2の1 概念の導入
それでは、実際の哲学の述べ方として、「丁寧に説明する」ということはどのように行われるのだろうか。
具体的な場面として、「ワンと鳴くペットはイヌだ。浅田真央のペットはワンと鳴く。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」という、3つの文で構成されたいわゆる三段論法の文章を取り上げてみよう。
この文章は一見、あまり哲学的な文章とは思えない。しかし、文章表現であるという点で広義の文学であり、浅田真央のペットについて正しいことを述べようとしているという点で、正しさを求める文章である。つまりは、私の定義においては哲学的な文章である。よって、この文章も哲学の述べ方の一例だという前提で話を進めることとしたい。
仮に、この文章の2つめの文を飛ばすと、「ワンと鳴くペットはイヌだ。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」という文章になる。これだと「浅田真央のペットはワンと鳴く。」ということをすぐに思い出せない人にとっては説明が不足している。「ワンと鳴くペットはイヌだ。」から直接「浅田真央のペットはイヌだ。」とするには飛躍がある。しっかり説明するには「浅田真央のペットはワンと鳴く。」ということも述べなければならない。これが丁寧に説明するということの一例となろう。このように話のプロセスをきちんと説明することを、プロセスにおける丁寧さとしよう。
また、この例文では、例えばペットという言葉を知らない人にとっては説明が不足している。そのような人のことも考慮するならば、「ワンと鳴くペットはイヌだ。ペットとは人間が愛玩のために飼う動物のことだ。浅田真央のペットはワンと鳴く。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」とでもする必要がある。これは新しい概念を導入する際にきちんと説明するということであり、また別の丁寧さがあるように思われる。これを概念の導入における丁寧さとしよう。
このように、すぐに2つほどの丁寧さの類型が思いつく。他にも哲学の述べ方における丁寧さの類型はあるかもしれないが、少なくとも、プロセスにおける丁寧さと概念の導入における丁寧さという2つの丁寧さがありそうである。
しかし、ここで行った、何をプロセスにおける丁寧さとし、何を概念の導入における丁寧さとするかの切り分けはかなり恣意的である。私の考えでは、実は、この両者は対比されるべきものではない。結論から言えば、概念の導入における丁寧さがプロセスにおける丁寧さを包含する。
「概念の導入」を字句どおりに解釈すれば、ペットという言葉自体を全く知らない人に対してペットという概念を教えるように、全く耳慣れない新しい概念を導入することであると考えられよう。
しかし、例えば、ペットにはイヌとネコしかありえないと思っている人に、イグアナもペットだと教え、概念の意味を付加するような場面がある。これを概念の付加という別の捉え方をしてもよいが、ペットという概念がイグアナも含むものとして導入し直されたと考え、広く概念の導入と捉えることに違和感はないだろう。
他の例を挙げれば、ネコはワンと鳴くと思っている人に対して「ネコはニャーと鳴くんだよ。」と教えたなら、その人にとってのネコという概念はニャーと鳴くものとして変更されて導入し直される。これは概念の変更と捉えても良いが、広く概念の導入と捉えてもよい。
また、1時間前にヘビを見たと思っている人に対して「あれはヘビではなくロープだったんだよ。」と伝えたなら、その人にとってのヘビという概念は「1時間前に見た細長いもの」ということが削除されたものとして導入し直される。これを概念の削除と考えてもよいが、同様に概念の導入と捉えても良い。
先ほど、プロセスにおける丁寧さの一例とした「ワンと鳴くペットはイヌだ。浅田真央のペットはワンと鳴く。よって、浅田真央のペットはイヌだ。」という三段論法の2つ目の文を省略せずに説明するということについても、2つ目の文を、浅田真央という新たな概念が導入され、ペットという概念に浅田真央にもペットがいるという意味が付加される、などと捉えれば、2つ目の文を省略しないということは、概念の導入における丁寧さと言ってもよいだろう。
つまり、プロセスにおける丁寧さは概念の導入における丁寧さに含まれる。概念の導入における丁寧さのうち、既に知っている概念を組み合わせて作られた文が丸々ひとつ漏れてしまうことがないように配慮するということに対して、プロセスにおける丁寧さという別名を与えただけだというようにも言える。両者をあえて分ける必要はない。
こう考えると、哲学的に何か新しいことを述べるということは、必ず概念の付加、変更、削除等を伴うとも考えることができ、哲学を述べるということは概念の導入そのものと言ってもよい。概念の導入という概念については、このように幅広く捉えることが可能である。
