1 この文章の問題設定 瞑想・マインドフルネスと哲学との関係
瞑想やマインドフルネスはブームだと言っていいだろう。色々な本が出版され、イベントも開催されている。僕も流行りものが好きだから、すでにいくつか文章を書いている。
哲学好きの僕は、瞑想やマインドフルネスと哲学の関係についても考えている。当然、哲学と野球よりは、哲学と瞑想のほうが関係は深いだろう。どちらも心と呼ばれる領域が重要だし、人生といったものへの対応方法をみつけようとする点も似ている。ここには考えるべきことが潜んでいるという予感がある。
まだ考えはまとまっていないけれど、瞑想・マインドフルネスと哲学との関係について思いついたことがあるので、書き残しておこうと思う。
2 ヨガやスポーツの上達 芯となるもの
思いついたきっかけとなることがあった先週の土曜日(2020年10月10日)まで遡ってみよう。
僕はヨガも好きだから、その日も週1回のヨガに行っていた。クラスが始まる前の雑談で、ヨガの先生から、なんにせよ早く上達するためには自分の芯となるものがあったほうがいい、という話があった。サッカー選手なら、サッカーという芯があったうえで、サッカーにどのようにつながるかを意識しながらヨガをしたほうがいい、というような意味合いの話だ。当然、ヨガの先生なら、ヨガという芯があったうえで、ヨガにどのようにつながるかを意識しながら例えばダンスでの身体の使い方を学んだほうがいい、ということになる。
なぜ芯があったほうがいいかと言えば、芯になるものがなければ情報を取捨選択できないからだ。サッカーの先生からの指導とヨガの先生からの指導とが矛盾しているとき、サッカーとヨガが全くの対等だったら、どちらも選べず混乱してしまうだろう。だがサッカーのほうが優位だという芯があれば、迷わずサッカーを選ぶことができる。そうするとサッカーが上達するのは当然として、迷いがない分、効率よくヨガも上達できる。
確かにそうだろう。実は僕も似たようなことを考えていた。ヨガでは先生によって言うことが結構違う。あるポーズをするとき、足の外側に意識を向けるべきか、内股に力を入れたほうがいいのか、というような違いがある。そんなときは、A先生のファンだからA先生が言うことのほうを選ぼう、というように取捨選択をしている。その取捨選択はなるべく一本の筋が通っているほうがいいと感じていたのだ。
多分、最も人気のある筋の通し方は、師匠となる先生を見つけることだろう。正式な弟子にならなくても、こっそりでいいから、勝手に師匠を選び、その先生が言うことを最優先にするというやり方だ。それならば、師匠を芯とすることができ、ひとつの筋が通る。
もうひとつ、自分なりに自分で考え、自分自身を芯とするかたちで筋を通すというやり方もある。比喩的に言うならば、自分自身が開祖となってしまえばいいということだ。または、自分が自分の師匠になり、オーダーメイドで自分なりのヨガ体系を構築すると言ってもいい。こう書くとおおげさだけど、誰かの話を鵜呑みにするのではなく自分なりに考えて試行錯誤している人は多いのではないだろうか。(先日、ヨガの先生が言っていたのは、このようなやり方の効率が悪さを指摘するものだったと解釈することもできるが、いずれにせよ不可能ではない。)
なお、僕はその中間的な筋の通し方を選んでいるように思う。何人かのお気に入りのヨガの先生がいて、彼らが言うことを組み合わせて自分なりの芯となるものを構築し、その芯に沿って情報を取捨選択している。
3 その他の分野への拡張 瞑想・広義の哲学
長々とヨガの勉強の仕方について書いてしまったが、スポーツが苦手でヨガ初級者?の僕がヨガについて書いても価値はないだろう。なぜこのようなことを書いたかと言えば、この話はヨガやスポーツに限らないと思うからだ。網羅的に検討した訳でないが、たいていのことに当てはあまるのではないだろうか。
この文章での考察に必要な限りで具体例を上げるなら、瞑想やマインドフルネスに関しては、明らかに師匠のような芯となるものがあったほうが上達は早いだろう。先日、ヨガの先生も言っていたけれど、世には数多くの瞑想法があるが、それらを全く並行して学んでいたらなかなか上達しない。どれかひとつを選び、その道を突き進んだほうが上達は早いに違いない。
また、哲学についても当てはまるように思う。と言っても、学問としての哲学ではなく、より広義に、経営哲学や人生哲学というように呼ばれるようなものとしての哲学についてではあるが。うまく会社を経営したり、人生を生きたりするためには、色々な考えを混乱したままに取り込むよりも、ひとつの芯となる哲学があったほうがいいのは明らかだろう。僕は詳しくないけれど、松下幸之助の本が中小企業の社長にもてはやされたり、相田みつをの言葉が誰かの家にトイレに貼ってあったりするのも、このあたりに理由があるような気がする。僕は彼らの言葉のありがたさはよくわからないけれど、彼らの言葉がひとつの芯となり、誰かの経営や人生に筋を通すことの重要性ならばわかる気がする。
