動的感謝により、意識的な受動的感謝を不完全なものとして打ち切ったとしても、意識されていないところに受動的感謝はあり続ける。能動的感謝により裏切られても受動的感謝はあり続ける。
それでは、意識的な感謝を打ち切り能動的感謝としても、打ち切らず、不完全な受動的感謝としても、無意識にある受動的感謝から見れば、全く無関係だということなのだろうか。意識的に感謝をするということは、無意識にある受動的感謝との関係では何をしているのだろうか。このことを考えるために、少し視点を変えてみよう。

2種類のごちそうさま 6 不完全な受動的感謝限定列挙と例示列挙

6 不完全な受動的感謝限定列挙と例示列挙

ここで、再度、受動的感謝について考えてみよう。先ほど、受動的感謝は言葉でうまく説明できないと言った。
だが、受動的感謝について考えるとき、私は、何らかの具体的な内容のイメージを持たざるを得ない。私の受動的感謝のイメージは、せいぜい「この料理が出されるまでには、栽培してくれた人や調理してくれた人がいたので、食事を手に入れることができた。だから、その人達に感謝しましょう。」というようなものだ。想像力が豊かな人なら、更に「食料になってくれた牛や、このレストランを維持するために働いてくれている税理士にも感謝しましょう。」というようなイメージが加わるかもしれない。いずれにしても、先
ほど述べたように、これらの記述は受動的感謝の描写としては不足している。
しかし、ここでは、これらの記述が受動的感謝の一部は捉えているということに注目したい。受動的感謝とは、外側のない全体であり、列挙しきれない全てであり、また、無意識の領域に属するものであることから言葉では言い表すことができないが、全体の一部について記述し、列挙し切れないものの一部を記述し、無意識のうちの意識に上がってきた一部を記述することは可能だ。そういう意味では、私がイメージしている栽培してくれた人や調理してくれた人に対する感謝は、全体ではないが一部を捉えているという意味で、「不完全な受動的感謝」と言ってもよい。
ここで、「不完全な受動的感謝」がどのような表現をされていたか着目してみる。私の「不完全な受動的感謝」はこうだった。「この料理が出されるまでには、栽培してくれた人や調理してくれた人がいたので、食事を手に入れることができた。だから、その人達に感謝しましょう。」この表現は、何かに似ている。「商取引ができたので、食事を手に入れることができた。だから商取引ができたことに感謝しましょう。」という「能動的感謝」に似ている。原因を特定して、その原因に対して感謝しているという点で似ている。
それでは、「不完全な受動的感謝」と「能動的感謝」の違いは、どこにあるのだろうか。
それは、原因の列挙が、例示列挙なのか限定列挙なのか、という違いである。
私の受動的感謝は不完全なので、その続きとして「食料になってくれた牛や、このレストランを維持するために働いてくれている税理士にも感謝しましょう。」というような原因の列挙が続く。更なる例示を認めている。一方で、「商取引ができたことで、食事を手に入れることができた。だから、その人達に感謝しましょう。」という能動的感謝の場合は、商取引ができたこと以外に、原因はない。これ以上原因について考える必要はない、と列挙を打ち切っている。
原因の列挙の不完全さを認め、更に感謝すべき対象があるという姿勢にある、つまり更なる例示を認めるということが不完全な受動的感謝であるということであり、感謝のストーリーの完全さを守るため、更なる原因の列挙を打ち切り、更なる感謝の対象はないと限定する姿勢にある、つまり、更なる例示を認めないということが能動的感謝であるということだ。
能動的感謝が感謝の原因を限定するということの具体的なイメージを説明しておきたい。
まず、特に注目すべき原因の限定の具体例としては、これまでも繰り返し、例として用いてきた商取引という原因による限定がある。「商取引ができたことで、食事を手に入れることができた。だから、その人達に感謝しましょう。」というものである。この、商取引という原因は極めて強力であり、その強力さ故にそれ以外の原因を求める必要性を失わせる。例えば、レストランに対して商取引ができたことに感謝すれば、牛を育てた酪農家に感謝する必要がなくなる。なぜなら、牛を育てた酪農家は、商取引により既に対価を得て牛を手放していて、正当にレストランが牛肉を手に入れている。よって、商取引というものを尊重する限り、酪農家は関係がない。このようにして、商取引は、商取引に至るまでの経緯に対する感謝を不要とし、感謝の対象を商取引に限定するという強力な働きがある。
脱線となるが、私は、その力の根源のひとつは財産権という概念にあると考えている。
財産権とは、財産を正当に所有したり、使用したりすることができる権利である。そして、お互いに、財産権の下にあるモノを、契約等の手順によりやりとりをすることで、商取引が成立する。若干不正確かもしれないが、労働やノウハウのようなものも、交換されるモノに含めるならば、この説明は、一般的な商取引に対する感覚と大きなずれはないだろう。
