はじめに
澤田和範さんの『ヒュームの自然主義と懐疑主義』を読んだ。
これは博士論文がもとになっているだけあって、とても専門的な内容だと感じた。正直、僕では細部をきちんと理解できなかったし、だから、僕はこの本の魅力を十分に掴み取ることができなかったと思う。なぜなら、この本の魅力の多くは、きっと、学術的に丁寧に細部の議論を組み立てているというところにあるのだろうからだ。
ではなぜ、僕はこんな文章を書こうと思い立ったかというと、僕はこの本からとても重要なことを読み取ることができたように思ったからだ。この本には、議論の細部を捨象しても、いや、捨象するからこそ際立つような大きな魅力があるように思えるのだ。
ダメ出し
まず、この本の魅力を伝える前に、この本にダメ出しをしておきたい。正確には、この本自体ではなく、このような本が書かれざるを得ないという哲学業界の状況に対してである。
僕の読解だと、この本の最重要ポイントは、従来の自然主義や懐疑主義を超えた次元にある超・自然主義や超・懐疑主義とでも言うべきものを見いだしたという点にある。そのうえで、超・自然主義と超・懐疑主義を統合できるということを示したところにある。これはきっと、澤田のオリジナルの発見である。
(超~という言葉は使っていないけれど。)
そして、この本がきっと、学術上、つまり哲学業界内の価値として重要なのは、この澤田のオリジナルの発見が、実はオリジナルではなく、ヒュームがそのように考えていたはずだ、ということの発見でもある、というところにある。ヒュームも実はそのように考えていたはずだということを示すことにより、澤田のこの発見は学術上価値があるものとなる。だからこそ、それを示すために澤田は、紙面の大半を使って、丁寧にヒュームの思考の痕跡を辿ったのであり、(僕は十分理解できていないけれど)それを示すことに成功したということなのだろう。
以上の業績を認めたうえで、僕のダメ出しとは、「ヒュームの思考を辿るような作業は不要なのではないか。」というものだ。なぜ、澤田のオリジナルというだけでは駄目なのだろう。ヒュームが実はそのように考えていなかったとしても、澤田の発見の哲学的な価値に変わりはないはずだ。澤田がヒュームを踏み台にして、そのようなアイディアを独自に思いついた、ということでもいいのではないか。哲学においては、哲学業界が喜ぶような学術上の分析など不要なのではないか。
このような述べ方は極端すぎるだろう。先人たちを尊重することは重要なことだし、誰かのアイディアを自分のもののように剽窃するべきではない。それでも僕にはどうしても、この本において澤田が行った二つの発見のバランスが悪すぎるように思えてしまうのだ。澤田は、超・自然主義と超・懐疑主義の統合という哲学的発見と、その発見は実はヒュームが行ったものであるという哲学史的発見をしているけれど、後者に力点を置きすぎているのではないだろうか。
もし僕の批判が的外れでなかったとしても、それは澤田個人の問題ではなく、そのようにせざるを得ない哲学業界の問題である。僕は、澤田のような才能が哲学業界の都合により浪費されてしまうことがもったいないと思うのだ。
魅力
脱線してしまったけれど、この本の魅力のほうに移りたいと思う。
僕は懐疑主義的な傾向があるから、ヒュームという人に関心はあった。だけど、きちんとヒュームについての著作を読んだことはない。僕の懐疑とヒュームの懐疑はちょっと種類が違うように感じていて、ちょっと優先順位が低かったのだ。
僕の懐疑は「どうしたら確かな一歩を踏み出せるのか。」というものだ。その点から言うと、デカルトやヒュームが行っている(と僕が思っていた)「実は、目の前にコップがあると思っているけれど、実はこれは夢だったり、見間違えだったりするかもしれない。」という懐疑は徹底されていない。なぜなら、そのように主張できるということは、過去の夢や見間違いの経験と眼の前のコップの認識とを比較して懐疑を提示することは確かにできるということだからだ。彼らは懐疑を行うという確かな一歩を踏み出してしまっている。デカルトはそこからコギトなんて言っている。僕からすると、そのような懐疑は不徹底であり、僕の懐疑とは関係がない。僕はそんなふうに思っていた。
この本を読み、やはり、ヒュームの懐疑は自然主義的なものなのだということを確認した。自然主義に囚われているから懐疑を行う人間本性という枠組みから離れることができていない。彼らの懐疑はそのような枠組みから離れられず不徹底だという僕の理解は間違えていないようだな、なんて思いながらこの本を読み進めていた。
