2013年2月2日作

「私の哲学」の続編です。ちょっと「「語りえぬものを語る」を読んで」のことも踏まえてます。
希望としてはその後に読んでほしいかも。と当時書いてますね。

PDF:nobekata

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1の1 問題認識
私は哲学に興味がある。だが、「哲学とは何か。」と問われても答えられない。私には自らの興味の対象が何かわからないという気持ち悪さがある。その気持ち悪さを解消したくて、哲学とは何か考えている。個別具体的な哲学的疑問ではなく哲学という領域自体について考えることに独立した意義はない、という考え方もあるかもしれない。しかし、私は、ある文章が私にとって哲学的な文章であるということが現にわかる。そこに独立した考察すべきことがあるように感じる。
そこで、「哲学とは何か。」という問いを「哲学とはどのような内容なのか。」という問いと、「哲学とはどのような形式なのか。」つまり「哲学とはどのような述べ方がされるのか。」という問いとに分け、この文章では、後者の哲学の述べ方という側面から、哲学というものについて考えてみたい。

1の2 科学との対比
哲学の述べ方を考えるにあたっては、まずは、哲学を哲学以外のものと対比するところから始めてみたい。対比の対象は、私が勝手に哲学に近いものだと思っている科学と文学である。
哲学から科学に発展したという歴史的な事実がある。そのことを踏まえれば哲学と科学は近い。
ただし、一般的な受けとめとしては、現在の哲学は、もしかしたら、科学と対比できるような存在ですらないかもしれない。現在の科学の隆盛を踏まえれば、哲学とは、疑似科学のようなものであり、まだ科学が扱うことができない「心」等の限られた分野にのみ生き残っている絶滅危惧種であり、その隙間的な生存圏でさえも今後、科学により駆逐されていく、というように受け止められているかもしれない。
しかし一方で、哲学から科学に発展したという歴史的な観点を思い起こせば、当然ながら現在でも、哲学の一分野が科学だという言い方はできる。そして、哲学と科学を仲介するものとして科学哲学という哲学の一分野があるとも言える。現に科学哲学においては、科学の方法論も議論されている。例えば、科学には反証可能性が求められる、というような議論だ。これらのことを踏まえると、哲学のうちの、反証可能性等の科学哲学が提示する方法論に則って行われている一分野が科学だとも言える。あくまで哲学の側から見るならば、哲学の一分野が科学である。
両者の視点は両立しないという意味で、哲学と科学の関係は恐竜と鳥の関係にも似ている。現在の私たちから見れば恐竜は絶滅しているが、中生代の観点からすれば、恐竜のうち、羽毛を持ち、空を飛ぶことを選んだ者たちは生き残り、繁栄している。
ただし、「科学とは何か。」という問いに科学で答えることはできないという点で哲学と科学の関係は恐竜と鳥の関係とも違う。恐竜から鳥に進化したように哲学が別の何かに完全に置き換わることはない。どんなに科学が発展しても科学自体を哲学する科学哲学のような観点が失われることはない。科学は哲学により基礎付けられうるが、哲学は別の何かに基礎付けられることはない。科学には科学哲学が示すような方法論的なルールがありうるが、哲学には哲学以外の何かからルールを示されるということはありえない。このような相違点がある。

1の3 文学との対比
次に、哲学者がノーベル文学賞を受けているという社会的な取扱いも踏まえ、哲学と文学との関係について考察すると、ノーベル賞の例を出すまでもないが、哲学は文学の一分野である。文章表現のことを文学と呼ぶならば、文学のうち、ある特定の哲学的なテーマについて文章で表現したものが哲学だという言い方ができよう。
しかし文学という用語には、文章表現されたものという意味と、芸術作品という意味の2つがあるように思われる。意味の違いに応じて広義の文学と狭義の文学というように用語を使い分けるならば、辞書や取扱説明書のようなものは文章表現されているという意味で広義の文学ではあるが、芸術作品ではないという意味で狭義の文学ではないと言えよう。
同様に、哲学も広義の文学ではあるが狭義の文学ではない。芸術作品としての狭義の文学は、芸術作品として美しいかどうかで価値判断がなされる。一方で哲学は正しいかどうかで価値判断がなされる。そこに大きな違いがある。よって、哲学は狭義の文学ではない。
しかし、哲学書と取扱説明書とを一括りに狭義の芸術作品としての文学ではないとすることに抵抗があるかもしれない。確かに優れた哲学書は芸術作品としても価値がある。
この抵抗感の解消方法は三通りほど思いつく。まず、哲学には正しさと美しさという二つの評価軸があると認める方法。次に、正しさと美しさとは一体であると認める方法。最後に一つの文章に哲学的要素と狭義の文学的要素が混在していると認める方法である。前二者の方法をとるならば、哲学に正しさが割り振られ、狭義の文学に美しさが割り振られるという対比はできなくなり、哲学と狭義の文学の違いを見出すことはできなくなる。これらの方法をとるならば、これからこの文章では、哲学とは何か、ではなく、正しさとは何か、美しさは何か、という観点から語っていかねばならないだろう。
しかし、この文章は哲学とは何かを考察するものであることから、当面は三つ目の選択肢を選び、一つの文章に哲学的要素と狭義の文学的要素が混在していると考えることにしたい。そして、哲学的な文章から狭義の文学的要素、つまり芸術作品としての価値、美しさを捨象したものを哲学として検討していくこととしたい。(ただし、検討の過程では、正しさとは何か、美しさは何かという観点からは逃れられないため、後ほど、私が考える正しさと美しさの関係についても最低限触れていく予定である。)
このように哲学と文学を対比すると、哲学は正しさが求められるが、狭義の文学は美しさが求められるという相違点があると整理できる。