財産権の「正当に」というところがポイントである。相手が「正当に」所有しているのだから、それを商取引により私が「正当に」所有することになるのは当然だと言える。また、契約とは、2人以上の当事者が、お互いを自分と同じ人間として、「正当な」相手方と認めることである。同じ人間であり、「正当な」相手方だから、「正当な」約束は守らなければならない。財産権とは「正当な」相手方と「正当な」手順によりやりとりできるものだ、ということである。そこから、感謝すべきは、「正当な」権利を持つ「正当な」相手と「正当な」手順で商取引ができたことである、ということになる。この正当性が、能動的感謝としての原因を限定することの正当性となるのである。
更なる脱線となるが、商取引がここまで広く行われている理由も、この正当性にあると考えられる。法律や契約書などにより、商取引関係においては何を正当なものとするかが明確に定められている一方で、例えば、夫婦関係について言えば、民法には夫婦の扶助義務なども定められているが、配偶者に対してすべきことは、商取引の相手方に対してすべきことに比べてあいまいだ。よって、商取引関係は夫婦関係などと比べ、何が正当か、ということに見解の相違が生じにくく、使いやすいため幅広く用いられているということだ。
このように商取引は、正当性が強力であり、幅広く用いられているから、能動的感謝の具体例として適しているのである。
脱線してしまったが、商取引と同じように感謝の対象を限定するということは、説明は少々難しいが、結婚したのだから妻がご飯を作ってくれる、とか契約をしたのだから神がパンを与えてくれる、というような別の原因の場合でも言える。妻や神のことを考えれば、その先のことは考える必要がない。
それはどういうことか、簡単に説明をしてみよう。まず、なぜ妻に感謝すれば、それ以上感謝しなくていいのか、であるが、話を単純化するため、自分が、日本ではないある国の農家の奥さんのヒモであると考えて欲しい。そして、その国では、結婚をしたら、お互いが自分の持ちもの全ての半分を与えなければならないとする。その国で、働き者の妻は、畑を耕して野菜を収穫する。そして野菜でスープを作り、食卓で妻の持ち物である野菜スープの半分を私に分けてくれる。そこで、私は、妻に「結婚していてくれてありがと
う。」とは感謝するが、それ以上は感謝する必要がない。何故なら、私は妻と結婚しているならば、当然得られるものを得ているに過ぎないからだ。野菜を育ててくれた太陽の恵みに感謝する必要はない。感謝の対象は妻に限定される。
同じようなことは神についても言える。この例では、私も働くようになり、夫婦で畑を耕して野菜を収穫する。そして野菜でスープを作り食べるとしよう。そして、食卓で野菜スープを与えてくれたキリスト教的な全能の神に感謝をする。そこで、私は神とは別に、野菜を育ててくれた太陽の恵みに感謝する必要はない。太陽は神の所有物、または神の一部であり、神が太陽の恵みを与えてくれたのだから、神に感謝をすれば太陽に感謝する必要はない。感謝の対象は神に限定される。
このように、能動的感謝においては、商取引ができたから、とか、結婚したから、とか、神と契約をしたから、といった理由で酪農家や太陽の恵みに対しての感謝が失われ、感謝の対象が限定される。以上が、能動的感謝が感謝の原因を限定するということの具体的なイメージである。
また、この限定は、その限定から逸脱しようとする感謝をも取り込もうとする働きがあるということも付言しておく必要がある。例えば、ハンバーガーを買ったとき、ハンバーガーを渡すことに加えて微笑むことは、本来不要であり、もし微笑んでくれたなら、それは特別なことだ。そこには、商取引によりハンバーガーを手に入れられたことに対する感謝とは別に微笑んでくれたことへの感謝があってよい。しかし、マクドナルドでハンバーガーを買うと、当然のように笑顔で渡してくれる。そして受け取る側も、当然のものとして受け取る。商取引に対する感謝とは本来別であるはずの笑顔に対する感謝が、マクドナルドでは一体化している。取り込まれている。
同様に、妻に対する感謝であっても、新婚当初は、ご飯を作ってくれただけで喜んでいたのに、そのうち、妻なら三食美味しいご飯を作ってくれて当然だと思う。新婚当初の感覚で言えば、夫婦として生活できることの感謝と、妻が家事をしてご飯を作ってくれることに対する感謝とは別でもいいはずなのに、そのうちに、それが一体化して取り込まれている。本来特別なことを、夫婦関係にあるならば当然得られるものとして取り込んでいる。
これらの事例は、何が特別で何が当然かは相対的であるということを意味している。そしてこの相対的であるということが、能動的感謝とは、ひとつながりの原因と結果による感謝のストーリーをつくることだということの一側面である。この意味で、感謝のストーリーは、小説のストーリーとよく似ている。小説のストーリーにはひとつの正解がある訳ではない。ただ、ひとつの小説が現に描かれたということをもって、その小説におけるストーリーはひとつとなるのである。そのことによく似ている。

