4の1 抽象画
しかしながら、双方向的で継続的で重層的な作者と読者の相互関係よりも、単一の文における作者の述べ方のほうが単純で分析しやすいので、引続き、作者の述べ方に着目して考察を進めたい。
ここまでで、作者の述べ方の正しさは「適度に丁寧な比喩」にあると整理したところであるが、その正しさ自体のあり方について明らかにするために、極端に「適度に丁寧な比喩」について考えてみたい。なぜなら、極端な事例においては、その正しさも極端なかたちで露出するのではないかと考えるからだ。
私が考える、極端に「適度に丁寧な比喩」とは、トートロジーである。
トートロジーが極端に「適度に丁寧な比喩」であり、極端に正しい述べ方であるということを具体例により確認しておこう。
「魚は泳ぐ。よって、海は青い。」「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」「魚は泳ぐ。よって、魚は泳ぐ。」という3つの文章を挙げてみる。
最初の「魚は泳ぐ。よって、海は青い。」という文章は、1つ目の文と2つ目の文で同じ単語が登場していないため、物語の比喩であっても同一律の比喩であっても比喩が成立しにくい。つまり、あまり「適度に丁寧な比喩」がされているとは言えない。
2つ目の「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」という文章は、「魚」という同一の言葉が用いられていることを手がかりに物語の比喩が成立しうる。そして、「泳ぐ」ならば「細長い」ということの関係について、「泳ぐためには水の抵抗があるから細長くなければならない。」というように考えられるなら、例えば、船についての「前に効率よく進むために細長くなければならない。」という物語を、物語の比喩により魚に適用することにより、この文章は理解される。
3つ目の「魚は泳ぐ。よって、魚は泳ぐ。」という文章は、「魚」と「泳ぐ」という用語を導入できるという意味での物語の比喩と、繰り返しという意味での同一律の比喩により容易に理解できる。
つまり、1つ目の文章は比喩が失敗しそうだが、2つ目と3つ目の文章は比喩が成功しそうだ。
しかし、2つ目の文章に更に注目すると、「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」ということを理解するためには、例えば船についての「前に効率よく進むために細長くなければならない。」というような知識が読者にあることが前提となる。または、知識がなくとも、作者が「進むためには水の抵抗があるから細長くなければならないんだよ。」と説明したなら読者に理解してもらえる必要がある。つまり、理解されるかどうかは、作者と読者で、現に関心、疑問を共有できるかどうかという現実の相互関係に依拠している。そういう意味で、2つ目の文章は比喩が失敗するリスクが高い。
説明が失敗するリスクを極力避けるならば、「泳ぐ」ならば「細長い」というような相手によっては理解されないかもしれないような物語の比喩は極力避けたほうがよい。同一律の比喩だけで語れば、説明は失敗しないだろう。つまり、3つ目の文章「魚は泳ぐ。よって、魚は泳ぐ。」のほうが、2つ目の文章「魚は泳ぐ。よって、魚は細長い。」よりも正しい。
このように比較すれば、少なくとも3つの文章のなかでは、最も哲学的に正しい述べ方とは、トートロジーである3つ目の文章であるということは明らかだ。これが、トートロジーが極端に「適度に丁寧な比喩」であり、極端に正しい述べ方であるということである。(脱線だが、これが、論理的にトートロジーは常に真とされていることの意味ではないだろうか。)
更には、新たな物語の比喩を追加しなくても同一律の比喩だけで2つ目の文章を拡張し、「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。・・・」という表現をどこまでも続けることができる。
文の長さに比べて新たな概念の導入が少ないほど失敗のリスクの割合が低い文章であるとさえ言えるならば、このように長く続くトートロジーは、リスクを犯さずに長い文章を述べることができるという意味でより正しい述べ方だとさえ言えるだろう。このトートロジーは、続ければ続けるほど正しいとさえ言えるだろう。
このようなことを考えてみると、私には、トートロジーには単純なパターンの繰り返しが生む抽象画のような美しさがあるように感じる。そこで、トートロジーを抽象画に例えることにしたい。

