2016年7月30日作

PDF:ステージの上と対話の輪

僕はロックバンドのライブが好きだ。(特に好きなのはtheピーズとか怒髪天とか、いわゆるおじさんバンド。)
と言っても、家ではあまり音楽を聴かないので音楽鑑賞全般が趣味という訳ではない。多分、他のファンと一緒に大音量の振動を体感できるライブの空気感というか一体感が好きなのだと思う。
ただライブには寂しさもある。ライブが始まる前は皆がばらばらにスマホをいじったりしているが、照明が落ちたとたんにこぶしを振り上げて盛り上がり、終わるとまた、ばらばらに他人行儀に言葉も交わさず帰宅する。ライブの一体感の前後にはどこか寂しさが漂う。
念のためだが、この寂しさは決して悪いものではない。時々、始まる前から変な一体感があるライブもある。それはそれでいいのだけれど、僕はそれを毎回求めている訳ではない。時々ならいいけど毎回だと疲れてしまう。一体感だけというのも単調だ。

寂しさは、ライブの前後だけでなくライブの最中にも潜んでいる。
ライブ中、観客は、他の観客を見ずにステージの上だけを見ている。ライブハウスでの一体感というのは、あくまで、個々の観客とステージ上のバンドとの一体感だ。観客同士はバンドを経由してつながることしかできない。100人のハコなら、100人の観客が3、4人のバンドマンとつながる。いわゆるハブ&スポーク関係というやつだ。バンドマンを中心として放射線状に100本の関係性が観客に向かって延びている。観客同士は直接にはつながらない。だから、バンドマンがステージから去ると、ライブハウスは中心を失い、つながりは消え去る。

僕は、この状況を変えることはできないかとたくらんでいる。ロックバンドという特別な存在がなくても、普通の人同士がつながることはできないのだろうか。それも、疲れない程度の自然体での緩やかなつながりが良い。家族とか日本人としての絆!みたいな、がっつりとした一体感には無理がある。確かにそういうのもいいけど、疲れてしまう。かといって、客とコンビニの店員のような、疎遠な関係ばかりでも嫌になる。また、ライブ中とライブ前後のように、一体と疎遠でがらっと切り変わってしまうのも不自然すぎる。
それらのいずれでもない、近づいたり離れたり、揺れ動くような、つながりと名付けるのもはばかれるような、優しい息遣いのようなつながりをもっと増やすことはできないだろうか。僕はそんなことを夢想している。

そのような思いもあって、僕は、哲学カフェや哲学対話に目をつけている。こういうものにこそ、そんな緩やかなつながりを生む力が秘められているのではないだろうか。本来ならすれ違うだけの人同士が自然と街中で足を止め、対話を交わし、去っていく。こんな距離感こそ、僕が求めているつながりだ。

しかし、先日、はじめて哲学カフェを開催し、その夢想が少し打ち砕かれた気がする。
その日、僕は6、7人の参加者を前にして、進行役として座った。進行役と参加者という立場が固定化しないよう円で座席を配置するなど工夫はしたが、それでも進行役として僕は参加者から視線を浴びた。そして、僕は進行役として、参加者とは違う関わり方を求められた。要は、僕はその場をより良いものとするために僕の能力を発揮し、場に尽くすことを求められた。主催者兼進行役である僕は、参加者に対して、より良いものを提供することが求められる。参加者が満足できなければ僕の哲学カフェには人が集まらなくなる。場を成立させるためには、僕は全力で提供しなければならない。
そこには、ある種の非対称性がある。進行役は一方的に何かを提供し、参加者は一方的に何かを受け取る。
僕はまるでライブハウスのステージに立ってしまったようだった。僕はバンドマンで進行役として素人くさい音楽を奏でた。
これは、僕が望む事態ではなかった。僕は、このような非対称な関係ではなく、対等な対話を求めている。

このような状況は過渡的なものだと思いたい。
いつかは進行役に特別な知識や能力がなくても、進行役などいなくても、自然に対話ができるような世界になる。いつかは哲学カフェという特別な場を設定しなくても、自然と街は対話にあふれ、優しい息遣いのような緩やかなつながりで世界は結ばれるようになる。そんなふうに対話が広まるまでの辛抱だ。
それまでの間は、期間限定で、哲学カフェという不自然な場を設定し、進行役という不自然な役割を引き受けるしかない。

それにしても嫌になる。
僕は対等な対話に満ちた世界を夢見て、僕自身の進行役として対話の能力を高め、哲学カフェを魅力的なものにし、対話を広めようとしている。そして、高めた力で参加者を支配しようとしている。昨日よりも上手に哲学カフェを運営できるよう、色々工夫を重ね、僕は、昨日の僕を否定し、僕を乗り越えようとしている。そこにあるのは、参加者よりも進行役、そして、昨日の僕よりも明日の僕というどこまでも対等でない関係だ。そこには矛盾がある。この矛盾に気付きつつ、哲学カフェの主催者兼進行役を演じるのは苦痛だ。
確かに、この、対話を破壊するような的外れな努力によってこそ、ついには非対称性が飽和し、そこで、理想的な対話の世界が現出するのかもしれない。しかし、そうだとするなら、そのとき、それまでの僕の努力がすべて無駄になるということだ。世界が対話に満ちた時、僕の対話に向けた努力は不要となり、無駄となる。それはそれで嫌な気がする。
もうひとつ嫌なことがある。僕は、哲学カフェを主催することで、ある種の自己肯定感を得てしまった。哲学カフェの進行役として視線を集めることには、バンドマンになったような、ある種の快感があったのだ。所詮、僕はステージに上がりたいだけなのかもしれない。そんな自分の中にある、ちっぽけな思いにも気付いてしまったのだ。そんな自分が少し嫌になる。

矛盾、無駄、自己嫌悪と嫌なことを列記したが、このように整理してみると気付かされたのは嫌なことばかりでもないような気もする。
やりすぎるから矛盾が目立つし、やりすぎるから無駄になるとショックだし、やりすぎるから自分の思いを痛感して自己嫌悪にもなる。
そこに気付けば、矛盾、無駄、自己嫌悪になるほどやりすぎず、力を抜くこともできる。時には戸惑いつつ、行きつ、戻りつ、緩やかに対話に満ちた世界を目指すこともできる。対話を押し付けず、対話を意識しすぎず、それでもどこかで対話を心に留める。それこそ、優しい息遣いのような緩やかな対話を目指すにふさわしい姿勢のような気もする。