4 距離2 離脱・独自
以上で、最も僕が取り上げたかった議論は語り終えた。この第4章では、入不二の議論というより、僕自身の哲学の考察につながることを論じていきたい。だから、この章はあまり読んでいただく必要はないように思う。
4-1 日常・神
円環モデルとは、僕が先ほど描いた二通りの螺旋、つまり現実性が失われて下降していく下向きの螺旋と、現実性が満ち足りて上昇していく上向きの螺旋の中間にあるものとして捉えることもできるのではないか。
「あるなる」の用語では中間だが、この本に即すなら緊張関係としたほうがいいかもしれない。
もし、そのように捉えられるとするなら、円環モデルという中間・緊張関係とは何を意味するのだろうか。
このことを考えるために、現実性の神を持ち出したい。
現実性の神とは超人的な神ではない。だが、神であるからには、現実性の神は現実性を与え、奪うことができるはずだ。更に、その与奪は無際限のものであるに違いない。与えるならば与えたという痕跡も埋め尽くすほどにとことん与え、奪うならば奪ったという痕跡さえも消し去る。だから与えられた者は与えられたことにすら気づかないし、奪われた者は奪われたことに気づくことさえできない。これは存在論的忘却(p.320)の議論につながるだろう。
だけど実際には、僕たちは、生まれたり、死んだり、変化したり、といったことに満ちた世界に生きている。これは現実性の神からすると全く余計なものだろう。僕たちは神に抗って生きているのだ。
僕たちが神に歯向かうために使っているのは、現実性の神が持つ、与奪という二面性だろう。僕たちは神が与奪という二項関係を有しているからこそ、そこに中間・緊張関係を見出し、円環モデルという自らの居場所を確保できている。
もし神の力というものが、このような緊張関係から解放されたなら、それは、円環はおろか螺旋を描く必要すらなく、ただ上向きか下向きかに突き進むだけだろう。それをねじ曲げて平面上を経巡らせているのは、神の二面性を用いた人間のわざである。
このように考えるならば、平面的に描かれた円環モデルとは、極めて人間的なものであるはずだ。僕はそれを日常と呼びたい。入不二は円環モデルが反復され回り続けることについて、次のように言っている。
初発の現実のインパクトは、反復する現在の内で均されてしまう。「なにかが起こった(起こっている)」ことは、奇跡的に偶然である始発点というあり方から、日常的に必然である任意の点というあり方へと転落する。(p.178)
僕もそう思う。円環モデルとは、神の奇跡を日常に転落させる人間の描写なのだ。いわば、去勢された現実と言ってもいいと思う。
(円環モデルとは下向きの螺旋と上向きの螺旋の中間であるが、下向きの螺旋とは、あったはずの現実性が失われるという事態を意味する。このような想定は、現実性という神とは相容れないものであり、人間の勝手な想定に過ぎない。神はひたすら与え、奪うことなどない。)
入不二が円環モデルを描ききることができたのは、肯定主義を適用したからこそだが、そこに限界があったとも言える。肯定主義とはあくまで肯定「主義」なのだ。それは言語にとらわれた人間の行為である。
平面の円環ではなく、上向きの螺旋を描くためには、肯定「主義」ではなく肯定そのものの力を用いる必要がある。いわば、現実が円環を経巡るうちに生じる上向きの揚力を生むような議論だ。
(僕は肯定の力と現実の力とは重なるような気がしている。)
実はそれも、入不二の議論のなかには既に準備されているように思う。例えば、「あるなる」でのケセラセラの運命論やビッグウェーブに乗るサーファーの描写(サーフボードは揚力を生んでいる)はその道筋を示しているのではないか。
(※現実の力を揚力と捉えるならば、円環モデルにおいては左回りがないだけでなく、立ち止まることもないだろう。入不二は「潜在的な現実は、必ずしも顕在的な現実という局面(相)を伴う必要はない(ただ潜在しているだけの現実がありうる)。」(p.194)とするが、現実とはどこまでも動的でなければならないように思う。)
このようにして、上向きの螺旋モデルを採用することができたならば、入不二が問題とするような、1回限りで円環が途切れるか、ギャップが埋められて円環が継続するか、という問題は生じない。円環は開いたまま回り続け、神のほうへと上昇し続ける。
4-2 時間・矢印
