オリンピック開会式をネタにしてウィリアムズの道徳について考えてみた

1 「じゃないほう」の二人による倫理的問題

ラーメンズの片桐じゃないほう、というくらいの認識しかなかった小林と、フリッパーズ・ギターのオザケンじゃないほうの小山田が、それぞれ問題を起こしてしまった。

二人がやったことはぜんぜん違うことだけど、きっと、二人ともオリンピック開会式に関わるポストについていたという状況や、いずれも過去における言動が問題となったという偶然の一致以外にも、いずれも倫理に関する問題であるという点で、本質的にはつながっているのだろう。

倫理と言えば、僕には今、僕史上最大の倫理ブームがきている。バーナード・ウィリアムズの『生き方について哲学は何が言えるか』を読み、この半年くらい色々と考えているからだ。だから、せっかくだから二人の問題について考えてみた。

(この話では、「じゃないほう」の二人以外にもうひとつ、webで無料公開されている藤本タツキの漫画『ルックバック』も使っていて、ネタバレしているので、この漫画を読む予定の人は読まないほうがいいと思います。とても面白かったので、僕の文章よりまずそっちを読んでください。)

2 ウィリアムズの道徳論

なんとなく「倫理」と「道徳」は似たような意味で使われがちだけど、ウィリアムズは、古代ギリシャや中世日本など全ての時代の全ての社会を通じて常にあった「倫理」と、近代以降の西洋化された社会に特有のものである「道徳」とを明確に区分する。道徳とは、善や義務といったような抽象化された概念により表現できるような一般化された価値システムのことだと言ってよいだろう。道徳以前の社会である古代ギリシャや中世日本においては、人間の倫理は、勇敢さや恥といったような相互に独立した言葉で評価され、人々はそのような価値観に基づき生きてきた。一方で道徳が唯一の倫理的な価値システムとなった近代社会においては、抽象的に把握可能な概念である「義務」さえ果たしていれば、その人は善をなしたこととなり、もし果たしていなければ、その人は非難されることになる。このように極めて抽象化され、一般化された価値システムのなかで僕たちは生きているとされる。

当然、そんなに物事は単純ではない。確かに、道徳システムに基づくならば電車の優先席に座っていて、目の前に老人が立っていたら席を譲るのが義務だけど、そこが優先席でなければ、老人が立っていても席を譲ることは義務ではない。その老人は僕の前になど立たず優先席のほうに移動して席を譲ってもらえばいい。だけどそうして老人を無視することはどこか心が咎めるし、もし老人に席を譲れば、僕は少しいい気分になるし、周囲から称賛の眼差しを受ける栄誉に浴するかもしれない。そのような、義務ではすくい取れないようなものも現代社会には確かに存在する。

だけど道徳は、そんな領域にも義務を持ち込んでくる。老人に席を譲らないひとを見かけても、そこは優先席じゃないのだから、席を譲らないのはその人の自由だから非難すべきではないと考える。もし老人が電車の揺れでよろけて転んでも、それが席を譲らなかった人の責任だとまでは考えない。つまり僕たちは、義務が及ばないところに自由はあり、義務があるところにしか責任はないと考える。

または、電車で倒れて怪我をした老人を見て、僕は自責の念にかられるかもしれない。あのとき席を譲るように注意していれば、このような悲劇は起きなかったかもしれない。僕にはそのような選択をする自由があったはずであり、そうしなかったことに対して僕には責任がある。このように考えることは、「僕には、席を譲らない若者を見かけたら注意する義務があり、そうすることが善いことである。」と抽象化して道徳的に考えることに、かなり近づいている。

ウィリアムズの見立てによれば、近代以降の社会を生きる僕たちは、すべての倫理的問題を善や義務や責任や自由といった抽象化された観点で捉えようとするような、道徳システムに取り込まれて生きているということなのだろう。

3 道徳システムの欠陥

僕は、このウィリアムズの見立てはおおむね正しいと思う。現代社会を生きる僕たちにとって道徳システムは極めて重要なものとなっている。

では、このような観点から、フリッパーズ・ギターやラーメンズの「じゃないほう」の二人の問題はどう捉えることができるのだろう。

元フリッパーズ・ギターで現コーネリアスである小山田圭吾は、過去にいじめをして、そのいじめを反省していないような発言をし、更にそのことが問題となるまで、謝罪もすることなく生きてきた。いじめは当時も今も犯罪であり、いじめをしないことは義務であり、いじめをしたならばそのことが非難され、責任を負わなければならない。このようにして、かなり典型的なかたちで道徳システムのなかで取り扱うことができるだろう。