4の2 具象画
トートロジーは、極端に正しい述べ方である。しかし、トートロジーだけで述べられることはあまりにも少ない。どこかで同一律の比喩を乗り越え、トートロジーを超えた内容を語る必要がある。絵に例えるならば、単なるパターンの繰り返しとしての抽象画から、複雑な具象画に移行していく必要がある。そのためには同一律の比喩によらない新たな概念の導入が必要だ。
なお、そもそも文から新たな概念の導入を全く無くすことはできない。それはトートロジーであっても同じである。実は、「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。」という単純なトートロジーであっても、「魚」「泳ぐ」という概念は、既にそれらの言葉を使った別の概念から物語の比喩により、新たに導入されているはずだ。どんなに単純なパターンの繰り返しとしての抽象画であっても具象化の第一歩は避けることはできない。全く具象化がされなければ、それは白いキャンバスである。描き始めるためには、ある種の飛躍が必要だ。
そして、トートロジーが始動し、「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。・・・」というどこまでも続く表現が行われたなら、その表現はどこかで打ち切らなければならない。しかし、同一律の比喩の正しさには3回目の繰り返しでも、4回目の繰り返しでも差異はないことから、3回目で繰り返しを打ち切らなかったのに、4回目で打ち切る理由はない。打ち切る理由がないという意味で、より正しいトートロジーとはキャンバスをはみ出て永遠に同じ模様で埋め尽くすようなものであるはずだ。それでもどこかで理由なく打ち切らなければならない。これが第2の具象化である。永遠に続くものをキャンバスに納めることも飛躍である。
つまり、トートロジーを抽象画として成立させるためには、描き始めるという第一の飛躍と描き終わるという第二の飛躍が必要である。つまり、抽象画には少なくとも2つの具象化が含まれている。
そして、その先、模様に変化をつけるなどして、抽象画は具象画に徐々に変化していく。それは、文章表現で言えば新たな概念の導入を繰り返していくということである。飛躍を繰り返すと言ってもよい。
なお、その絵を単なる落書きではなく絵画とするためには、飛躍は適度に行われなければならない。つまり、概念の導入の困難さとして私が述べたように、ホーリズム的な危うさがつきまとうことを踏まえ、現実的に、相手を踏まえ、適度に丁寧に説明しつつ、新たな概念の導入を行わなければならない。
トートロジーの美しさを抽象画に例えたことに対比し、この、ホーリズム的な危うさを乗り越え、適度に飛躍し、新たな概念の導入を行うという優れた手腕により生み出された美しさを具象画に例えることができるだろう。
この飛躍の適度さの例としては、野矢茂樹が「語りえぬものを語る」において用いている「山が笑う」という表現がある。これは、「文字通りには、もちろん、山が笑うはずがない。」と野矢自身も述べているように通常の表現ではない。野矢によれば、「芽吹き始めた早春の山の、まだ緑が白っぽい初々しい姿。」を表現しようとして導入した隠喩表現である。「笑う」は通常、「山」に対しては用いられないことから、「山が笑う」という表現は「語りえぬものを語る」を読んでいない人からすれば、多分初めて目にした表現だろう。しかし、うまい表現であり、私はこの表現をすぐに理解できた。多分、多くの方が理解できただろう。
それは、例えば「子供が笑う」というような文を既に知っており、その、「笑う」のうちにある、穏やかで少し華やかで初々しい幸福感というような、微妙なニュアンスを物語として掬い取り、「山が笑う」の「笑う」に適用することができたということである。
この微妙なニュアンスを有する物語を橋渡しとして物語の比喩を成立させ、「山が笑う」という表現を成立させるためには、かなりの大きな飛躍がある。そしてその飛躍を適切に成し遂げ、ホーリズム的な危うさを乗り越え、新たな概念の導入に成功できたという優れた手腕がある。その手腕が生み出した美しさがある。この美しさは具象画の美しさと言えよう。
哲学を述べるということ、つまり、「作者と読者が関心、疑問を共有し、作者が適度に丁寧な比喩を行うということ」には、トートロジーの「抽象画」としての美しさと、「山が笑う」のような適切な飛躍を成し遂げた文が持つ「具象画」としての美しさの2種類の美しさがある。
