3の1 比喩の成功
それでは、哲学の述べ方としての「適度に丁寧な比喩」が成功するためには何が必要なのだろうか。メタ比喩である同一律の比喩を考慮から外し、物語の比喩に注目すれば、それは、「動物」「太陽系」「8個」「これ」というような概念を作者と読者で共有しているということであろう。
ただし、作者と読者の間で概念の認識が全く同じである必要はない。例えば、読者が、最近、冥王星が準惑星に格下げされたということを知らず、太陽系に存在する惑星は冥王星を含めた9個だと考えていたとしても、「太陽系は銀河系の中にある。」という文を理解するうえでは問題は生じない。太陽系の惑星が8個だと思っている人が書いた「太陽系は銀河系の中にある。」という文を、太陽系の惑星が9個だと思っている人が読んだとしても正確に理解される。
また、その概念に対して用いる用語が同じでなくてもよい。「太陽系」を「太陽のまわりグルグル」などと呼んでいる読者がいたとしたら、作者は「太陽系」とは「太陽のまわりグルグル」のことだよ、と追加で説明してあげればよい。
更には多少概念の捉え方が異なっていてもかまわない。仮に読者が天体について、太陽と地球だけの関係で捉え、「太陽系」というような括りで捉えていなかったとしても、作者が「太陽の周りを地球以外にも木星のような星が回ってるでしょ。その全体の仕組みのことだよ。」と説明して読者が理解できれば、それが認識を共有しているということである。
それでは、作者と読者の間で、正確に比喩が理解される程度に概念に対する認識を共有し、比喩が成功するためには何が必要なのだろうか。
私は、必要なのは、作者と読者の間で、ある概念に対する「関心、疑問を共有することができる。」ということであると言いたい。
太陽系というものに関心を寄せることができ、それが銀河系の中にあるのだろうか、という疑問を持つことができる人だけが「太陽系は銀河系の中にある。」という文章を作者として書くことができ、読者として理解することができる。作者と読者の間で、関心、疑問を共有できるならば、多少の知識の違いや用語の違いなどは問題とならない。しかし、作者がいくら言葉を尽くしても読者が「太陽の周りを地球や木星のような星が回っている仕組み全体」ということに関心を持つことができなければ、作者と読者が関心、疑問を共有することはできない。
それは、ルビンの壺のだまし絵を見せて、いくら、壺の背景に人間の横顔があるでしょ、と説明しても理解してもらえない状況と似ている。背景に関心を寄せられない人にはルビンの壺を理解することはできない。
なお、念のため付言しておくと、私は読者の理解力を問題としているのではない。読者の側からすれば、関心、疑問を共有できないというのは、作者が関心、疑問を共有できるようなうまい説明をしなかったということだ。関心、疑問を共有できるかどうかは、作者と読者の相互関係の問題である。
関心、疑問という言葉で作者と読者が共有すべきものを過不足なく捉えられているかどうかはわからないが、私は比喩が成功するということを、そのように捉えたい。
3の2 同一律の比喩と関心、疑問の共有
更に、一旦考慮から外した同一律の比喩というメタ比喩について思い起こすならば、同一律の比喩とは、この関心、疑問の共有のこと自体であるとも考えることができる。ある概念について作者と読者が「関心、疑問を共有する」ことが、文において同一律の比喩が成立するということで、逆に文において同一律の比喩が成立するということが、作者と読者の間で「関心、疑問を共有する」ことである。
それはどういうことか簡単に説明してみよう。
例えば、「太陽系」について作者と読者が関心、疑問を共有しているということは、作者の「太陽系」に対する関心、疑問と、読者の「太陽系」に対する関心、疑問とが同一だということだ。
ここで、先ほど、私は、哲学を述べるということは、自問自答としての哲学的な思考を行うということも含むとしたことを思い起こして頂きたい。つまり、作者と読者は同じ人に割振られてもよい。「太陽系は銀河系の中にあるのだろうか。」と自問し、「(地球からの星の見え方を分析した結果を踏まえれば)太陽系は銀河系の中にあるはずだ。」と自答するということは、作者として「太陽系は銀河系の中にあるのだろうか。」という文を述べたうえで、読者として、その文を受け止め、更に作者として「(地球からの星の見え方を分析した結果を踏まえれば)太陽系は銀河系の中にあるはずだ。」という文を述べているということに置き換えることができる。つまり、「太陽系は銀河系の中にあるのだろうか。(地球からの星の見え方を分析した結果を踏まえれば)太陽系は銀河系の中にあるはずだ。」という一つの文章を書くことに等しい。
自問自答としてのひとつの思考は、思考のプロセスという観点からは、自分自身を作者とし、また自分自身を読者としたうえでの哲学を述べるという伝達の繰り返しとして捉えることができ、思考の結果という観点からは、ひとつながりの文章として捉えることができる。
この二面性をふまえると、思考のプロセスにおいて、作者としての思考の担い手である私と、読者としての思考の担い手である私との間で概念に対する関心、疑問が同一であるということと、思考の結果において、ひとつの文章の中で同一律の比喩が成立しているということは同じことであると言うことができる。
ここでは自問自答を例にしたが、自問自答の思考でない他者との間での伝達の場に置き換えても同じである。
関心、疑問の共有と同一律の比喩は等しい。
(この文章においては、同一律の比喩、関心、疑問の共有という用語を用いているが、「私の哲学」においては、アミニズムとしているものがこれにあたると考えられる。)
3の3 留意点:双方向の継続的で重層的な伝達
