1 遂行
僕は最近「遂行」というキーワードについて考えている。
僕は生きることを遂行している。僕は哲学を遂行している。僕はパソコンで文章を入力することを遂行している。僕は「僕は」という文字を入力することを遂行している。いや、そう考えているときには、もう「僕は」という文字を入力することを遂行していない。というように。
とにかく僕は何かを遂行している。他の人も何かを遂行しているはずだ。ネコだって何かを遂行している。ネコのような生き方がどこか羨ましいのは、ネコは遂行してばかりいるからだろう。
「遂行」と対になる言葉には「思考」や「言葉」や「論理」といったものがある。「僕は「僕は」という文字を入力することを遂行している。」と厳密には言えないとおり、論理的な思考によって遂行を捉えることはできない。遂行という言葉ではその遂行そのものを捉えることはできない。そのときに遂行しているのは、あくまで遂行についての思考の遂行である。
だからとりあえずは、遂行そのものを表す言葉を〈遂行〉とする、というような造語に頼るしかない。そうすれば、この文章を読む人は、その言葉を論理的な思考によって理解するのではなく、遂行的に理解してくれるかもしれない。いや、きっと理解してくれるはずだ。僕はそう信じている。
なお、このような造語による処理は、〈遂行〉に限ったものではない。永井均の〈私〉がそうだし、例えば〈存在〉という言葉を用いて、字面としての存在ではなく、実際の存在そのものを表現しようとすることもできるだろう。
僕ならば、この〈 〉(山型カッコ)は遂行性を示す記号だと考えたい。なぜならば、〈遂行〉とは読者が、遂行という言葉についての思考を遂行することで理解するものだし、〈私〉とは読者が、私についての思考を遂行することで理解するものだと言えるからだ。

2 独我論的内側性
遂行的な理解とは内側からの理解とも言い換えられるように思う。遂行とは外部にいる他者から教えられるようなものではなく、私だけが私の内側から遂行できるものだ、というような意味で。だから遂行という僕のアイディアは独我論の臭いがする。だが、それは単なる独我論ではなく、この内側からの思考が全てだという意味で拡張された独我論であり、独我論性が消去された非独我論的独我論である。
僕のアイディアが独我論的に見えてしまうのは、遂行性というアイディアを言葉で示そうとするところから端を発しているのだろう。僕は、〈 〉(山型カッコ)は遂行性だとした。これは言葉で遂行性を指し示し、遂行性を思考できるようにするための処理である。だが、これは「遂行」と「思考」「言葉」という本来相反するものを無理やり結びつけることである。作者である僕にとっての〈遂行〉とは、「遂行を言葉にする」という作業である。一方で、読者にとっての〈遂行〉とは、「遂行についての思考を遂行する」という作業である。ここには僅かではあるけれど明らかな違いがある。この僅かなずれが作者優位の独我論を呼び込んでいるのではないだろうか。それでも〈遂行〉という言葉が作者と読者の間でなにか共通のものを指し示しているように思えるのは、〈遂行〉という言葉とは関係なく、ただ作者が遂行しているからであり、また、読者も遂行しているからなのではないか。ただし〈遂行〉という言葉が作者と読者の間を結ぶ、何らかの触媒となっていることはありうる。

3 閉塞性と解放性
ここまで、〈 〉(山型カッコ)記号は遂行性を示すものだとして議論を進めてきたが、このような〈 〉の使い方は一面的だということは留意しておくべきだろう。永井ならば〈 〉は独在性を示す記号だと言うだろうし、入不二ならば現実性について、このような記号を用いるような気がする。
だが、あえてこれらの用法の共通点を見出そうとするならば、僕の遂行性も、永井の独在性も、入不二の現実性も、ある種の閉塞性と解放性が同居しているということは言えるのではないだろうか。
3-1 僕の遂行性の場合
僕の遂行性のアイディアによるならば、僕は僕自身が出会いを遂行していないものに出会うことはできない。どこまでいっても、そこにあるのは僕の遂行により手に入れたものばかりだ。海外旅行でのどんな新奇な体験も、それは僕の海外旅行の遂行によるものだし、見たこともないような斬新な映画を観たとしても、それは僕の映画鑑賞の遂行によるものである。僕が通勤途中、通り魔に会ったとしても、それは僕の通勤の遂行によるものである。僕は僕の遂行の圏域を超えることはできない。僕の遂行性というアイディアには、そのような閉塞感がある。きっとこの閉塞感が、僕のアイディアを独我論的なものにしているのだろう。
一方で、遂行するその瞬間においてだけは、僕は僕の圏域をわずかにであっても超えることができる。僕がペットボトルの水を飲むことを遂行するとき、まだ、その遂行は「ペットボトルの水を飲むことを遂行する」という言葉では捉えられていない。なぜなら、遂行と思考は相反するものであり、僕は遂行しながら、同時に思考することはできないからだ。僕を独我論的な世界に閉じ込めるものが遂行についての思考だとするならば、そこから僕を一瞬ではあっても解き放ってくれるのは、思考に未だ絡め取られていない遂行そのものである。やがて言葉は遂行を捉え、僕をこの世界に閉じ込めるだろう。だけど、僕は遂行し続ける限り、僕は僕の圏域を頭一つ分だけ超え、まるで水泳で息継ぎをするように自由な空気を吸うことができる。
以上のような意味で、僕の遂行性には、閉塞性と解放性が同居している。

