2014年10月12日作の続きですね。1年空けて先日とは・・・
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私は、先日、学生Cは脇役で当て馬だと書いた。
しかし、改めて読み返すと、p.177(以下、ページは単行本)で先生が「ここでは、少なくとも、C哲学、D哲学、E哲学、F哲学、G哲学、という五つの相互に対立する哲学説を同時に展開してみたかったんだ。」と言っており、脇役だというのは誤りだ。
しかし、当て馬というのは、それほど間違えてはいないように思う。
それは、レポートを掲載されていない、ということにも現れているし、p.147、148の学生Fと先生のまとめ方(?)にも現れている。
ここでの話は、まとめると「学生Eが独在性を主張することは、ある側面では正しいが、別の側面からは独在性を捉えきれていない。学生Cがどこまでも概念化できると主張することは、ある側面では独在性を逸しているが、別の側面からは正しい。という二側面がある。」というような話になるだろう。
そして、学生Fと先生を受けて学生Dはp.148で「独在論を内側から把握するという行為そのものが-つまり行為の現実性が-独在性を作り出す」とも言っている。
これは、つまり、「学生Eの独在性を主張する行為も、学生Cの概念化を主張する行為も、どちらも内側からの独在論の把握に向けたものであり、その行為の現実性が独在性を作り出している」という意味に解釈できるのではないか。
そして、これが、多分、この本における学生Cの位置付けなのではないかと思われる。
この位置付けが、私は当て馬だと感じる。
私は、学生Cは、この位置付けに納得していないのではないかと思う。
いや、この本に即して解釈する限りは、多分、納得しているのだろう。例えばp.155に「〈私〉と思ったときにはすでに〈〈私〉〉になっている、ということですよね?」という発言がある。ここには、概念化しきれないものとしての独在性を認識している学生Cがいる。
しかし、私が想定したいのは、この位置付けに納得していない学生Cだ。この本を離れるかもしれないが、独在性に全く興味が無い学生Cだ。独在性盲である学生Cと言ってもいいかもしれない。その学生Cは、どこまでも「もともと〈私〉なんてないし、どこまでも概念化できるとする私の主張は何も逸していない。」と主張するはずだ。だから、p.147から148の学生Fと先生のまとめにも納得しない。
そんな学生Cの主張がどのようになるか、私が考えたところで述べてみたい。
まず、直近の授業で話があったところを手掛かりとするならば、p.87、88に〈〈私〉〉とは情報体だとする学生Cの主張がある。
ここの学生Cの話はわかりにくく、文字通りに受け取ると、なんだかつまらない話のように思われるので、私なりに拡張しつつ理解してみる。
学生Cは、「魂は肉体から自由なんだ。」と言っている。私は、この言葉で、なんとなく、彗星みたいな人魂みたいなのが、地球と火星の間をピュンピュン自由に行き来している状況をイメージしてしまった。つまり、何か物質的な魂をイメージしてしまった。
しかし、そうではない。(と入不二先生も言っていた。)この魂は、情報体なのだから、肉体のような空間上に存在する物質とは違う在り方をしていると考えるべきだろう。
物質とは別の次元に存在していると考えてもいいかもしれないし、確率論的に存在する素粒子のような在り方をしていると考えてもいいかもしれない。とにかく、常識的な意味での「物質の存在」とは、違う存在の仕方をしていると考えるべきだ。
どのような違い方はは別にして、ここには二元論的な考え方が前提にあるように思われる。
物質の世界と魂の世界があり、それぞれは全く別のあり方をしている、という枠組みだ。
それでは、その枠組みに乗っかって、具体的にどのようなあり方なのか、考えてみよう。
この場合、物質の世界については常識的な捉え方をしてかまわないだろう。どのような捉え方でもよいが、まあ、現代であれば、科学的な常識的な世界と考えることでよいだろう。
一方で、魂の世界はどのようなあり方をしているのだろうか。細かいバージョン違いはあってよいだろうが、少なくとも、学生Cの発言にある「火星に送られる」「火星の〈〈私〉〉に合体して」というようなことが字句通りに起きるような在り方ではないはずだ。これらの考え方は、私が誤解したような物質的なイメージを惹起させてしまう。
それよりも、魂は物質と全く別な在り方をしているのだから、このような空間的な障壁はなく、もともと、魂は火星の肉体にも地球の肉体にも紐付いている、と考える方が、学生Cが述べようとしていたことに合致しているだろう。魂は、地球の身体の死をきっかけに移動するのではなく、もともと火星の肉体とも紐付いている。だからこそ、地球の肉体が心不全となっても、その後火星の肉体で生きるといえる、ということだ。