ここで、現時点における哲学の述べ方のルールをあらためて整理すると、「哲学を述べるにあたっては、作者は、自らが正しいと思う事を読者に対して正しく伝えようとして、読者にどのように伝わるか配慮して説明し、概念を導入しなければならない。」ということになる。

2の2 概念の導入の困難さ
それでは話を戻し、再度、ペットという概念を新たに導入する場面を例に、更に概念の導入のあり方を考察してみよう。
先ほど、ペットという概念を知らない人に対しては「ペットとは人間が愛玩のために飼う動物のことだ。」ということを説明する必要があるとした。しかし、その説明でも「動物って何?」と聞かれれば、「動物」という概念についても説明する必要がある。概念を説明するために用いた概念を更に説明する必要が生じることがある。現実には「ペット」「動物」のような常識的な概念ではありえないかもしれないが、もう少し一般的でない概念では似たような経験があるのではないだろうか。
ここで、思考実験として極端に知識がなく物わかりが悪い人を想定してみたい。その人はペットという概念を知らない。そして、「ペットとは人間が愛玩のために飼う動物のことだ。」と説明されても、「動物って何?」「人間って何?」と全ての言葉について質問をしてくる。そして、「動物とは植物や微生物ではない、動く生き物のことだ。」などと説明しても、「植物って何?」「生き物って何?」と質問が続く。この応答は終わることがない。
ここに、「丁寧に説明する」ことの困難さが顔を出す。あえて哲学用語を使う必要はないが、ここにはホーリズム的な問題が生じていると言ってもよい。ある概念を説明するには、別の概念を用いざるを得ない。ある概念の説明が成功するかどうかは別の概念の説明が成功するかどうかにかかっている。そして、その別の概念もまた更に別の概念と関連している。よって原理的には、その説明の成否は説明に用いた概念の理解にかかっている以上、どんなに丁寧に説明したとしても、新しい概念の導入が成功する保証はない。
しかし、新しい概念の導入は現に行われている。現実には、なぜか、うまく相手を踏まえ、適度な範囲で説明が行われ、折り合いがつけられている。
このように、概念の導入の場面で丁寧な説明の現実のあり方を踏まえると、そこには、ある種の危うさがあることに注意しておく必要がある。丁寧に、と言っても、限りなく丁寧に、無限に応答を続けることはできない。どんなに抽象的で形而上学的な哲学であっても、その哲学の作者から読者への伝達の場面では、読者との折り合いという現実的な側面から離れることはできない。
このような観点を踏まえ、再度、現時点における哲学の述べ方のルールを確認すると、「哲学を述べるにあたっては、作者は、自らが正しいと思う事を読者に対して正しく伝えようとして、読者にどのように伝わるか配慮し、現実的に、相手を踏まえ、適度に丁寧に説明し、概念を導入しなければならない。」とでも言えよう。

2の3 比喩
それでは、実際の哲学の述べ方として、「適度に丁寧な概念の導入」は具体的にどのように行われるのだろうか。
またもや、正しさを求めるという意味では哲学的な文章ではあるが、一般的な意味での哲学からは程遠い例を用いることにする。幼稚園か小学校低学年くらいの子供に太陽系という概念について教える場面を考えてみよう。どのように教えるかは人によると思うが、私ならば「大きいボールみたいな太陽があって、その周りに8個、小さいボールみたいな星があって、太陽の周りをぐるぐる回ってるんだよ。」などと教えるだろう。これが「適度に丁寧な概念の導入」の一例であるとしよう。より「適度に丁寧な概念の導入」である表現もあるに違いないが、いずれにしても相手の子供が既に知っていそうな言葉を組み合わせ、例えなども用いつつ、似たような説明をするのではないだろうか。
ここで、このような説明全般を比喩と呼ぶこととしたい。「ボールみたいな」というような直接的な比喩を比喩と呼ぶのは当然として、「ぐるぐる回る」というような表現についても、もともとは多分、その子供にとっては、おいかけっこ、とか、山手線、のような別のものについての表現であったのが、太陽系という別のものに対して、比喩的にずらして用いられていると考えることもできる。また「8個」という表現についても、もともと子供にとってはリンゴなどに使われ、少なくとも惑星の数を数えるためには使われていなかったところ、リンゴから惑星に比喩的にずらして用いられている。そういうものも幅広く比喩とするならば、このような説明全般を比喩と呼ぶことにそれほど違和感はないのではないだろうか。
なお、比喩は、「動物」「太陽系」「8個」といった直接観察できないものだけではなく、目の前で直接観察できる「このネコ」のような個別のものを説明する際にも用いられる。「ネコ」という概念を用いることで、以前相手が会ったことがある「ネコ」と同じ種類の新たな「ネコ」だということを示す比喩的な説明になるのはもちろんとして、「ネコ」という言葉を使わずに「これ」とでも言ったとしても比喩を伴わざるを得ない。「これは、これとしか言えない。」と言ったとしても、それが説明として成立しているなら、その相手は、既に知っていた「これ」という概念を比喩的に用いて、新たに使われた「これ」を理解したということである。