この本における時間の扱いは難しい。そもそも「現実性という神自体は非時間的な力である」(p.386)とするとおり、現実と時間は無関係である。(無関係が関係するという点に「今」の特異性はあるにせよ。)
つまり、時間については、現実を論じたこの本とは別の道筋で論じられる必要がある。(入不二は既に他の本で論じている。)
あえて、ここに取り上げた限りで、時間を見出すならば、少なくとも次の三つが時間の候補として見いだすことができるだろう。
①平面の円環モデルを経巡る矢印としての時間
②垂直の矢印としての時間
③時制としての時間
このうち特に重要なのは③であり、時制と時間との違いだ。この本でも強調されているが、時制を混入させずに時間を理解するということが、入不二の時間論を理解するための絶対条件だと思う。(※)
実は、この時制と時間を分けるというのが難しい。(僕もできているかはわからない。)だが、明らかに言えるのは、時制を削ぎ落とした時間とは、ベクトルそのものに近いということだ。
それならば、①と②の平面と垂直の二つの矢印こそが時間の候補であるのは明らかだろう。
入不二は時間に、ベタの時間とスカ(無関係)の時間という二つの側面を見出す。二つの側面があるということと、時間の候補として①と②という二つの矢印があることは関係している。
ベタの時間とスカの時間とは、入不二が見出した12時のギャップを時間的に表現したものだろう。12時のギャップについての謎めいた視線の図(p.50、p.176)によれば、視線の向きによってギャップの有無という二通りの捉え方がありうる。一方の円環モデルがギャップなく平面上を回り続けるという捉え方は、「②垂直の矢印」を必要としないという点で「①平面上を経巡る矢印」としての時間とつながる。また、もう一方の円環モデルには越えられないギャップがあるという捉え方は、それを乗り越えるための「②垂直の矢印」としての時間とつながる。
興味深いのは、過去と未来には非対称性があるということだ。過去については、それを大過去にまで深めたとしても、「②垂直の矢印」を必要としない。そのことは謎めいた視線の図では過去方向にはギャップが見えないことと重なる。一方で未来については、「②垂直の矢印」を必要としない「ベタの未来」と、「②垂直の矢印」を必要とする「無でさえない未来」の二つがある。つまり、円環モデルについては、「①平面上を経巡る矢印」としての時間を考慮する限りでは、右回りでも左回りでも違いはないが、「②垂直の矢印」を考慮した途端に、円環モデルは右回りしか成立しなくなる。
この過去と未来の非対称性は、円環モデルには右回りしかなく、また、円環モデルとは実は上向きの螺旋モデルとしてどこまでも開いているということを意味しているのではないだろうか。
また、ここにも、ケセラセラの未来とも呼ばれる「無でさえない未来」が持つ特別な意味がある。ケセラセラの「軽快な解放感」(p.175)こそが、日常から飛躍する力なのではないだろうか。
(※時制としての時間について付言すると、入不二の円環モデルにおいては、顕在性の領域=意味論=未来、潜在性の領域=認識論=過去という対応関係があるように思う。例えば、第1章の時制の議論(p.48~)における「未来の未来性」の第1・2の要因とは潜在性の領域から見た顕在性の領域のことである。また、過去性の第3の要因は潜在性の領域に見いだされる。また、入不二の円環モデルとは意味論と認識論の円環だとするならば、未来の可能性は顕在性の領域にあるという点で意味論的であり、過去の記憶は潜在性の領域にあるという点で認識論的である。)
4-3 内包・もの
円環モデルの始発点について、入不二のように脱内包と見るか、僕のようにそうではないと見るかはともかくとして、いずれにせよ、始発点に内包はない。円環モデルの昼の領域を進むにつれ、内包は獲得されていくことになる。では、内包のひとつひとつを円環モデルのどこに位置づけるべきなのだろうか。
この問題については、円環モデルを拡張した波及と還流の構図における「もの」が、どのように成立するのか、というこの本の第6章の議論に対する疑問として考えたほうがいいかもしれない。
入不二の波及と還流の構図においては、中心にある●としての「私」とその周辺にある「もの」と、最外周にある○としての「世界」との違いには着目されず、いずれにせよ現実の力が及んでいるという点が強調される。例えば次のような記述がある。