また、前回の文書で話題としたp.84の学生Cの言葉、つまり、私の言葉に言い直してしまうと「地球に残った私にとっての過去である分裂前の時点から見れば、地球の私も火星の私もどちらも私だ。そして、そのことは、火星に残った私にとっての過去である分裂前の時点から見れば、地球の私も火星の私もどちらも私だ、とも言える。」という考えを踏まえると、この〈〈私〉〉つまり魂は、時間的な障壁もないはずだ。
つまり、魂には、空間的にも時間的にも障壁はなく、地球の過去の肉体にも、地球の未来の肉体にも、そして火星の未来の肉体にも紐付いているはずだ。
そして、先生は、この学生Cの考え方を機能主義と言っていた。(前回、物理主義としたのは訂正します。)つまり、空間、時間を超えて共通する、学生Cとしての機能の共通性こそが学生Cの魂だということになる。
このように考えると、物質の世界として空間的、時間的な世界があり、魂の世界として機能の世界がある。そのようなかたちで、二元論的な世界が導かれるということになる。
ここで、ここまでの話を2通りに拡張ができないだろうか。
まず、第一の拡張の方向だが、これまで魂を学生Cの機能として捉えたが、機能の内容を学生Cとしての機能に限定する必要があるのだろうか。その機能は、学生Eとしての機能でもいいのではないだろうか。
学生C、学生Eという本の登場人物ばかりだとややこしくなるので、実在の人物に話を移すと、宮藤官九郎の魂とは宮藤官九郎としての機能で、ピエール瀧の魂とはピエール瀧としての機能ならば、なぜ、その二つの魂は別のものだと言えるのだろうか、というように置き換えてもよい。
これまでの議論において、魂を機能性の側面から純化し、空間的、時間的な制約を超えたものとして捉えているのだから、更に、内容という制約を超えてもいいのではないだろうか。ここまででも既に、転送後の火星の魂と、地球の魂を、同じ学生Cの機能だからということで、転送後の記憶のずれや、転送後の体験のずれにより生じるだろう微細な性格等のずれを無視している。例えば、転送後に地球に残った学生Cは、心不全で死ぬまでの間に、鯖にあたって、鯖が嫌いになっているかもしれない。それは内容の差異を超えているということになろう。
そう考えると、もう一歩進めて、その魂が宮藤官九郎としての内容なのか、ピエール瀧としての内容なのか、というようなずれを無視してもいいのではないだろうか。(先生は魂の数は数えられないと言っていたが)あえて数えるならば、宮藤官九郎の魂と、ピエール瀧の魂が2つあるのではなく、1つの魂が、宮藤官九郎にとっては宮藤官九郎として機能し、ピエール瀧にとってはピエール瀧として機能する、と考えるべきではないだろうか。
そう考えるならば、これは、宮藤官九郎やピエール瀧、もしくは学生Cや学生Eに留まらない。およそ全ての人間、一般的に魂のようなものがあると思われている存在全てに当てはまることになる。
要約すれば、全ての人間は、機能というかたちで、共通の一つの魂と紐付いており、それぞれの違いは、現れる機能の違いに過ぎない、ということになる。
そして、この拡張は人間に留まらないだろう。時計には時計としての機能があり、雑草には雑草としての機能がある。アンドロメダ星雲にはアンドロメダ星雲としての機能がある。その機能を、時計や雑草やアンドロメダ星雲の魂だと捉えれば、およそ全ての物質には機能という魂があり、その魂は、機能であるという点で共通の一つの魂に統合されるということになる。だから、魂は原理的に一つしかなく、一つしかないものは数えられない。ということになる。
ここで、自分とピエール瀧が同じ魂だということまでは受け入れられても(ここまでは、なんとなく、死後に魂が神様と合体するようなイメージで理解できそうな気がする。)自分と時計が同じ魂だということは受け入れられない人もいるかもしれない。
実は、私もそれを懸念して、途中から〈〈私〉〉という言葉を使わず、その言い換えとして魂という言葉を使ってきた。
私やピエール瀧には〈〈私〉〉があるが、時計には〈〈私〉〉がない。
そこに確かに大きな違いがある。だから、自分とピエール瀧は〈〈私〉〉があるという意味で同じ魂でも、ピエール瀧と時計では、機能を有するという点では共通性があるとしても、時計には〈〈私〉〉がないのだから同じ魂があるとは言えないようにも思える。
しかし、機能主義を徹底するならば、〈〈私〉〉というものも、ある原点から世界を捉える機能であったり、自分自身というものを内側から捉える機能であったり、と、何らかの機能に還元できるはずだ。つまり、〈〈私〉〉は機能の一つにすぎない。
