2016年7月10日作

PDF:僕の哲学の実践編

1 僕の哲学

1−1 私と他者
僕は哲学的なことを考えるのが好きで、時々、哲学的な思考について書きとめている。
今回は少し切り口を変え、哲学的な思考自体ではなく、哲学的な思考の成果を実生活に反映するということについて書いてみたい。いわば、僕の哲学の実践編だ。
だから、あまり哲学的にややこしい話にはしないつもりだ。だけど、哲学的な切り口から説明したほうがわかりやすい人もいるかもしれないから、最初に、僕の哲学的な問題意識について、少しだけ哲学的にややこしく紹介しておきたい。

そんなことに興味がある人がいるかどうかはわからないが、僕の哲学が始まる地点を確認しておこう。
僕は今ここにいる。そんな僕以外の存在は全て他者だ。隣でパソコンをいじっている奥さんや、机の上のティッシュの箱は他者だ。数日前にロックフェスに行った僕や数時間後に昼ごはんを食べるだろう僕も他者だ。今、ここの僕だけが「私」で、それ以外は他者だ。
これは、あまり共感を得られない捉え方かもしれない。だけど、僕のこの視点を共有してもらわないとと話が進まない。なんとなくでいいから、「今」「ここ」という特別さを感じてから、この先を読み進めてほしい。

むりやり共通認識を持ってもらったところで話を進めると、この、少々非常識なかたちで読み替えられた「私」と「他者」、つまりは、今ここの僕とそれ以外の他者というのは、いったい何なのだろう。
僕は、そんな述べ方で浮かび上がる哲学的問題に囚われている。そんなところから僕の哲学は出発するのだ。
(本当は、この述べ方にも既に問題があり、厳密には、もう少し手前から僕の問題は始まるのだけど、かなりマニアックな話になるので、説明の都合上省略する。)

1−2 ありそうな反論への再反論 ①箱ティッシュ
僕の哲学に対してありそうな反論を想定し、その反論に再反論するかたちで、この僕の哲学をもう少し説明しておこう。
想定される反論はこのようなものだ。
「今の僕以外の存在は全て他者だなんて述べ方はおかしい。奥さんが他者というのはわかるけど、箱ティッシュはそもそも人じゃないし、過去や未来の自分は自分なのだから他者ではないでしょ。」
この反論に再反論してみたい。

まず、箱ティッシュ問題について。当然、奥さんは人で、箱ティッシュは物だ。これは簡単に区別できる別の物だ。しかし考えてみよう。奥さんと箱ティッシュを区別するとは、つまりは人と物を区別するということだ。この区別は、一見容易に思えるが、精巧なロボットや植物人間のような存在を考えるならば、かなりの難問だと予想できるのではないだろうか。これはいわゆる哲学的大問題だ。

想像してみよう。目の前にASIMOのような素朴なロボットがいるとする。まずASIMOの脳を人間と同レベルのものにぐんとアップグレードする。これは思考実験だから、それが現代の科学で可能かどうかというのはとりあえず無視する。人間の脳と同レベルの処理ができるようになれば、新ASIMOは人間と同程度の情報処理を行い、同程度のアウトプットができるようになる。「生キルノハ大変ダケド楽シイ」なんて発言したり、「私ハナゼ存在スルノカ」なんて問いを発することさえできるようになる。
そして、更に新ASIMOの体に人間と同程度の機能を持たせてみよう。人間と同程度の視覚や聴覚といった機能を有するセンサーを取り付け、二足歩行をし、二本のアームを有するようになる。サイズも170cm程度に抑える。これで新ASIMO2の完成だ。
仕上げとして、新ASIMO2の全機能を、金属やシリコンではなく、タンパク質等の人間と同じ材質と構造・形状で再現する。人工の骨や筋肉でボディを置き換え、内蔵も3Dプリンタか何かで人間とそっくりに作った臓器で置き換える。頭脳も人間の脳と全く同じ構造で作成する。これが新ASIMO3だ。
ロボットの進化をかなり端折って想像してみたが、この新ASIMO3は精巧なロボットだろうか。それとも人間だろうか。この問題は容易には答えられないだろう。だから哲学的な大問題なのだ。僕は人と物の区別の問題をこのようなかたちで理解している。

