1 すくらっぷ・ブックと僕
すくらっぷ・ブックという昔の漫画を読み返している。もう50歳になる僕が、小学校高学年の頃にハマった漫画だから、かなり古い漫画だ。(作者の小山田いく先生も亡くなっちゃったみたいだし。)ジャンルとしてはいわゆるラブコメで、ある中学校のあるクラスメイトたちの恋や友情いっぱいの2年間の日常生活を描いている。
小学生の僕は、こんな中学校生活に憧れを持ちながら読んでいた。それまで銀河鉄道999とかが好きで、その後もバトル系ジャンプ漫画に進んでいった僕にとっては、少し異質な漫画だった。この漫画の登場人物のカナちゃんが僕の二次元の初恋だった気がするし。(メーテルとかセイラさんも好きだったけど、もうちょっとリアルな恋心・・・)
あらためて読み返してみて、この漫画のいくつかの特徴に気づいた。多分、小学生の僕は、そこに無意識に魅力を感じたのではないだろうか。そして、その特徴とは、今の僕の対話の哲学への関心とも関係するのではないか。そんなことを思いついたので、この文章を書くことにした。

2 すくらっぷ・ブックの特徴
まず、思ったのは、この本は、本当に、恋愛と友情といたずらばっかりだ、ということだ。まあ、ラブコメというのはそういうものではあるのだけど、異世界とつながるような大事件も起こらないし、超能力のようなSF的な設定もないから、それが余計に目立つ。(超能力的ないたずらをしたりもするけど、それは単なるギミックでストーリー上は大きな意味を持たない。)
また、この漫画にはつくづく、中学校の同級生しか登場しない。大人といえば、先生や喫茶店のマスターくらいしか出てこない。読み返しているところだけど、今のところ親も出てこない。物語のなかでの問題の発生もその問題の解決も、すべてがクラスメイトたちのなかで完結している。
もうひとつ気づいたのが、これはいわゆる群像劇にあたるということだ。主人公は多分、二頭身の春ボンということにはなるのだろうけど、市野、坂口、マッキー、カナちゃん、理美ちゃんも、その内面が丁寧に描かれており、主役級の扱いだと言っていいだろう。
そして、これらの特徴を通じて、今の僕が最も感じた感想は、「この漫画は、コップの中の優しい小宇宙のようだ。」というものだ。ここでは確かに色々な事件が起きる。だけど、問題がクラスの枠を超え、彼らの人間関係を破壊することはない。事件は予定調和のように彼らの成長につながっていく。作者の庇護のもと、作者の手の上の小宇宙で、彼らは精一杯、恋愛と友情といたずらに勤しみ、成長していく。中学2年から中学校卒業までの物語なのだけれど、高校生となり、進路が分かれ(当時はまだ中学校受験なんてほとんどなかった)、いわば社会に旅立つ直前の、子供時代の終わりの空気感と、この物語の閉じた小宇宙感がとても合っているように僕は思う。

3 これらの特徴が示すもの
小学生の僕は、こんな、コップの中の優しい小宇宙に憧れていたのだと思う。銀河鉄道999にもホワイトベースにも乗りたくなかったけど、小諸市立芦の原中学校にだけは行きたかった。そして、本当にこの漫画の住人になりたかった。だけど、当然、僕が進学したのは横浜市立○○中学校だったし、中学校ではこんな友人や彼女を得ることはできなかった。僕はとてもがっかりしたけれど、こんな世界は作者の手の上にしかないのだから仕方ない。
この漫画の世界はつくづくいいところだ。ここには恋愛と友情といたずらしかないと言ったけれど、ここでのいたずらは、当然、その相手への関心の発露であるような優しいものとして扱われているし(やっていることは、かなり執拗で危険なものだけど・・・)、恋愛といってもキスまでで、あくまで男女間の友情の延長として描かれている。突き詰めれば、この世界は友情で満ちている。だから孤独なんて存在しない。一人きりで問題を抱えて悩んでいても、すぐに誰かが手を差し出してくれる。
この漫画が群像劇であるということは、特定の登場人物を掘り下げないことにつながるけれど、すくらっぷ・ブックではそれぞれの登場人物の内面が深く掘り下げられ、その心情が丁寧に描かれている。それが可能となっているのは、一人で問題を抱え込んで内面化しなくても、それを外面化して理解してくれる友人がいるからなのだ。
これは意地悪く言えば、この世界には、クラスメイトの間で理解しあい、友情で解決できる問題しか起こらないということだ。だから大人は要らない。
小学生の僕は、中学生になったらカナちゃんみたいな彼女が欲しいなんて妄想していたけれど、最も望んでいたのは、僕が抱えている問題を理解してくれる友人であり、または、友人が理解してくれるような問題しか、僕の身に起こらないことだったのだろう。
当然、現実にはそんなことにはならない。だからこそ、このような世界を描くことに意義がある。これが、コップの中の優しい小宇宙の魅力であり、この漫画の魅力なのだと思う。