では、元ラーメンズ小林はどういうことかと言えば、過去にコントの中でホロコーストをネタにした発言をした。それ以上でもそれ以下でもない。テレビで流れてはいないことも踏まえると、小山田の事案に比べてかなり罪は軽く、義務や責任といった言葉で簡単に捉えて判断できるような問題ではないと言えるだろう。つまり道徳システムには乗りにくい事案だとも言えるだろう。がんばって道徳システムに乗せるためには、小林が当時、ホロコーストをネタにしない義務があったことを認めなければならないけれど、それを認めることは表現の自由と衝突するし、無理筋のように僕には思える。きっと彼に対する最大公約数の感情は、ひとりの芸人としては問題ないけれど、オリンピック開会式のディレクターとしてはまずかったというものだろう。それを道徳的な用語で表現するならば、「オリンピック開会式関係者には、過去にホロコーストをネタにしないという、その立場ならではの義務があった。」ということなのだろう。だが小山田と違って難しいのは、小林には、20年前にそのライブをやってから今までの間に、そのようなコントをしたこと自体を謝罪して訂正しなければならないというような義務はなかったし、ディレクター就任を要請されたときに、過去にやったコントでの発言を思い出し、要請を断る義務があったとまでは言えないだろうという点にある。小林は義務の袋小路に入り込んでしまっている。

僕は小林という限界事例を使って、要は近代社会が発明した道徳システムというものには欠陥があるということを言いたいのだけど、例としてうまくなくてピンとこないかもしれないので別の限界事例を使いたい。藤本タツキの『ルックバック』だ。この漫画での主人公である小学生の女の子は、ふとしたきっかけで、引きこもりのクラスメイトと仲良くなり、彼女を外の世界へと連れ出すようになる。それをきっかけに、その友人はひきこもりではなくなり、数年後、大学生となる。しかし、その友人は大学で通り魔に殺される。それを知った主人公は、どうして彼女を外の世界に連れ出してしまったのだろうと後悔する。自分が外の世界に連れ出さなければ、通り魔に出会うこともなく、彼女は死なずにすんだはずなのに。この主人公の後悔を、道徳システムはどのように取り扱うのだろうか。

道徳システムはきっとこう言うだろう。小学生の頃の君には彼女を外に連れ出さないようにする義務などなかった。だから君には責任はないのだから後悔する必要なんてない、と。だけど、その慰めの言葉は、主人公には届かないだろう。僕がその主人公だったらこう思うだろう。「そういうことじゃない。」と。

僕はこれが道徳システムの欠陥だと思う。ラーメンズ小林に対する批判も、ルックバックの主人公に対する慰めの言葉も、どこかピントがずれているのだ。「そういうことじゃない。」のだ。そこには道徳システムが捉えることができないものが確かに存在している。

4 道徳システムの粗い網

では、道徳システムが取り逃がしているものとはなんなのだろうか。それは個別具体的な事情だろう。明らかに道徳システムは細かい事情を考慮することが苦手だ。ルックバックの主人公がどのように友人と関わってきたのかということや、ラーメンズ小林が当時、どのような状況でどのような思いであのネタを演じたのかといったことを、道徳システムが考慮することはなかなか難しい。

もし変質者に狙われているような具体的な状況を知りつつ、外の世界に連れ出し、その結果変質者に殺されたならば、その行為には問題があるだろう。また、当時すでに遠い外国での昔の出来事であっても、そこには当事者がおり、その人とも関わって生きているという感覚が共有されていたならば、ホロコーストをネタにすることはもっと非難されても仕方ないはずだ。