思うに、この問題を考えるためには、その手前ある私と他者という問題に目を向けなければならない。人か物かという違いの手前に、ロボットも植物人間も、ティッシュも奥さんも、いずれも僕ではない他者だという共通点があることに目を向けなければならない。この視点を強調するために、僕は物であるティッシュも、人である奥さんも他者として括り、私と他者の問題として表現している。ある哲学的問題を考えるためには、このような視座は有効と思える。
これで、箱ティッシュ問題については再反論することができたのではないだろうか。

1−3 ありそうな反論への再反論 ②過去や未来の私
次に、過去・未来の私は「他者」で、今の私こそが「私」だという、ちょっと異常な捉え方についても考えてみよう。
常識的にいって、過去の私と今の私と未来の私は、どれも私で、いわば不可分の存在だ。この3つの私がイコールで繋げられるからこそ、私が時間の流れの中で存在できるとさえ言える。
しかし、このイコールで繋がるという点に僕は疑問を投げかけたい。今の現にありありと世界を感じている僕と、過去の記憶のなかの僕や、未来の想像のなかの僕には違いがあるのではないか。

数日前にロックフェスに行った僕は、今の僕ではない。今の僕はパソコンで文章を書いている。確かに、僕はロックフェスでの好きなバンドの演奏をありありと思い出すことができる。その思い出の現実感は、現にその場に行った本人だからこそ感じることができるものだ。しかし、そのロックフェスの思い出のありありとした現実感は、今、僕が目の前のティッシュペーパーの箱を見ているということのありありとした現実感とは全く違う。「ありありとした現実感」という同じ言葉を使っても、過去の記憶のありありとした現実感と、現在のありありとした現実感は全く違う。

僕の感じ方を言葉にするなら、今の僕から見て、過去の僕は少し遠い。その遠さは、僕が他者に対して感じる遠さに似ている。目の前に座っている奥さんが「そこにティッシュの箱が見えるよ。」と言ったなら、奥さんにティッシュの箱が見えていることは「ありありとした現実感」を持って理解できるけれど、その現実感は、実際に僕にティッシュの箱が見えていることとは距離がある。その距離と同じような距離を、過去の僕が「ありありとした現実感」を持ってティッシュの箱を眺めていたことに感じる。
そのような今の僕と過去の僕の違いを強調する意味で、今の僕としての「私」と過去の僕としての「他者」という問題の立て方をしている。

未来は更に旗色が悪い。数時間後に昼ごはんを食べるだろう僕は、想像のなかにしかない。もしかしたら急用で昼ごはんを食べる暇がなくなるかもしれないし、数分後に隕石が落ちてきて即死してしまうかもしれないし、宇宙が消滅してしまうかもしれない。未来の僕は予測できないという意味での、ある種の断絶がある。未来の僕は、過去の僕よりも更に遠くにいるような気がする。
その距離感は、イルカやネコや魚のような人間ではない動物に感じる遠さに似ている。感じ方は人によりけりだろうが、イルカやネコや魚のような動物たちが、喜びや悲しみのような感情を持っているかというと微妙だ。あると想像することもできるけれど、実際はないかもしれない。このわからなさは、いつか科学が発達すれば簡単に解決する類の問題ではない。仮にネコ語翻訳機のようなものができて、ネコの「ニャー」が「美味しいご飯で嬉しい。」を意味することがわかったとしても、その嬉しさが人間の嬉しさと全く同じ質をもったものかどうかは、そう簡単にはわからないはずだ。多分、ネコの嬉しさも人間の嬉しさと同じようなものなのだろう、と想像するしかない。
この「想像のなかにしかない」という点で、動物たちの内面と未来の僕は似ている。僕にとっては、ティシュペーパーの箱もネコも他者だから、今の僕と未来の僕という問題も、私と他者という問題の系列に含まれることになる。