3-2 永井の独在性の場合
永井の独在論にも独我論的な閉塞感がある。独在論的に述べるならば、ありありと見たり聞いたりできるのは、今ここの私だけであり、それ以外の人間にはそのようなことはできない。私は他者の痛みを感じることはできない。そのような意味で、私は私の世界に閉じ込められていると言ってもいい。
だが一方で、永井の独在論には倫理的な意味での解放性がある。道徳というものが、対等な複数の人間が存在することや、長期的な視点で人生を捉えることを前提としているとするならば、今ここの私はそのような道徳に囚われることはない。今ここの私は、非道徳的であり、端的に道徳から解放されている。
更に言うならば、永井の独在論のより根源的な解放性は、その議論の内容ではなく、議論の姿勢にこそあるとも言える。永井は完全に独在的な世界の構築に振り切ることはない。あくまで、人間が普通に生きている常識的な世界のなかに独在性を投げ入れ、そこに生まれる不協和音を「ひたりつく」ように描写し続ける。なぜ永井がそのようなことをするのかといえば、きっと、それが面白いからである。一挙に静的なかたちで独在的な世界を構築するよりも、その過程における不協和音を味わうような動的な作業にこそ面白さがあるということなのだろう。僕もそのとおりだと思うし、これこそが永井の議論の魅力であり、あっけらかんと人生を賭けた哲学の楽しみに身を委ねる姿勢こそが、永井の独在論における解放性だと思う。

3-3 入不二の現実性の場合
入不二の現実性の議論においては、マテリアルとしての潜在性と、力としての現実性という対比で、閉塞性と解放性を見出すことができる。入不二の議論に沿うならば、この世界は、認識されていようがいまいと、立ち現れていようといまいと、マテリアルとしての潜在性に満ちている。潜在性という言葉は、認識や立ち現れに先行して、マテリアルが潜在しているという事態を指し示している。その世界に、私たちという複数性のある常識的な視点を導入しても、または、私という単数の独我論的な視点を導入しても、いずれにせよ、その世界は潜在性に満ちている。視点の導入の仕方に関わらず、結局、世界は潜在性ばかりだという意味で、入不二の潜在性は閉塞している。
入不二は、そこに差し込む光のようなものとして、力としての現実性を見出す。力としての現実性とは、潜在性を潜在性たらしめる力であり、潜在性を駆動し、この世界を形づくる力でもある。更には、力としての現実性とは、潜在性などとは全く関係ない力でもある。現実性の力とは、潜在的なマテリアルが形づくるこの世界と、関係あろうが関係なかろうが、そのような些事とは全く別次元なところで働く力である。潜在性とは無関係だという関係すら超越したところで無関係に働く力である。入不二の現実性にはそのような解放性がある。
〈 〉(山型カッコ)記号は、〈遂行〉、〈私〉、〈現実〉というように用いることができ、それぞれ、遂行の遂行性、独在的な私の独在性、現実の現実性を指し示すという解釈ができる。このような重層的な表現により指し示そうとしているものは、閉塞的な遂行の先にある遂行の解放性であり、閉塞的な独在の先にある独在の解放性であり、閉塞的な現実の先にある現実の解放性なのではないだろうか。そのような意味で、僕の遂行性も、永井の独在性も、入不二の現実性も、あくまでも解放性優位なかたちで閉塞性と解放性が同居している。