2種類のごちそうさま 5 能動的感謝

5 能動的感謝

一方で、能動的感謝は明確である。例えば、レストランにおける能動的感謝の対象は店
員だ、というように明確であり、感謝の内容についても、お金を支払う代わりに美味しい
ご飯が食べられたこと、つまりお金とご飯の交換という商取引ができたことに対する感謝
である、というように明確に説明することもできる。店員(または店)に対して、「(家
族でも何でもない他人の私に)商取引という関わり方によって美味しいご飯を与えてくれ
てありがとう。」という感謝をしているというように言える。
ただ、この「商取引という関わり方をしてくれたことに対する感謝」という言い方には、若干説明が必要かもしれないので、具体的なイメージを持たせて説明しておこう。私の財布にはお金が入っている。今、入っているのは日本円だが、別にアメリカドルでも、金の延べ棒でもかまわない。そういうものを相手に渡す代わりに、相手から商品やサービスを提供してもらう。例えば、ハンバーグや海鮮丼を提供してもらう。このことは、相手の協力がなければ成立しない。日本円もアメリカドルも金も要らないと言われたら、取引が成
立しない。私はハンバーグを食べられない。そうならずに、日本円を受け取ってもらえてハンバーグを食べられたことは感謝に値する。なお、別にお金でなくてもかまわない。
物々交換により、ひき肉を渡して、その代わりにハンバーグを食べさせてもらうのでもよい。その場合なら、ひき肉を受け取ってもらえたことの感謝と言ってもよい。これが、「商取引という関わり方をしてくれたことに対する感謝」だ。
こう考えると、会計の場面で、お金を渡しながら言う「ごちそうさま」は「商取引という関わり方をしてくれたことに対する感謝」だ、ということには違和感はないだろう。なお、雑貨店での能動的感謝についても同様のことが言える。
それでは、もう一つの例として、家庭の食卓での妻に対する能動的感謝とはどのようなものだろう。この感謝は、「(他人の私と)夫婦関係という関わり方を持ち、美味しいご飯を与えてくれてありがとう。」という感謝だと言えよう。
なお、この感謝の言葉は夫婦関係というものの捉え方によって、少しずつ異なるバージョンとなりうる。夫婦関係にある限り、当然、夫は妻からおいしいご飯を与えられるべきだ、と考えているならば、「(他人の私と)夫婦関係という関わり方を持ってくれてありがとう。(だが、夫婦関係にあるならば、おいしいご飯を与えられるのは当然だ。)」と言うことになるだろう。また、ご飯を与えられるまでは当然だが、まずいご飯でも文句は言えないと考えているならば、「(他人の私と)夫婦関係という関わり方を持ってくれて
ありがとう。更に、特別においしいご飯を与えてくれてありがとう。」というような言い方になるだろう。(なお、当然、夫婦関係にあっても、ご飯を与えられること自体が当然ではない、という考え方もありうるが、説明の都合上、省略する。)
このように考えると、能動的感謝とは、自分に食事が与えられている原因を見出し、そのような原因があることについて感謝をするということである。それは、ひとつながりの原因と結果による感謝のストーリーをつくることだ。例えば、「商取引ができたので、食事を手に入れることができた。だから、店員に商取引ができたことに感謝しましょう。」というストーリーをつくり、感謝する、ということだ。能動的感謝には明確なストーリーがある。だから明確な説明ができるのだ。