細かい点については異論があるかもしれないが、控えめに言って、僕にとっては、今の私と、過去や未来の私は少し違う。イコールではない。そこには時間という問題と絡み合うかたちで、私と他者という問題が成立している。
とてもざっくりとした説明だけど、僕はこんなふうに私と他者というかたちで哲学的問題を立てている。そして、その問題に囚われている。

1−4 対話
ここまでで、僕の哲学的な問題は、少なくともある一面では、私と他者という問題として立ち上がっているということを説明した。
そして、この問題をあれこれ考えているうちに、僕は、私と他者にまつわる一連の問題は、「対話」という切り口でうまく説明ができるのではないか、という予感を抱きつつある。
僕は奥さんに語りかけ、奥さんも僕に語り返す。箱ティッシュについても、僕は箱ティッシュを見つめるというかたちで働きかけ、そして箱ティッシュは僕の網膜に画像として立ち現れるというかたちで語り返す。過去の僕についても、今の僕が思い出すというかたちで働きかけ、過去の僕は記憶として脳内で再生されることで語り返す。未来の僕についても、今の僕は予測するというかたちで働きかけ、未来の僕は想像として立ち上がることで語り返す。
これらの営みには、いずれにも、対等な二者間のやりとりという双方向のベクトルがあるように思える。今、ここの僕が、奥さんやティッシュの箱や過去・未来の僕を、自分自身と対等の者として認め、働きかけることで、他者も語り返してくれる。または、他者が語りかけてくるからこそ、その他者を対等な存在として認めることができる。このような双方向のベクトルがあるように思える。
これを、僕は「対話」と名付けたい。
あくまで予感だが、思うに、この世界は「対話」で成り立っているのではないか。と言うと強すぎるので控えめに言うと、世界というものを「対話」という切り口で捉えるというのは、いいアイディアではないか。これが今のところの僕の哲学的思考の最前線だ。

なお、念のため言っておくと、僕は「対話」こそが問題の答えだと言っているのではない。僕は、複雑で、少々混乱している私と他者にまつわる諸問題を、「対話」という切り口で整理し、「対話」についての問題として言い換えることを目指している。だから、もし僕が目指すことが完全に実現したとしても、「対話とは何か。」という問題だけは残るはずだ。私と他者の問題系にある混乱を解きほぐし、「対話とは何か。」という問題として整理することを目指している。これが現時点での僕の哲学の目標設定だ。

この目標に向かっての取組の成果については、そのうち、きちんと書いておきたいが、今回は、小難しい話はこれくらいにして、この文章では、「対話」というキーワードを僕が実生活にどう反映し、活用しているかについて述べていきたい。

2 実生活への反映

2−1 人との対話 ①ダイブの手順
最近、僕は「対話」ということをなるべく意識して生活している。
ここまで長々と述べたように、僕にとって、対話というキーワードはとても魅力的で、これこそが求めていたものではないか、という予感がある。だけど、ひとつのアイディアに囚われ、事実から目を背けることほどつまらないことはない。だから、その反証が実生活にころがっていないか、対話というキーワードで捉えることでこぼれ落ちてしまうものがないか、日々、気にして過ごしている。
しかし、いいのか悪いのかわからないけれど、今のところ、対話というキーワードがとてもうまくいってしまっている。客観的にどうなのかはよくわからないが、僕にとっては、対話というキーワードは実生活において、とてもいい感じなのだ。

まず、「対話」が最も当たり前にうまく当てはまりそうなのは、人と接しているときだろう。
そして、実際、うまく当てはまっている。人と接するとき、対話を意識することで、僕の人生は改善されている。
それでは、人と接しているときに、具体的にはどのように対話を当てはめているのか。