その意味では、ニーチェやカントといった哲学者の言葉が名言として取り上げられることにも意味があるのだろう。彼らの思索の体系は理解されなくても、彼らの断片的な言葉が誰かの人生の芯となることはありうる。
4 学問・芸術 実践と創造
ここで問題としたいのは、やはり哲学についてだ。
ここまで、学問としての狭義の哲学と、人生訓のようなものも含めた広義の哲学とを分けて考察してきた。そのうえで、広義の哲学については、師匠のような芯を確保することは重要だとしてきた。では、狭義の学問としての哲学においては、師匠や芯といったものは必要ないのだろうか。
まず言えるだろうことは、大学や大学院といった教育システムにおいては、明らかに師匠は存在し必要とされている。指導教授と呼ばれるような人がそれにあたる。彼らに研究の進め方を学び、研究者として独り立ちしていくことになる。多分これは、哲学に限らず、すべての領域の学問で言えることだろう。
僕は経験がないので推測だけど、哲学に限らず研究の進め方を学ぶにあたっては、あまり多くの人の言うことに惑わされず、師匠の指導に従ったほうが上達は早いだろう。ここまではスポーツや瞑想と大きな違いはない。
だが学術研究の分野では、どこかで師匠とは袂を分かつこととなる。既存のものを組み合わせるにしても、新たなアイディアを思いつくにしても、何か新しいものを生み出さなければならない。試行錯誤をして、効率は悪くても、自分なりに何かを掴み取らなければならない。
ここに、スポーツや瞑想といったものと哲学のような学問との違いがあるように思う。プロ野球選手は新しさがなくてもホームラン本数が多いほうが評価されるし、オリジナリティがある瞑想をしなくてもマインドフルになればそれでいい。一方で学問はそうではなく、新しさ、オリジナリティが命だ。
なお、芸術は、スポーツや瞑想よりも学問に似ているだろう。上手なデッサンの仕方は学校で師匠から学ぶだろうけれど、どこまでも師匠という芯から離脱できなかったら新しい芸術は生まれない。
このように考えると、世の中には、新しさは求められずに芯となるものが重要となる実践の分野と、新しさが重要となる創造の分野があると言えるだろう。前者にあたるものとして、スポーツや瞑想や会社経営や(人生訓が役立つ限りでの)人生や(やり方を学ぶ段階での)学問や芸術といったものがあり、後者にあたるものとしては、(独り立ちした段階での)学問や芸術があることになる。
(更に厳密に捉えるならば、プレイのオリジナリティが評価されるプロスポーツプレイヤーのような場合は、スポーツであっても芸術と同様に創造性が必要となることもあるだろう。)
5 哲学と反実践 哲学の特殊性
ここまで哲学を学問全般に拡大し考察したけれど、しつこいが、僕が問題としたいのは、やはり哲学についてなのだ。
学問においては、師匠から学ぶ段階としての実践的な側面と、自分なりの新しい研究を行う段階での創造的な側面があるとした。それは哲学であっても、哲学以外の分野であっても変わらない。
だが、両者の間には本当に違いがないのだろうか。
哲学以外の分野においては、基礎となる研究の進め方というものがある。例えば自然科学なら、仮説を立てて、実験をして、検証するといったプロセスがある。そのような研究の芯は揺らぐことがない。
一方で、哲学の分野においては、そのような研究の基礎となる芯が存在しない。たとえカント研究者であっても、カントが言うことは絶対ではなく、あえて言うならば、カントを一部でも否定をして新しいことを生み出さなければ哲学者とは言えない。(多くの哲学研究者は、奥ゆかしく、カントの言葉に新たな解釈を行う、というかたちで、こっそりとカントを破壊し、否定している。)
言い換えるならば、哲学以外の分野では、(師匠から学ぶ段階としての)実践的な側面と、(自分なりの新しい研究を行う段階としての)創造的な側面という二面性が、研究の内容にまで及んでいる。師匠の実践知を引き継ぎ、そこに創造を付け加えるようなかたちで研究を進めることができる。
だが、哲学の分野では、論文のお作法というような研究のテクニックは別にして、研究の内容に実践知が入り込む余地がない。ただひたすらに最初からすべてを創造するしかない。より正確に言うならば、師匠から引き継いだ実践知を疑い、否定するところからしか研究を始めることはできない。
以上をまとめるならば、哲学以外では、実践と創造が結合しているが、哲学では反実践と創造が結合しているとも表現することができるだろう。