2種類のごちそうさま 4 受動的感謝の問題 ~「意識させられている」~

4 受動的感謝の問題 ~「意識させられている」~

もうひとつの受動的感謝についての説明として、「自然に言わされている、または意識させられている感謝」という述べ方があったが、この説明も不十分である。なお、言うという行動と意識するということの関係という別の問題はあるが、この文章では一応、意識してから言う、という流れがあると想定し、「自然に意識させられている」ということに注目することにする。(もし、言わされるということと意識させられるということが一連の流れではなく別だと考えるならば、ここからの文章の「意識させられる」を「言わされる・意識させられる」と読み替えれば、この文章では特段の問題は生じない。)
実際に感謝を「自然に意識させられて」いれば、受動的感謝があったことは把握できるが、「自然に意識させられて」いないなら、そこに受動的感謝がないとまでは言えるのか、
という疑問が生じうるように思われる。把握できない受動的感謝は存在しないのだろうか。
受動的感謝は「自然に意識させられて」いるときにしかないのだろうか。
私は、受動的感謝とは、「自然に意識させられて」おらず、全く感謝をしようという意識を持たなかったときにもあると考えることは可能だと考える。
どういうことか説明するために、ここでも具体的な場面で考えてみよう。友人数人で居酒屋に行った場面を思い浮かべてみる。久しぶりに会った仲のよい友人と一緒なので話が盛り上がったとする。お酒も飲み、いい気分で、幹事が会計をしているときも、会計をしていることにすら気付かなかった店を出るときも、次はカラオケだ!などと言いながら出たので、店員と顔を合わせた記憶もない。ごちそうさま、と言った記憶もない。そうしたとき、当然、居酒屋の食事に対する受動的感謝は意識されていない。しかし、2軒目のカラオケボックスに行った時、突然、歌詞の代わりに、牛を飼っている少女の物語が画面に流れ始めた。その牛は、子牛の頃から少女に育てられ、ある時少女と別れる。そして、最終的には、先ほどの居酒屋で食べたサイコロステーキの映像へとつながる。そうしたとき、飲み会の盛り上がりは失われ、居酒屋の食事に対する受動的感謝が意識されることになるだろう。私は、「居酒屋を出るときに、ごちそうさまくらい言っておけばよかったな。」などと思うだろう。
この例え話の場合、もともと居酒屋ではなかった受動的感謝が、あとになってカラオケボックスで生じたということなのだろうか。それとも、もともとあったが意識されていないが存在していた受動的感謝が意識されたに過ぎないのだろうか。
この答えの手がかりは、私は、後から「居酒屋を出るときに、ごちそうさまくらい言っておけばよかったな。」と思う、というところにある。これは、もともと感謝はあったはずだから、意識して感謝の言葉を発しておけばよかったな、ということだ。もし、新たにカラオケボックスで受動的感謝が生まれたのなら、「居酒屋を出るときに、このような少女がいるかもしれないことも踏まえて感謝の気持ちを持っておけばよかったな。」と後悔することになるが、そうは思わないだろう。そこまで気付かないよ、というのが正直な気
持ちではないだろうか。つまり、もともと感謝はあったということだ。
また、それは、受動的感謝を「意識する」という言葉の意味から必然的に導かれると言ってもよい。意識するというのは、もともとあったものを意識するということを含意する。
意識することで何かが生まれることはないということが前提にある。つまり、受動的感謝を「意識する」というイメージがあるのなら、それはもともと受動的感謝があったということだ。
このように考えると、受動的感謝については、感謝を意識するときと意識しないときがある、と言わざるを得ない。あえて、受動的感謝とは無意識の領域に属する事柄であり、意識して把握しようとしても全てを捉えることはできない、と言ってもよい。
意識するときと意識しないときがある受動的感謝について全体を捉えるためは、意識された部分的な感謝をつなぎ合わせ、無意識も含めた全体としての感謝を類推せざるを得ない。
そのように考えると、受動的感謝を「自然に意識させられている感謝」とするのは不十分であり、あえて言えば、「自然に意識させられている感謝と、そのうち自然に意識させられることになるかもしれない無意識の感謝」とでも言うことになる。しかし、後段の無意識の感謝については、「自然に意識させられている感謝」として捉えられるまでは類推されるしかない。不明確なものである。
以上を踏まえると、受動的感謝についての「自然に意識させられている感謝」という説明は不十分ではあるが、それ以上述べようとすると不明確になるという意味では、妥当な説明である。
これらのことは、受動的感謝というものの不思議さを表している。
受動的感謝とは、外側のない全体であり、列挙しきれない全てであり、また、無意識の領域に属するものであることから言葉では言い表すことができないが、それでも、私は「ごちそうさま」と食後に言い、受動的感謝を行っている。説明はできないが、現に行っている。また「ごちそうさま」と言わず、意識もしなくとも、受動的感謝がそこにあることを知っている。これが、受動的感謝の不思議さである。