先ほど少し触れたが、僕は対話においては「自分と同じ」という対等性を他者に認めることが重要だと考えている。
目の前で僕に向かって話している人は、僕と同じように、ありありと世界を感じ、考え、生きている。言ってしまえば当たり前だけど、知識として知っていることと、そのように実感することとは違う。少なくとも、僕にとっては、誰かを自分のように感じるのは、かなり難しいことだ。
僕は、自分と同じような他者の存在ということを意識的に実感するために、最近、ある技を編み出した。その技を「ダイブ」と名付けた。

ダイブとは、僕の魂というか存在を、そのまま会話の相手の体の中に潜りこませようと意識することだ。
まず、自分自身、つまり、ありありと世界を感じる自分、生まれ、生きてきたという歴史を持つ自分、そして、その歴史に裏打ちされた自分なりの概念枠を持った自分というものを、そのまま、相手の中に潜りこませる。
そして、そのままだとその相手は自分になってしまうので、次のステップとして、自分自身の歴史、概念枠といったものを一旦脱ぎ捨て、裸の存在になることをイメージする。
その後、服を着替えるように、自分の服を脱ぎ裸になった存在に、相手としての服を着せていく。その相手について、僕が知る限りの情報に基づき、その人なりの歴史、概念枠といったものを想像で補い、身につけようと意識してみるのだ。相手が女性なら、僕が想像できる範囲での女性的な概念枠をありありと感じてみる。もし、その人が過去に大病をしていれば、僕が想像できる範囲での過去の大病の記憶をありありと身につけてみる。相手が僕に向かって話をしているならば、その話の内容について、自分の文脈ではなく、相手の文脈に乗っかり、なぜそのように話すのか、相手自身の立場で想像しようとする。
このような、まず相手の存在に潜り込み、そして服を着替えるように相手になりきろうとするという手順を踏む手順を意識することで、僕は他者の存在というものをより深く実感できるようになった。
といっても、他者になりきるなんて本来的に無理なことだから、極力想像し、極力実感し、他者になりきろうとする、という努力の方向性が大事なのだろうと思うが。
このように、相手の存在をありありと感じようとする一連の意識の動かし方を僕は勝手にダイブと呼んでいる。

2−2 人との対話 ②ダイブの効用
ダイブとは、いわゆる、他者の立場に立つということだと思う。
他者の立場に立つならば、自分の立場を押し付けてはならない。自分なりの歴史、自分なりの概念枠、そしてその概念枠から導かれる自分なりの思想といったものを、そのまま相手に強要してはならない。
他者の立場に立つにあたっては、自分と同じような対等の存在として相手も存在していると認めることが重要だ。頭でそう考えるのは簡単だ。というか考えなくても当たり前のことだ。しかし、そう実感するのは結構難しい。少なくとも、僕にとっては、かなり意識して、やっと、少し近づけたかも、と時々感じられるくらいの境地だ。自分と同じように相手も存在しているなんて、日常を無意識に過ごしていたら実感できない。
この、僕にはなかなか到達しがたい悟りの境地に近づくために、ダイブという思考の儀式が役立つ。

ダイブすることで、相手が、どうしてそういう言い方をするのか少しわかる気がしてくる。どんな人のどんな言葉であっても、その人なりの歴史を背負っている。その人なりの概念枠に基づいている。「朝鮮人は嘘つきだから朝鮮に帰れ!」というような素朴なヘイトスピーチであっても、その人なりの歴史や概念枠に基づいており、その人なりのストーリーがある。相手を傷つけることに思いを巡らさずに生きてきた歴史や、愛国心や絆といったもので築かれた概念枠、そして、自分のうまくいっていない人生を充実させるために必要なストーリー、そして、それらに基づく怒りのようなものがあるように思える。
こんなステレオタイプな分析に基づいていても、ダイブし、自分と同じような存在であるその人に現に起こっている出来事として実感することで得られるものがある。ダイブすることで、現に、自分と同じような存在である他者が、現にヘイトスピーチをしているということについて、やっと少し理解することができる。そこには必然的にヘイトスピーチをせざるを得ない存在の愛おしさのようなものさえ感じることができる。