1の4 丁寧に説明する
この2つの対比から、その相違点に注目すると、哲学とは、科学と異なり方法論的なルールはないが、狭義の文学と異なり正しさが求められるものだ、とまとめることができる。
ここで哲学を述べるということにつきまとう困難さに気付く。ルールがないのに正しさが求められるというのはどういう状況だろう。それは、まるで勝ち負けを決めるルールがないスポーツを行っているようなものだ。サッカーをしていると思ってシュートの数を競っていたら、実は行っていたのはサッカーではなくて格闘技で、試合終了後、倒した相手の人数で勝敗が決められる、というようなことが起こりうる。哲学を述べるということにはそのような困難さがある。
それでは、哲学において述べ方のルールを見出すことは全くできないのだろうか。
私は、哲学と科学、文学とを比較し、その相違点に着目するのではなく、両者との共通点に着目することを出発点として、哲学の述べ方をある程度捉えていくことが可能なのではないかと考えている。
まず、哲学、科学、文学という3者の関係を整理してみると、科学は哲学に含まれ、哲学は広義の文学に含まれるという関係にある、というように言えよう。「科学⊂哲学⊂広義の文学」である。
つまりは、哲学は広義の文学としての特徴を持っている。そこで、文章表現されたものという意味での広義の文学と哲学の共通点に着目すると、少なくとも二つのことが言える。まず、哲学は文章表現なのだとすれば、作者と読者があり、伝達されるものとしての本(哲学なので哲学書)があるはずだということ。そして、作者は読者にどのように伝わるか配慮しているはずだということだ。
加えて、哲学と科学との共通点もある。先ほど、哲学と文学を対比し、哲学は正しさが求められ、狭義の芸術作品としての文学は美しさが求められるという相違点について述べたが、このうち、哲学は正しさが求められるということは、哲学と科学の共通点でもある。ルールがあるかどうかという違いがあるものの、いずれも正しさを求めるという点では同じだ。
このようにして明らかとなった哲学と科学、文学の共通点を踏まえると、次のように哲学の述べ方のルールをまとめることができる。「哲学を述べるにあたっては、作者は、自らが正しいと思う事を読者に対して正しく伝えようとして、読者にどのように伝わるか配慮して説明しなければならない。」
この、正しく伝えようとする読者への配慮は、一言で言えば「丁寧に説明する」ということである。「丁寧に説明する」ということが哲学の述べ方のルールの少なくとも一部であるということを踏まえ、より詳細に、哲学の述べ方について考察していきたい。

1の5 留意点:伝達
なお、前もって触れておく必要があるが、これまで哲学については哲学者が書いた書物としての哲学書を念頭に述べてきたが、その形式は書物に限らない。哲学の講義でもよいし、居酒屋で行う哲学的な議論であってもよい。文字であっても口頭であっても、何らか伝達されている場面であればよい。そういう意味では、作者、読者という用語も、発信者、受信者というような意味合いで考えてよい。
また、哲学者という用語についても、職業的な意味での哲学者ではない人を含めてよい。哲学の専門家ではない私が書いたこの文章は哲学書に含まれる。
更には、哲学を述べるとは独り言であってもよい。自分自身に語りかけるという意味で、自問自答している場面での自分も読者に含まれる。当然、独り言と言ってもブツブツ声に出さなくともよい。
私は哲学的な思考をするということを、自分自身を読者として哲学書を書くことに置き換えることが可能だと考えている。例えそれが私の頭の中での自問自答であっても、作者である私が私も含めた読者に対して哲学書を書いているように、思考というものを理解することができると考えている。私の哲学の捉え方には、このような伝達という視点が色濃く反映されている。
そういった意味では、これまで文章表現としてきた広義の文学とは、いわゆる言語そのものであり、そのなかには、いわゆる思考も含まれると考えてよい。広義の文学つまり言語のうちの哲学的思考も含む哲学的に使用された言語が哲学だということになる。しかし、思考や言語というような用語は人によって受け止め方の違いが大きく、私が期待しているのと全く違うイメージを持たれてしまうおそれがある。特に伝達という視点が抜け落ちてしまうことが危惧される。よって、今後も思考や言語というような用語は極力使わず、作者、哲学書といった用語を用いて述べていきたい。
(少々駆け足の説明であったが、私が哲学を文章表現として捉え、作者、読者、哲学書という捉え方をしていること等については、既に詳細を「私の哲学」で述べているところである。)