道徳システムもなんとか、できる限り個別具体的な事情を汲み取ろうとする。変質者に狙われていたことを知っていたかどうかや、当時の社会のホロコーストに対する認識がどのようなものであったか、といったことを考慮に入れたうえで善悪をジャッジしようとする。だけどいくら論理の網目を細かくしても、現実はその間から逃げていく。変質者に狙われていたことを気づかなかったのは確かだけど、明らかに変質者っぽい人が徘徊しているのを見かけていたのに何の手も打たなかった状況があったというように。(それに対しては、重過失というような概念を導入して更に論理の網目を細かくすることもできるけれど、現実には、それでも汲み取れない個別事情がいくらでも控えている。)はっきり言って、道徳という粗い網では、現実を捉え、何かを判断することは不可能なのだ。現実においては、善と悪はきれいに二分できるものではなく、善と悪は緩やかなグラデーションでつながり、その間に無数の個別具体的な事情がちりばめられていると考えたほうがいいのだろう。そのようなものを、論理で把握し判断しようとする試みには、液体を網で捉えようとするような滑稽さがあるように思える。

5 内省・教育・刑事罰

では道徳システムを用いずに、倫理的な価値判断と現実の生活とを結びつけるにはどうすればいいのだろうか。つまり、善悪や義務や責任といった一般的な概念を用いずに倫理的な生活を送るにはどうすればいいのだろうか。

僕は、論理的に考えるならば、そこで使える唯一の武器は「内省」だと思う。ラーメンズ小林もルックバックの主人公も小山田圭吾も、そして僕もあなたも、倫理的に生きるためには、ただ自問自答し、自らがどう考え、どのように振る舞うべきかを内省するしかないのだ。社会の構成員である人間全員がそれぞれ、自らを倫理的に律し、倫理的に振る舞うことでしか倫理的な社会を手に入れることはできないのだ。ラーメンズ小林は20数年前にあのようなネタをやったことを後悔しているだろう。道徳システムは、そのときの何も知らなかったあなたに責任はないのだから、ただオリンピック開会式ディレクターとしての責任だけをとれば、それ以上の責任はないと慰めてくれるかもしれない。だけどきっと、そのような慰めでは届かないところに後悔はあり、彼はその後悔を抱え、その後の自身の行動をより倫理的なものにしていくだろう。そのような内省でしか、倫理的な社会を手に入れることはできないのではないだろうか。

では、他者は内省という唯一の倫理的なプロセスに全く関わることができないのかといえば、ある一面では確かに全く関わることができないのだろう。だが、別の言い方をするならば、教育というかたちで関わることができるとも言える。つまり、倫理的な内省を行うような人に教育するというかたちで、他者の倫理的プロセスに関わることができるのだ。その関わり方を一言でいうならば、「内省しなさい(内省したほうがいいよ)」と伝えることだけが、自分以外の人に対してせいぜいできることなのだ。

または、教育を擬制したかたちで、無理やりそれ以上のことをやってしまっているのが法律だとも言える。現在の刑法では、懲役刑や禁固刑は、反省(内省)する時間を与えるためのものだし、罰金刑とは反省をお金というわかりやすいかたちで示させるものだとも言える。受刑者が実際には内省しなかったとしても、内省したことになるのが、教育の擬制としての刑事罰というものの限界なのだろう。

教育や刑事罰がどれだけ有効かはともかくとして、現実の世界における個別具体的なものごとを評価判断するにあたっては、抽象的で一般的な道徳システムは役に立たず、最も事情を知っている当事者本人が内省し、どこまでも個別具体的なかたちで自問自答するしかないのは確かだろう。

6 慰めとしての道徳システム

では、全く道徳システムには活躍の場面がないのかといえば、そんなことはない。ここまで主に検討してきたのは、自分が自分を責めるにせよ、他者が他者を責めるにせよ、批判の場面であった。実は、道徳システムが活躍できるのは、批判ではなく、慰めの場面においてだと僕は考える。

ルックバックの主人公に対して、道徳システムに基づき、彼女が死んだのはあなたのせいではないと慰めることはできる。一般化して抽象化した視点から冷静に、それはあなたの責任ではなく、あなたは非難の対象ではないと判断することができる。そんな慰めの言葉はきっとそう簡単には当事者には届かないけれど、それでも、そのような言葉を発することには倫理的な意義があるはずだ。自責の念にかられているだろうラーメンズ小林に対しても、そこまで自分を責めなくていい、と言ってあげることはできるし、(より悪質に見える)小山田圭吾に対してでさえも、責められるべきは過去の行為に対してであり、将来のあなた自身の人格さえも否定された訳ではないから挽回のチャンスはあると言ってあげることは道徳システムに基づき可能だろうし意味があることのように思える。