これが、人との「対話」を意識して生きるということについて、僕が思いついた実践的なテクニックだ。僕は、このように「対話」を意識して生きることで、僕の人生において、現に成果を出せていると自負している。

2−3 物との対話 ①物との対話とは
ということで、人との対話の話は終わったので、次は物との対話だ。僕は、ティッシュペーパーの箱と他人とは他者という点で共通だと思っているから、ティッシュペーパーのような物との間でも対話が成立し、実践可能ということになる。
しかし、物との対話の実践はなかなか難しい。なぜなら、物と人の違いは、ある種の対話ができないというところにあると思われるからだ。
思うに、人との対話のポイントは、「自分と同じような」存在を認めるというところにある。「自分と同じような」存在だからこそ、相手の立場に立つということが想像でき、実感さえできるのだ。
一方、ティッシュペーパーの箱のような物は「自分と同じような」存在ではない。
四角い紙の箱を「自分と同じような」存在として考えるのは難しい。ぬいぐるみのような物であれば「自分と同じような」存在として扱えるかもしれないが、それは擬人化であり、物を人として扱うことになってしまう。擬人化できないティッシュペーパーの箱のような物とは、人と同じような対話はできない。擬人化せずに、物を物として扱ったまま、対話するとは具体的にどういうことだろうか。

そこで着目すべきは、「自分と同じような」ではなく「存在」のほうだ。
ティッシュペーパーの箱は、自分とは違うあり方かもしれないけれど、とにかく存在している。
これは、哲学用語をあえて用いるならば、内包ではなく外延に着目するといってもいいかもしれない。
存在するものに対しては語りかけることができ、そして、存在するものは語りかけてくる。
僕はティッシュペーパーの箱を見て、手に取ることができる。ティッシュペーパーは僕の網膜にティッシュペーパーとして現れ、箱に触れた手に対して、少しひんやりしてつるっとした感触を与える。これがティッシュペーパーとの対話にあたるのではないか。
まだ、きちんと整理できていないが、僕は、物との対話とは、感覚を通じて物の存在を実感することではないかと目をつけている。

2−4 物との対話 ②物との対話の具体例
物との対話とは、感覚を通じて物の存在を実感することならば、より深い感覚で、より深く存在を実感することこそが、物との対話を深めることになるはずだ。
そう心がけて生活していたところ、物との対話が深まりを実感する機会が、僕個人の趣味において二つあった。
一つはヨガをしていて気付いた。
ヨガは体を強く曲げたり、変な姿勢でバランスをとったりすることで、自分の肉体に意識を向ける。自分の肉体の特定の部分の力の入り具合や筋肉が張ることによる心地よい痛みに意識を集中させる。これにより自分の内的な宇宙のようなものを深く感じることができる。というのがヨガの目指すところだ。これはまさしく自分の肉体との対話だ。
僕はヨガ初心者なので、そんな感じだろう、としか言えないのだけど。月に1、2回ヨガスタジオにおじゃまして、皆さんより明らかに体が硬くて若干落ちこぼれている僕が理解し、実践する限りのヨガであっても、ヨガにおける自分の肉体への意識の集中とは、まさに物である自分の肉体とより深く対話することなのだろうと思う。

もう一つの、僕の趣味を通じて物との対話を実感した場面は、ロックフェスだ。
僕は、theピーズとか怒髪天といったおじさん向けの邦楽ロックバンドのライブに行くのが好きなのだけど、先日、ロックフェスに行った時に新たな音楽の聴き方をみつけた。
このときも、僕は対話ということがどこか引っかかっていた。そして、音楽と対話したらどうなるのだろう、と思い、ライブを観ている途中で自分の聴覚に意識を集中してみた。すると、急にベースラインが鮮やかに聴こえてくる瞬間があった。ベースの音は、耳だけでなく、心臓のあたりを揺さぶるように聴こえてくるのだ。なんとなく、ボーカルの歌詞は耳で聴き、演奏は皮膚で聴くという感覚はあったけれど、肉体のより深いところでも音が聴こえてくることは新たな発見だった。科学的な見地からどう解釈するのかはわからないけれど、対話を意識することで、より音楽を聴くときの感覚が深まったのは確かだと思う。
僕は、これは、音楽との対話が深まったということだと思っている。

