僕は哲学カフェという活動に興味があり、数年関わっている。だけど、そのネーミングには引っかかり続けている。

そもそも哲学という言葉がキャッチーではないということもあるが、どうも哲学カフェという名前は活動の本質を捉えていないように思えるのだ。哲学カフェの本質は、テーマ設定や、参加者の人数や開催場所にはないのでないか。

確かに、哲学的なテーマ設定であれば、話し手として自由な発言ができやすく、聞き手としても発言内容だけに注目しやすい。数人から十数人くらい、というカフェに入るくらいの人数も対話にはちょうどいい。だけど、それらは付随することに過ぎない。話し手が自由に発言し、聞き手が発言内容だけに着目することができたなら、その話題がいわゆる哲学的なものでなく、例えばアニメの話であっても、また何十人、何百人の集会であっても、それは十分に哲学カフェ的だと言っていいだろう。(さすがに、法廷での証言や、何千、何万人規模の集会が哲学カフェ的になることは事実上難しいだろうが、論理的には哲学カフェ的なものとなる道が閉ざされている訳ではない。)

それでは哲学カフェの本質はどこにあるのか。それは参加者の心構えにこそあるのではないか。哲学カフェでは、他の参加者の話を聞くとき、発言者の肩書や性別や年齢などは気にかけず、ただその発言内容だけに着目することが推奨される。発言するときも、こんな発言をしたら変に思われるかもしれない、人間関係に支障が生じるかもしれない、などと考えず、自らの考えを表現することが望ましい。哲学カフェの本質は、このような、他のことに気を取られず、対話だけに集中しているという参加者の心構えにこそあるのではないか。

という訳で、僕は、哲学カフェというネーミングが気に入っていない。そこで僕は、マインドフル・ダイアログという名前を思いついた。ダイアログは対話であり、哲学カフェは哲学対話とも呼ばれるから説明不要だろう。ポイントはマインドフルという部分にある。
マインドフルとは当然、マインドフルネスのことだ。皆さんご存知だと思うが、マインドフルネスとは、僕のざっくりした理解だと、仏教が、禅などの実践面に重点を置き、西洋的に解釈されたものだ。もしかしたら、ヨガなど仏教以外の要素も含まれているのかもしれない。だが、西洋的に解釈された仏教と考えておけば大きな間違いはないだろう。

マインドフルネスは、瞑想を通じて、日常の雑事を手放し、今・ここに集中することを重要視する。歩いているならば、ただ歩いていることだけに集中し、食事をしているならば、ただ食べていることだけに集中する。同様に、哲学カフェでは、ただ対話していることだけに集中する。これこそがマインドフルネスとしてダイアログ(対話)を行うということだ。

先ほど、哲学カフェでは、聞き手は、ただその発言内容だけに着目することが推奨され、話し手は、自らの考えを何にもとらわれずに自由に表現することが望ましいとした。そして、これこそが哲学カフェの本質であるとした。これはまさに、マインドフルに対話を行うことと一致する。それならば、哲学カフェをマインドフル・ダイアログと言い換えることは適切であろう。

僕は、哲学カフェをマインドフル・ダイアログと言い換えることを提案する。そして、マインドフル・ダイアログをマインドフルネスのひとつとして位置づけ、マインドフルな人生を送るためのツールとして整理することを提案する。

ただし、マインドフルに対話することは、マインドフルに歩くことや、マインドフルに食事することと同列には扱えない側面もある。なぜなら対話するとは、言語を用いるとも言い換え可能であり、思考も含めた言語活動全般を行うことでもあるからだ。言語の力を最大限に見積もるならば、マインドフル・ダイアログとはツールのひとつではなく、マインドフルに生きることそのものであると言ってもいい。

なんでこんな文章を書いたかというと、マインドフル・ダイアログという言葉は、僕が2020年7月5日に思いついたことを明らかにするためです。ネットで検索すると少し出てきますが、このような力点を置いている使用例はないと思います。いつか、この名前を冠して活動をしてみたいな。そのためにはマインドフルネスももう少し勉強しないと。