よって、正確に言えば、魂、つまり機能は、人間には、〈〈私〉〉という機能を含むものとして紐付くが、人間以外の物(例えば時計)には、〈〈私〉〉という機能は含まないものとして紐付く、ということになる。
この差異は、魂、つまり機能は、宮藤官九郎にはロック好きという機能を含むものとして紐付き、ピエール瀧にはテクノ好きという機能を含むものとして紐付くということと本質的な違いはない。(ほんとうにロック好きか、テクノ好きかは実際のところはわからないけれど、宮藤官九郎=グループ魂、ピエール瀧=電気グルーブということで。)
なお、ここまで機能という概念でまとめてきたが、これは、学生Cがよく用いている構造という言葉を用いても構わない。
宮藤官九郎にはロック好きになるという構造があり、ピエール瀧にはテクノ好きになるという構造があり、それらは一つの構造における部分である。そう言っても、これまでの議論の言い換えとして通用するだろう。
以上をまとめると、魂というものは、学生Cの魂であったり、学生Eの魂であったりするのではなく、機能を有するもの全てに共通の一つの魂があるというあり方をしているということだ。これが、私が考えた第一の拡張の方向性である。
次に、第二の拡張の方向を示したい。そもそも、魂と物質の二元論で捉える必要はないのではないだろうか。この二元論を取り払う形での拡張ができるのではないだろうか。このような方向である。
ここまで、第一の拡張として、機能としての魂を最大限に拡張してきた。その拡張は時計のようなものにまで広がり、およそ全ての存在に対して広がっている。とすると、そこに収まらない物質などというものが、どこに残るだろうか。
私達は、時計については、時計という機能としてしか捉えることができない。時計はチクタク動いて時刻を表示する機能を持っているだけではなく、私の机の上にある時計は、私の目に時計という形を映し出すという機能も持っている。その時計を手に取ると、手に重みを感じさせるということも時計の機能である。そう考えると、時計としての機能ではない、時計という物質自体はどこにあるのだろうか。私達が把握できる時計とは、時計の機能のことなのではないか。つまり、魂と物質の二元論は、魂の一元論に拡張できうる。
多分、これは、従来からある認識論的な懐疑のひとつのあり方なのだと思うが、魂と物質という二元論は、容易にこのような懐疑に付されることは確かだろう。
そして、大事なところだと思うが、学生Cの独在性盲としての立場は、このような懐疑では揺らがない。
仮に、認識論的な懐疑により物質の世界が否定されたとしても、機能という魂の世界は残る。そして、その世界は、私の独在性や、絶対現実というようなものとは異なる。そこには、少なくとも、この本での永井先生には回収されない学生C独自の立場がありうる。(正確には、この本の中で話を進める立場で、便宜上行っているN先生の主張には回収されない何かがある。)
このような学生Cの機能としての魂の世界は、独我論的な傾向がある私からすると、入不二先生が「ウィトゲンシュタイン」の論理哲学論考上の独我論として述べているある種の究極的な独我論と区別がつかない。
私ならば、そのような機能は誰のものか、ということをどうしても考えてしまい、そこに〈私〉のようなものを見出してしまうし、その機能が現にあるとはどういうことか、ということをどうしても考えてしまい、そこに絶対現実のようなものを見出してしまう。あまりにも容易にその一歩を踏み出してしまうので、私には、そこで踏み出さないことが理解できない。
しかし、それ以上、議論を先に進めずに踏み留まることができる独在性盲としての学生Cのような人がいてもいいだろうし、踏み留まることで失われるものは、語りうるものとしては存在しない。少なくとも、語りうるものの限界の内側での論理哲学論考的な立場に立つことはできるのではないだろうか。
いや、踏みとどまってすらいないのかもしれない。
なぜなら、学生Cは、もし、議論の相手が、私の独在性や、絶対現実というようなものを持ちだしたなら、それに対しても、「それは、そのような機能ではないのか。」と応答するだろうからだ。(実際に、学生Cは本の中でそのような話をしている。)そうではないと、いくら説明をしても、「それは、そのような機能ではないのか。」と応答し続けるはずだ。学生Cがどこまでも真摯に議論に参加しているならば、その応答はどこまでも続かねばならない。
よって、学生Cとの議論を終え、独在性や、絶対現実というようなものを語るためには、その応答を拒否するしかない。つまりは、議論を先に進めずに踏みとどまっているのは、学生Cではなく、私の独在性や、絶対現実を語る私(達?)の側なのかもしれない。