ただし、留意しておきたいが「抽象画」は完全に抽象的である訳ではない。少なくとも描き始めるという第一の飛躍と、描き終わるという第二の飛躍という2つの具象化が含まれている。また、「具象画」は完全に具象的である訳ではない。「山」「笑う」という言葉が同一律の比喩により理解されているからこそ、「山が笑う」という適切な飛躍が成立する。つまり、文が文として理解されるためには、同一律の比喩が成立する程度の抽象性が求められる。
この留意点を踏まえ、哲学を述べるということには、トートロジーに多く含まれる「抽象的な美」と、「山が笑う」というような文に多く含まれる「具象的な美」がある、というように整理しておきたい。

4の3 論理操作の美・数学的な美
哲学の述べ方の美しさには、「抽象的な美」と「具象的な美」の2種類があるというように述べた。しかし、いずれに分類すべきか迷ってしまう美がある。
とりあえず名付けるならば「論理操作の美」とでも言うべきものだ。
再び、トートロジーである「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。」という文に登場してもらおう。
これは、同一律の比喩を用いたものであり、いうなれば、同一という論理操作を行ったとも言えるだろう。
それでは、同一という論理操作の代わりに否定という論理操作を行ったならどうなるだろう。すると、そこには「魚は泳ぐ。よって魚は泳がない。」というような表現が現れる。
私は、この文章は、禅問答のようだが、どこかありそうな気がする。この、ありそうな感じをとりあえず「論理操作の美」としたい。
このありそうな感じがなぜ生じるかといえば、これまでの同一律の比喩の話を踏まえるならば、「魚」「泳ぐ」というような同一律が多く維持されており、「ない」という否定が1つ入っているだけだからだ。つまりは、全く同一律が維持されていない文よりは、ある程度は同一律が維持されている文に美は残っている。
それでは、「論理操作の美」は、「抽象的な美」の劣化版なのだろうか。
しかし私は、なぜか「魚は泳ぐ。よって魚は泳ぐ。」よりも「魚は泳ぐ。よって魚は泳がない。」の方に興味がひかれる。「論理操作の美」には「抽象的な美」の劣化版にはとどまらない独自の美しさがあるのではないだろうか。
それでは、その独自の美しさとは、「具象的な美」の第一歩なのだろうか。
「ない」という否定が付加されるということは、既に使ったことがある例えば「ニワトリは空を飛ばない。」というような文における「ない」の否定性とでも言うべき物語を取り出し、物語の比喩により「魚は泳ぐ」という文に比喩的に付加したというように言えよう。そう考えるなら、新たに概念が導入され、適度に飛躍したという意味での「具象的な美」があると考えることに違和感はない。
しかし、「ニワトリは空を飛ばない。」という文における「ない」と、「魚は泳ぐ。よって魚は泳がない。」の「ない」は明らかに違う。前者の「ない」は完全な否定だが、後者の「ない」は、魚が泳ぐことも容認しているという意味で、完全な否定ではない。否定と肯定の両方を認めるというかたちの別の否定である。とするならば、「論理操作の美」は「具象的な美」とも言い切れない。
このように、「論理操作の美」には、「抽象的な美」とも「具象的な美」とも決めかねるような、独特な美がある。
否定という論理操作のみを例に出したので、あまり「論理操作の美」というものに着目することの意味が伝わらないかもしれない。だが、否定という論理操作以外にも、哲学の分野には、「論理操作の美」に拠っているとしか思えないような例が多く存在する。
例えば、ニーチェのルサンチマンという概念がある。これは私の理解では、極めて簡単に言えば、弱者こそ倫理的に優れているという考え方から弱者と強者を反転しようとする考え方である。私は、この反転というところに「論理操作の美」があると感じる。多分、ルサンチマンという考え方が成立する根拠には、キリスト教的道徳等、様々な要素があるのだと思うが、私がこの言葉に特段の意義を感じるのは、「弱いからこそ強い」という、美しい価値の反転自体にある。ここには、反転という「論理操作の美」があるのではないだろうか。
