3-1一つ性

以上、私の独我論は、認識論的独我論、意味論的独我論、存在論的独我論を「一つ」にまとめ、更に、時間を物語時間として取り込むことができた。

これは、私がひっかかっている哲学上の諸概念を「一つ」にまとめることができたということである。

そして、ここまで進めた論は、荒っぽいところもあるが、方向性に大きな誤りはないのではないかと考えている。これは、この文章の成果であり、私がこの文を残したいと考えた理由である。

この私の独我論の方向性は、前半で少し脱線したように、独我論でも一元論でも、なんでもよいが、「一つ」というものを目指すものだったと言ってもよいだろう。

というか、「一つ」を求めることが私にとっての哲学の目的であると言ってもよい。

なぜ「一つ」を求めるかとい言えば、「一つ」であることにより、全ての哲学的な疑問を無化できるからだ。「一つ」しかないものに、存在、言語、内包の認識、時間と名付ける必要はなくなる。そのようにして全ての概念は消去できる。これは、入不二によれば、ウィトゲンシュタインが「私」を消去するときに使った手だ。

だから、もし、この私が論じている方向性が正しければ、存在、言語、内包の認識、時間といった、私に疑問をもたらすものたちは消去される。

そして、私の様々な哲学的疑問は消え去り、そこに哲学以前の、当たり前の景色が広がることになるだろう。

3-2個人的な課題メモ:部屋の掃除

しかし、そんなにうまくいくだろうか。

私は、哲学とは、窓もドアもない部屋を掃除しているようなものだと思う。私の哲学は、部屋のホコリをできるだけ一つにまとめ、ゴミ箱に捨てることを目的としている。しかし、そのゴミを持ち出す先はない。一つにまとまるだけでゴミは部屋に残ったままである。

当然、このゴミとは哲学的疑問のことだ。そして、この私の独我論においては、ゴミは「認識」というかたちで一つにまとめられている。

「認識」に疑問が集約されているということは、まず、認識論的独我論が他の独我論に先行するとしたことに既に現れている。この先行性は、意味論的独我論や存在論的独我論を説明するためには、まずは認識論的独我論を経由しなくてはならないという説明の場における先行性であった。

それができるのは、内包の認識あり、という認識論的独我論の定義の仕方に仕掛けがある。言語ありとする意味論的独我論、存在ありとする存在論的独我論により描かれる世界は、どこまでも抽象的で静的である。一方で、内包の認識ありとする認識論的独我論の世界は、認識という行為がキーワードになっていることからわかるように動的である。

また物語時間について論じる際にも、認識が動的であるということは大きな役割を果たしている。物語時間における未来つまり言語は、可能性があるでもなく可能性ないでもない、という独特の在り方をしていると言った。この可能性とは何かと言えば、未来が語られて既に語られた物語となる可能性のことである。言い換えれば内包として認識される可能性のことである。この可能性が、あるでもなく、ないでもないという述べられ方がされるのは、認識というものが動的だからである。

そして、現実時間にも認識は関わる。というか、認識されていないものを認識するということが認識の意味ならば、そこには時間経過があり、現実時間における未来が過去になるということは、認識というものの動的な側面そのものであるとも言える。認識が動的なあり方をしているということを考慮外とすることと、現実時間を否定することは同じことである。

また、時間に対して抱く「時間は流れている」としか言いようがない、ある感じについても、この文章のなかでは十分に分析できておらず、認識の動性のなかに託してしまっている感がある。

認識はなぜ、どのようにして動的な在り方をしているのか、この解決していない疑問が、私の独我論においては、部屋の隅で一つにまとまったゴミの正体である。

このゴミを更に片付けることはなかなか難しそうだ。

なぜなら、認識が動的だからこそ、私の独我論は独我論の外に接続し、独我論の外から何かを導入し、独我論の第一歩を踏み出すことができるからだ。

そして、独我論を語るということ自体は、独我論のなかでは説明しきれない。独我論というものを位置付ける外がなくてはならない。

あえて言えば、語るという行為、つまり哲学において、その外はなくてはならない。

ここに、私の独我論、哲学というものの限界があるのかもしれない。

そして私は、動的な認識を通し、私の独我論の外に、私の独我論の生き写しのような、あたり前の客観的な世界を想定してしまう。その世界には、客観的な内包の認識、客観的な言語、客観的な存在があり、客観的な時間がある。あたり前の世界とは、この客観性の蜃気楼のことなのかもしれない。この幻が、私が他の文章でアミニズムと呼んでいるものだろう。

このように考えると、なんだか暗い気分になってしまう。

しかし、部屋の掃除の比喩により希望を見出すこともできる。

この掃除は、どんな道具を使って行なったのだろうか。この文章における掃除道具は、「存在」、「言語」、「内包の認識」、「時間」といった概念たちだった。

これらの概念を掃除道具として用いたのは必然なのだろうか。それとも恣意的なのだろうか。

私には必然に思える。そして、掃除により、最終的に「認識」というひとつのところに疑問を集めることができたことも必然に思える。

なぜなら、この掃除は現に行われており、私には、それ以外の別のやり方をするということが思いつかないからだ。

哲学的掃除は、必然的に、あるやり方で現に行われる。そこに別様の在り方はない。この必然さは、哲学が持つ力なのかもしれない。