「したい」と「するべき」と(遂行性の話での)解放性をつなげる話

昨日アップした二つの文章をつなぐようなメモが出てきたので、ちょっと書き直して一応アップしておきます。(約2000字 これからは、どのくらいの長さの文章かわかるよう、できるだけ文字数を載せるようにしておきます。)

そもそも、どうして僕は「べき」と「したい」の問題にこだわるのだろうか。そう考えているうちに、僕の哲学の出発点のひとつは「僕はどのように生きるべきなのか。」という疑問だったことを思い出した。

僕は傍目から見ると、結構好きに生きてきたように見られがちだけれど、思い返すと、実はかなり「べき」に支配されて生きてきたように思う。

最もそれが顕著に現れているのが対人関係だ。僕は結構コミュニケーションが得意な方だと思うけれど、人と長い時間会っていると消耗して疲れてしまう。なんとなく性格のせいかな、という程度に思っていたが、考えてみると、相手のことを考え、どう振る舞う「べき」なのかを考えてばかりいるから疲れてしまうのだと思い至った。

とは言っても、相手に迎合しているという訳ではない。より正確には、どう振る舞う「べき」ではなく、人と一緒にいるその場をどのようなものにデザインする「べき」なのか、というようなことを考えている。そして、なるべく楽しくて有意義な場にしよう、なんて気負いすぎて疲れてしまう。

当然、僕も自分の中の「したい」を尊重してこなかった訳ではない。だけど、年を取り、僕の人生も残り少なくなってきて、残りの人生でやる「べき」ことをやろう、なんて焦って考えがちになっていたかもしれない。

多分今は調整の時期なのだろう。当然「べき」も大事だけれど、僕はもう少しだけ「したい」に軸足を移してもいいのかもしれない。そう思って、最近は、僕の心に、僕が今何を「したい」のかを聞くようにしている。

そんなことをしているうちに、僕の内面にひとつの好ましい変化が生じていることに気付いた。

僕は時々、世界の中に閉じ込められているような不快な感覚におそわれるときがある。それは独我論的不快感と言ってもいいかもしれない。僕の周囲は見渡す限り僕の世界だ。過去も未来も僕の人生であり、どこまでいってもそこから抜け出すことはできない。もし死んで生まれ変わったとしても、それは僕であり、どこまでも僕は僕の世界のなかに閉じ込められたままだ。言葉にするならばそんな感覚である。

考えてみれば、それは「べき」の世界に閉じ込められているということなのではないか。時空的に構造化された僕の世界は「べき」に満ちている。構造化していることと「べき」とは直結していると言ってもいい。人生という構造化されたものを生きるからこそ、僕はどのように生きるべきか考えなければならないし、私と他者というかたちで構造化された関係があるからこそ、僕はどのように振る舞うべきか考えなければならない。そして、構造化しているということは、僕という存在もその構造のなかに閉じ込められていることになる。

だけど最近、時々、僕は僕の世界から頭を少しだけ出すことができたような感覚になるときがある。浮上した潜水艦のハッチから顔を出すような感じと言ったらいいだろうか。そんなとき、僕はほんの一瞬、頭一つ分だけ僕の世界を抜け出て、俯瞰するように僕の世界を見下ろすことができている。それはとても気持ちよいことで、一息ついたような気分になる。

それはつまり、「べき」の世界からの距離のとり方がわかってきたということなのかもしれない。構造化されたこの世界を少しだけでも俯瞰して眺めることができるというのは、僕にとっては、とても救われることである。

そのような視点を獲得できたのは、入不二基義の『現実性の問題』という本のおかげだろう。この本は、マテリアルの潜在性と力の現実性というペアで、現実性というものを描写する。ただし対等なペアではなく、マテリアルの潜在性とは結局は力の現実性に支えられているものであり、やがて議論は力の現実性へと移行していく。この移行こそがこの本のクライマックスである。力の現実性への移行によって神のような視点を獲得した入不二は、自由自在にこの世界を考察する立場を手にする。そこにあるのはあっけらかんとした解放感である。詳細はこの本を読んでほしいが、僕がこの本から読み取る解放感とは、そのようなものである。

入不二の思索の道筋をたどっていくことで、僕は僕の世界から少しだけ抜け出ることができたような気がする。僕はもう少し力を抜いて、「べき」にばかりこだわらず生きてもいいのではないだろうか、という気持ちになる。そう考えるときの解放感と、世界の中に閉じ込められているような不快な感覚からの解放とは密接につながっているような気がする。

僕にとっては、解放感の獲得と「べき」から「したい」への移行は密接に関わっている。僕が「べき」に疲弊してきて、次のステップを模索していると状況と、入不二の本の読書体験とがタイミングよく重なったのかもしれない。

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