哲学カフェに参加するとき、僕は自分のモードを少しだけ切り替えるようにしている。深呼吸をして、少し心を落ち着ける感じ。
そのようにして対話に入り込み、いい感じで話が盛り上がってくると、人と人の言葉が絡み合い、参加者という人間とは別に、対話の「場」それ自体が独立して存在するように思えるときがある。

時々しか気付かないけれど、こういう意味での哲学対話の「場」というのは、いつも潜在的に存在しているのではないだろうか。
そして、哲学対話とは、参加者全員で協力し、この「場」を育てるゲームなのではないかと思う。繊細な植物を育てるように。

この「場」は、対話のなかでの言葉を養分にして成長する。発せられた言葉だけでなく、その言葉が引き起こす波紋、無言のなかでの心の揺れ動きや、眼差しや息遣いといったものさえも養分とする。

だからと言って、うまく話す必要はない。感動させたり、変に面白がらせたり、論理的に説得したりする必要はない。
必要なのは、話す技術ではなく、聞く技術だ。
他の人の発言が自分の考えと違っていても、浅い考えと思えても、その発言に耳を傾け、その中にある最良の部分を見出し、受け止めることで、それは「場」を成長させるための栄養となる。
「場」が成長するかどうかは、話し手ではなく、聞き手にかかっている。

しつこいが、話す技術は二の次だ。
だから、自分の考えがうまくまとまっていなくても、これまでの話の流れから少々ずれていても、その発言が、「場」を育てようとする真摯なものと思えるなら、他の参加者を信頼し、言葉を放り投げてしまっていい。きっと誰かが拾ってくれて、それも「場」を成長させるための栄養となる。
(一見、誰も拾ってくれなくても、きっと誰かの心には残って、それも栄養になる。)
「場」の力に身を委ねて、自分ではなく「場」が話しているのだということにしてしまえばいい。