哲学にはやはり、このような特殊性があるのだ。
6 哲学の行き詰まりの打破 複数の体系とメタ体系
哲学は、引き継いだ実践知を否定するという反実践からしか創造を始めることはできない。それでは、哲学においては実践と創造をまったくつなげることはできないのだろうか。
僕はなんとかそれらをつなげたい。なぜなら、僕の哲学は、人生を生きるという実践から始まっているように思えるからだ。
さきほど、相田みつをの名言を例に出したとおり、人生はスポーツと同様に実践の分野に分類できるから、うまく生きるうえでは、芯となるものあったほうがいい。いい師匠をみつけて、迷わずにひたすら上達しようと努力したならば、きっとプロ野球選手がホームランを打つように、僕は人生をうまく生きることができるはずだ。だから人生において歩むべき道を示してくれるビジネス書や名言が書かれたカレンダーが売れたり、宗教が信じられたりするのだろう。
だけど、僕はそれらを受け入れることができない。だから哲学をしている。僕はそこに行き詰まりを感じている。
長い前置きだったけれど、ここでようやく、この文章で書こうとしていたことにつながる。つまり、冒頭で示した「瞑想・マインドフルネスと哲学との関係」について思いついたことの話だ。
僕は、瞑想・マインドフルネスと哲学との関係についてのアイディアを思いつき、この行き詰まり感に光明を見出したのだ。
自分自身のなかにある手持ちの駒を整理してみよう。
まず僕は、哲学以外の分野については、そんなに悪い生徒ではない。ヨガでも瞑想でも先生が言うことを素直に受け止め、それらを組み合わせて自分なりの体系めいたものを作りかけている。ある程度の成果を挙げていると言ってよいだろう。
また哲学についても、わずかだが自分なりの体系めいたものを構築しつつある。哲学においても、芯がなくて効率は悪くても、自分なりに自分だけで自分独自のものをなんとかつくることはできる。(問題は、僕の哲学体系は体系と呼ぶには貧弱なものであり、僕が求めているような人生の実践には全く役に立たないという点にある。)
このように整理してみて気づくのは、僕の手元には複数の体系があるということだ。ここに挙げただけでも、ヨガの体系、瞑想の体系、哲学の体系という3つの体系がある。あのポーズのときは後ろ足を踏ん張ったほうがいいというような身体の使い方の体系、心を落ち着けるときには呼吸に意識を向けるといいというような心の使い方の体系、神には唯一性があるというような思考の体系というように。
今までは、体系が複数あるということが悪いことであるように思っていた。なぜなら、体系が複数あるということは、それぞれの体系が担当する領域に限定があり、それが体系の限界を示していると感じていたからだ。
しかし、それぞれの体系は接していて、体系相互に影響を及ぼしていると考えることもできる。また、単に影響を及ぼすだけでなく、複数の体系が、反発し合ったり、互いを包み込んだりと様々な関わり方をしていると考えることもできる。これはつまり、ヨガの体系、瞑想の体系、哲学の体系といった体系をつつむ、メタ体系のようなものを措定できるということでもある。
これは僕にとって吉報だ。なぜなら僕の哲学の道は行き止まりではなく、メタ体系という考察の道があるということになるからだ。
7 悟りと普通の人生 哲学的思索と何かの実践を組み合わせる道筋
いや、この道は単なる哲学的考察の道ではないかもしれない。瞑想やヨガの実践という方向からアクセスすべきものであったり、もしかしたら、哲学的思索と瞑想の実践を組み合わせて進むべき道筋なのかもしれない。
実は僕はこのあたりが最も有望だと思っている。僕が想定しているのは、哲学的思索の結果を瞑想に反映し、瞑想で得られたものを哲学に反映していくというようなやり方だ。これはかなり悟りを求める作業に近づいているように思える。
(このように考えるなら、悟りはそれほど難しくないだろう。なぜなら、悟るとは、瞑想的なレベルで自らの哲学的アイディアに深く納得するということに近づくからだ。悟りが難しいと言われるのは、悟るのが難しいからではなく、それが悟った状況だと他者に説明したり、他者から理解されたりするのが難しいからなのではないだろうか。)
または、僕が進むべき道は、哲学や瞑想に限定せず、友人や家族と楽しく過ごし、趣味を楽しむことまでも含めた、人生を生きることそのものの道であるかもしれない。限定がないという点で、こちらの道筋も有望なように思える。
いずれにせよ、孤独にゼロから思索して新しいものを創造するだけでなく、瞑想であれ人生であれ、師匠や先人のノウハウを活かし、芯が確保された効率のよい実践と結びつけていくという方向には大きな可能性を感じている。当面、その方向で考えてみたい。