2種類のごちそうさま 3 受動的感謝の問題 ~「限定しない」~

3 受動的感謝の問題 ~「限定しない」~

この2つの感謝のうち、受動的感謝については説明が難しい。これまでは、受動的感謝について、「感謝の対象を限定しない感謝」、「自然に意識させられている感謝」、というような説明をしてきたが、このような説明では十分な説明とは言えない。しかしこれ以上の具体的な説明が難しい。
まず、「感謝の対象を限定しない」と言っても、この「限定しない」が何を意味するのかを説明するのが難しい。これまで「限定しない」ということの幅広さを説明した箇所としては、コンビニ弁当を食べられることに対する受動的感謝について説明する際に、「コンビニの店員や、コンビニ弁当の製造工場の人に加えて、食材となる作物を栽培してくれた人、更には食料となってくれた生命や、生命を育んでくれた地球、食料を与えてくれた神様、といった幅広いものに感謝をしているとも言える。」と述べた部分がある。しかし、
この説明では感謝の対象が限定されてしまっており正確でない。実は、この説明は「限定しない」を十分に表現できていない。
そこで、より適切な「限定しない」についての具体的な説明の方法を考えてみると、大くくりである概念を用いて表現するというやり方が考えられる。例えば、生命を育んでくれた地球に対して感謝する、という言い方はどうだろう。しかし地球では地球の外の太陽への感謝が漏れるし、太陽を含めて銀河系としても、銀河系外が漏れる。最大限に時間的、空間的な広がりを持たせようとすると、「ビッグバン以降の宇宙全体」のようなものが、「限定しない」感謝の対象の有力候補となるだろうか。
しかし、この方法では、仮にビッグバンという科学的仮説が正しかったとしても、2つの問題が生じるためうまくいかない。まず、「ビッグバン以降の宇宙」から漏れるものがあるという問題が生じる。「ビッグバン以降の宇宙」と名指しするからには、それを成立させる場、つまりビッグバン以前の宇宙や、宇宙の外も含めた場があるはずである。なぜなら、名指しすることには、選ぶことが必然的に含まれるからだ。
これは、科学的に宇宙の外を想定することができるか、という問題とは違う、言葉の使い方の問題である。それは、果物がリンゴしかない世界においては、果物とリンゴという言葉は同じ意味となってしまうという問題に近い。果物としてリンゴとみかんがあるからこそ、果物とリンゴという言葉を使い分けることができる。果物のなかからリンゴを選び、名指しすることができる。果物にはリンゴしかなければ、果物のなかからリンゴを名指しすることは、不可能であるか、無意味である。
同じように、最大限に広い意味での世界とか宇宙とかといったものを仮に「全て」とし、「全て」と「ビッグバン以降の宇宙」とに違いがあり、「全て」から「ビッグバン以降の宇宙」を名指しすることができるならば、「ビッグバン以降の宇宙」と名指しされたものからは、何かが漏れなければならない。また、「全て」と「ビッグバン以降の宇宙」が同じ意味なのであれば、「ビッグバン以降の宇宙」と名指しすることは、不可能であるか、無意味である。「ビッグバン以降の宇宙」とは、単に「全て」の言い換えでしかない。
そして、このように用いられた場合の「全て」という言葉も、単に「限定しない」の言い換えでしかない。つまり、「限定しない」の意味を「限定しない」と説明しているに過ぎない。よって、「ビッグバン以降の宇宙」、「全て」という用語を用いても、何も説明ができていない。具体的な説明は失敗する。