他にも、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一という考え方には、矛盾という「論理操作の美」があり、入不二基義の無限後退の落差自体を肯定的なものとして捉えようとする考え方には、反復とでもいうべき「論理操作の美」があるように思われる。他にも同様の例は挙げられそうだ。
私が、これらを同じ「論理操作の美」として捉えたのは、いずれも運動性があるという共通点があるからだ。そこには反転するという動きがあり、矛盾が含意する衝突し循環するという動きがあり、極北に向かって反復するという動きがある。ニーチェや西田幾多郎や入不二基義が述べようとしていること自体を私に理解できているとは思えないが、そこには共通の美しさがあるように感じる。
これらの特殊な述べ方は、少なくとも私に対しては、ある特別な迫力をもって美しさをみせつける。私は、その美しさを特別なものとして捉えたいと言う衝動にかられる。そこで、私は、その美しさが意味するものを十分に掴み取ることができていないが、あえて「論理操作の美」と名付けることとしたい。
また、「論理操作の美」に似たものとして「数学的な美」がある。
数学的な内容を持つ文について考えてみよう。例えば「4629551は4629550よりも大きい。」という文がある。これは正しいとすぐに理解できるだろう。それでは、どのように理解できたのかというと、私が適当に選び多分読者にとっては初めて目にした「4629551」「4629550」という数字について理解したのだから、既にその数字を目にしたことを手がかりに同一律の比喩により理解したのではないはずだ。
それならば、数字の持つ物語により、物語の比喩により理解したということも考えられるが、その数字の持つ物語がどういうものかがわからない。また、数字が無限にあるとするならば、物語も無限になければならないということになり、これまでの物語という概念から大きく外れる。
つまり、この文は、これまで挙げたような比喩で理解したものではないように思われる。
同様に、「+」「-」というような数学記号を文字と解釈するならば、「3+4=7」が理解できるのは、既に「2+6=8」を行ったことがあり、そのときに+の物語を比喩的に適用したということになるが、「2+6」のときの「+」の働きをいくら見ても、そこには2と6に関わる物語しかなく、「3+4」の理解につながるような物語は見当たらない。つまり物語の比喩で理解できるものではない。
しかし、私は「4629551は4629550よりも大きい。」は「4629551は4629550よりも小さい。」よりも美しく感じ、「3+4=7」は「3+4=6」よりも美しく感じる。比較が微妙でわかりにくいかもしれないが、「3+4=5084286」よりも美しい、と言えば、少しは伝わるだろうか。
このような例をみてみると、数学的な文には、これまで比喩をもとに述べてきた「抽象的な美」でも「具象的な美」でもない、独自の美があるように感じる。
「4629551は4629550よりも大きい。」や「3+4=7」というような文にある独自な美しさを「数学的な美」と呼ぶこととする。
しかし、「論理操作の美」にしても、「数学的な美」にしても、私には、それが何なのか、全くわからない。そこで、ここでは、哲学の述べ方の美しさには、まだ語るべきことがあるということを指摘するに留めることとしたい。

4の4 美と感動
以上、哲学を述べるということには2種類から4種類の美しさがあるということを示した。
この哲学を述べるということの美しさと、哲学を述べるということの正しさ、つまり「作者と読者が関心、疑問を共有し、作者が適度に丁寧な比喩を行うということ」とはどのような関係にあるのだろうか。
私は先ほど、作者と読者の間での関心、疑問を共有するという相互関係に哲学の正しい述べ方の根源があり、そこから作者が「適度に丁寧に比喩を行う」ことができたかどうかという作者の述べ方の正しさが派生していると述べた。
同様に、この美しさは、作者と読者の間での相互関係の正しさから派生していると考えることはできないだろうか。もし、そのように考えられるならば、この美しさとは、作者から読者に伝達されるものとしての哲学書、つまり文自体の正しさである。つまり、作者と読者の間での相互関係の正しさから、「美しい」というあり方で文自体の正しさが派生するということになる。
更に言えば、もう一方の登場人物である読者としての正しさも、作者と読者の間での相互関係の正しさから派生すると言えそうだ。読者としての正しさとは、哲学書の文自体の美しさに心が動かされ、感動することだということになるのではないだろうか。