このような物との対話というアプローチは、あまりよく知らないけれど、マインドフルネスとも近いと思う。
マインドフルネスは、僕の理解では、食事をより深く味わい、景色をより深く味わうというようなことを重視する。これは、ヨガやロックフェスで僕が物との対話を深めた手法と同じだ。ヨガも音楽鑑賞もマインドフルネスも「私」の周囲をとりまく「他者」を感じることに集中するというところに共通点がある。
感覚への意識の集中によりモノとの対話は深められる。

2−5 他者に語りかけるということ
このように、人との対話についてはダイブ、物との対話については感覚への意識の集中というように、僕は対話のテクニックを身につけつつある。
しかし、これでは対話の半分にしかならない。
相手から受け取るだけでなく、相手に語りかけなければ対話にならない。
ダイブして相手の立場に立つだけでなく、その相手に語りかけなければ対話にならない。ヨガをして自分の肉体に意識を集中させるだけでなく、自分の肉体に語りかけなければ対話にならない。ライブで流れる音楽に意識を集中させるだけでなく、その音楽に語りかけなければ対話にならない。

実は、この、相手に語りかけるということについては、あまり考えが深まっていない。特に、人との対話において、自分が相手に語りかけるということは、当たり前すぎて、うまく問題の所在がつかめていない。
ただ、少なくとも、対話とは、自分が相手に語りかけることと、相手が自分に語りかけてくることというように分解して捉えられるようなものではないことは確かだ。
会話はキャッチボールとよく言われるが、Aが語りかけ、Bが返事をし、Aが更に応答する、というような会話のキャッチボールでも、AとBは交互に行動しているのではない。Aがボールを投げるとき、Bは構えてボールを受け止めようとし、Bがボールを投げるとき、Aは構えてボールを受け止めようとしている。AとBは共同して、会話のキャッチボールという一つの出来事を成立させようと協力している。
対話とは「私」と「他者」が共同して行う一連の流れだいうのは確かだろう。

2−6 ダンスまたは呼吸
特に、人との対話について、考察を困難にしているのは言語の存在だ。
人との対話は言語を通じて行われるが、この言語というのは、哲学的に、かなりの強敵だ。
特に、対話なんていうものについて考えていると、「話」という言葉も入っているし、どうしても言語という問題意識に引き寄せられてしまう。僕は対話について考えたいのに、いつの間にか言語について考えている、ということになってしまう。
だから、人との対話について、これ以上考察するのはあきらめ、物との対話に絞って考えることにしよう。

僕は、物との対話の実例として、ライブで音楽に語りかけたり、ヨガで自分の肉体に語りかけるということについて、思い当たるところがある。
僕はライブで音楽に乗ってくると、ステップを踏んだり、拳を振り上げたりする。まあ、観客としての立場上、盛り上げるためにそうしている面もないではないけれど、無意識にノッて体を動かしているという面は確かにある。これは音楽に語りかけているということだと思う。ノッていれば、自然と音楽はいい音楽として語り返してくれる。どんどん良い場になっていく。これが音楽との対話だと思う。ライブにおいては、そう感じるとても幸福な瞬間がある。
ロックフェスで音楽に語りかけるのがダンスなら、ヨガで自分の肉体に語りかけるのは呼吸だろう。体を伸ばし、心地よい痛みが走った部分に呼吸を送ったり、呼吸を深めることで意識をより深いところに持っていったりする。呼吸により僕は自分自身の肉体に語りかけている。そうすると自分自身の肉体はより深い感覚で語り返してくれる。これがヨガにおける幸せな瞬間だ。
このロックフェスのダンスやヨガの呼吸が、どれほど対話の実践手段の代表例としてふさわしいのかはわからないけれど、僕にはこのような具体例が思いつく。

