1 妖精とは

僕は先日、サニーデイ・サービスの曽我部恵一について書いた際に、彼は妖精のようだと表現した。https://dialogue.135.jp/2020/10/03/harunokaze/

それからしばらく、妖精という言葉が心のどこかにひっかかっていた。なぜこんな言葉を使ったのだろう。自分で書いておきながら、僕は妖精という言葉に違和感があったのだ。普通、自分が書いた文章の言葉自体が心に残り続けるということはあまりない。(なぜなら、言葉とは自分の考えを表現したものに過ぎず、心に残るのは自分の考えであるはずだからだ。)だけど、この妖精という言葉は、僕の心で独り歩きしはじめていた。

僕は妖精という言葉にどのような意味を込めているのか。

先日僕は曽我部恵一のMVを観て、彼について「音楽の神に愛でられた、人間とは別の存在だ。彼はただ、音楽のためにだけ存在し、音楽を体現する存在なのだ。」と書いた。それを妖精と喩えた。

僕が妖精という言葉に託したのは、一言で言うと生活臭のなさかもしれない。具体例としては、曽我部恵一よりも有名な人、アイドルやハリウッドスターを思い浮かべるといいかもしれない。ただ、最近はSNSなどで色々と私生活についての情報が流れてくるから、いっそ、歴史上の偉人のほうがいいかもしれない。更には、イエス・キリストでも。

僕たち人間は日々生活しているけれど、妖精のような彼らは、ただ歌ったり、映画に出演したり、布教したりしている。そこには泥臭い日常はない。

そのように考えるならば、僕自身も実は妖精だと言えなくもない。職場の同僚から見た僕は、ただ働いている存在だ。オナラやゲップを職場ではしない。プライベートな話もするけれど、それはあくまで職場の人間関係を逸脱しない限りでのものだ。(仮に僕が逸脱した行動をとったとしても、それは逸脱した行動をする職場の人間として解釈されるにすぎず、どこまでも職場の人間関係に回収される。)僕は職場の同僚にとっては、ただ働くためだけのために存在する妖精だ。僕は他者にとっては妖精である。できの良さは別にしても。

このように考えているときの感覚は、自分探しとも喩えられるような、若い頃のあの感覚に似ている。誰も僕のある一面しか見てくれず、100%の僕を理解してくれる人などどこにもいない。そんなことばかりを考えていた頃の孤独な感覚だ。

だが、大きな違いがある。若い頃はそれが嫌だったけれど、今はそれが心地よい。僕は日常に埋もれるようにして日々をなんとか生き延びているけれど、そんな不純な僕のなかに含まれている最もきれいな上澄みだけを見てくれている人がいる。それはとても嬉しいことだ。

2 妖精としての人生

生きるとは、混沌とした人間としての人生を、他者から見られる妖精としての人生に変換していくことなのかもしれない。

若い頃の感覚に基づくならば、僕の人生には無限の可能性があるはずだ。それなのに、結局は有限でしかないものに変換されてしまう。それが若い頃の僕が描いていた人生だ。

一方で歳をとった現在の解釈を誇張するならば、人生とは名目上可能性に満ちていたとしても結局はありふれたものにならざるを得ない。そんな人生を、一瞬ではあっても、誰かに認められるような輝くものとすることができる。

そこには二つの不当な取引が含まれているように思う。

ひとつは、ありふれた人生をあたかも価値があるものにするような、何もないところから光を生み出す錬金術のような不当さだ。もうひとつは、無限の可能性を有限のちっぽけな結果に変換するような、いわば奪い去られるような不当さだ。前者は僕が濡れ手に粟で得てしまう不当さであり、後者は否応なしに奪い去られる不当さだと言ってもいい。ここには相反する二つの方向性がある。

重要なのは、この二つを対比して打ち消し合うことはできないし、また、この二つを循環や交換として捉えることで正当な取引として位置づけることもできないということだ。妖精の人生を手に入れたからといって、その代わりに人間の人生を差し出すことはできないし、いくら人間の人生を差し出しても、その代わりに妖精の人生を手に入れることが正当化されることはない。その意味で、妖精の人生と人間の人生との間の取引は、二重に不当なものだ。

この不当さは奇跡と言ってもいいだろう。無限の可能性としての(またはありふれたものとしての)人間の未来と、輝くような成果としての(または所詮有限でしかないものとしての)妖精の過去との間には、その間の変換を成し遂げる場としての奇跡的な今がある。

歳をとって、僕はこの不当な奇跡を積極的に引き受けたいと思っている。無限ではあっても不定形でしかない可能性としての未来を、有限ではあっても明確な成果としての過去に変換することを、この今において引き受けたいと思っている。長年生きるうちに、それを引き受けざるを得ない状況に追い込まれているとも言えるけれど、長年生きるうちに、それを責任を持って引き受けてもいいとようやく思えるようになった、とも言える。

そこで重要となるのは、妖精の創造性である。人間の僕は死んで無に帰るけれど、妖精の僕がつくりあげたものは残り続ける。ここに不当な奇跡を生むトリックがある。このトリックを積極的に認めるならば、僕は、妖精の創造性を最大限に発露しなければならない。

その意味では人が妖精になるとは創造するということであり、直接的に表現するならば、人は創造者、つまりクリエイターとなるべきなのだ。更にはっきり言うならば、人生の意義は何かを作り上げることにあり、そうしない人生には価値がない。

なお、何を作るかというジャンルを選ぶことはできるだろう。僕ならば、僕が作るものは哲学的な文章となるはずだ。僕は妖精のように哲学的な文章をつくりあげていきたい。それが人生の意義だ。

3 妖精としての文章

ここには妖精という言葉のもうひとつの含意がある。妖精という言葉のなかに、僕が進むべき道が示されている。クリエイターならば、妖精の名に恥じないような、価値あるものを求めるべきだ。

では、その価値とはどのようなものか。

多分、価値には二通りある。人間としての価値と妖精としての価値だ。

前者においては人間世界に役立つかどうかという観点が重要だ。価値を真・美・善と表現するならば、人間世界をうまく説明するような発見、人間世界に貢献するような(誰かの目を楽しませたり、メッセージ性があったりする)美術作品、人間世界に役立つような道徳といったものにこそ価値があるということになる。

後者の価値においては人間世界に役立つかどうかは関係ない。ただひたすら正しく、美しく、善いものを目指す。そこでは真・美・善がひとつに溶け合っている。

妖精ならば後者を目指すべきだろう。僕にとってクリエイターであるとは哲学的な文章を書くことだから、僕はただひたすら、人間世界に役立つかどうか似など目もくれず、ひたすら妖精的な価値があるような、真・美・善がひとつに溶け合うような文章を書いていくべきなのだ。ここで妖精という言葉は、僕が書く文章の指針となる。僕が書くべきは、妖精のように理想的な思考の流れを表現する文章だ。それを目指すのが僕のクリエイターとしての後半生なのだろう。

このようなことをめざして、僕は文章を書いているのかもしれない。