だけど、この本の終盤にさしかかり、そのような僕の先入観は大きく見直しを迫られることとなった。実はヒュームは、従来の自然主義を超えたところにある超自然主義とでも言うべきものを語るために、確信犯的に、あくまで助走として、従来型の自然主義を用いているだけなのではないか。そして、これは夢ではないか、というような従来型の懐疑主義でさえも、従来型の自然主義から超自然主義へと跳躍するための踏切台として用いているだけなのではないか。僕はそんなことを思い浮かべながら、この本の終盤を読み進めた。
ヒュームは、いや澤田は、ヒュームのテキストを用いて、まず、従来型の自然主義でどこまでいけるかを示そうとする。どこまでいけるか示そうとするというのは、つまり、従来型の自然主義が従来型の懐疑にどこまで耐えられるかを実験してみるということである。この澤田の実験の過程で、従来型の自然主義と従来型の懐疑主義は衝突し、両者に圧力がかけられることとなる。澤田の精緻な分析によりこの圧力が極限まで高められ、二つの従来型の主義主張がどちらもそのままで立ち行かなくなったとき、そこから爆ぜるように新たに超自然主義と超懐疑主義が生まれる。いや、超自然主義と超懐疑主義という二つの主義とするのは不正確である。超自然主義と超懐疑主義とは一体化はできないけれど、切り離すこともできない。そこで誕生するのは、超自然=懐疑主義とでもいうべきひとつの視座である。
デフォルトとチャレンジ
この過程の詳細については、この本を読んでいただきたいが、特に僕にとって新しかったのは、デフォルトとチャレンジ(p.176)というアイディアである。僕は名前しか知らないけれどブランダムとい哲学者のアイディアとして「デフォルトとチャレンジ構造」という認識論モデルがあるそうだ。「これは、単純化して言えば、ある信念を保持する認識的資格をデフォルトで認める」(p.176)ものだそうだ。ボクシングではタイトル保持者と挑戦者が対戦した結果、引き分けだったらタイトル保持者が王座を維持する。つまり挑戦者がタイトルを奪取するためには、ポイントを積み上げたり、KOを奪ったりして具体的な優位を示さなければならない。それと同じようなことが、信念同士の戦いでも行われるというアイディアだと言えるだろう。だから、目の前にコップがあるというデフォルトの信念に対して、これは実は夢かもしれないという懐疑の信念がチャレンジするならば、挑戦者は、その懐疑の信念のほうが優位であるという材料を何か提示しなければならない。空を跳べたり、死んだはずの人が登場したりといった明らかに夢であるような証拠があれば別だけど、通常は、これが夢であるということを積極的に支持するような材料などないから、このチャレンジは失敗し、これは夢ではないという常識的な捉え方が維持されることになる。このようにして「デフォルトとチャレンジ」構造の導入により、哲学的な懐疑は無力化され、懐疑主義は自然主義に敗北することになる。つまりこれは「デフォルトとチャレンジ構造」の導入により、自然主義が超・自然主義となることによって、懐疑主義を乗り越えたということである。
哲学者A
だがこれで終わりではない。ここからが、ヒュームというか澤田のすごいところだと思うのだけど、澤田は、哲学者の立場というものを持ち出し、そのデフォルトの信念を一般常識的な立場から、哲学者の立場へと移してしまうのだ。つまり、澤田によれば、目の前に見えるコップが実際に外的に存在するという信念はあくまで非哲学者の信念であって、哲学者の信念とは、目の前にコップが見えるというのは内的な感覚の報告であるという信念であるはずなのである。哲学者は、すでにこのコップが夢かもしれないという可能性に気づいてしまっているのだから、哲学者は、コップを疑うことがデフォルトになってしまっている。つまり「デフォルトとチャレンジ構造」においては、今や立場は逆転し、懐疑主義がタイトル保持者であり、自然主義者が挑戦者の立場に立たされている、ということである。それならば、自然主義者は積極的に懐疑を無効化するような材料、つまり、目の前のコップが夢ではない、という証拠を提示しなければならない。だが、残念ながらそれはできない。こうして懐疑主義が勝利する。これはつまり、先ほどの話とは逆に、「デフォルトとチャレンジ構造」を逆手にとって、懐疑主義が超・懐疑主義となり、自然主義を乗り越えたということである。
