エドワード ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」という本を借りて読んだ。

筆者が意図していないだろう方向で興味深かったのでメモ。
(返してしまい手元にないので不正確かもしれません。)

この本では、ルワンダやパレスチナなどを材料に、
国連などが紛争や戦争に中途半端な介入をすると、戦争による問題解決のプロセスを中断してしまう。その結果、戦争で被害が生じたうえに、もともとの問題も解決しないか、更に悪化するという最悪な結果を招いてしまう。
ということを主張している。

多分、そのとおりなのだろう。
ツチ族を虐殺したフツ族が、ツチ族による報復を恐れ、国連の介入で設置された国境近くの難民キャンプに避難する。そして、難民キャンプを拠点に、フツ族が、ツチ族に更に報復する。
このようにして、介入が憎悪の悪循環を維持・強化する。

そして、筆者は、この最悪な事態を避けるためには、とことん介入するのを覚悟するか、それとも介入しないか、の二者択一しかないとする。

とことん介入するとは、つまりは自然死による世代の全入れ替えまでの間の体制の維持・構築だろう。
ルワンダの例なら、ツチ族とフツ族の間でトラブルが生じないよう、ルワンダ全土に先進国並みの警察機構と教育機構を構築するための人と金を投入し、それを2世代分、つまり50年間維持するということだ。

そして、介入しないとは、フツ族かツチ族のいずれかの報復が物理的に困難になるほどに虐殺を進行させるということだ。

いずれもが受け入れ難い選択肢だが、選択肢はそれしかない。それは事実だろう。
確かに工夫や努力により若干の改善はできるかもしれない。劇的な教育の効果により大規模派兵の期間を50年から40年に短縮したり、100万の虐殺を80万の虐殺に留めることはできるかもしれない。
しかし、あくまでも改善を積み上げるしかない。
50年を5年に短縮したり、100万を10万に削減するような魔法はない。

筆者はこれを戦争というものが持つ肯定的な力の例として描いている。
長期間の大規模派兵という軍事的にありえない選択肢を除いては、戦争が持つ問題解決の力に頼るしか無いという訳だ。

しかし僕は違う側面に着目する。これは、人と人の相互理解というものの難しさの一例なのではないだろうか。
フツ族とツチ族の相互理解は、これほどまでに難しい。
しかし、この困難さは、ここまで極端ではなくても、人間関係があるところ、どこでも同じなのではないか。

職場で上司が部下に指示をする場面では、どんなに簡単に噛み砕いて指示しても、また、かなりの時間をかけて指示の確認をしても、それでも理解のずれは生じうる。
契約の場面でも同じだ。きちんと契約書を作っても争いが生じ、訴訟になることはありえる。
どんなに気が合った長年連れ添った夫婦でも、思い違いはある。

そして、これは、僕が注目している哲学対話の場でも同じだ。
どんなに言葉を交わしても、お互いに完全な理解に至ることはない。
もやもやはどこまでも残る。

これらは全て、ルトワックが指摘した戦争の問題と同じなのではないか。相互理解というのはそんなに簡単に達成できるものではない。軽々しく相互理解という果実を得ようとするとしっぺ返しにあう。
理想主義者の国連職員が最悪の結果を招くように、軽々しく相手を理解しようとし、相手の理解を得ようとすれば、ろくな結果にならない。

なんだか身も蓋もない結論だけど、冷徹な事実だろう。
だけど、救いもある。
実感として思う。
変に相互理解なんてものを求めるとろくなことはないけれど、自然体でいれば、なぜか相互理解が向こうからやってくることもある。

多分、政治の世界だってそうなのではないだろうか。