もう一つの問題として「ビッグバン以降の宇宙全体」に対する感謝と言っても、それを具体的にイメージすることはできない、ということがある。例えば、「ビッグバン以降の宇宙全体に対する感謝」よりもイメージし易いだろう、もう少し小さい概念として「地球全体に対する感謝」というものを例に出そう。これでも、
かなり幅が広い感謝だ。食事をした後に、地球全体に対して「ごちそうさま」と言うことは、かなり私がイメージする受動的感謝に近い。
では、地球全体に対して「ごちそうさま」と言うとき、イメージされるものは、どういうものだろうか。私ならば、宇宙に青く輝く丸い地球である。もう少し違うものをイメージする人もいるかもしれないが、それほど大きな違いはないだろう。
しかし、そのようなイメージに対して感謝をすることが、果たして感謝の対象を限定しない感謝と言えるのだろうか。
受動的感謝は対象を限定しない感謝なのだから、あらゆるものが感謝の対象に含まれるはずだ。例えば、レストランで出てきたハンバーグのひき肉について列挙してみると、牛を育てた酪農家、牛を運んだ運転手、牛を加工した加工工場の従業員、レストランのコックさん、ウェイターといった、比較的思い付きそうな人以外にも、牛を運んでくれたトラックが走る道を舗装した人、とか、道を舗装する人を生んだ母親、とか、その母親が着ていたセーターの材料になった毛を取られた羊、とか、その羊が食べていた草が生えるために必要な受粉をした風、とかといった幅広いものが感謝の対象となるだろう。何故なら、
風が吹かず、草や羊が育たず、母親がセーターを着られず、母親が子供を生む前に寒さで死に、道路が舗装されず、牛が順調に運搬されなかったなら、ハンバーグのひき肉は入手できなかったかもしれないからだ。
果たして、「宇宙に青く輝く地球」というイメージのなかに、これら全てが含まれていると言えるのだろうか。「地球全体」に感謝をする際に、「牛を運ぶトラックが走る道を舗装した人を生んだ母親が着ていたセーターの材料になった毛を取られた羊」をイメージしているのでなければ、その羊に対して感謝しているとは言えないのではないだろうか。
少なくとも、「地球全体」に対する感謝に何が含まれるか列挙する際には、この羊も列挙しなければならないのではないか。
しかし、「地球全体」とか「ビッグバン以降の宇宙全体」といったものに対する感謝のなかに含まれるべき感謝の対象は際限がなく、この羊のような感謝の対象を漏れなく具体的にイメージしたり、列挙したりすることは不可能である。この羊のような感謝の対象をイメージできず、列挙できないままの「地球全体」とか「ビッグバン以降の宇宙全体」といったものに対する感謝とは、実は、中身のない空虚な感謝に過ぎないとさえ言えるのではないか。
この名指しできず、中身を列挙することはできないという2つの問題は、「ビッグバン以降の宇宙全体」でなくとも、「神」、「全て」、「限定できない(もの)」のような大きく括った表現に共通する問題だろう。「神」、「全て」、「限定できない(もの)」と名指しできるならば、「神」、「全て」、「限定できない(もの)」から漏れるものがある。また、「神」、「全て」、「限定できない(もの)」には何が含まれるか列挙できないという意味で、空虚である。
よって、受動的感謝というものを「感謝の対象を限定しない感謝」という表現よりも、更に具体的に説明することは極めて困難である。私には説明する手立ては思いつかない。
「感謝の対象を限定しない感謝」というような述べ方でなんとなく理解してもらうしかない。

