1 はじめに

僕は『存在論』と呼ばれる分野に興味がある。僕はものごとが『存在』することの不思議に興味がある。そう思っていた。

なぜ過去形に言い換えるのかというと、それは正確な表現ではないかもしれないと最近思いついたからだ。そのことについて書き残しておこうと思う。

2 存在論の優越性

あるものに関して、存在するということは最重要だと言えるだろう。なぜなら、あるものについて存在以外の描写をするためには、まずは存在することが前提になるからだ。あるものが美しかったり、醜かったり、正しかったり、間違えていたり、大きかったり、小さかったり、多かったり、少なかったりするためには、その前にまずは存在していなければならない。話はそこからだ。

だから僕は存在論にのめり込んでいった。美や善やその他諸々の事柄に囚われる人々のことを横目に、僕は存在論と呼ばれる領域のことがらについて考え込むようになった。彼らをどこか蔑むようにして、僕だけが最も重要なことに気づき、その重要なことに向き合っている、そんな優越感とともに。

3 存在論の劣等感

だけど、心のどこかでは、実は僕がやっていることこそ全くの無駄なのかもしれない、とも思っていた。美や善やその他諸々のこと(例えば、実際に生活し生きていくこと)のほうがよほど重要なのではないか。僕を悩ませる存在論的な問題(例えば、このコップは幻ではなくて本当に存在するのか、という問題)なんて盲腸のような問題かもしれない、とも感じていた。その証拠に、世の哲学者の存在論に関する議論を読んでいても、どれもがピントを外しているように思えてしまっていた。それよりも倫理学に関する議論のほうがよほど生き生きとしているようにも思えた。

4 統合するアイディア

存在論とは、最重要であり、かつ、全くの無駄でもある。先日、そんな相反した思いをまとめるようなアイディアを思いついた。

そのアイディアとは、「美や善やその他諸々のことでは捉えられないものこそが、僕が追い求めているものなのではないか。」というものだ。

これは先ほど述べたことと代わり映えがしないと思うだろう。だが重要なのは、「その他諸々のこと」のなかには『存在』も含まれるという点にある。僕は『存在』に興味があるのではなくて、他の言葉では言い表せないものに興味があるだけなのだ。だから存在と言葉で捉えられてしまった途端、存在への興味は薄れてしまう。だから僕はいわゆる存在論にさえ興味を持つことができない。

勝手に人間を区分するならば、世の中には二通りの人間がいる。何か重要なものを見つけたときに、その重要なものに興味が向かう人間と、そこから興味が逸れていく人間だ。僕は、恋愛や趣味ではともかく、哲学に関してはどうも後者のタイプのようなのだ。僕は、哲学的考察においては、何か重要なものを見つけた時、そこではないところにこそ更に重要なものが隠されているのではないかとまず思ってしまう。

僕が存在に興味があるのは、存在がその他すべての前提だからではなく、存在が、その他すべてで捉えられないものだからだ。存在が存在論になってしまった途端、存在は捕捉され、つまらないものに成り下がる。

僕は、他のいずれでもないという意味では存在には区分されるもののなかでも、実は存在と名付けることができないものこそを追い求めているのだろう。そして、きっとその果てに何かを見つけたとしても、そこでは満足できず、その何かではない何かを追い求めるのだろう。僕にとって本当に重要なものとは、追い求め、ようやく掴みかけた時、その指の間からこぼれ落ちるようにしてしか触れることができないに違いない。(当然、その何かは、この比喩的な表現からもこぼれ落ちていく。)

5 評価との無関係

このように描写すると悲観的に聞こえるかもしれないけれど、僕自身はそうは思っていない。なぜなら、この挑戦には前例がないからだ。過去に同じことを試みた人がいるならば、その先例に基づき、この挑戦には成功と失敗があると判断することができるし、僕の挑戦は失敗が運命づけられているという点で不幸だとも言えるだろう。だけど、僕のこの挑戦は、定義上、唯一無二であり、他の何とも対比することができない。評価のためには、その評価の対象が複数であることが必要である。(永井均はそれを〈ものごとの理解の基本形式〉と呼ぶ。)しかし、僕の哲学的挑戦はその複数性の手前を出発地点としており、そのような評価の形式を当てはめることは論理上できない。砂浜の砂を手で掬おうとして指の間からこぼれ落ちていくという失敗の描写はあくまで比喩であり、そのことと僕の哲学の挑戦とは全く関係がないことなのだ。

僕は、美や善といった問題設定では捉えることができないからこそ、存在という問題に興味があるし、更には、存在という問題設定では捉えることができないものにこそ、実は興味がある。そのような興味に導かれるようにしてしか、僕は哲学をすることはできない。

6 そうではない人々との距離

だから、美や善といった問題に興味を持ち、そこで哲学をする人のことどこかで同志のようにも思っている。少なくとも、極めて僕と近い領域で哲学をしていても、そこに深い興味を持っていない人よりも、親近感を持っている。美や善といったものへの興味が、それ以外のものを圧倒しているという状況に羨ましささえ感じる。それは実生活への興味が実生活ではないもの(つまり哲学)を圧倒し、哲学などといったものに目を向けずに生きていける人に対して感じる羨望と同種のものだろう。鮮やかな光はすべてを白で塗りつぶし、それ以外のものを見えなくする。輝く光を発見し、その光に導かれるようにして生きていける人のことを羨ましく思う。

だけど僕には、そんな光には惑わされないぞ、という矜持もどこかにある。

7 入不二基義

そんな僕が手本にしている哲学者がいる。何度も僕の文章に登場している入不二基義だ。彼の内心はわからないけれど、彼がやっている哲学は、僕がこの文章で述べたことの最良の例だと思う。というか、実はこの文章は、彼の哲学を考えていて思いついたことでもある。

入不二は近年、運命論と現実論に関する本を出している。哲学史的に運命論や現実論という用語がどのように用いられているかは知らないけれど、きっと現実論という用語は一般的ではないだろうし、運命論についても入不二の運命論は過去の運命論のどれとも違うという点が重要である。つまり入不二は、運命論や現実論という言葉に、従来の哲学とは全く異なる意味を込めている。

僕の解釈では、入不二の運命論とは、時間論ではない時間論を追い求めた結果生まれたものであり、入不二の現実論とは、存在論ではない存在論を追い求めた結果生まれたものである。つまり入不二の運命論は従来の時間論では掬い取ることができなかったものについて論じているという点で非時間論であり、入不二の現実論も同様の意味で非存在論であると言えるだろう。

僕は入不二のように非存在論を追い求めている。そして当然僕は、(入不二の現実論がどんなに素晴らしいものであっても)すでに言語化された現実論に興味を留めることはできず、そこから、非現実論とでも言うべきものに興味は移っていく。きっと入不二も自らの運命論にとどまることはできず、その先に進んでいくのだろう。自らを否定するのではなく、その先へと、ただ自らを超えていくに違いない。

この自己の超越にこそ、哲学の面白さがあるように思うのだ。