4 思考と遂行の往復運動
僕自身の遂行性の議論に戻るならば、この閉塞性は思考の閉塞性である。海外旅行であっても、映画鑑賞であっても、宇宙旅行であっても、マトリックスのような仮想現実体験ではあっても、それらの遂行が言葉で捉えられ、思考の対象となってしまったら、それは遂行についての思考であり、思考の範疇に囚えられてしまう。
だが遂行それ自体はその思考の圏域を突破する。正確には、そもそも思考がなければ、あえて突破するものなどないのだから、突破は必須ではない。デフォルトは遂行である。だが、いったん思考が始動してしまったならば、それは突破としか表現することはできず、失ったものを回復するプロセスとしてしか描写することはできない。そして、我々人間は、思考しているからこそ人間なのであり、つまり思考と遂行の問題は、我々人間特有の問題である。そのような意味で、ネコのような生き方は羨ましい。
我々人間は、思考と遂行の往復運動から逃れることはできない。せめてできることは、よりうまくこの往復運動をやり遂げることであろう。それがきっと人生を生きるにあたっての指針となる。言うなれば、これは僕の遂行の哲学における倫理である。

5 哲学とフロー状態
うまく生きるにあたって大事なことは、きっと、思考するならばしっかりと思考し、遂行するならばしっかりと遂行するということだろう。思考と遂行の両方を得ようとしてどっちつかずの態度をとっていたら、思考と遂行の両方を取り逃がしてしまう。二兎追う者は一兎も得ず、である。
しっかりと思考をするというのは、僕の言葉では、つまり哲学をするということだ。哲学と言っても、いわゆる学問としての哲学に限定されるものではなく、人間であれば皆が行っているような広義の哲学である。それはつまり、遂行について思考するということである。だから、広義の哲学というよりも、広義の倫理学としたほうが常識的なイメージと近いかもしれない。
一方のしっかりと遂行するという状況は、フロー状態や「ゾーンに入る」といった言葉で言い表すことができるだろう。その遂行についての思考はなく、ただ遂行しているような状況である。そこに思考があってもよいが、それは、遂行における思考であり、遂行についての思考ではない。思考は遂行の下位にあり、決して思考が遂行の上位にくることはない。(もし上位にくるならば、それはフロー状態が解けるときである。)
(フロー状態に着目するアイディアは、ジュリア・アナスから学んだものであり、そのことについては別の文章を書いている。)
また、フロー状態にはマインドフルネスや瞑想を含めることもできるだろう。フロー状態とマインドフルネス状態を繋げるのがヨガのような動く瞑想である。ヨガのポーズを遂行することに没頭し、そこからはヨガの遂行についての思考が消失し、ヨガの遂行そのものになっている。(このあたりの話は心理学的なエビデンスで実証できるたぐいの問題なので、あまり勝手なことは言えないが、それほど間違えていないような気がする。)
このように、思考するときはしっかりと思考し、遂行するときにはしっかりと遂行する。そのように極力振れ幅がある生き方をすることが、きっとうまく生きるための秘訣なのだろう。

6 集中力
そのために必要なのは集中力だろう。極力振れ幅がある生き方をするとは、集中して思考して人生の方針を定め、いったん方針を定めたならば、その方針に従って人生を遂行することに集中するということだろうだから。
この集中力は生来の能力や生育環境に左右されるだろうが、全く自分でコントロールできないとまでは言えないだろう。人には集中しやすい領域というものがある。僕ならば、ギターを弾くことよりも文章を書くことのほうが集中できるし、会社の上司の顔と名前を覚えようとするときよりもExcelに関数を埋め込んでいるときのほうが集中できる。僕はギターを弾き、上司の顔と名前を覚えるような生き方を遂行するよりも、文章を書き、Excelに関数を埋め込むような生き方を遂行するほうが集中して、うまく生きることができる。
自分が集中して遂行できる領域を見つけ出し、そのような領域を取り込むようなかたちで人生の遂行の方針を定めることで、より集中した人生を送ることができる。自らの遂行の方針を定める哲学の営みにおいて、自らが集中できる領域を考慮に入れることは、うまく生きるためのひとつのテクニックである。

6-1 哲学者の道と動物の道
そして、この集中力は、遂行の場面だけではなく、思考の場面でも重要である。だから、もし、あなたが自らの遂行を思考するという営みに集中できるならば、それは、うまく生きるにあたって恵まれた特質だと思う。これはつまり、哲学者の幸せである。
ただし、うまく生きる道筋はもうひとつありうる。それはつまり思考とは無縁に遂行だけをするネコのような生き方である。人生において思考は必須ではなく、人間が思考を獲得してしまったからこそ、その思考の圏域からの突破が問題になっているのだということを思い出そう。それならば、自らの遂行を思考するという哲学の営みからそもそも無縁でいられるという、もう一つの恵まれた特質を想定することができる。これはつまり、思考を介在させず、ただ遂行できる動物の幸せである。
このように、うまく生きる道は二つもある。それなのに僕たち人間は、いずれの道を選ぶこともできず、その中間にある人間の道を進み、色々と苦労することになる。僕は遂行性について考えることで、哲学者のように、動物のように、少しでもうまく生きていきたい。