この文章は「子どもの難問」という本に触発されて、2013年の終わりころに書いたと思います。

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「なぜ生きているんだろう?」この問いについては、君も知っていると思うけれど、まだ答えが出ていない。
僕は、このような答えが出ていない問いについて考えるときには、どうして答えがでないのかを考えることが一番大切だと思っている。

答えが出ていない問いはいくつかのパターンに分けられる。
例えば、「君はこれまで何日小学校に通ったか」というような、学校に残っている記録を足してみればわかる「調べれば答えが出るけれど、まだ調べていない問い」がある。
他に、「東京から小田原に行くにはどうしたら一番いいか」というような、早く着きたかったら新幹線で行くし、安く行きたかったら東海道線で行くけれど、どちらでも間違いではないが、どちらが正しい答えということでもない「前提条件の違いで答えが変わるから答えが出ない問い」もある。
他にも、パターンはあるかもしれないけれど、「なぜ生きているんだろう?」という問いは、そのどれでもなく、「実は正しい問題のかたちになっていないから答えが出ない問い」なのではないかと思う。

この問いの答えが出ていない理由は「生きている」という言葉を簡単に使っているからなのではないか。
言いかえれば、「なぜ生きているんだろう?」という問題の前に、そもそも、「生きているってどういうことだろう?」という問いがあるのではないか、ということだ。

僕は、僕の最近の行動を思い出してみる。
僕は、昨日は奥さんと買い物に行って、今日は家族で僕の実家に行った。
朝は、朝ごはんを食べたし、そのあと、歯みがきもした。
呼吸もしたし、頭をかいたりもした。
今は、考えて文章を書いている。
だけど、「生きる」なんてことをしただろうか。

僕は、歯みがきをしてるときに、考え事をしたり、テレビを見たり、呼吸をしたりしたけど、「生きる」ということをした気がしない。
そう考えると、そもそも「生きる」ということをしていたかどうかあやしくなってくる。
「生きているってどういうことだろう?」という問いは、「僕は「生きる」なんていうことをしているのだろうか。」という問いに変わる。

その問いに対する僕のとりあえずの答えは、「僕は「生きる」なんてしていない。」だ。
なぜなら、「生きる」ということをしたということをうまく説明できないから。

ここまで書いて、僕は読み返す。
問題を簡単にするために省略したこともいくつかある。だけど、この結論に至る過程はそれほど外れてはいないと思う。
だけど、「なぜ生きているんだろう?」という疑問を持ったとき、僕が求めていた答えはこういうことではない、という思いが首をもたげる。
どうして、このような思いが生まれてくるのか、これがもっと大きな問題なのかもしれない。