では、哲学者の立場に立つならば、懐疑主義が完全な勝利を収めるのかというと、そうはならない。なぜなら、哲学者である個人、つまり哲学者Aの人生とは、常に哲学者としてのものではなく、日常生活においては非哲学者のものでもあるからだ。哲学者Aは目の前に見えるコップはあくまで内的感覚であると主張しながらも、日常生活においては、そのコップが外的存在であるようにも取り扱う。哲学者Aの人生は、哲学者と非哲学者の間を行き来するものとなり、超・自然主義と超・懐疑主義の間を行き来するものとなる。ただし、それは単純な往復運動ではなく、より正確には(僕が哲学者Aだとして、僕の実感を踏まえるならば)哲学者Aのなかで超・自然主義と超・懐疑主義が渦巻いていると言ったほうがいいだろう。このような状況を、僕ならば、超・自然=懐疑主義と呼ぶ。この立場は、哲学者Aという人間の人生を基盤にしているという意味で極めて自然主義的であり、かつ、哲学者Aの人生を賭けた懐疑を基盤にしているという意味で極めて懐疑主義的なものである。
哲学者讃歌
僕の言葉で説明してしまったので、もしかしたら澤田の考えとは違うところがあるかもしれない。だけど、僕の理解では、以上のようなことを、澤田は主に第6章「ピュロン主義的メタ哲学」で論じていることになる。ピュロン主義というのは全ての信念を懐疑により判断保留に追い込むものであるが、それがメタレベルでピュロン主義自身にも適用され、その懐疑さえも判断保留に追い込まれている状況を「ピュロン主義的メタ哲学」という言葉は示しているのだと思う。超・自然主義と超・懐疑主義の両方を抱え込み、にっちもさっちもいかなくなっている哲学者Aの状況をうまく示している言葉だと思う。
だけど、僕の実感からすると、判断保留といういわば静的な描写は、哲学者Aを描写しきれてはいないと思う。僕の内面では、超・自然主義と超・懐疑主義が渦巻いている。それは判断保留という言葉が似合わないような、動的な状況である。動的だからこそ、僕もヒュームも、多分澤田も、立ち止まらず、なんとか哲学を再開することができる。そこに哲学者の人生という動性があるからこそ、哲学者Aは哲学者の人生を歩み続けることができる。そこには人間本性ならぬ哲学者本性があり、人間讃歌ならぬ哲学者讃歌がある。これが、僕がこの本から読み取った、この本の魅力である。
僕の懐疑とは「どうしたら確かな一歩を踏み出せるのか。」というものであった。澤田の答えは、「確かな一歩などなくても、君が哲学者ならば、その一歩を踏み出さなければならない。」というものだろう。哲学者讃歌とは、そういうことである。
観念の生気の内部性
僕は、この本から讃歌とも言い表したくなるような生き生きとした動性を感じ取ったけれど、この読解はそれほど的外れではないと思う。なぜなら、きっとヒュームは僕が感じ取ったのと同じものを「観念の生気」(p.150)と描写しているだろうからだ。(生気という言葉が原文(英語?)だとなんと表現されているかは知らないけれど、日本語の語感としては重なり合うと思う。)
僕の関心に引き寄せるならば、これはクオリアが持つ、生き生きとした感じともつながる。更に一気に話を進めるならば、僕はこれを内部性と呼んでもいいと思う。人間の人生を内部から捉えるならば、そこにはクオリアがあり、観念の生気があり、そこからは自然主義的な世界が広がっている。なぜなら人間の人生を内側から捉えるということは、つまり人間本性を起点として世界を捉えるということだからだ。ただし、その人間が日常の非哲学の領域から哲学の領域に足を踏み入れ、懐疑を知ってしまったなら、人間本性ではなく哲学者本性を起点とした懐疑主義的な世界が広がることとなる。
重要なのは、自然主義的であれ、懐疑主義的であれ、いずれにせよ、観念の生気が充満した、クオリアに満ちた内部からの視点からのものであるという点にある。僕は哲学者Aとして、現に観念の生気を持ち、現にクオリアに満ちた世界に生き、現に自然主義的であり、現に懐疑主義的である。そこにあるのはどこかから俯瞰したような客観的な視点ではなく、僕という哲学者の内部からの視点である。僕はこれを内部性と呼びたい。
なお僕はここで意識的に「現に」という言葉を使ったけれど、入不二基義の現実性の議論とは、この内部性を巡る議論であると言ってもいいと思う。ただし、外部に対比しての内部ではなく、どこまでも外がない内部の極北についての議論ではあるが。哲学者讃歌とも言えるような澤田の議論は、入不二とは別のやり方で内部の極北を指し示すことができるほどのポテンシャルを持っているように僕には思える。