「X」は、「私」であろうと「もの」であろうと「世界」であろうと、何でもかまわない。(p.236)
つまり、ここには、実際はたまたま中心にある●は「私」だったけれど、それは「もの」でもかまわなかったはず、という視点が前提とされている。このような方向の議論は、この本で入不二が強調するものではない。(どちらかというと、読んだことがないけれど九鬼が主張する方向だろうか。)しかし、「「初発の現実」自体が、さらに深い水準では偶然性に晒される。」(p.161)とされるとおり、入不二が、12時のギャップについて議論する際には、この根源的偶然を前提に組み込んでいることは明らかだろう。
つまり、根源的偶然を表現するためには「私」が中心にある構図のほかに、「もの」が中心にある波及と還流の構図を無数に描く必要がある。そのうえで、そのうちのひとつとしての「私」が中心にある構図だけが根源的偶然により選択されるのでなければならない。これが可能世界論だろう。
だがそのような議論を、あくまで意味論の枠内での議論であり不徹底だとするのが、入不二に限らず、可能世界論を却下する側の立場となるはずだ。
このような立場に対して疑問を提示したい。
たしかに僕は入不二が読み替えた「このもの主義」(=これ主義)を受け入れる。では、入不二の「これ主義」において、波及と還流の中心にあったはずの「もの」はどのように描かれるのだろうか。波及と還流の構図において、「もの」を単に「私」の周辺に配置するだけでは描写が足りないのではないだろうか。
(これは、限定的なものであっても可能世界論には一定の正しさがあるとするならば、可能世界論を全否定せずに肯定的に捉え、可能世界論を波及と還流の構図に組み込む必要があるのではないか、という肯定主義の徹底の見地からの疑問でもある。)
この疑問に対する僕なりの答えはまだきちんとまとまっていないので、イメージによる描写となってしまうことをご容赦いただきたい。
僕は、現実性の力を解放することにより、円環モデルを上向きの螺旋モデルに発展させることができると考えている。発展可能性があるだけでなく、現にそのようなあり方をしていると考えている。
この螺旋モデルを比喩的に用いるならば、螺旋を縦に見ると、円環が重ねられているように見えるはずだ。円環の向こうには一周前の円環が垣間見えるというかたちで。
「もの」とは、このようにして垣間見える一周前の「私」なのではないだろうか。
円環モデルにおいては、「この私」を始発点として円環が循環し続けていた。12時の奇跡が成し遂げられる限り、「この私」は「この私」であるという日常が永遠に続いていた。
しかし、上昇する螺旋モデルにおいては、始発点の「この私」は同じところには戻らない。一周回った始発点の「この私」は、以前の「この私」を見下ろしているはずだ。
ここでの「以前の「この私」」こそが「もの」なのではないだろうか。
私は、以前の私である「もの」を見下ろしている。
以上が円環・螺旋モデルを用いた説明だが、波及と還流の構図に戻るならば、更に付け加えるべきことがある。
波及と還流の構図では、「私」の周囲に無数の「もの」が並列的に位置づけられている。現実の力は無数の「もの」を巻き込むようにして波及し、還流している。
つまりこれは、上向きの螺旋での最上位の「この私」の円環が見下ろしている「もの」の円環はひとつではなく、並列的に無数にあるとも表現できる。これは既に螺旋で示すことができない構造である。波及と還流の構図自体が更に波及し還流しているというべきだろう。
以上の描写は勇み足すぎ、この本の議論から離れすぎていると思われるかもしれない。しかし僕は、この本についての考察として、この僕のアイディアを述べる理由があると考えている。
僕は12時の飛躍においてなされていることは、マイナス内包の一部からの何かの産出ではなく、マイナス内包全体が一挙に始発点に立ち現れるのだとした。
もしその主張が認められるならば、始発点にあるものは一周前の円環が描いてきたものの一部ではなく、その全てでなければならない。
だが円環モデルを反復と捉えるならば、そのような捉え方はできないだろう。特に着目したいのは円環モデルの特に右半分の顕在性の領域の議論だ。ここでは、始発点にあったはずの「全て」は顕在性の領域を通じて全一性を失い、6時の転回の直前には、無限のなかの一点となってしまう。そこで行われていることは、全体を部分に貶める作業である。