ここで、留意しておくべきことが一点ある。ここまで私は、哲学を述べるということを、主に作者から読者への伝達という観点から捉えてきた。そのような前提のうえで、作者は読者に「丁寧に説明する」ことが重要だと述べ、そして、「適度に丁寧に概念を導入する」、「適度に丁寧に比喩を行う」と言い換えることも可能であるとしてきた。しかし、伝達というもののニュアンスを若干変更しなければならない。
私は、伝達とは、作者から読者に一方的に行われるものではなく、作者と読者の相互関係の問題であると捉えている。作者の説明が多少飛躍しすぎて丁寧でなく、すぐに読者が理解してくれなくとも、読者の反応を聞くことができ、読者の反応を踏まえて説明し直すことができると考えている。具体的には、「太陽系」という言葉を理解してくれなくとも、「それじゃわからないよ。」という読者の声を聞き、「太陽の周りを地球や木星のような星が回ってるでしょ。あれのことだよ。」と追加で説明して理解してもらえたなら、それでよいと考えている。
また特に、これまで伝達に含まれるものとして扱ってきた思考については、それが顕著に現れる。思考は、自分自身を作者とし、また自分自身を読者とした自問自答として行われる。そこには相互のやりとりがそもそも想定されている。読者としての自分自身の声を聞き、作者としての自分自身が考え直すからこそ思考である。伝達には双方向性がある。
また、伝達には継続性もある。読者から、「まだわからないよ。」と言われれば、「地球や木星とかをまとめて惑星っていうんだよ。」なとど説明することで議論は継続されるし、自問自答としての思考も一度限りのフィードバックで終わるものではない。「太陽系は銀河系の中にあるはずだ。」という自答を読者である私が受け止め、更に「観測結果は正しいのだろうか。」などと自問自答は続けられる。この文章を一例とすれば、私の思考の足跡であるこの文章は何度も書き直して、書き足すという継続的な作業により作られている。伝達には双方向性と継続性がある。
これまでもそのような前提のうえで検討を進めてきたつもりだが、説明の都合上、ともすれば作者から読者への一度限りの伝達という側面を重視してきたきらいもある。そこで念のため、伝達とは、このように、双方向的に、継続的に行われるものだということを強調しておきたい。
しかし、ここで疑問が生じる。先ほど「自問自答としてのひとつの思考は、思考の結果という観点からは、ひとつながりの文章として捉えることができる。一方で、思考のプロセスという観点からは、自分自身を作者とし、また自分自身を読者としたうえでの哲学を述べるという伝達の繰り返しとも捉えることができる。」と述べた。それでは、伝達というものを、どのような単位で捉えればいいのだろう。このような疑問を積み残してきたことに、これまで作者から読者への一度限りの伝達という側面を重視して述べてきたことの弊害があるようだ。
例えば、「ワンと鳴くペットはイヌだ。浅田真央のペットはワンと鳴く。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」という文章の伝達は、どのような単位で行われているのだろう。文章全体で1回にまとめて伝達されるのだろうか。それとも文単位で3回に分けて伝達されるのだろうか。
この問いに対する私の答えは、伝達は重層的に行われる、というものである。
この文章は、「浅田真央のペットはワンと鳴くけれど、ワンと鳴くペットはイヌだから、浅田真央のペットはイヌだ。」というように一つの文にまとめることも、「ワンと鳴くペットはイヌだ。浅田真央はペットを飼っている。そのペットはワンと鳴く。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」というように四つの文に分けることもできる。つまり、文の単位は恣意的である。よって、完全に文単位で分けられるとはいえない。
一方で、ひとつの文章ではなく、ある程度は細分化して伝達が分かれていると考えなければ、先ほど自問自答の思考を例にして述べた、同一律の比喩と、作者と読者の間の関心、疑問の共有を同一視するということが成立しない。仮に、文章はひとつにまとまってしか伝達されないと考え、例えば、この「哲学の述べ方」という文章のような長い文章もひとつの伝達であると考えたなら、伝達が双方向的に、継続的に行われるということさえも否定されることになる。ここに、矛盾があるようにも思われる。
しかし、この問題については、伝達は重層的に行われているとすることで説明が出来ると考えられる。文単位でも伝達され、文以外の単位、例えば文章単位でも伝達されているということだ。どのような構造で重層的になっているのかは現時点では私にはわからないが、少なくとも、文と文全体の二層構造というような単純な重層性ではないはずだ。恣意的な文の分割をどのように行なっても双方向的で継続的な伝達が成立するような複雑なあり方をしているに違いない。
そして、伝達は双方向的に継続的に行われるということを踏まえると、この重層性は、作者と読者で双方向的に継続的に行われる全ての伝達に及ぶ。読者の側からの反応や、作者の再反論というようにして続けられる議論や自問自答の経緯は全て重層的である。伝達とは双方向的に継続的に重層的に行われるものである。少なくとも、作者が一方的に伝達を行い、単一の文の説明の成否により、作者が「丁寧に説明する」ことができたかどうかを判断できるような単純なものではない。
このように考えるならば、作者と読者が双方向的に継続的に重層的な伝達を行うなかで、関心、疑問を共有するという相互関係にこそ、哲学の正しい述べ方の根源があると言えよう。そこから作者の単一の文の説明における「丁寧な説明」「適度に丁寧な比喩」というような観点からの、作者の述べ方の正しさが派生していると考えるべきであろう。