2種類のごちそうさま 2 留意点:レストラン以外、感謝以外

2 留意点:レストラン以外、感謝以外

ここまでの話には2つ留意点がある。
1つ目は、この話はレストランでの場面に限らないということだ。例えば、洋服や雑貨を買う場合でも変わりはない。レジで店員から洋服が入った袋を受け取るとき、「ありがとう。」、「どうも。」などと言うならば、その感謝の言葉には、素敵な洋服を手に入れられたことに対する感謝の対象を限定しない受動的感謝と、店員に対する能動的感謝の2つの感謝が1つの感謝の言葉のなかに含まれている。
また、家庭における食後の「ごちそうさま」も同様だ。私が家庭で妻が作ったご飯を食べた後に言う「ごちそうさま」は、主には目の前にいる妻に対して言っている。言いながら、「共働きなのにご飯までつくってくれてありがとう、お疲れ様。」などと思っている。(テレビに気をとられて、あんまり思っていない時もあるが・・・)これは、能動的感謝だ。しかし、このとき、誰かに「奥さんにだけ感謝しているのか?」と問われたら、「いや、お米をつくってくれた農家の人にも感謝してるし、太陽の恵みにも感謝してるし・・・」などと答えるだろう。そこには受動的感謝も含まれている。それは、映画などでよく登場する、ヨーロッパかどこかの信心深い家庭で食事の前に神に感謝の祈りを捧げるシーンをイメージすれば明らかだろう。食事の前に感謝しているか、食事の後に感謝しているかの違いはあるが、家庭の食卓での感謝は、妻に対するものに限られない。能動的感謝と受動的感謝とが含まれている。
レストランのケースは、大抵、商品やサービスを手に入れるタイミングと、お金を支払うタイミングが重なるタイミングが異なることから2つの感謝があるということがイメージしやすいので、例として用いたということだ。
2つ目の留意点としては、感謝という言葉は、義理や礼儀といった別の言葉で置き換えてもよいということがある。今まで、「ごちそうさま」を感謝という言葉で表現してきたが、そこには、感謝だけでなく、義理や礼儀といった気持ちもあるという人もいるだろう。
正直、私には、そういう気持ちが薄いので、よくわからないのだが、少なくとも、この文章においては、感謝を義理や礼儀と読み替えても大きな問題は生じない。義理や礼儀の気持ちから「ごちそうさま」と言ったと考えてもかまわない。そうすると、感謝という言葉は、義理、礼儀といたものも含め、「相手の尊重」とでも言い換えた方がよいかもしれない。
しかし、あまり広くしすぎるとイメージがしにくくなるので、これからも、私自身が最もイメージがしやすい、感謝という言葉を用いていくことにする。よって、これからも、感謝という言葉がでてきたなら、義理でも礼儀でも尊重でも、イメージしやすい好きな言葉で読み替えていただいてかまわない。