当然、入不二の円環はそこでは終わらない。顕在性の領域でなされた全体の部分化の作業は、その後の潜在性の領域における部分の全体化の作業により回復される。顕在性の領域でなされることと潜在性の領域でなされることは、鏡のような関係にあると言ってもいいだろう。
このような議論の流れについては、数と質という言葉を用いて比喩的に表現することもできるだろう。顕在性の領域の議論とは、質から数への議論だ。分割して数で埋め尽くすことにより世界を把握しようとする。一方で潜在性の領域の議論は、数から質への議論だ。分割を埋め直すことにより世界全体のあり方を把握しようとする。つまり、円環モデルとは、数と質との間の大きな往復運動なのだ。
このような捉え方は、円環モデルを螺旋として読み替えず、円環の反復であるとする考えと親和性が高いだろう。
僕はこのような考え方に正面から反論したい。この議論は、顕在性の領域で成し遂げられたことを否定しており、肯定主義を徹底できていないのではないか。顕在性の成果を「質から数へ」と圧縮して表現するならば、円環モデルを往復運動と捉えるということは、「数」を否定し、なかったことにするということであり、そこに否定が入り込んでいるのではないか。
「数」を否定から救い出し、円環モデルに位置づけるためには、ともかく新しい何かが書き加えられるべきであるのは確かではないだろうか。その有力候補としては、僕が描いたような道筋はありうると思う。
とりあえずのイメージとしての描写に過ぎないものであるが、僕は、個々の内包や「もの」と呼ばれるものを位置づけるかたちで、無数の円環を巻き込みつつ上昇する螺旋モデル、または波及と還流の構図自体が更に波及し還流する構図を提示したい。ここにある解放性こそが肯定主義を貫徹していることの証左であると思われるから。
(なお、僕がこのようなアイディアを考える中で心に浮かんだのは、ホワイトヘッドの「抱握」という言葉だ。僕は確か入不二先生のツィートをきっかけに飯盛先生の「連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学」を読み、この言葉を学んだ。僕が入不二先生の円環モデルに読み込もうとしたのは、僕なりの解釈としての「抱握」なのかもしれない。)
4-4 他者・対話
このように描写した「もの」とは他者でもある。種としての人間ではなくても、たとえコップであっても、「もの」には他者性がある。なぜなら、他者性がわずかでも含まれているからこそ、波及と還流に巻き込まれることができるからだ。僕はそのように考えている。
しかし、このような話は明らかに脱線なので、そちらの方向の議論には踏み込まず、とりあえず他者としての人間が波及と還流に巻き込まれるのだと想定してみよう。
そのうえで先ほどの考察を踏まえるなら、次のように言うことができる。他者とは、過去の(円環の一周前の)私である。
これに対しては当然異論があるだろう。他者と自分とは違う。他者であったという記憶はありえないが、過去の自分とは記憶でつながっているのだから。
だが、この本の入不二の議論では記憶はほとんど登場しない。というか、記憶が重大な役割を担う余地がないと言ったほうが正確だろう。入不二が描く抽象画においては、記憶というような具体例は不要なのだ。
確かに他者と過去の私との間には違いがあるかもしれない。だが、そのような違いよりも、もっと根源的なことを入不二は論じている。彼の議論は、記憶や自他の違いを否定しているのではなく、ただ超えている。
僕もその超越性を引き受け、自他の違いを棚上げにしたままに考察を進めるならば、過去の私でもある他者が波及と還流に巻き込まれるという事態に僕は興味がある。これこそが「対話」ではないか。
僕は哲学対話というイベントを主催したり、哲学対話を紹介するサイトを管理したりしている。要は「対話」というものに興味がある。
そのような興味深いものとしての「対話」を入不二の議論に見出すことができることはとても意義深い。(だからこうして書き残している。)
では、入不二の議論の枠組みに沿うなら、私はどのように他者と出会い、対話するのか。
