夏休みに一人旅で福建土楼を見に行ったときに思ったこと(メモ)
福建土楼のことは、昔20代の頃にテレビで見て知った。
確か、建築家の人が現地を旅していて「客家の環状集合住宅」というような名前で紹介されていたような気がする。地味な番組だった。
それが妙に心に残っていて、やっと20年くらい経ち、行くことができた。
行ってみると意外と近くて、拍子抜けだった。
そこは朽ちつつある建物だった。どこか共同体社会の名残りのようなものが漂う、淋しげな場所。
だけど、そこには確かに堅固な地縁関係に裏付けられた一種のユートピアがあった。前資本主義的な、息苦しいユートピア。
土楼に入るとは、その共同体の体内に入っていくことだ。
土楼の中心から周りを取り囲む部屋の並びを見ていると、人体の内側から内臓を見渡しているような気分になる。洗濯物などが干された身内にしか見せない一面。
そういえば、老人たちは大抵、土楼の入口の門で寛いでいる。唯一の開口部。共同体と外部の境界部分に人は集う。
このような建物を築いた理由は、外敵からの防衛とか色々と言われているけど、それよりも、この形状が、共同体というもののあり方をうまく表していたからなのだろう。血縁からなる共同体。その血縁を未来永劫残したいという共同体が持つ欲望。その欲望の表現としての建築物。
それが今、朽ちようとしている。