4 コップの中の優しい小宇宙の実現
コップの中の優しい小宇宙は現実には存在しない。それは、作者の心の中にだけある。この漫画の登場人物は、小山田いく先生が作り上げた、いわば先生の分身だからこそ、先生の世界観という共通の基盤があるからこそ、他の登場人物が抱える問題を理解することができる。それは、ラブコメ特有のご都合主義とは関係なく、そもそも物語というものの根本的な特徴なのだ。この特徴がいかんなく発揮されているという点に、すくらっぷ・ブックという漫画の魅力がある。
小学生の僕は、成長するにつれ、自分の内面という優しい小宇宙から否応なく外に引きずり出されていくことに、どこかで気づいていたのだろう。僕の周囲では僕の内面で処理しきれない問題が生じているのに、意地が悪く野蛮なクラスメイトたちは当然として、親や先生のような身近な大人も僕の問題を理解してくれない。すくらっぷ・ブックの世界は、そんな僕にとってのユートピアだったように思う。
僕の半生は、ある側面では、このユートピアを探し求める旅だったのかもしれない。僕の恋は、僕のことを理解してくれる人を求めるという要素が強かったし、多分、家庭を持つことも、家族とともに小宇宙を作り上げようとすることに似ている。僕がやっていることの多くは、この側面から捉え直すと、どこかでつながっているように思う。残念ながら、まだユートピアにはたどり着けないけれど・・・
哲学に話を戻そう。僕の恋愛はともかく、この文章を書こうと思ったのは、僕の哲学対話への関心が、コップの中の優しい小宇宙というユートピアの実現に直接的に結びついていると思ったからだ。他者と対話するということは、その他者と一緒に小宇宙を作り上げることなのではないだろうか。

5 対話による小宇宙の創造
さきほど、すくらっぷ・ブックという小宇宙は、小山田いく先生の内面に存在すると言った。小宇宙は個人の内面にあるからこそ、優しく調和したものとなる。
だが、その小宇宙を個人に留めず、言葉の力により、拡大することを目指すのが、対話というアイディアなのではないだろうか。
なぜ、言葉というもので、そのようなことが可能となりうるのかと言えば、内面の小宇宙は言葉により描写されるものだからだ。小山田いく先生の小宇宙はすくらっぷ・ブックというかたちで、言葉(と絵)で描写されているし、僕の思考という小宇宙は、このような文章として、言葉で表現することができる。
もし、内面の小宇宙が言葉で表現できるものならば、相手に言葉を丁寧に伝え、理解してもらうことで、その相手に小宇宙を伝えることができるはずだ。丁寧に言葉で伝達することにより、話し手と聞き手は優しい小宇宙を共有することができる。このような考えが対話というアイディアの根底にあるように思う。
その小宇宙は、話し手と聞き手だけが共有する閉じたものであり、誰か他者が新たな問題を持ち込めば壊れてしまう一時的なものだろう。だけど、対話はその他者をも取り込み、再び小宇宙を更新し、再設定することが可能だ。新たな問題により壊れても、壊れても、どこまでも更新し、その問題をも小宇宙に取り込み、拡大していく。対話による小宇宙の創造にはそのような力強さがあると感じる。
一方で、すくらっぷ・ブックの小宇宙は、春ボンたちが中学校を卒業し、連載が終われば、儚くそこで閉じられる。だけど、だからこそ優しさが際立つし、憧れが明確になる。それが、この漫画の魅力だ。ユートピアのように目標が示されるからこそ、そこを目指していきたいと思える。この漫画を今読み返すことは、僕にとって、このような意味があった。すくらっぷ・ブックという失われた中学校生活を手に入れるため、僕は生きていくのかもしれない。
こんな素晴らしい作品を遺していただき、小山田いく先生、ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。
(まだ4巻くらいまでしか読んでいないし、小学生の僕もお小遣いの都合から途中までの巻と最終巻しか買えなかった記憶があります。だから、後半では、この文章から外れた展開になるかもしれません。)