久しぶりにあまり哲学的でない文章を書くことにする。
僕にとって哲学的な文章とは、誰かに役立つかもしれない文章で、哲学的でない文章とは僕以外の誰にも役立たなさそうな文章のことだ。
このように区分することは、僕の価値を過大に見積もっているのかもしれない。科学者ならば科学的に役立つし、建築家なら建築的に役立つが、僕にはそのような知識も技術もない。だけど、僕だって哲学でなら誰かの役立つことかもしれない、と考えていることになるのだから。
とにかく、だからこの哲学的でない文章は、僕だけのための文章である。
昨日のヨガのクラスで呼吸の仕方について話があったが、そこで、実は皆が呼吸を上手くできているのに、それを感じ取れていないだけだ、というような話があった。考えてみれば、無意識にできているのに、それを意識的に感じ取ることができないというのは、よくあることだろう。例えば、僕は、人並みにバランスをとって二足歩行ができるのに、どのようにバランスをとっているのかを意識することはできない。すぐには他に具体例を挙げられないけれど、似たようなことは色々とあるだろう。
僕はそこから、プラトンのイデア説と想起説を連想した。僕たちはイデア界では完全な歩行や完全な呼吸を意識できていたのに、この世界に生まれてきて、それを忘れてしまっただけなのだ。なんて。それが事実かどうかは別として、そう考えるとなんだかテンションがあがる。
僕は難しいヨガのポーズができないけれど、この世界に生まれる前にいたイデア界では、僕の身体はすべてのポーズを理想的なかたちでとれたはずではないか。もしかしたら、僕の身体は、理想的なあり方をしていたときには、この世界のすべてを表現し尽くせていたのではないか。それは、理想とは、もしかしたら到達できるかもしれない希望ではなく、現に確かに一度は手にしていたものなのではないか、なんて思いを馳せる。
だから僕は、僕の身体を既に理想形を経験したものとして取り扱うことにしよう。僕は、理想を想起するように僕の身体を取り扱うことにしよう。そうすると、少しだけ頑張れて、少しだけヨガのポーズをうまくとれるような気がする。
ヨガでちょっときついポーズをとろうとして自分自身を鼓舞するとき、もうひとつイメージすることがある。僕は僕の身体に翼が生えていて、空を飛ぶようなイメージを持つと少しだけ頑張れる。(そのことは『空と大地の間の「幅」』https://dialogue.135.jp/2021/06/26/haba/という文章で書いたことがある。)
これも僕の身体に宿る潜在的な能力を引き出すときのイメージだ。僕の身体には、僕が知らない歴史があり、僕が知らないような能力を秘めている。
話は変わるが、今朝、僕は不思議な夢を見た。他人の夢の話なんてまず面白くないし、特に今朝の夢は明確なストーリーもないから面白く伝えようもない。だけど僕自身にとっては、とても象徴的で示唆に富むものだったので、書き残しておく価値がある。
僕はアフリカの学校にいた。たくさんの小学生か中学生くらいの黒人の生徒たちがいて、汚くして騒がしくて、少なくとも好ましいところではなかった。(なお、僕はアフリカに行ったことがないし、僕がテレビで観たことがあるアフリカとも全然違ったので、どこでもない僕がイメージしただけの場所だったのだろう。)
なぜか僕はそこで、捜し物を一緒に探してもらったり、色々案内してもらったりして、ある程度の時間を過ごすうちに、その好ましくなさは、好ましさに変わっていた。
彼ら(彼女ら)は思慮が浅くて、踊ったり奇声を上げたりして騒々しかったけれど、そこに何か否定し難いものを感じるようになってきたのだ。理性的に考え、適切に判断して行動するのとは違う、別ルートの正しさがあるように思えたのだ。
夢から醒めたあとで思い返すと、それは生命力と呼ぶべきものだったのだろう。彼らの躍動する身体には生命力という正しさが秘められていたのだ。
ヨガの話と夢の話は、身体に秘められる力についての話だという点で共通している。身体には理想を体現する力が潜在しており、それは生命力と呼ばれるものである。僕は哲学が好きで、思考により哲学的に迫ることができる真実があると思っているけれど、それとは別に、イデア界かアフリカかはよくわからないけれど、全く別のところにもうひとつの真実があるということになる。思考的な真実と身体的な真実という二つの真実がある。そして後者の真実は生命力と名付けることもできる。
だけど、この二つの真実は、全くの別物とも言い切れないだろう。なぜなら僕はこの身体を使って哲学をしているからだ。できれば僕は、理想的なかたちでヨガをするように、またはアフリカの少年少女のように踊るように、哲学をするべきなのだろう。そのようなことはすぐにはできないから、せめて僕は僕の身体を動かし、踊り、羽ばたくところから始めるべきなのだろう。僕は踊るように、羽ばたくように生きていくぞ!
と書きつつも、思い返すと、僕は昔から、踊り、羽ばたくという言葉に象徴されるような浮遊感の虜なのかもしれない。僕はスノーボードで新雪を浮かぶように滑るのが好きだったし、ジャンプするのも好きだった。ライブでノっているときのあの感じは浮遊感と表現できるだろうし、海外旅行での非日常感も同種のものだ。酒を飲んで調子よく酔っているときの、または恋をしているときの、またはセックスをしているときの熱病のようなあの感覚も、どこかフワフワと漂っているような感じがある。そう考えると、僕は既に僕の身体を天上のイデア界に向けようとしている、と言えなくもない気がする。
と書き終わってみると、意外と哲学的な文章だったかも。