2種類のごちそうさま 1 2種類の「ごちそうさま」

これは2012年12月31日のアップとなってます。

感謝という言葉をキーワードに、「私の哲学」で述べようとしていたことの一部を具体的に説明しようとしたものです。とのこと。

ほかの長編よりは短めです。

PDF:nisyurui

・・・

01 2種類の「ごちそうさま」
私には中学生の娘がいるが、昔から娘には、レストランで食事をした後は「ごちそうさま」と言うように、と注意している。私もなるべく言うようにしている。慌しい牛丼屋などでは小声になってしまうときもあるが、言うようにしている。
ハンバーグでも海鮮丼でも何でもいいが、レストランでご飯を食べた後に「ごちそうさま」と言う状況を細かく観察してみる。そうすると、厳密には2回「ごちそうさま」と言うチャンスがあることがわかる。1回目のチャンスが食べ終わったときで、2回目のチャンスが会計をするときだ。(なお、誰かにおごってもらったときに、店を出た後におごってくれた人に「ごちそうさま」と言うというような3回目のチャンスも例外的にはあるが、話を単純化するために省略する。)私は、そのチャンスを活かし、丁寧に2回言うときもあれば、1回だけ言う時もある。
では、2回言うのは、単に丁寧なだけなのだろうか。この2回の「ごちそうさま」は同じものなのだろうか。この文章では、この、日常的な風景についての疑問を手がかりにして、感謝というもののあり方を考えてみたい。
まず、会計のときの「ごちそうさま」に着目する。この「ごちそうさま」をどのように言っているかを思い返すと、レジでお金を払うときにレジに入っている店員に向かって言うことが多い。高いレストランでは席に来た店員に言うこともある。まとめて別の人が会計を済ませていれば、レジを通り過ぎるときや店を出るときに、タイミングをみて店員に言う。これらは、明らかに店員への感謝だ。もう少し広がりを持たせたとしても、その店に対する感謝だ。誰に感謝の言葉を述べているかは明確だ。
一方で、ご飯を食べ終わったときの「ごちそうさま」はどうだろう。この「ごちそうさま」は、単にレストランの人に言っているものではない。それは、店員がいない状況、例えば一人自宅でコンビニのご飯を食べている場面を考えればわかりやすい。
私は、コンビニのご飯を食べたあと、周りに誰もいなくても「ごちそうさま」と言うことが多い。(言わないこともあるので、「言うことが多い。」という程度にしておく。)
その言葉は、コンビニの店員や、コンビニ弁当の製造工場の人だけに言っているものではない。
では、この「ごちそうさま」は誰に言っているものか、と問われるとうまく答えることができない。不明確だ。あえて、感謝の対象を特定してみると、人によって違いはあるだろうが、コンビニの店員や、コンビニ弁当の製造工場の人に加えて、食材となる作物を栽培してくれた人、更には食料となってくれた生命や、生命を育んでくれた地球、食料を与えてくれた神様、といった幅広いものに感謝をしている、とも言えるだろう。しかし、それも、あえて聞かれれば、という程度で、実際に「ごちそうさま」と言うときに、そこまで明確に考えているとは思えない。(明確に神に感謝している、という人もいるかもしれないが、後ほど、神への感謝も不明確であると指摘することになる。)
つまり、食後の「ごちそうさま」は感謝の対象が不明確で幅広いものであるのに対して、会計のときの「ごちそうさま」は感謝の対象が「店または店員」と明確である。私の実感としては、食後の「ごちそうさま」は、あまり明確に意識せず、なんとなく自然に言っている。というか、自然に言わされているという気がする。または、結局、恥ずかしいとか、タイミングを逸したというような理由で実際は「ごちそうさま」と言わなくても、感謝の言葉を言おうかどうか、と自然に意識させられている気がする。
よって、これを受動的感謝と呼ぶことにしたい。一方で、会計のときの「ごちそうさま」は、意識的に、明確な誰か(何か)に伝えるという意図を持って言っている。これを能動的感謝と呼ぶことにしたい。