つまりは、作者と読者の間の「関心、疑問の共有」という相互関係の正しさから、「適度に丁寧な比喩」というかたちでの作者の正しさ、「心が動かされ、感動すること」というかたちでの読者の正しさ、「美しい」というかたちでの伝達される哲学書、つまり文自体の正しさが派生するということだ。
かなり荒っぽく、一気に考察を進めてしまった。その理由も示していないので、このような進め方には全く納得がいかないかもしれない。ただ、このように先を急いだのは、まず、更にその先を述べておいた方がよいと思われるためである。もう少し、この荒っぽさにお付き合い頂き、先を述べることとしよう。
このように、一気に「関心、疑問の共有」、「適度に丁寧な比喩」、「心が動かされ、感動すること」、「美しい」ということをつなげて論じたが、私が、これらの言葉に割り振ろうとしているものは、言語の外の現実との接続である。「現に」作者と読者が関心、疑問を共有し、「現に」作者が適度に丁寧な比喩を行い、「現に」読者が感動し、「現に」文自体が美しいこと、をこれらの言葉を用いることで表現しようとしている。
言語の外の現実との接続について述べるのに、「感動」や「美」よりも適した言葉があれば、その言葉を用いてかまわない。しかし、私は、感動や美という言葉により、言語の外の現実というものに対するイメージが強く喚起される。イメージが喚起されるような用語を用いることで、言語により、言語の外を示したい。「感動」や「美」という言葉を用いた動機についてはそのようにご理解いただきたい。

4の5 現実
それでは、そのようにして示そうとしている言語の外としての「現実」はどのようなものなのだろうか。
ここで新たに導入した、読者が感動し、文自体が美しいということについては説明が順序立てられておらず駆け足となってしまったが、一方で、作者と読者が関心、疑問を共有し、作者が適度に丁寧な比喩を行うということについては、ある程度順序を追って論じてきたつもりだ。
その説明のなかでは、概念の導入の困難さとしてホーリズム的問題があると述べたところで現実という観点が登場している。ある概念の説明が成功するかどうかは別の概念の説明が成功するかどうかにかかっているが、現実には、危うさを含みつつも、なぜか、うまく相手を踏まえ、適度な範囲で説明が行われ、折り合いがつけられているということを述べている。更には、その飛躍は、例えば「山が笑う」のような文に多く含まれる具象的な美により、現に適度なものとして行われているということも述べている。
このように現実は、ここまでの説明の随所に顔を出している。ここに、私がここまで述べてきた「哲学の述べ方」の現実からの離れられなさがある。作者と読者の間の「関心、疑問の共有」という相互関係の正しさは現実から離れることはできず、「適度に丁寧な比喩」というかたちでの作者の正しさも現実から離れることができない。
ここで私は、同じように、読者の正しさや、伝達される文(哲学書)自体の正しさも現実から離れられないということを述べたい。それならば、その現実からの離れられなさを表現するために、読者が「心が動かされ、感動すること」に読者としての正しさがあり、伝達される文自体が「美しい」ということに文(哲学書)の正しさがあるとすることには、それほどの違和感はないのではないだろうか。
しかし、いくら言葉を尽くしたとしても、「現に」読者が感動し、「現に」文自体が美しいということの正しさにはたどり着くことはできない。というか、それ以前に、ここまである程度丁寧に述べたつもりである「現に」作者と読者が関心、疑問を共有し、「現に」作者が適度に丁寧な比喩を行うということの正しさについても、実は何も説明できていない。
ここには簡単に論じることができない言語と現実という大問題がある。私は哲学を言語的なものと捉えており、この文章も言語であると捉えている。言語である文章により「言語の外の現実との接続」を述べるということには、当然ながら独特の困難さがある。
しかし、私が行なっているこの説明で、「現に」何かが伝わっているのならば、それが現実というものなのではないだろうか。
現実について語ることは不可能なのか、私の力不足なのかは、現段階ではよくわからない。しかし、ここでは、ここでは、ここまで述べてきたような現実というものに対する問題意識が「現に」伝わっていることを期待し、先に進むこととしたい。