7 恣意的な限定

このように述べてきてお気付きかもしれないが、このような感謝の対象の限定は恣意的である。言い換えれば、能動的感謝のストーリーをどのようなものとするかは恣意的である。本来であれば、私が妻と結婚できたとしても、妻が収穫した野菜を妻の所有物とできなければ、私は野菜スープを食べることはできない。よって、妻が収穫した野菜を妻の所有物とできたことに感謝しなければならない。野菜を育ててくれた太陽の恵みにも感謝しなくてはならない。肥料メーカーにも感謝しなくてはならない。肥料に含まれている魚を生んだ母魚にも感謝しなくてはらならない。また、妻と結婚できたことを感謝するためには、妻の親が妻を生んでくれたことを感謝し、妻が昨日無事にご飯を食べられたことを感謝しなくてはならない。商取引に感謝するならば、貨幣を鋳造した造幣局の職員にも感謝し、過去から商取引という慣行を維持してきた人達にも感謝しなくてはならない。また、神が契約してくれたことに感謝するならば、少なくとも神という概念を発見してくれた人には感謝しなくてはならない。そして、当然ながら、ハンバーガーを渡すときの笑顔や、妻のより美味しいご飯を作ろうとする心遣いといった特別さにも感謝しなくてはならない。
しかし、能動的感謝は、これらを全て隠蔽する。能動的感謝とは、恣意的に感謝すべき対象を限定し、本来感謝すべき対象を隠蔽することである。
なぜ、この隠蔽を行うのかと言えば、これまで、不完全な受動的感謝として述べてきたように、感謝すべき対象は意識して把握しようとしても、どこまでも不完全であらざるを得ないからだ。これは、きりがない、という意味で耐え難い。自らが感謝するとき何に感謝しているかがよくわからない、というのは、あまり心地よいものではない。そして、その不完全さに耐えられず、受動的感謝を打ち切り、更なる感謝すべき対象を隠蔽することが受動的感謝の能動的感謝への変質だ。これは、受動的感謝に対する裏切りである。
そして、その裏切りには特徴がある。能動的感謝の対象は、商取引つまり資本主義、家族、神との契約、いずれも、人間が考えた、人やモノ、つまり人と世界との関係についての概念であるということだ。隠蔽の方法として、人と世界との関係についての概念が使われる。他にも同様の例を見つけることができる。例えば「日本人だから、年金をもらえる。
だから、日本人であることに感謝しよう。」というのは国家という概念に能動的感謝を行うことで、それ以上の受動的感謝を放棄しているということだ。また、「民主国家だから、自由に発言ができる。だから、民主国家に生まれたことに感謝しよう。」というのは民主主義という概念に能動的感謝を行うことで、それ以上の受動的感謝を放棄しているということだ。このように、これらの概念は、感謝すべき対象を恣意的に制限し、隠蔽するように働いている。なお、神に対する態度としてよく言われることに、神に根拠を求めてはならない、というようなものもあるが、これは、この隠蔽をも隠蔽しようとするものだとも言える。
少々脱線するが、私は、このような隠蔽をやめるべき、というような主張をしているのではない。隠蔽は、社会、集団というものが成立するためには必然であるとさえ考えている。
どういうことか説明しよう。不完全な受動的感謝の対象は、例示列挙なのだから、個人間でどこまで例示列挙しているか、どこまでイメージしているかの違いがある。例えば、私は、食材を作ってくれた農家には感謝しているが、食材を運んでくれた運送業者への感謝は意識していないとする。一方で妻は、食材を作ってくれた農家にも、食材を運んでくれた運送業者にも感謝している、というような違いがあるとする。そうすると、私と妻とは、感謝、食材、運送業者というものの概念を共有していないこととなる。妻が、運送業者という言葉を使ったなら、そこには「さっき使った食材を運んでくれた感謝すべき人」という意味が含まれているが、私がその言葉を受け取ったなら、「感謝すべき人」とうような意味合いは含まれない。つまり、私と妻の間では正しいコミュニケーションが成立しない。正しいコミュニケーションを成立させるには、両者が持つ概念の意味を完全に一致させるか、それが無理なら、同じように考えているのだろう、とみなすしかない。この、みなす、という働きが、能動的感謝が感謝すべき対象を隠蔽するということである。この隠蔽がなければ、社会におけるコミュニケーションは成立しない。これが隠蔽は必然だと言った理由である。
また、更なる脱線をしたい。商取引、家族関係、神というようなものが、能動的感謝における限定の理由として用いられると言ったが、これらには象徴となるモノがあるという共通点がある。商取引の象徴としては貨幣があり、家族関係の象徴としては戸籍や家系図、または血といったものがある。神の象徴としては十字架や仏像といったものがあるだろう。
そして、更なる共通点としては、これらのモノには、単なるモノとしての意味を超えた、象徴的な力があるということがある。これは、能動的感謝の対象の全てを商取引、家族関係、神というような概念そのものに負わせることに耐えられず、実体としてのモノに負わさざるを得なかったということを意味するのではないだろうか。受動的感謝の能動的感謝への変質、能動的感謝による更なる受動的感謝の隠蔽は、能動的感謝に無理をさせているように思われる。
話を戻すと、このような隠蔽も受動的感謝自体には届かない。先ほど受動的感謝は無意識の領域にあり、受動的感謝は意識しなくてもあると言った。つまり、能動的感謝により、意識的な受動的感謝を不完全なものとして打ち切ったとしても、意識されていないところに受動的感謝はあり続ける。能動的感謝により裏切られても受動的感謝はあり続ける。
それでは、意識的な感謝を打ち切り能動的感謝としても、打ち切らず、不完全な受動的感謝としても、無意識にある受動的感謝から見れば、全く無関係だということなのだろうか。意識的に感謝をするということは、無意識にある受動的感謝との関係では何をしているのだろうか。このことを考えるために、少し視点を変えてみよう。