このように考えると、哲学的に新しいことを述べる文章には必ず比喩が使われているとさえ言えるだろう。先ほど整理したように、哲学を新たに述べるということは概念の導入そのものである。つまり、概念の導入は比喩により行われる。比喩により、新しい概念が既に知っている概念につながり、理解できる。
2の4 物語の比喩
更に言えば、この比喩は、物語を仲介して行われる比喩である。
私は、概念と概念を結びつけることを物語と表現している。
例えば、ネコという概念と動物という概念を結びつくということを「ネコは動物である。」という物語がある、というように捉えることができると考えている。
(詳細は、「語りえぬものを語る」で述べているところなので、ここでは、そういうものだと考えていただきたい、と要請するに留めたい。)
ある概念を比喩により理解するという過程については、もともと知っていた概念から、もともと知っていた物語を取り出し、新たに知った概念に対してその物語を適用するというように説明することができる。
例えば、概念の付加の例で言えば、ネコというものは知っているがネコが動物であるということまでは知らなかった人が、「ネコは動物である。」という説明を理解し、ネコに「ネコは動物である。」という意味を付加できるのは、例えば「イヌは動物である」という言葉をすでに知っており、そこから「○○は動物である」という物語を取り出し、ネコに対して、その物語を適用できたということになる。
また、よりわかりづらい例である、「これ」という概念を用いた「これはネコだ。」というような文を理解するような場面においても同様である。この場合、以前「これ」と指を差されたコップの「これと指を差されたコップ」という物語から「これと名指しされた○○」という物語を取り出し、「これ」と指を差されたネコにその物語を適用して理解していると言えよう。
二つの比較的単純な例を説明したが、現実にはもう少し複雑になるだろうし、 詳細の説明の仕方には不正確な部分もあるかもしれないが、おおむね、このようにして、物語を仲介した比喩により新しい概念は導入されると言えよう。
このような、物語を仲介して行われる比喩を、物語の比喩と呼ぶならば、新たな概念の導入は物語の比喩により行われていると整理することが出来る。

2の5 メタ比喩
更に言うならば、物語の比喩が成立するためにはメタ的にもうひとつの比喩が成立していなければならない。
「ネコは動物である。」という文を、物語の比喩により理解できるためには、「ネコ」「動物」という言葉を既に知っていなければならない。
既に知っているということは、例えば、以前に聞いたことがある「イヌは動物である。」という言葉における「動物」と、今初めて聞いた「ネコは動物である。」という言葉における「動物」とは同じものだということを知らなければならないということだ。
これは、以前、例えば「スイカは赤い。」という言葉と「スイカは甘い。」という言葉を使ったことがあり、2つ文における「スイカ」が同じものを指すということを知っているということである。そして、同じ言葉で表されたものは同一のものを指すという「スイカ」に対する知識を「動物」にも比喩的に適用することができたということである。
これは、同一という知識を比喩的に用いたということだ。既に知っている言葉を同一のものとして適用できる、つまり同一律をメタ比喩的に適用できるということが物語の比喩が成立するための前提となっている。
このメタ比喩を同一律の比喩と呼ぶならば、比喩には、物語の比喩とメタ比喩としての同一律の比喩という2段階があると言うことができる。
比喩について同一律の比喩も含めたものと考えるならば、先ほど、「新たな」概念の導入は比喩により行われているとしたことは若干訂正しなければならない。新たではない、既に知っていることを繰り返すだけの概念の導入であっても、それは比喩により行われていると言えよう。つまり、既に知っていることを繰り返すだけのトートロジーであっても、そこには同一律の比喩による概念の導入が含まれているということだ。「スイカは甘い。」という言葉を既に知っている状況において「スイカは甘い。」という言葉を聞いたというようなトートロジー的な状況においてさえ、それが理解できるためには、新たに聞いた「スイカ」「甘い」という言葉が、既に知っていた「スイカ」「甘い」という言葉と同一だということを知っていなければならない。
このように比喩を幅広く捉えるならば、「適度に丁寧な概念の導入」をするということは、「適度に丁寧な比喩」を行うということそのものだとも言えよう。
ここで再度、現時点における哲学の述べ方のルールを確認すると、「哲学を述べるにあたっては、作者は、自らが正しいと思う事を読者に対して正しく伝えようとして、読者にどのように伝わるか配慮し、現実的に、相手を踏まえ、適度に丁寧に説明し、概念の導入としての物語の比喩と同一律の比喩(メタ比喩)を行わなければならない。」というように言える。これが、ここまでで確認した正しい哲学の述べ方である。