2−7 集中と開放
この文章は、あくまで実践編としてノウハウを列挙できればいいので、あえてまとめる必要はないけれど、まとめることで何か実践的に役立つことも言えるかもしれないから、一応まとめてみよう。

僕は、対話ということについて、いくつかの実践的なノウハウを示してきた。
人との対話においては、ダイブという相手の存在を深く感じるための手順を紹介した。
物との対話においては、ヨガにおいて自分の肉体に意識を集中し、ロックフェスにおいて流れる音楽に意識を集中することについて述べた。
また、そのような受け手としての立場としてのノウハウだけではなく、語り手のノウハウとして、ヨガの呼吸とライブでのダンスを例示した。

このように並べてみると、受け手としては集中とでも言うべき心構えが重要なように思える。相手の話をダイブまでして聴くというのは、いわば全身を耳のようにさせて集中しているような状況だ。ヨガやライブも同様にそこに集中している。
一方、語り手としては開放とでも言うべき心構えが重要だ。語り手としての具体例がダンスと呼吸だけというのは少々弱いが、いずれも、その集中からの開放とでも言うべき要素が含まれているように思える。集中して聞いた音楽を、その音楽にノッて開放し、ヨガで集中して自分の肉体に向き合ったら、その集中を呼吸に載せて開放する。そのような関係があるように思える。
つまり、対話の実践においては、集中と開放という二面性が重要なのではないかと思う。

同じ例の繰り返しで申し訳ないが、ヨガにおいて、自分の肉体に意識を集中してばかりいたら呼吸が止まり、ヨガにならない。肉体に意識を集中するだけでなく、呼吸を深め、そこから開放させることが重要だ。ライブにおいても、音楽に意識を集中してばかりいたらつまらない。そこから意識を開放し、何も考えず、体を動かすから楽しい。
人との対話においても多分同様だろう。相手に深くダイブしてばかりいたら疲れる。僕は哲学カフェで対話するのが好きなのだが、特に進行役として2時間も集中して人の話を聴くとヘトヘトだ。哲学カフェにおいては、多分、集中ばかりでなく、どこかのタイミングでしっかり意識を開放できる進行役が、よい進行役なのだろう。

念のためだが、集中と開放の中間がいい、ということではない。ポイントは、ヨガも音楽鑑賞も哲学対話も中途半端にやらないということだ。集中と開放という相反するものの両方が必要だというのは、バランス良く中間を狙うということではない。良い対話というのは究極的な集中と究極的な開放が同居しているような、ある種矛盾したものなのではないかと思う。それを実現するためには、多分、一連の対話の流れのなかで、究極的に集中する瞬間と究極的に開放された瞬間の両方の行き来をするような動きが重要となる。もしかしたら、更には、一瞬のなかで、究極的な集中と究極的な開放を両立させるというような矛盾さえ求められるのかもしれないが。

とりあえず、僕としては、そこまで難しく考えず、対話について、呼吸のようなものをイメージしていきたい。これもヨガになってしまうが、息は吐ききることで自然と吸えるようになる。同様に、うまく集中することが次の開放につながり、その開放が次の集中につながる。そのような呼吸に乗せ、集中と開放を行き来していきたい。

3 メモ
ということで、この文章は実践編なのでここで終わりだけど、自分自身へのメモを少々。

僕はこの話を「私」と「他者」という僕の哲学的問題の文脈で考えている。
ここでは、集中が「(今、ここの)私」にあたり、開放が「他者(も含めた世界全体)」にあたる。
僕は言語により引き裂かれた「私」と「他者」を、対話により、呼吸のように再統合していきたい。