まず、他者との出会いの場面は、明らかに円環モデルの顕在性の領域に見出すことができるだろう。顕在性の領域とはいわば数の領域であり、他者と出会うとは、1が2となり多となることである。そのように考えるなら、他者との出会いと顕在性の領域での議論は重なる。顕在性の領域で重要な役割を果たす可能性とは他者のことであると言ってもいいだろう。
その後、転回を経て、外在的な存在であった他者は、潜在性の領域において私に取り込まれていく。私と他者の間にあった区別が埋められ、溶け合い、不分明になっていく。
以上の円環モデルのプロセスは、異質のものであった他者が理解されていく経過を描写していると言ってもいいだろう。
だがそれで終わりではない。更に他者は理解から逃れていく。これが12時の飛躍だ。飛躍した後は理解して溶け合ったはずの他者が、外部の存在として立ち現れる。円環モデルによれば、あとはこのようなプロセスの反復となる。
つまり、他者はどこまでも理解されつつも、どこまでも異質でありつづける。他者はそのような二面性を持っており、そのような他者と行う二面的な営みこそが対話である。このような他者との対話の二面性を、円環モデルはうまく描写しているように思う。
(6時の転回とは意味論が尽きるところであり、他者を信頼して語り終え、言語を手放すことではないか。これはいわば語り手の側からの対話の描写である。12時の飛躍とは、他者の「ソクラテスは哲学者である」という言明に「現に」を付与し、単なる命題ではなくて現実の描写として受け止めることではないか。これはいわば聞き手の側からの対話の描写である。)
更に付け加えるなら、僕は円環モデルを、反復的な円環から開放的な螺旋に発展させた。このことは、他者との出会いは反復的で予定調和的なものには留まらず、どこまでも想定外で新しいということと対応している。
実は「対話」もそのようなものである。他者との対話は想定外だから面白い。対話とは理解と驚きの間を行き来するようなものとも言えるが、そのように反復的に捉えてしまうと対話の醍醐味を捉えきれない。ほんとうにうまくいったときの対話とは、一度限りでしかありえないほどの想定外の驚きが、なぜか理解されるという奇跡が、なぜか何度も訪れるというあり方をしている。対話とは、一度限りの奇跡が反復するという奇跡だ。この描写は入不二が行った未来についての描写と極めて似ている。また、対話は理解されたとたんに固定化して主張となる。これも未来が過去となるのと同じ構造のように思う。
4-5 倫理・破壊
ここまでの第4章において行ってきた僕の議論はとても生産的で、いわば倫理的なものだと思う。
なぜなら、僕が描いた上向きの螺旋とは、どこまでも肯定的であり、他者をも巻き込み、豊穣なものとして発展していくものだからだ。
ここから人生訓のようなものを引き出し、上向きの螺旋的な生き方を推奨することすらできるだろう。例えば、対話的な生き方が好ましい、というように。
この点に僕の議論の弱点があると思う。
僕がこの第4章で行っている議論は、色々なものを取り込もうとする議論だ。自然科学の成果や、日常生活や、ある種の道徳(他者を尊重すべきというような道徳)の正しさというような夾雑物をあえて取り込もうとしている。このような議論は、贅肉だらけの肉体のようで、どこか凡庸でつまらない。わくわくしない。
一方で、入不二は自然科学や日常生活や道徳などといったものには目もくれない。そんなことは無関係だ。勝手にやらせてくれ。それが彼の答えなのだ。だから入不二の議論は、決して人生訓的な読まれ方などはしない。
入不二の議論はどこまでも無内包を志向する。そこには潔さと言ってもいい独特の魅力がある。だから、なんて潔いことを、なんてねちっこく過剰に描いているのだろうと僕は感銘を受ける。
(僕と入不二の議論との間に横たわっている違いに注目しているのが飯盛だろう。ツイッターを眺めている限りで承知する限りではあるが、彼は「破壊」に着目しているようだ。彼のアイディアの具体的な内容は承知していないが、破壊とは、非生産的で、非倫理的で、肯定主義を否定し、円環「モデル」というような構造を無意味とし、日常を喪失させるものだろう。究極の破壊とは、決して、僕が考えている方向とは相容れるものではないものだろう。相容れないからこそ興味がある。
なお、入不二の議論のなかでは、未来の無関係性や、未生の無といった時間の議論のなかに、破壊性を見出すことができるように思う。)