つまり、道徳システムの問題とは、実は慰めのためのシステムであったはずが、いつの間にか、非難のシステムとして使われてしまうようになったという点にあると僕は考える。

道徳システムが慰めとして有用なシステムであるのは、道徳システムというものが本来的に自己と他者を同一化する性質を持っているという点に由来するのだろう。道徳システムにおいて重要な概念、つまり善や義務や責任といった概念の適用にあたっては自他を区別しない。自分に適用するときも、他の誰かに適用するときも同じ意味を持つ。人殺しというひとつの行為が、自分がやったときと他の誰かがやったときで善悪の判断が異なるというようなことはない。だから自分と他者の間にある違いを乗り越え、他者に対して理解したつもりになって慰めの言葉をかけることが可能となるのだ。

だが現実には、人殺しという行為であっても、その内容は千差万別であり、他者が全貌を詳細に把握することはできない。少なくとも、その行為者の内面を完全に捉えきることは他者にはできないはずだ。(もしかしたら行為者本人にも完全に把握することはできない。)すべてを知らない他者が勝手に倫理的な判断を下すのは越権行為であり、端的に誤りだろう。(何に対する越権なのかは二通りの考え方がありうる。つまり他者ではなく行為者本人だけがすべてを知りうると考えるならば、本人に対する越権であり、行為者本人でも知り得ないと考えるならば、神に対する越権である。)

それでも道徳システムは誤りを恐れず、無謀にも他者に関わろうとする。それが非難というネガティブな関わり方なら、それは道徳システムの短所だし、慰めというポジティブな考え方なら、それは道徳システムの長所ともなりうる。

当然、薄っぺらい慰めなど役に立たないし、逆に相手を傷つけることもある。ここでも重要となるのは「内省」だろう。僕たちが倫理的に生きるためには自分自身に対しても、他者に対しても内省し、自問自答しながら、なんとかうまく関わっていくしかない。内省こそが倫理的生活に向けた唯一の道筋なのだ。

内省こそが唯一の倫理的生活につながる可能性がある道だとしても、その道が倫理的生活につながっているとは限らない。だけど、希望を込めて、僕たちは内省し、心を耕すことによって、倫理的に善く生きることがきっとできるのではないだろうか。

更に言うならば、内省的に生きることこそが倫理的に善く生きるということなのではないだろうか。

オリンピック開会式をネタにしてウィリアムズの道徳について考えてみた」への3件のフィードバック

  1. 波多智子

    記事を拝読致しました。
    倫理の倫は仲間という意味だそうです。人間同士の間の理です。
    聖書の十戒は道徳ですが、それを個々が「内省」するように勧めていると言います。
    日本語や英語での翻訳では、~せねばならない、という義務として訳されていますが、原語のヘブライ語には、あなたはそうするはずだ、と訳することができると言います。
    十戒を授かる過程で、古代ユダヤ人は出エジプトという壮大なドラマを体験してきました。脱出するまでに、数々の奇跡を体験目撃し、そしてエジプトという強大な権力から守られて海を渡るという想像を絶する感動的な体験は、その後の人生において十戒という掟ルールは彼らの道標となるはずです。
    義務や強制ではなく、その掟を内省することでどう生きたらよいのか自ずと分かる、という訳です。
    まさしく、個人の生き方は、神とその人との間で交わす約束であり、倫理は、その生き方を仲間である人間同士の間でどう振る舞うのかを示唆するものと言えます。
    大変興味深い記事をありがとうございました。

    返信
    1. user 投稿作成者

      コメントありがとうございます!
      誰かが読んでくれているという実感があまりないまま書いているので励みになります。
      ヘブライ語の話は面白いですね。すでに神との間の約束として決まっているのだから、自ずからわかるはずということですかね。
      なんとなく國分功一郎先生の中動態っぽいですね。僕が言いたかったこともそのような方向の話だと思います。
      こちらこそ大変興味深いコメントをありがとうございました。

      返信
  2. ピンバック: 動物倫理学 - 対話の哲学

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